- Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101255217
作品紹介・あらすじ
新約聖書の冒頭で、マリアの夫ヨセフの系図を長々と述べているのはなぜでしょう。処女懐胎が本当ならば、そんなことはイエスの血筋と無関係のはずです。ところで、聖書の中に何人のマリアが登場するか知っていますか?ではヨハネは?そして、イエスの"復活"の真相は?永遠のベストセラー『新約聖書』の数々の謎に、ミステリーの名手が迫ります。初級者のための新約聖書入門。
感想・レビュー・書評
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阿刀田さん「知っていますかシリーズ」を読んだだけで分かったつもりになっている個人的読書企画(笑)
今回は新約聖書。
新約聖書は二十七章から成り立つ。
❐マタイによる付近書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書
⇒それぞれの語り手が、イエス・キリストの言動と教えを伝える物。イエス本人のそのままの姿というより、神学的な見解から伝道したい神の子イエスのイメージ像。
❐使徒言行禄
⇒イエス十二弟子や、イエス死後使徒になった人たちの言行禄。
❐○○人への手紙
⇒イエスの死後使徒となったパウロから各地へ送った手紙と、その他の手紙各種。
❐ヨハネの黙示録
⇒神から直接的に得た啓示。異教の神を信じるものには罰が下り、人間の世界は終わり、復活したキリストと真のキリスト者により、新たな神の国が顕われるとの予言。
黙示録だけの解説本も。
https://booklog.jp/item/1/406292496X
新約聖書に描かれているイエスの言葉などは、
「比喩が多くてわかりづらい。だからどうとでも解釈できる」といいつつ、阿刀田さんとしての解説を丁寧に載せている。
…それを読んでもやっぱりよく分からない。(ーー;)
私は子供の頃近所の日曜学校(市の集会所でやってた)に行ってたはずなのになーーー
さらに聖書に描かれているイエスの生涯を追い、そして阿刀田さんの作家としての思考が書かれる。
イエスはいかにして自分が”神の子”と自覚していったのかその心理的道のりは?
自分の運命を知りながら逮捕前夜にゲッセマネの丘で激しく動揺した”人間”イエスがその後にどのような心境を辿ったのか?
逮捕されたイエスのことを三度「あんな奴知らない」と否定したペテロの慟哭、一度は故郷に帰ったペテロが布教に戻り、死ぬと分かっている道を引き返したのは?
キリスト教徒最大の布教者パウロは、生きていた頃のイエスを知らずそれまではキリスト教徒を迫害してきた。そのパウロがなぜ「パウロなければキリスト教なし」といわれるほどの布教活動を行えたのか?
十字架のイエスを埋葬したアリマタヤのヨセフは、そのような重要なことをしたにもかかわらず彼の功績が書かれていないのはなぜだろう?
ユダが”裏切った”のは、宗教的世界観の違いや布教の方向の違いもあったのでは?
聖書では「イエスは神の子」というエピソードが沢山あるけれど、
阿刀田さんは「人が何かを成し遂げるにおいて、信じることが本人にも信者にも必要だったのだろう」という目線で聖書の記載を読みとっている。
さらに聖書に出てくる人物の心境などを考察します。その阿刀田さんの人間への目線は優しい。
確かに聖書の話を「なんか一部の人が信じてる信じがたい話」だと思うよりは、「実際の人間はどのように考えたのだろう?」と考えると、実に身近な物語として感じられる。
ちょっと面白かったこと。
宗教画などで有名な「受胎告知」は、4つの福音書のうち2つにしか取り上げられていないということ。それなら後世に作り足された話なのか?と考えられる。
さらにマリアの夫のヨセフは、ソロモン王にも遡る確かな血筋だとも書かれている。
…イエスが人間の父不明とされているのは、父は神だからってことでしょうけれど(宗教画で、マリアと結婚した時のヨセフは老齢に書かれていて「子供を作れません」みたいに描写されているものもある。…しかしそれだと弟たちはどうやって生まれたんだろうとなるけど)、この聖書の記載からでヨセフの由緒正しさを強調しているなら、何も処女懐妊でなくて普通にヨセフが実父だっておかしくないような…。
そして、この本を読んで分かったのですが…、私は「マグダラのマリア」と「ベタニアのマリア」を一人の人間かと思ってました…orz。
だけどイエスを描いた映画でも二人を同一人物扱いしてるよねーー(と言い訳してみる)
