沼地のある森を抜けて (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.62
  • (154)
  • (275)
  • (301)
  • (65)
  • (10)
本棚登録 : 2500
感想 : 270
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (523ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101253398

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 始まりはぬか床、ぬか床が生み育むのは美味しいぬか漬けや発酵菌だけではなかった。そこは豊穣たる命が宿り、生み出す世界。

    …お漬物マニアなら、こんなこと考えたりするし言うだろうけど、まさかこんな惹句が400Pを超える長編小説になりうるとは…梨木ファンタジーさすがである。

    時々引用される、男の子の物語とオーラス50Pほどについていけなかったのが残念。ここは完全に好み、で、俺がえらばれなかっただけ。及び腰になってしまったこの2つにがっちり嵌れたら、この小説は手放せなくなること間違いなしだと思う。

    • chineseplumさん
      オーラス50については私も面映ゆさを感じましたが、手放せなくなったクチです。
      オーラス50については私も面映ゆさを感じましたが、手放せなくなったクチです。
      2022/06/10
    • 黒い☆安息日さん
      コメントありがとうございます。
      あそこに嵌れたのが羨ましいです
      コメントありがとうございます。
      あそこに嵌れたのが羨ましいです
      2022/06/11
    • chineseplumさん
      ぬか床では何度も痛い目にあっているのですが、性懲りもなくまたやってみようかな、と思っております。
      ぬか床では何度も痛い目にあっているのですが、性懲りもなくまたやってみようかな、と思っております。
      2022/06/11
  • 壮大なスケールの話を、淡々と書いた小説。
    表紙の螺旋状の何かの様に、現実から、想像へ、一歩ずつ、気づかないうちに踏み込んで行って、今がどちら側なのか、わからなくなっていくような。(境目なんてないのかもしれないけど)
    生と死と、それはごく普通で、当たり前のこと。


  • 言葉の羅列から、決して映像化し得ないようなイメージを享受する醍醐味を感じさせてくれる本。

    「たった一つの細胞の記憶ー孤独。」
    原始から脈々と受け継がれる「孤独」と「増殖の願い」は、自己を乗っ取るものと思えば恐ろしくもなり、全ての生き物が共有する感覚と思えば不思議な安息感をもたらす。
    生きるすべてのものを慈しむような作者の目線を感じる。

  • 家宝のぬか床の世話をしなければいけない主人公のゆったり日常かと思いきや、ぬか床にいれた覚えのない卵が出現、それがひび割れたと思ったら、見知らぬ人が現れる。ファンタジーかと思っていると自分のルーツ辿り、そして壮大な命の物語となり、最終的に、ほう、とため息が漏れてしまう。
    梨木さんのこの独特の世界観が心地よくてたまらない。読みながら、あぁ好きだなぁ、しみじみしてしまう。

  • 梨木さんの世界。

    はじまりは「ぬかどこ」。
    世界に一つしかない細菌叢の世界。
    しかも時間とともに変化し続ける。

    一つの細胞から細胞膜、細胞壁、細菌、麹菌、動物、人。
    脈々と続く時間の流れ。
    境界のない世界。
    とても大きな世界感。

    人と人の結合がこのように語られるのか と驚き。
    「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」もすごい伏線だと思う。

    子どもの頃は100年なんて想像もできなかったけれど、梨木さんの世界に触れることで、今は1000年単位でも理解が出来るような気がします。

    この本も大切な一冊になりました。
    老若男女におすすめです。

    で、読み終わってすぐですが、もう一度読み返しています。。

  • 職場の先輩から教えてもらって読んだ物語。

    読んでる途中から
    不思議な雰囲気やなあと思ってたけど
    最後に「西の魔女が死んだ」「裏庭」の
    梨木香歩さんの本やとわかって納得。

    「自分は自分でしかない」ことなんてなく、
    自分が生きてる間に出会った人たちや環境の影響を受けて自分が形成されているということ。
    生命は絶えず生と死を循環しているということ。
    物語のメインテーマはここかなあと思うけど、
    ぐぐっと入り込んで読むことができなかったから
    あれこれ深読みも出来なかった…。

  • 代々受け継がれてきた「ぬか床」が来たら、変なことが…、って、それが「ぬか床」という、おおよそ物語のテーマになることがないものだけに、かえって興味を引くんだけど、読んでいて、どーもイマイチ。

