- 新潮社 (2007年6月28日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784101253381
感想・レビュー・書評
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おそらく再読。内容はそんなに覚えていなかったけれど、「どうしたらこんなにも深く、広く思考ができるのか」と驚嘆したことを、感覚として、よく覚えている。そして凝りもせず今回も梨木香歩さんの思考の深さにひれ伏したい気持ちになると同時に、私は日々何を考えてるんだ、私のバカバカ、と思ってしまう。いつも、今日の予定、仕事は何か急ぎがあったっけ、夕食は何にしよう、週末あれがあるから、スーパーで買い物しておかなきゃ・・・・そんなのばっかり。人間本来、自分本位なもの。だからこれでいい、ではない、ぐるりのこともきちんと見つめて自分で解釈して、間違っていたら軌道修正して、思考に落としていかないといけない、そういわれている気がした。
「もっと深く、ひたひたと考えたい。生きていて出会う、様々なことを、一つ一つ丁寧に味わいたい。味わいながら、考えの蔓を伸ばしてゆきたい。」
例えばセブンシスターズで、切り立った崖の上と向こうの海との境界を認識し、残忍な争いに人が落ちていってしまう様を、内側と外側とで思考し、曖昧な境界があれば、と深く思考を沈ませていく。
例えば、今では少なくなってしまった垣根について、ダルがゆえに多くのものを内包し、その存在を助けてあげていたことを知り、イスラームの女性が被るヘジャーブの内側と外側について思考を馳せる。
なるほど、境界・・・か、と読む方も少しずつ思考を始める。そして思い浮かべる、垣根のような物理的な境界と、宗教、文化や政治などが絡んでくる複雑な心理的精神的な境界を。
例えば、目的地やゴールに最短距離でたどり着くことを良しとする教育について考える。これは何についての思考から派生したものだったか。
この人はこんなところからこんなにも思考を広げていくのか、と少し気後れするくらいにあちこちに思考が飛ぶ梨木さんの文章を読みながらも、気づいたら、梨木さんの思考の端っこにちゃっかり参加させてもらっている。私はそんなふうには考えられない、私にはどうもこうも表現できない、と思いつつも、自分なりに必死についていこうと思考をめぐらせる。
日々流れてくる悲しい、辛い事件について、むしろ情報が足りないのではないかと思うロシアとウクライナの情勢について、「悲しい」「辛い」「悔しい」「行き場のない怒り」を胸に抱いては、それ以上疲弊してしまうことを恐れて、思考をストップしてしまいがちだったと自らを省みる。疲弊しきってしまっては元も子もなく、バランスも必要だけれど、思考を止めてはいけない、たとえそれが自分の影響の範囲の外であっても、思考することに無駄はない、と思った。
読了後、本を閉じると、もう梨木さんのような深い思考はできない。日常に追われる。また、梨木香歩の思考に浸りたくなったら、この本を開こう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これまで梨木香歩さんの小説を8冊読んだが、そのどれもがとても良かった。
彼女のことをもっと知りたくなり、初めてエッセイを手にした。
普段どのような目線で身の回りを眺めているのかしら?と思っていたので、『ぐるりのこと』は、そのタイトルからぴったりに思われた。
(実際、ああ、あの作品の欠片がここに!と思う場面が何ヵ所もあった。)
本書は、全ての章において“境界”が重要なキーワードとなっていた。
例えば「境界を行き来する」の章。
それは、米国人の友人とイギリスの断崖(セブンシスターズ)を散策した時。
梨木さんは断崖を見つめながら、
「境界が、こんなにもはっきりしている。その事実がこんなに目の前ではっきり迫っている、そのことが、こちら側の人間の間の連帯のようなものを強くするのだろうか」
と思うのである。