❐マグダラのマリア
⇒以前は娼婦だったがイエスにより悪霊を取り払われた。イエスの恋人では?とか言われてる(映画とかではそのように描かれることも多い)。十字架のイエスを看取り、復活したイエスに会う。
❐ベタニアのマリア
⇒イエスが蘇らせたラザロの姉。マリアの姉のマルタがイエスを歓迎する準備に追われていた時になにもせずにただただイエスの話を聞き、イエスからは「私の一番望むことをした」と言われる。イエスに高価な香油を使って「無駄遣い~」とかいちゃもんつけられたのも彼女。
イエスを描く映画メモ。
●「ベン・ハー」
https://eiga.com/movie/49232/
⇒皇帝ネロ時代のローマ帝国。主人公の軍人ベン・ハーは不幸な事故から追放されて奴隷に落とされる。道で倒れたベン・ハーを助け起こし水を飲ませた男がいた。
数年後、奴隷から身分を回復したベン・ハーは、自分が架けられる十字架を担ぎゴルゴダの丘へ歩かされる罪人を見た。彼こそが自分を助け起こした男、イエス・キリストだった。ベン・ハーは倒れたイエスに水を飲ませる。
●「キリスト最後の誘惑」https://booklog.jp/item/1/B000E6GB12
⇒イエスが人間として苦悩する姿。
悪魔がイエスに「ただの人間として生きたなら平和な暮らしができる。神の子など辞めてしまえ」と誘惑し、イエスはマグダラのマリアとの間に子供ができて平穏な人生を送る自分を妄想する。
製作時に「イエスの性行為を描くとは!」とかなり反対運動が起きた…と、高校の先生が言っていたので劇場で観てきた。
この映画では、イエスはユダを信頼していたから神の使命として裏切らせた、とかそんな感じですが、
この映画で上映反対運動が起きたということは、おそらくこれより前は「イエス・キリストは神の子で、ユダは裏切り者」としか書けなかったのだろうか。
しかしイエスはウィレム・デフォーで、ユダはハーベイ・カイテルなんだが、こんな強面師弟が神殿で暴れたらそりゃーローマも警戒するよとはちょっと思った(笑)
監督マーチン・スコセッシで、音楽はピーター・ガブリエルの「パッション」
https://www.youtube.com/watch?v=yvjA25SPsK8
●ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」略してJCS
⇒キリスト最後の7日間の苦悩。感想はこちら。
https://booklog.jp/item/1/B00005EV5V詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『旧約聖書を知っていますか』に続き読了。
御本人が書いておられる通り、イスラエルの建国史とも読める「旧約聖書」と異なり、こちらはどうしても信仰につながるだけに書きにくかったのかなと……。聖書からの引用が多く、阿刀田先生のユーモアがあまり感じられなかったのが残念でした。
しかし、キリスト教が身近にない私でも、少なくともそのイメージを掴むことはできました。サン・ピエトロ大聖堂が聖ペテロのお墓の上に建っていることすら知りませんでしたから……。
日本以外の地域で生まれた小説、建築、美術、音楽そしてその他のありとあらゆる文化は、キリスト教から多大な影響を受けています。
たとえば今後絵画や彫刻を目にした時に、これまで気付けなかった発見がありそうでワクワクしますね。『ダ・ヴィンチ・コード』も、読み直したら印象が変わりそう。
阿刀田先生のエッセイでもう一つ気になるのが、『楽しい古事記』。
「古事記」もマンガやゲームでたくさん触れてきましたが、先生の洒脱な文体で改めて読んでみたいなと思っています。 -
永遠のベストセラー「新約聖書」を著者の考察も添えながらわかりやすく解説している
新約聖書はイエスの生涯を表す部分が終わると、新しい部分に入り
イエスの亡き後、直弟子やその他の弟子たちがイエスの教えをどう伝えたからキリスト教がどう成立して、そこにどんな困難があったか、どんな励ましがあったかが語られる
著者の推測も含め以下のエピソードが印象に残った
◎マリアもアブラハム以降の血を引いており、処女受胎にも納得がいく
◎ヨハネの首を討ち取ったのはヘロデス王国の政治的な判断とヘロディアスの憎しみによるものであり、サロメは傀儡にすぎなかった
◎奇跡のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるために適した伝達方法だった
◎十字架に架かる前日、ゲッセマネでイエスは長い煩悶のすえ、再び確信を取り戻す