    というのも、「ぬか床」の話だからか、登場人物がなんだか妙にベチャベチャしていて。
    そのベチャベチャ人たちのベチャっとした人間関係に、たぶんうんざりしちゃったんだろう。
    と言っても、主人公はサバサバ、さらっとした性格なのだ。
    でもさ。なんだろ? 女性作家の小説って、なぜかこういう性格の女性が多くない?(^^ゞ
    それって、作家みたいに知性を価値観におく女性が思う理想の女性像みたいな気がしちゃって(そうなのかは知らないw)、結局、なんだかそれもベチョベチョした話だなぁーって感じちゃったって言ったらいいのかな?w
    前に読んだ『村田エフェンディ滞土録』は、すごく骨太な話だなーという印象だっただけに、この著者もこういう話を書くんだなーと、ちょっとシラケちゃったんだと思う。

    もっとも、「2.カッサンドラの瞳」の中の“家庭という不可思議なぬか床は醸成されていくのだろう。その曖昧さは、考えただけに窒息しそうなほどだ”の言い得て妙さには、一瞬、呆気に取られてしまって。
    人って、家庭でもいいし、職場でもいいし。学校だったら、クラスとか部活とか。あと、今はSNSがあるか。
    そういう囲われた他者の目が入らない中で、独自の価値観やルールをプツプツ音をたてて醸成されていくんだろうなーと思ったら、ニヤニヤと、厭ぁーな笑みを浮かべてしまったくらい感心してしまったんだけどね(^^;

    でも、つづく、「3.かつて白銀に靡く草原があったシマの話-1」は、変に説明くさくてつまらないし。
    「4.風の由来」は、さらにベチャベチャしてきたこともあって、これは他の本を読んだ方がいいかなーと思いつつ。
    つづけて、「5.時子叔母の日記」辺りを読んでいた時だったのかなぁー。
    ふっと、あ、ベチャベチャしてる話だけど、この話も『村田エフェンディ滞土録』から全然ブレてないなんだなーと感じてから、急に面白くなってきた。

    たぶん、“「決断力に溢れた男らしい」人間であったとしても、それは「自分の側の論理を振りかざすだけの傲慢さ」と同じこと。自分のナルシシズムに溺れきっているからこそ、他人がナルシスティックなることが許せないのよ”という文を読んだ辺りかなぁー。
    そういえば、「4.風の由来」でも同じようなこと書いてたなぁー、と戻ってみると。
    “いわゆる、常識とか、普通って、言葉はもう使わないようにしましょうよ”
    “〇〇さんの今とった分析的な態度は、とても男性的なの。何人か集まれば、誰かがそういう役割をとらなければならない”とあって、あー、あー、これこれと。

    『村田エフェンディ滞土録』を読んだ時にも思ったのだけれど、この著者の小説(著者の価値観?)の面白さは、
    この「女性の」感覚、論理的知識的思考による感覚(思考による感覚って、なんか変だけどw)でなく、(女性の)肌感覚で、我々が思っている“常識”の、あるいは“普通”の世の中や世界に疑問を投げかけている所にあるように思う。
    いや、“「決断力に溢れた男らしい」人間であったとしても、それは「自分の側の論理を振りかざすだけの傲慢さ」と同じ”と言われても、人は、自分の論理で決断をしなきゃならないのは確かだ。
    また、“〇〇さんの今とった分析的な態度は、とても男性的”であったとしても、著者も書いているように、“何人か集まれば、誰かがそういう役割をとらなければならない”わけだ。

    著者は、それは重々わかりつつ。でも、だからこそ、現在の人の世の習い的な“常識”や“普通”に反対を言いたいのだろう。
    だって、その“常識”や“普通”というのは、“「決断力に溢れた男らしい」人間”や“自分の側の論理を振りかざすだけの傲慢”がつくった“常識”や“普通”にすぎないのだから、という、(慣用句的な意味での)「女性らしい」視点で著者は終始一貫しているのだろう。
    そこは、男である自分も、というか、自分が男だからこそ感心するものがある。
    人間は男と女、2種類なのだ(と言うと、今は怒りだす人もいるけどw、あくまで慣用としての話)。
    それは、同じようで絶対違う。違うのは、違うことが生物として必要だったからで、その必要を満たしたからこそ、人は(たぶん)生き残れたわけだ。
    男には、男なりの思いや考えがあって。女には、女なりの思いや考えがある。
    それは、どちらも生物としての人間の役割なんだと思うのだ。
    『村田エフェンディ滞土録』では、その二つの違いを「西洋と東洋」という慣用句(あくまで慣用句だ)で分けて、小説にした。
    一方、これは「男と女」という慣用句(これもあくまで慣用句だ)を二つの違いにして、小説にしたのだろう。