境界とは勿論、断崖絶壁のその先と陸地のことだけれど、この時の梨木さんは、精神世界の上での“あちら側”まで思い巡らす。
「向こう側に、自分を開いていく、訓練。
この境界の向こうは異世界だ。」
さらには米国人の友人と、
「この美しい海峡に、どれだけの戦いがあり、どれだけの死者が眠っていると思う?」
「それなのにきっと、自然は相変わらず美しいのよ。人間の愚かさも、時の流れの中で、詩情に彩られ、謳われていって…。」
「そういうふうにいわれると、なんだか断崖の方へ吸い込まれそうになる。」
との会話を交わす。
あるいは、「隠れたい場所」の章。
様々な動物たちが身を隠す生垣のあちら側とこちら側に思いを馳せたかと思えば、思考はいつしか“隠す”というキーワードからイスラムの国々のヘジャーブへ。
「隠れているが、所在を隠しているわけではない。ええ、ここに隠れているのです、という開き直った安定感。隠れていて、しかも現れている。「自分」ということの線引きにおいては、なんとクリアーな境界。」
それから、全体的に見てとれるのは、梨木さんのタフな探究心。
例えば、梨木さんはある日、藤原旅子の陵墓の場所を記した資料を眼にする。
その資料によると、梨木さんの記憶していた旅子の陵墓と場所が違う。
確認するために梨木さんは、宮内庁京都事務所に電話する。
詳しくは管轄が違うということから、桃山陵管区事務所へも電話をする。
更には墓調査室なるところへも問い合わせ、遂には滋賀県大津市神社庁へも…。
そしてとうとう還来神社で宮司さんから直接お話を伺うことになるのだ。
この探究心と思考を止めない体力!
なんと果敢な!
それはとても勇敢な行為にも思えた。
考え、感じとり、そして再び考える事の大切さたるや。
梨木さんは藤原旅子さんの件について、
「もちろん、しょっちゅうこういう風な生活を送っているわけではない。たまたまそれが、私自身の根幹に触れる何かであったため、本来ものぐさな私を突き動かしたのだった」
と仰られていたけれど。
また、「風の巡る場所」の章でのこと。
トルコのコンヤという町での、年配女性とのふれあいは、短いシーンながらもとても印象深いものだった。
詳しくは是非本書で…とお勧めしたい。
「私はそこに、もう今はこの世にいない、かつて私を慈しんでくれた母性に溢れた女性たちが、彼女の姿を借りて佇んでいる錯覚を起こした。」
母性って、国も宗教も人種も越えて、温かく包み込んで胸打つものなのだな。
「もっと深く、ひたひたと考えたい。生きていて出会う、様々なことを、一つ一つ丁寧に味わいたい。味わいながら、考えの蔓を伸ばしてゆきたい。」
「……私はその、「ぐるりのこと」という言葉に一瞬心奪われた。なぜなら私の興味のあるのはまさしく「ぐるりのこと」だったから。自分の今いる場所からこの足で歩いて行く、一歩一歩確かめながら、そういう自分のぐるりのことを書こう」
梨木さんにとっての“ぐるり”は、毎日の些細な出来事から精神世界から世界情勢までと、とても広い。
ふとした出来事から様々に思いを巡らせて、こちらからあちらへ、そのまた向こうへ…と、実に広範囲だ。
ああこれらが小説の種となって、後に数々の作品へと昇華されてゆくのだなぁ。。。
文庫の厚みよりも確実にもっと厚みのあるものを受け取った気持ちになった。
心にとまった文章
「世界の豊かさとゆっくり歩きながら見える景色、それを味わいつつも、必要とあらば目的地までの最短距離を自分で浮かび上がらせることが出来る力が欲しいのだ。」
「甘やかな連帯」
「「僕たち」「私たち」で語ることの出来ない孤独」
「群れの境界に足を引っかけて、どっちつかずの気持ちのまま、ノスタルジックな小説が書きたい、と思うようになった。」
「自らの内側にしっかりと根を張ること。中心から境界へ。境界から中心へ。ぐるりから汲み上げた世界の分子を、中心でゆっくりと滋養に加工してゆく。」
「物語を語りたい。
そこに人が存在する、その大地の由来を。」
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「もっと深く、ひたひたと考えたい。生きていて出会う、様々なことを、一つ一つ丁寧に味わいたい。味わいながら、考えの蔓を伸ばしてゆきたい。」