◎イエスの復活は、まだ脆弱であった集団の基盤を確かなものにするために欠くことができない、絶対に必要なものであった
新約聖書の構成は
福音書(4巻)、歴史的記録(使徒言行録)、手紙(使徒たちの檄文)、文学(黙示録)
となっており、中核を成すのは福音書である
ちなみに福音書はイエスの言動を伝えるものと思われがちだが、厳密に言えば、それぞれの著者がイエスをどう捕らえたか、どう伝えねばならないと思ったか、執筆者の主観と立場を反映させたものである
聖書の知識が美術、演劇、映画、音楽の理解における不自由さを軽減させてくれると思うと、これから先芸術に触れていくのが待ち遠しい -
「旧約聖書を知っていますか」に比べると少し読むのに苦労した
著者も途中で断念しようと思ったことがあると書いてあった
旧約聖書は歴史的な部分があるから物語で語りやすく、新約聖書は信仰(イエスがいかに偉大であったか)に関する部分が大半だそうで
自ずと原典を引用することが多くなってしまったのでしょう
それでも著者の綴って物語る力みたいなものをすごく感じました。 -
信仰をもたない作者ならではの見方で描かれる新約聖書の世界。おもしろい。エピローグで作者も言ってるが、洋画や絵画等は聖書の知識が前提になっているものが多い。ちょっとした小ネタとかでも知ってるとより楽しめる。そのために読むのにちょうど良い本だと思う。読みやすい。
聖おにいさんのイエスってかなり本人に近いんじゃないか?とこの本読んで思ったよ。
旧約聖書のほうも読んでみたい。 -
阿刀田高さんの、古典紹介エッセイシリーズ。
旧約聖書に続いて、新約聖書編。
新約聖書は、多分まったく読んだことがなかったです。
いつもどおりトニカク解りやすく、楽しめるように読ませてくれました。
イエス・キリストってどんな人だったのか。
その頃のイスラエルあたりってどんな状況だったのか。
なんで殺されたのか。
キリスト教ってなんなのか。
キリスト教とユダヤ教の違い。
旧約聖書と新約聖書の違い。
みたいなことが、少なくとも読む前より、ぼんやり風景が見えてくる感じがしました。
少なくとも、イエスや新約的世界を題材にした芸術とかを、
読む前よりかは味わいやすくなりますね。より、楽しめるようになります。
ただ、「じゃあ、いつ頃どうして、どういうきっかけで、少なくとも西欧社会でキリスト教が支配権力宗教にまで上り詰めたの?」という興味が残りました。
そういうことの楽しい本があったら読みたいですね。
以下、また個人的な備忘録として、印象に残ったこと。ラフに箇条書き。
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●新約聖書っていうのはつまり、イエス・キリストさんのお話ですね。
キリスト教というのは、基本的に旧約聖書の上に乗っかってます。
だから、イエスさんは、旧約聖書に書かれている、
ダビデ王の子孫がいつか、救世主として現れてくれるよ、という記述の「救世主」にあたる、ということになります。
まあ、これはこれで、何の証拠も無いわけですが。
そこに分かれ道があって。
#イエスさんは、旧約聖書で言うところの、救世主さんだ、と信じる=キリスト教=旧約聖書&新約聖書、両方が大事。
#そんなことはない、まだ救世主は現れていない=ユダヤ教=旧約聖書だけが大事。
ということになります。こういうと失礼ですが、ユダヤ教、というのは、4000年近く?残ってるだけでもすごいんですけど、まあ、ユダヤ人という民族グループのローカル宗教、という感じですね。ユダヤ人のためのユダヤ人による宗教っていうか。そこがイエスは違うんですね。
●信仰心抜きで新約聖書を読み込んだ阿刀田さん曰く。
イエスは恐らく、マリアさんが別の男と作っちゃた私生児。
それを承知で、ヨゼフはマリアさんと結婚。
イエスと、種違いの弟たちが生まれた。
ヨゼフはでも健気にイエスもちゃんと、愛したんじゃなかろうか。イエスが大人になる前に亡くなります。
きっと、イエスはどこかでその自分の運命を知って。
家督は弟たちに譲ろうと、家出蒸発した。
●そう解釈して見ていくと、人間ドラマとしてイエスと、母マリアって泣けるよね。。。
イエスの死後、その遺体を抱くマリアという、芸術の題材=ピエタ、とかは、感慨深く味わえる、と。
●で家出青年、イエスさん。多分、ユダヤ教の何かの派で修行を積んで、どこかで自分なりの独立宗教?を始める。
というか、恐らくイエス的に言うと、旧約聖書の自分なりの解釈、ということなんでしょう。
で、歴史の表舞台の活動は恐らく2年半くらいなんですね。