    例えば、今のミャンマーの状況下、軍事クーデターへの反対デモを決行することは「決断」しなきゃしょうがない。
    というか、それは間違った政権にNo!を突き付けるのは、国民一人一人が負っている義務であり責任でもあるわけだ。
    ただ、例えばデモで軍事政権が倒れたとしても、新政権の人たちが、もし、“自分の側の論理を振りかざすだけの傲慢”な政治をしたら、国民の暮らしは軍事政権下と同じになってしまう。
    悪政を倒した人たちが、前政権の悪政の原因だった利権の独占をしてしまうことで、同じ悪政をしくことは普通にあるわけだ。
    つまり、間違った政権を正す“自分の側の論理”による「決断」を、著者は(慣用句としての)「男性」の視点(行動原則)とし。
    その新政権が前政権のような“自分の側の論理を振りかざすだけの傲慢”な政治をしないように戒めることを、著者は(慣用句としての)「女性」の視点(行動原則)としている。
    そういう男性の視点、女性の視点が両輪がないと。人は、社会は歪んで、壊れてしまう。
    『村田エフェンディ滞土録』では、それを西洋の視点と東洋の視点にした。
    そういうことなんじゃないだろうか?

    その後の面白さは圧倒的なのだが、圧倒的すぎて、正直、著者の言いたいことを理解しきれてないように思う。
    ただ、いわゆる「利己的な遺伝子」論的な、“生物が目指しているのは進化ではなく、ただただ、その細胞の遺伝子を生きながらえさせること”、“細胞が死ぬほど願っているのは、ただ一つ、増殖、なんだ”というようなことが結論?ネタ?オチ?なのかなーと思った。
    だとすると、フリオが“自分って、しっかり、これが自分だって確信できる? 普通の人ってそうなの?”と言うのがよくわかる。

    人って、普段はあまり意識しないけど、でも、ふとある時、呆れるくらい自分が親や兄弟と似ていることに気づいたりするものだ。
    もちろんそれは、「似ている」で。フリオが言う、自分だって確信できないほどではないのだが、でも、それは人という生物が個の意識を過剰に持つがゆえに人であるからであって。
    遺伝子からしたらそれは違いではなく、コピーでしかないのかもしれない(爆)
    つまり、「自分探し」なんて、遺伝子からしたらヘソが茶を沸かすようなことなのだ(^^;
    でも、人は、遺伝子からしたらコピーにすぎないわずかな自分と他人の違いを認識するorしたいと思うからこそ、人なのだ。
    自分と他人の違いを認識するorしたい「自我」があるからこそ、人の遺伝子はここまで増えることが出来た、とも言えるんじゃないだろうか?
    というかー、もし、人がコピーだったら、著者の小説(『村田エフェンディ滞土録』)が成立しなくなっちゃうわけでー(^^;

    そんなわけで、遺伝子からしたらコピーにすぎない違いを認識したい自分からすると、この小説をホラーに作り替えたらどんなに面白いだろうって(爆)
    この話だけで『リング』~『らせん』、あるいは『ループ』まで包括出来ちゃうんじゃないかって、すっごくワクワクする(^^ゞ

  • はじまりは、「ぬかどこ」だった。先祖伝来のぬか床が、うめくのだ―「ぬかどこ」に由来する奇妙な出来事に導かれ、久美は故郷の島、森の沼地へと進み入る。そこで何が起きたのか。濃厚な緑の気息。厚い苔に覆われ寄生植物が繁茂する生命みなぎる森。久美が感じた命の秘密とは。光のように生まれ来る、すべての命に仕込まれた可能性への夢。連綿と続く命の繋がりを伝える長編小説。

  • 緊急事態宣言の出た日、明日から仕事も休みというときに、長期の休みに備えてなぜか無印の『ぬか床』を買ったのだけど、それを話したらおすすめされたのがこの本。
    すぐに図書館で予約してみたけれど、図書館が休館になってしまって届いたのは2ヵ月後。ぬか床が出てきたところで、ああ、そういえばそんな話をしていたんだったと思い出しました。
    
    ところがこれが簡単なぬか床の話ではなく、ぬか床から変なものが次々と出てくるという話。怖くなって慌ててうちのぬか床かき回してみましたよ。
    
    ここでの「ぬか床」は「家族」を象徴するものでもあり、代々手をかけてきた女性たちの念もこもっているので、主人公は自分が家族だと思っていたものはいったいなんだったのか、結婚もせず子供も産まずここまで生きてきた人生について考えざる得なくなります。いろんな意味でなかなか怖い。
    