この文章が本書のなんたるかを体現していると思う。茸の観察会の指導者の「自分のぐるりのことにもっと目を向けて欲しい」という言葉に心奪われて、タイトルを決めたそうだ。
自分のまわりで起きる出来事、たとえば境界、世界の複雑性を理解すること、異質なものに開かれた姿勢、帰属することの安心感、母性、共感を生む非言語の可能性、高揚しやすい危険な群れの連帯感など、ゆるやかに繋がっているものごとが、徐々に熟成していく思索の流れに沿って綴られている。
嫌悪感がある事象であってもすぐに他人事と切り捨てて自分から遠ざけることはせず、自分もその延長線上にあるはずだ、と思考の手綱を緩めず考え続ける姿勢が誠実だと思った。…と同時に私は考えることを本を読むことでアウトソースしてしまっているのではないかと、不安になった。
梨木香歩さんの紡ぐ文章では、度々「たまらなく好き!」な心地よい一文に出会う。一つには植物が好きという嗜好が共通していて、それを美しい日本語で表現されるから「ハッ!(ハッの中でも恋したときのように胸が高鳴るときの音)」とするのだと思う。
エピソードとしては「風を巡る場所」の、トルコで母性とのふれあいには思わず泣いてしまった。「春になったら苺を摘みに」で一面的な描写に留まっていたイスラームの方々の色々な姿に触れられていたのも嬉しい。 -
普段読んでる本は軽いのが多くてほぼ一日で読み終えてしまう、よくかかっても二日。でもこの本、四日かかりました。作者の梨木香歩さん、まるで思考の回路が違うのか、私など見てそのままで通り過ごしてしまうことも、深く論理的に説明しようと試みている。
例えば、旅先で風切羽を折れたカラスをみて、「生き延びる」ということを考える。自然がその時代の人為的な影響で荒れ果てていたら、それこそがその時代の「自然」なのだと・・・。それは私たちの内部でも同時に起こっている。土地は開発の名の下に蹂躙され、およそ霊力というような類の力が、急速に薄れ、陰影のない、薄っぺらいものに代わられて行きつつあると。
人間も同じように内側と外側と同時進行している。
ひとつの風景、ひとつの事象をみて、そこから思いをはせる。色んな事を考え、それを線で結んだり、枠で囲んだり、そしてしばらく寝かせる、熟成させる・・・これって私にとっては「仕事」、どうすれば世の中に受け入れられるのは、どうすれば広く広げることが、どうすれば売れるのか・・・まさにマーケティングではないか。
それを、憤死のカラスを見て、別荘の隣との境界線を見て、ブルカを纏った女性など他いろんなものを見て、「環境」とか「境界」、「政教分離」「信仰」「自分」「戦争」「度量」「賢愚」「無私」「慈愛」など思いをはせる。
梨木香歩さんにならって、自分のいまいる場所からこの足で歩いていく。
一歩一歩確かめながら、自分の周りのこと、「ぐるりのこと」に目を向けよう。散歩人生と言いながら、時にはもう少し足を止めてみて「ぐるり」を見てみようと、思う“ごまめ”でございました。 -
梨木さんの感覚と思考回路
どう繋がって
ああいった物語を
紡いでいるのかと分かって
とても興味深く楽しく読めた
柔らかな雰囲気でありながら
深層まで思案し続ける
哲学的エッセイ...と言う感じ
(チョット難シカッタヨ)
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身の回りのことと世界とを行き来する
皮膚一枚下の内の世界について思索する
少しずつ 少しずつ やっていく
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思慮深い、日々を大事に大事に、一歩ずつ踏みしめるような筆者の人柄がうかがえる。一見、枝分かれして浮遊する「考え事」に振り回されるような話題の飛躍が多いけれど、通読すればちゃんと、ひとつの根っこに集約してくる。
