硝子の葦 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (303ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101254821

感想・レビュー・書評

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  • あなたはプロポーズの台詞を覚えていますか?
    その機会がまだなら、どんな台詞を言いたい、言われたいですか?

    一生に一度の決め台詞。それは一生に一度だからこそ、大切な、重みのあるものだと思います。そんなプロポーズにもいろんな台詞があります。”僕と幸せな家庭を作りませんか?”、”世界中の誰よりもあなたのことを愛してます”、そして、”これからもずっと僕の隣にいてください”と、それはカップルの数だけ答えがあります。一生に一度の決め台詞だからこそ、一生忘れられない言葉で思いを伝える、それがプロポーズです。そんなプロポーズの言葉として、こんな台詞を語った男性がいたそうです。

    『僕の妻になれば生活に汲々とすることもないし、させない。おおっぴらに金を渡せるし、それを自由に使える。歌集も出してあげられるし、朝寝坊もできる。与えられた時間は節ちゃんが自由に使っていい。断ってもいいけど、断らせない自信もある』

    なんとも大胆なその台詞。一方で正直すぎるが故に逆に素直な可愛い気持ちの表現とも言えるその台詞。でも、そんな台詞を語るその男性との結婚にはひとつ問題があります。

    『節子の母が長く幸田喜一郎の愛人だった』というその事実

    自分の夫となる人物が、長らく実母の愛人だったという驚愕の事実を知ったとしたら、あなたならどうするでしょうか?
    しかも、そんな母は娘からプロポーズのことを聞かされてこんな風に答えたのだそうです。

    『あら、そうなの。いいじゃない。パパさんなら金持ちだし、私も知らない仲じゃないし。こっちの生活の面倒も考えてくれるなら、何の文句もないけど』

    母というより、なんともしたたかな女を感じるこの台詞。しかし、それを分かった上で、それでも結婚に踏み切る娘のしたたかさにはさらに驚愕させられます。
    この作品は、そんな母と娘と、彼女たちに関わる女性たちが活躍する物語。女性のしたたかさと生命力の強さを感じる物語です。

    『「すずらん銀座」と書かれ』た通りの『幅の狭いカウンターに丸椅子が五席という一杯飲み屋』。女将の差し出した『茹でたジャガいもの皿』を受け取る男。『二十五年前の厚岸にあった賑わいは町のどこを探しても見つけられない』と感じる男。『二度目の赴任で再び通い始めることになった「たけなか」で、老いた女将と酒を注ぎあいながらする昔話も悪くな』いと感じる男。その時でした。『入り口のガラス戸が地鳴りのような振動に震え』、『棚に並んだ焼酎のボトルを両手で押さえながら「地震だ」と叫んだ』女将。『席から立ち上がり店の外に出た』男、その後に続く女将。『「すずらん銀座」の中ほどにあるスナックから、鮮やかなオレンジ色の火柱があがっていた』という目の前の光景。『星を焦がさんばかりに黒い煙を押し上げ』る炎へと『男が走り寄ると、「バビアナ」と書かれた看板が熱と煙によってかたちを失』います。『消防車、と叫ん』で店に引き返す女将。そんな炎に向かって一人の男が突き進んでいきます。『中に、人がいるんだ』と声を裏返しに叫ぶその男を羽交い締めにし『中に、誰がいるんですか。あなたはこの店の関係者ですか。私は厚岸署の都築と言います』と説明する『たけなか』で飲んでいた男。『呆然とする男の腕を掴んだまま胸ポケットから警察手帳を取り出した』都築。相変わらず『何度も「人がいる」と訴え』る男。そうしているうちに『瞬く間に両隣の二店舗が火に包まれる』という展開。『失礼ですが、あなたのお名前とお仕事、住所をお聞かせ願えますか』と訊ねる都築に『澤木昌弘 四十歳 税理士 釧路市にて会計事務所を経営』と答えるその男。そんな翌日、現場から発見された遺体は『昨夜最後まで彼女と行動を共にしていた澤木昌弘』の証言で『行方不明になっていた「幸田節子 三十歳」である』という発表がなされました。『自らガソリンをかぶって火を点けたと思われ』る遺体の状況。事情聴取に『彼女が置かれていた状況を理解していましたから、これから先は僕が支えるつもりでした』と答えた澤木。そして四か月後、『幸田喜一郎が死んだ』という連絡を受けた澤木。『直接の死因は肺炎だった』という喜一郎は『ホテルローヤル』の社長でした。そして、その財務を預かっていた澤木。火葬場から戻り『データの整理をしていると、事務所の電話が鳴』ります。『厚岸署の都築さんとおっしゃる方です』と事務の木田から電話を取り継がれた澤木。『四か月前「バビアナ」の火災で事情聴取をされた私服警官の顔が浮かんだ』という澤木。『これからそちらに伺ってよろしいでしょうかね』と訊く都築は、『あなたが、幸田節子に最も近い人間だからです』と訪問する理由を説明します。『「始まり」の予感が螺旋を描きながらせり上がってくる』という澤木。『何かに急かされている気はするのだが、それが何なのかが分からない』と感じる澤木と、幸田節子の過去からこの日までの物語が綴られていきます。