    幕間に挿入される「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」は幻想的な生き物や壁で囲まれた世界観などが村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と重なります。

    家に不幸があると「物忌み」として不幸が出歩かないように扉を閉めるという話が出てくるのですが、今でも地方ではドアの鍵を閉めなかったりするのはその名残だったりするのでしょうか。不幸が出歩くという発想が遠野物語。
    
    後半は民俗学と発酵と微生物がからむ壮大な展開になるのでついていくのが大変ですが、ぬか床の世話がめんどうになったらこの物語を思い出してかき回そうと思います。
    
    
    以下、引用。
    
    ー愛がないから、漬け物だってうまくいかないんだよ。主婦に愛がないときの、ぬか床の、意地の悪さったら。
    
    老舗の蔵には、壁や柱や天井なんかに何十年何百年というその蔵独自の菌が住み着いていて、空気中に漂うそれが酒造りに働くの。
    
    蔵には女を入れない、とか、神聖視されるのも、偶然の要素が大きく作用する、神の領域のものと思われていたからなんでしょう。
    
    家庭を営める、ということは、選ばれた特殊な人々の特権のような気がする。論理で動いているのではない、家族の成員のそれぞれの生理がぶつかり合う場なだけに、どこか力が抜けた、ある種の感度の鈍さ、感受性の低さが求められる。鋭すぎる感性はそのミクロフローラを生き抜けない。家庭という、世間とは隔絶された暗黙のルールで支配された世界を醸成して行くためには、異分子は早めに排除される運命なのだ。
    
    青灰色の円錐形のスカートが、橙色の夕暮れの光を浴び、淡い薔薇色に染まる。数十ものそれが動くたび、微妙に輝きが波をつくってさざめいてゆく。僕はそれを見るのが好きだった。単調な生活の中に美がある。
    
    ー気を付けていないと、雨期には簡単に消えてしまう。よほどね、心持ちをしっかりして。
    
    それにしても「沼の人」とはいえ、家の中に家族と違う人間がいるのに気づかないなんて。そういうと、佳子姉さんは、だから家族には違いないのよ、その時々で違った姿をするだけなのよ、という。
    
    新しい制服の、スカーフの結び方をいろいろ試した。出来上がりは全く同じなのに、結び方の様々あることといったら。ユキはどうせ同じなら一番簡単なのがいいっていうけど、結び方が違うってことは、見えないところの構造が違うってことで、結果的には同じとしても、折り畳まれてゆく空気の手順が違うってことで、私はもう少し込み入った結び方にすることにした。
    
    この島では大抵の家は石積みの塀の出入り口部分を戸を立てずに空けている。本土のように冠木門にして木製の戸を立てているのは地主の家ぐらいだ。その地主の家も普段は戸を開けっ放しにしている。だが家に不幸があったときは、その戸を閉ざし、その家で端を発した不幸が門を出て、島を練り歩かないようにする。
    
    「おじいさま、浜というのは、陸と海との境で、両方を繋いでいるのですね」

  • シュールでも、もう少しユーモアで突き進むのかと思いきや、壮大な結末に至って少し驚いた。結末付近の風野さんとのくだりはいらなかったのではないかな。

    • chineseplumさん
      ろばこさん、私も最後のくだりについてはちょっと面映ゆく感じました。つまり、人の行動は腸内細菌とかホルモンとか自分たちが思っている以上に意識外...
      ろばこさん、私も最後のくだりについてはちょっと面映ゆく感じました。つまり、人の行動は腸内細菌とかホルモンとか自分たちが思っている以上に意識外のものによっているということかな〜?
      2022/06/10
全270件中 21 - 30件を表示

著者プロフィール

1959年生まれ。小説作品に『西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』『丹生都比売 梨木香歩作品集』『裏庭』『沼地のある森を抜けて』『家守綺譚』『冬虫夏草』『ピスタチオ』『海うそ』『f植物園の巣穴』『椿宿の辺りに』など。エッセイに『春になったら莓を摘みに』『水辺にて』『エストニア紀行』『鳥と雲と薬草袋』『やがて満ちてくる光の』など。他に『岸辺のヤービ』『ヤービの深い秋』がある。

「2020年 『風と双眼鏡、膝掛け毛布』 で使われていた紹介文から引用しています。」

梨木香歩の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
森見 登美彦
宮部みゆき
伊坂 幸太郎
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×