●逮捕処刑前のイエスが、ゲッセマネで山に登って、「やっぱり怖いよ。なんで俺こうなるの」と苦悩するのが、
ゲッセマネの祈り。
でも最後には、「これが俺の運命」みたいに、すっきりと落ち着きを取り戻す。
このゲッセマネのイエスが、とても人間味があって、好感が持てる。
●で、なんでそもそもイエスは磔になったのか。
その時代、1世紀前半で言うと、まず前提として政治と宗教っていうのは全然分離していませんでした。
そしてイエスが活動した、今で言うところのイスラエル近辺は、南ユダヤ王国だったはずですね。
なんですけど、実はローマ帝国にもう支配されていました。
日本で言うところの幕府と藩みたいな上下関係・・・というより、戦後日本とアメリカGHQみたいな感じだったと思えばいいんでしょうね。
で、南ユダヤ王国藩、というか、そこにはマッカーサーというか、ローマの提督(だったかな)が君臨してるわけです。
なんだけど、一応、南ユダヤ王国。そこはユダヤ人の国。それはユダヤ教の支配。
で、ユダヤ教はもう何千年とある訳です。
そこで、なんとなくもう、インテリのモノになってる。小難しい教義論争、既得権の支配者層の玩弄物的なかんじ。
なにしろ、まだ印刷技術もなかった遠い昔ですからね。庶民はまあ、おいてけぼりの、戒律で縛るだけの支配宗教になっていた。(と、思う)。
そこに出てきたイエスは、「とにかく神を信じれば細かいことはいいの、救われるから」とまでは言わないけど・・・きっとわかりやすかったんでしょう。
これは個人的なイメージですが、親鸞=浄土真宗みたいな・・・とにかくある種簡単、解り易い。
なんで、一部庶民に受けた。
今の感覚ではわかりづらいところで、ユダヤ教からすれば、怪しいケシカラン新興宗教だったんですね。
何しろ、多分、最大のツッコミポイントは、イエスは、「神にしかしてはいけない、許す、とか、そういう行為」をしてたんですね。
何しろ、「私は神の子である」わけですから。まあ、存命中に、そうハッキリ言ったのか。それとも、そうであるってことに後年、布教者が確信を持って思ったからそう言ったことにしたのか、は、ともかくとして。
多分、イエスさんはユダヤ教を勉強し尽くして、現行のユダヤ教の、狭隘な教義主義がいやになったんでしょう。
世直し、したかったんじゃないかなあ。可愛そうな人に救いを、みたいな。
何かしら宗教的な使命はあったんでしょうね。
イエスは生存中、一部民衆に支持されてただけで、教団も何もないわけです。
その片のゴロツキみたいな人を12人したがえて、汚い身なりであちこち回ってたんでしょう。
そのくせ、信念覚悟があってユダヤ教から逸脱してる。(根源的には踏まえてるんですけどね)
それぁ、既得権益権力宗教であるユダヤ教からしたら、気に食わない。
だから、弾圧、処刑。
だから、ローマの提督、マッカーサーの役回りのピラトさんは、そのへんのユダヤ教的云々には、別に身を切るような興味はないんですね。
積極的にイエスを殺したい訳じゃなかったんでしょうね。でもまあ、ユダヤの権力層がそういうなら、いいよ死刑で。って感じじゃないでしょうか。
●イエスは、その時代に別に、圧倒的な大衆に人気があったわけじゃないんですね。はっきり言えば、田舎でけっこう話題呼んで人気だっただけです。
今みたいに報道があるわけじゃないし。ネットがあるわけじゃないし。今よりはるかに、お上、権力が横暴でコワかった時代。
大都会エルサレムに乗り込んだイエス一行、ぜんぜんエルサレムでは人気なんかまだ、ない。
で、エルサレムですぐに捕まって、磔。死刑。そのときは沿道の市民ほとんどが嘲って石を投げたわけです。
●で、じゃあ、イエスの教えってなんなのさ。
結局は、「神を信じろ」ということ。これは一応、ユダヤ教的な神な訳です。
でもこれは、ユダヤ教でも同じ。
あとは、「汝の隣人を愛せよ」というのはつまり、
<あなたが、こうされたら嬉しいなあ、と思うことを、ヒトにしてあげなさい>
という極めて解り易いこと。今で言えば、ほとんど、あいだみつおレベル。
●あとは、「剣を持つ者は剣に滅ぶ」という、ある種、憲法九条的な無抵抗平和思想。
まあ、大まかそれくらいだったんですね。
あとは、例え話やアジテーションや演説が上手かったんでしょう。
●あとそれから、ユダヤ教は当たり前ですがユダヤ人用なんですけど、
イエスはそこのところあまり拘らなかった。ユダヤ教を信じてない人でも布教したし、助けた。らしいです。
枠組み超えちゃったんですね。
ユダヤ教の厳正な視点からすれば、いかがわしい罪深き汚らわしい人々とも付き合った。布教した。