人間や自然の、根本的な本能とか原理とか、、、普遍的な真理みたいなものを探し、受け入れようとするかのようなの彼女の視点は本当に鋭くて、斬新。
最終値としての答えはどこにもないような命題ではあるけれど、考えさせられることが多く、とても刺激的だった。
さまざまなテーマが登場する中に、マニュアルやハウツーについて言及した箇所があった。決してそれらを否定するのではないけれど、「立ち止まって深く長く考え続ける思考の習慣が、身に付きにくくなる」という記述があって首肯した。
どんなマニュアルも、自分で咀嚼して消化することを怠れば、いくら実践してもただの機械と同じである。ディズニーランドのキャストたちが的確な行動を選べるのは、マニュアルの一歩先にある精神を、きちんと各々が理解しているからこそだろう。
とかく、「考えること」を省かせるようなマニュアル化や信仰のようなもの(宗教に限らず)のあふれる現代で、筆者のように、「生きている途中で感じる小さな違和感」をひとつひとつ、こうしてじっくり考える、という姿勢は、何より、凄い。 -
いままでとは違った視点、物事の考え方を教えてもらった。
これぞ読書の醍醐味。
私も誰かやマスコミなんかに惑わされず、自分自身でぐるりのことを丁寧に深くじっくり考えていきたい。
「もっと深く、ひたひたと考えたい。生きていて出会う、様々なことを、一つ一つ丁寧に味わいたい。味わいながら、考えの蔓を伸ばしてゆきたい。」 -
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梨木香歩(1959年~)氏は、鹿児島県出身、同志社大学卒の児童文学作家、小説家。児童文学関連はじめ、多数の文学賞を受賞している。
本書は、季刊誌「考える人」に連載された「ぐるりのこと」をまとめて2004年に出版され、2007年に文庫化されたものである。
私は小説をあまり読まないため、著者については、小川洋子のエッセイ集に引用されていたことで初めて知って、少し前にエッセイ集『不思議な羅針盤』を読んだのだが、その時にも、著者が、身近で起こったひとつひとつの事柄をとても深く考え、それを慎重に言葉に表す作家であると感じた(作家とはそもそもそうした能力・性格を要する職業とはいえ)のだが、本書からは、それが一層強く感じられた。(『不思議な羅針盤』の初出は月刊誌「ミセス」、本書は「考える人」という違いもあるが)
著者も本書の中で、「もっと深く、ひたひたと考えたい。生きていて出会う、様々なことを、一つ一つ丁寧に味わいたい。味わいながら、考えの蔓を伸ばしてゆきたい。」と言い、また、連載の題名を「ぐるりのこと」した経緯を、キノコの観察会の指導者だった吉見昭一氏の「最近の子どもたちは身の回りのことに興味を持たなくなった。こういう菌糸類は身の回りに沢山あります。自分のぐるりのことにもっと目を向けて欲しい」という言葉を受けて、「私はその、「ぐるりのこと」という言葉に一瞬心を奪われた。なぜなら私の興味のあるのはまさしく「ぐるりのこと」だったから。自分の今いる場所からこの足で歩いて行く、一歩一歩確かめながら、そういう自分のぐるりのことを書こう、と、私はこの連載のタイトルを決めたのだった。」と語っており、著者自身が、身の回りのことを深く考え、それを表現することを強く意図していることがわかる。
また、細かいことながら、著者は「( )」による補足や但し書きを多用するのだが、これも、より適切な表現をしたいという著者の姿勢・苦悩の現れだと思うし、私も似たタイプなので、とても共感を覚える。
尚、本書の解説はノンフィクション作家の最相葉月氏が書いており、私は、同氏の思索的な文章も好きなのだが(これまで、『なんといふ空』、『れるられる』等を読んだ)、本書の解説を書くにはぴったりと思う。
エッセイは当然ながら、著者や作品によって、材料もスタンスも雰囲気も異なるし、読者の好みも分かれるものだが、身の回りの出来事を取り上げた思索的・硬質なエッセイ(但し、哲学的というわけではない)を好む向きには、読み応えのある一冊といえるだろう。 -
梨木さん、なんて思慮深い人なんだろう。