    『ホテルローヤル』というラブホテルの名前が全編に渡って登場するこの作品。直近に「ホテルローヤル」を読んだこともあって、これは続編なのか?と一瞬思いましたが、刊行されたのはこの作品が先であり、読み進めると社長の名前もホテルの規模感も微妙に異なり、同名の全く異なるホテルが描かれた作品だということがわかりました。しかし、『釧路湿原を見下ろす高台に建つ「ホテルローヤル」』という表現や、喜一郎が『それまで経営していた看板会社をたたみ、ゼロから始めた商売』という表現を読むと、どうしても”あの”『ホテルローヤル』に意識が引っ張られてしまいます。そんなこの作品はホテルそのものを舞台にしたものではありませんが、ラブホテルの経営に関するこんな表現が登場します。『経営者が目を光らせていないとどんなことが行われるか分からない商売』、『三十分百円というテレビ収入も、喜一郎以外に本当の稼働率を知っている者はいない』、そして『「ローヤル」は売り上げ自体は芳しくないものの、返済と経費と人件費のバランスは悪くはなかった。宇都木とし子はホテル経営を「立地条件がすべて」と言い切る』というその表現。そんな業界に関わらない限り意識することのない、経営から見るラブホテルの裏側を垣間見ることのできるその表現は、家業として、その裏側を見てきた桜木さんならではの説得力を感じさせてくれます。そしてまた、おそらく、この作品でそんなラブホテル自体を物語の中心に置くことの可能性を感じ、結果として三年後の「ホテルローヤル」執筆へと繋がっていったのではないか、そんな風にも感じました。

    そんなこの作品の魅力は、次の二つだと思います。まずは、ミステリー作品という側面です。上述したように冒頭場面で派手な火災が発生し、税理士・澤木の証言により遺体が幸田節子のものであること、それに続く場面で彼女の旦那であった喜一郎が四か月後に病死するという結果論から物語はスタートします。物語の中では、これらの事象は〈序章〉に位置づけられており、本編に入ると、亡くなったはずの幸田節子、そして喜一郎の日常生活がまず描かれます。展開の先の結果をまず提示してそこに行き着くまでの物語を後から綴っていくというそのスタイル。どうしてその結果に至ったのか、その結果の先にさらにどんな結末が待つかを読む物語はまさしくミステリーの作りです。そんなミステリーを、重厚な本編と、桜木さんの巧みな文章表現によってぐいぐいと読み進んでいける、そんな面白さを感じました。