ずいぶんと昔に「西の魔女が死んだ」を読んだきりで、梨木さんの作品には触れたことがなかったけれど、こんな考え方をしている人なんだなあとすごく心惹かれた。
この本のタイトルは、茸の観察会の吉見昭一氏の「最近の子どもたちは身の回りのことに興味を持たなくなった。こういう菌糸類は身の回りにたくさんあります。自分のぐるりのことにもっと目を向けてほしい」(p118)ということばからきているそう。
この本では、社会情勢や人間のあり方みたいなものを、いろんなぐるりのことから繋げて、考えていく。
なんとなく、「なんだかなー」と思うこの社会を的確に言語化されていて、ハッとする。流石だなあ。
私も、ぐるりのことに関心を持ちつづける人間でありたいなと思っている。日々に忙殺されてなかなかそうあれないときもある。んやけども。。
ぐるりのことの関心を持ち、深く考えられる人間でありたい。
解説もとても良かった。
また梨木さんの作品、読む。
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梨木さんの本は2冊目だが、話題になっていたのに読んでなかった。
ミステリの世界をちょっと歩いてみようと思ってから、文学作品から少し遠ざかっていた。
仕事を辞めた途端に、後を引かない話がいいと思うようになったのが原因かもしれない。仕事に逃げられなくなると、身軽な日常の方が健康上よろしいのではと思いついた。ストレスの源は仕事だと思っていたが、今になって思うとちょっとした逃げ場だったかもしれない。
あまりに本が溢れているので、退職後の時間の使い道に迷ったついでに、あまり知らないジャンルに踏み込んでみたらこれが面白過ぎた。
そして最近、何か足りない、情緒にいささか偏りがあると思い始めた。それが全部ミステリにどっぷり漬かり過ぎたので、幼い頃から馴染んできたものを手放しからではないかとふと思った。文学書のような区別の難しいミステリも多くてまだまだ卒業できそうになけれど。最近そんな気がしていた。
梨木さんの本を手にして、こういう文章が心を落ち着かせるのか、帰るところはこういう世界なのかもしれないと気がついた。
身の回りの話題から、世界を大く広げるようなエッセイ集だった。「ぐるり」と言う言葉は、「周り」ということに使われる。母の田舎では「田んぼのグルリの草刈りをしよう」「家のグルリをひと回り」などと普通に使う。
「グルリのこと」という題名の「グルリ」とは、「グリとグラ」に近い何かの名前なのかとぼんやり思っていた。わたしは何でも予備知識なしで取り掛かる欠点がある。
境界を行き来する
ドーバー海峡の崖からフランスの方に身を乗り出して見た時気づいた、「自分を開く」と言うことからつぎつぎに連想される事がらについて考える。
隠れていたい場所
生垣の中と外、内と外からの眺めや中に住んで見たい思いがイスラムの女性の服装について考える。
イスラームの女性の被りものは、覆う部位や大きさ、また国によって様々な呼び名があるが、総称してヘジャーブという(略)イスラームに対する批判の中には、唯々諾々とヘジャーブを「纏わされている」女性たち自身に対するものもある。「隠れている」状態は、それを強制させられていることに対する同情とともに抑圧に対する自覚がなく、自覚があるなら卑怯であり、個として認められなくても当たり前、というような。
それから、そういう印象を受けるイスラームの問題や、われわれの受け取り方や、わかろうとする無理について考える。面白い。
風の巡る場所
観光客が向けるカメラの先にいる現地の人たちに対する思いや、旅人の自分や大地を見つめて、考えたことなど。
大地へ
少年犯罪について、教育者の態度、子を亡くした親の悲痛な心について。逆縁の不孝、冠婚葬祭の風習などについても。
目的に向かう
この分は実に「ぐるりのこと」なので面白い。車で信楽に出掛けたところ、回り道をしてしまって伊賀上野についたり、昔ながらの田舎の庭が、イングリッシュガーデンの始まりに似ていると思ったり、私も野草や花が好きなので、近代的な花もいいが、昔ながらの黄色いダリアや千日紅、ホウセンカなどが咲いている庭を見ると懐かしい。共感を覚えて嬉しくなった。