    そして、それ以上に読者が感じることになるのが、女性の生命力の強さ、したたかさを見る物語だと思います。この作品には幸田節子、そして母親の律子、継子の梢、そして友人の佐野倫子、子供の まゆみというストーリーの中軸を支える女性たちが様々な顔を見せながら登場します。また、彼女たち以外にも、『ホテルローヤル』の管理人・宇都木とし子、そして会計事務所の木田聡子と数多くの女性が登場します。そのそれぞれが、それぞれの舞台でなんとも力強い生き方をしていることに読者は圧倒されます。『人の使い方を知っている女は人に使われる方法も心得ている』、『感情や気持ちより、他人からどう見えるかを優先させてしまう。狭い町で客商売をする女の処世術だ』、そして『娘は母を真似て育つのかもしれない。同じ生き物をこの世に生み落とした女に、いくばくかの後悔をさせるために』というように彼女たちのしたたかさがこれでもかと描かれるその物語。その一方で男性の生命力の弱さが逆に際立っていきます。『ホテルローヤル』の社長として、母と娘の双方と関係を持つなど豪快な印象を抱かせる喜一郎も『お互いに一度でもいい思いをした女には幸せでいて欲しい』という思いが行動の基盤になっているところなどは、したたかな女性たちの前では可愛くさえ感じてしまいます。しかし一方で、そんな彼女たちは極めて危うい一面を抱えながら生きています。この強さと弱さの両面の顔が絶妙に描かれていくこの作品。そんなこの作品は「硝子の葦」というなんとも不思議な書名を冠しています。『葦』とは日本の神話に”葦原中国”という国の名前で登場するように古代より存在し、また生命力のとても強い、どんな場所にも適応していく力強さを持った植物です。そんな『葦』の前に、脆さの象徴とも言える『硝子』という対照的な言葉を置く「硝子の葦」というこの作品。それは、脆さ、危うさと隣り合わせに生きる女性主人公たちの生き様をまさしく象徴しているのだと思いました。

    主人公・節子をはじめとする女性たちがしたたかに、力強く生きていく様を見るこの作品。厚岸という今は寂れた北国の町のなんとも言えない寂しさが物語に絶妙な空気感を醸し出すこの作品。そして、ドロドロとした人の影の側面をこれでもかと炙り出す物語が、北の国の包容力に包まれて、不思議とさらっとした読後を迎えるこの作品。

    与えられた境遇の中で、必死に、たくましく、それでいてしたたかに生きる女性たちの力強い生き様を感じた、そんな作品でした。

  • 生まれてから一度も、欲したことなどなかった母。母への怨恨。最後、生家へ行き自分のアルバムを探す節子。その心理の中には、この母娘にしかわかりえない親子の情が見えた気がした。
    お金目的、母への復讐か親子ほど年の離れた母の元愛人との結婚。幸田をお父さんと呼ぶ節子の姿に、徐々に愛情が見え、よけいにやるせなかった。節子が求めていたのは父親の愛でもあったのか。
    どうして澤木ではいけなかったのか。全力で節子をサポートしているのに繋がらない澤木の祈り。身体は繋がっても、なにひとつ繋がり合えないことを確信する行為、という表現が悲しい。
    幸田が瀕死状態になった所から引き込まれ、読まさせられる勢いを感じた。クールで行動的、人の洞察力に優れ、文才に長ける節子。節子が最大限に魅力的に描かれていた。ラスト、未来が見えない終わり方がよけい余韻が残り良かった。
    心情描写によく砂が表されていた。
    窓の外で湿原の風にそよぐ葦の穂。
    「洞ろさらさら砂流れたり」体を流れる砂の音は、その本人にしか聴くことができない。
    非道な暗いストーリーなのに、美しいと感じさせる桜木紫乃さんの筆力を感じた作品だった。

  • シリアスな人間ドラマでありミステリであり、素直に面白い小説だった。

    とある事情により幼い頃から知っている、父親ほどの年齢のラブホテル経営者・喜一郎と結婚した女・節子。彼女は元上司である澤木と結婚前から交際していて、結婚後も途切れてはいなかった。
    夏のある日喜一郎が交通事故に遭い昏睡状態に陥る。看病が続く日々の中、節子は短歌会の仲間である倫子が抱える家庭の事情に巻き込まれる。
    そして喜一郎の事故から数日後、節子の実家であるスナックで爆発事件が起き、一体の女性の遺体が発見される。

    “身体は繋がっても、心が繋がることはない”そういう孤独が漂う小説。
    節子はその生い立ちから気が強く男に頼ることはない性格で、人と群れることを好まず、どこか醒めている。
    澤木はそんな節子に惹かれて、彼女が結婚した後も彼女の助けになりたいと思い続けているのに、芯の部分では通い合うことが出来ない。身体では求め合って繋がっても、節子の本心はいつまで経っても見えない。
    一歩踏み込むことを躊躇うのはお互いを思うからなのだけど、その一歩の足りなさが二人の大きな距離になっているのが切ない。