群れの境界から
映画「ラストサムライ」を見て思ったこと。葉隠れの思想、西郷隆盛の実像などの考察。
群れで生きることの精神的な(だからこそ人が命をかけるほどに重要な)意義は、それが与えてくれる安定感、所属感にあり、そしてそれは、儒教精神のよってさらに強固なものになる(その「強固」もうすでに崩壊に向かっている訳だけれど)この儒教精神も絶妙な遣りかたで(結果的に見れば。その時々で都合のいいように使われてきたことの堆積が宋見えるだけかも知れないけれど)為政者側に役立ってきた。
こういう物語や、現実につながる過去の歴史が思い当たる。
物語を
風切羽が事故でだめになったカラスに出会う、あんたは死ぬ、と言って聞かせた後、帰り道でカラスが民家の庭にいるのを見る。迷子のカラスがペットになった話があったなと思う。カラスと目が合って「そうだとりあえず、それでいこう、それしかない」と思い、そうだ、可能性がある限り生物は生きる努力をする。生き抜く算段をしなければ。
アイヌのおばあさんの処世術について。
ムラサキツユクサの白花を見つけたが、そこが住宅地になってしまって胸が痛んだこと。
本当にしたい仕事について、
物語を語りたい。
そこに人が存在する、その大地の由来を
ますます好きになった梨木さんという作家の物語を楽しみに読みたい。 -
タイトル通り、色々な話がぐるぐる回っていくようなエッセイだった。
今まで読んだ中で1番難解なエッセイだった気がする… -
友達が昔、この本の話をしていた。ほとんど意味を解さず、確かに聞き流してしまった。しかし、どこかに薄っすらと記憶が残っていたのだろう。同じ音を聞いた時、それを思い出した。
ぐるりのこと。身の回りのこと。何気ない日常に現れる風景、情景、人、事件。それを歴史や芸術、政治に繋げ、語る。どこか物憂げな語り口調でもあり、直截に導入されぬ核心からも、日々日常における関心事の比率が伺える。ぐるりのことは同じでも、感じたものが繋がる先は、その人の興味なのだ。 -
梨木さん、どれだけ深く、広く、物事をとらえながら生きているんだろう。
いつもぐるりのことにアンテナをはっており、疲れないのだろうか。
そんなところの気のゆるめかたもうまいんだろうな。 -
日々の生、社会の生、時代の生を丁寧に深く生き抜くことを綴る随筆集。
あらゆる物事と、その背景にある人間の心の動きを明らかにする、その為に選ぶ言葉の的確さに、何度もはっとさせられました。
自分という個と、世界との境界を自由に行き来する梨木さんの柔軟な思考が、数々の著作の根底にあったのだと実感すると共に、その真の思慮深さに憧れてやみません。 -
その事をやらずには生きられない、
そういった事をやっているヒトを感じるのが、自分は好きで。
ニセモノとホンモノがあるのなら、このヒトはホンモノだと思う。 -
てっきり映画の原作だと思っていたら全く関係ないエッセイ集でした。
目的を設定し、最小の労力でそれに辿り着く最短距離を考えるー(中略)何かをしたい、という情熱が育まれる以前に、「何かをするためのマニュアル」が与えられてしまう。
↑ここが一番ぐっときた。日本の教育について考察する場面なのだが、私は正にこの通りに育っていると思う。
著者はこういった教育を批判し切り捨てるのではなく、一定の理解を示しつつもっとなんとかならないものかと憂いている。
しかし、この短絡性を援助交際や恐喝などの犯罪に結びつけてしまったのは私には残念だった。
もっと「情熱を育む」という部分に焦点を当てて欲しかった。
著者はこれほど意識的に生活していくことに、疲れないのだろうか、と読んでいて心配になった。
自分で深く深く考えていても結局世界が変わることは(多分)ないのに。
何か行動を起こさないことに罪悪感を覚えたりしないのだろうか。
そう思うと同時に、著者にとっては作品を書いて世に発表するということが、行動を起こすことなのだ、と思った。
著者プロフィール
梨木香歩の作品