    様々な面倒事に巻き込まれた後、節子がした選択。起こした行動が、ミステリの大筋になっていく。
    肉欲、暴力、嘘、怨恨、様々な想いが渦巻いているのに作品自体の温度は低い。
    実家がラブホテルだったという作者の桜木さんが、ラブホテルという場所に対して思うこと(恐らく)が登場人物の言葉を介して表されたりしていて、そこもまた興味深かった。
    この小説に出てくる“ローヤル”というラブホテル。桜木さんが直木賞を受賞した小説も「ホテル・ローヤル」だけどまたそれとはまったくの別物らしく、次に桜木さんの小説を読むならこれだ、と思った。

    節子の生き様を見ていると、女とは恐ろしい、と思う。業の塊で、欲深くて。
    でもそういう部分を偽らず格好つけずに「私は私」というスタンスで生きる様はとても潔い。
    そしてこの小説の中で一番恐ろしいのは、ある幼い子ども。女は幼い頃からやっぱり女なのだ。そんなことを思った。

  • なんだこの小説は。素晴らしすぎる。
    桜木紫乃は砂上だけ読んだが、こちらはそれとは違って本格ミステリの感もある。
    骨太で厚みのある人物描写はそのままに、第一級のエンターテイメントに仕上げている。おもしろい。
    後半の幾度ものどんでん返しの波に読みながらさらわれる心地がした。
    行ったこともない北の大地の海に、冷たいグレーの空に、古いけれども客入りのいいホテルに、頭のなかを占領された。そのくらいの立体感。
    このひとの作品はほんとうに丁寧で、慎ましやかだ。美しいと思う。

  • ひきこもりGWの読書その1
    この人の作品を初めて読んだけど、すごく面白かった。ミステリーとしてだけでなく、北海道の空気感や登場する人物(とくに女)がどんどんイメージできて、ページをめくる手が止まらなかった。
    同じ作者の直木賞受賞作「無垢の領域」をさっそく予約してみた。GW後半に読みたい。

  • 一気に読み終わった。凄い。淡々と続く男女のこじれたストーリーを、淡々と流しあるく主人公。
    ラストに巡るまさかの展開までの伏線がとにかく凄い。

    淡々と進みすぎて驚く場所を見失うほどです。

    黙々と読み続け、読み終わってホッとしたあとに、


    ひっ!!!!!!

    となるなんとも言えない読後感。新しい。油断させまくります。まさか、サスペンスだったなんて!!!!!!!!!の、ホテルローヤルで有名な作者の一冊。かなりオススメです!!!

  • 内容はもとより、表現・文章力がよかった。文学的というか。ちょっとしつこいくらいだったけど。寒いを寒いと書かない美しさ。

  • 再読。 ストーリーをすっかり忘れていたため、世界観に酔いながら没頭しました。 前回は途中でネタバレを踏んでしまうという失態を犯し、楽しみの半分を奪われたような感じで読み終えましたが、今回は大丈夫。 ネタバレを踏んだ記憶だけあったので、注意してました。 著者の描く道東の様子、主人公の謎めいた暗い風情、嫌いじゃありません。 ただ、これが続くと自分も飲まれてしまうので、気をつけています。 著者のつむぐ言葉の美しさに魅了されました。

  • 母子家庭で小さい頃から男女関係に係わらされて来た節子、ラブホテルを経営の夫が自動車事故で昏睡状態、そんな中、歌人仲間の子供をかくまうことに、

  • 一気に読めた。最後までミステリーやった。北海道の風景と人の感情が合っとった。頭の中は色々な思いがあっても言葉に出さん主人公が好き。"なにひとつ繋がり合えないことを確信する"って表現もなんとも言えない感じ。

著者プロフィール

一九六五年釧路市生まれ。
裁判所職員を経て、二〇〇二年『雪虫』で第82回オール読物新人賞受賞。
著書に『風葬』(文藝春秋)、『氷平原』(文藝春秋)、『凍原』(小学館)、『恋肌』(角川書店)がある。

「2010年 『北の作家 書下ろしアンソロジーvol.2 utage・宴』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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