ここのところ、ひょっとすると、ヘレニズムとかローマ帝国とかアレキサンダー大王さんとか、そういうこともあって。
モーゼやらソロモン王の時代に比べると、グローバル化が進んでいたのかも知れませんね。人の交流。
そういう実情に、「辛い浮世でヒトが救われるための考え方、言葉、宗教」というのものをイエスなりに確立したのかもですね。
以前は、「辛い浮世でユダヤ人が救われるための考え方、言葉、宗教」だった訳です。
●きっと、ブッダもそうだったんだろうなあ、と思うんですけど、
たったそれだけのことが、それだけ一部で人気が出るというのは、つまり。
「その時代の庶民さんっていうのは辛いことがいっぱいあったんだろうなあ」と、僕は想像したりします。
●で、イエス死して後。
直弟子のペドロに出会ったのがパウロ。パウロ、ユダヤ教ゴリゴリ原理主義者で、むしろイエス一派弾圧の急先鋒だったそうです。
なんだけど、奇蹟とか見ちゃって、劇的に寝返り。イエス教団入り。
で、このパウロさんが、確かギリシャだったか、そっち方面が近かった人だったりしました。違ったかな?・・・
要は、どローカルイスラエル地方だけじゃなくて、ヘレニズム的にあちこち、他国へ伝手があったのか、情熱があったのか、布教する。
この段階で、例えば、「割礼」が必要かどうか、みたいな論争が、イエス一派内である。
パウロは頑強に「そんなのどうでもいいの。そういうの、もう古いの。イエスが生きて、我々はイエスを信じることで、神様と新しい契約結ぶんだからさ。小難しい条件つけずに、イエス信じる!それでOK!」という自説を押し通しちゃう。そして、どうやら物凄い迫害を各地で受けつつも、布教する。イエスを救世主(キリスト)と信じる新興宗教を。これがキリスト教。
神様との新しい契約。だから新約。
で、「パウロなくしてキリスト教なし」と言われる。どうやら、キリスト教を、イスラエルローカル、ユダヤ人ローカルの「ユダヤ教の異端一派」という位置づけから、「普遍的に誰でも救われる易しい宗教」に変換したのは、パウロさんだったんですね。
●マグダラのマリア、って名前だけ有名なんですけどね。
どうやら元娼婦さんで、イエス存命中から信者さん。
どうやら割と近かったらしい。恋人なのでは?という邪推も。
この人は、イエスの死後の復活、という劇の中で、
「遺体に香油を塗ろうと墓に行ったら、墓が空っぽだった、そしてあたしの前に現れたのよ、見たのよ」という役どころ。
●これをはじめとして、イエスの復活伝説というのはいろいろあります。
阿刀田さんは、信仰心で書いてないので、それがほんととか嘘とかという判定はしませんが、
色々想像されていて面白い。
つまりは、生存中の奇蹟伝説もそうだけど、
「奇蹟も、復活も、そうでなければ、イエスという人の信念を現し、伝え、その教えを信じる勇気を広めるためには不可欠だったんだろうなあ。
だから、イエスは奇蹟を起こしたし、復活した・・・というか、そうだったことに、なっているんだろうなあ」
ということですね。
●そして、書物としての新約聖書ですが、イエスの死後何十年かして、何人かの弟子(多分孫弟子か曾孫弟子)たちによって、語られた?伝えられたものが福音書。これはつまり、イエスの伝記ですね。
それから、パウロさんがあちこちに布教連絡のために書いた手紙。
それから、キリストの弟子たちがどんなこと頑張って布教したか、みたいな内容。
それから、黙示録。つまり終末の予言のようなもの。キリスト教が権力から迫害される現実に基づいたのか。神の国は近づいているんだから。ちゃんとしなよ、というコトなのか。
そんな内容で200年代くらいできて、400年くらいに現状に近く整理されたようですね。
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阿刀田高さんの教養書シリーズ。新約聖書について知らなかった知識を沢山教えてくれた。聖書について勉強したいと思いつつ、無信仰者の為、どの程度信じていいものか、またどういう姿勢で関わりを持てばいいのか悩んでいたところだった。この本では同じく無信仰者である阿刀田さんが、無信仰ならではの価値観で語っておりとても面白い。イエスは確かに実在した、ただし彼の起こした奇跡のようなものは流石になかったであろう。母マリアは受胎告知によってイエスを身籠ったのではなく、もしかしたら複雑な事情で別の男性との間に子供を儲けてしまった。しかし寛容なイエスの父親は、それを受け入れ、一緒に育てていくことを決めた。イエスとマリアは後年再開した時も、母よ、などと他人行儀な会話しかしない。それはイエスが僧侶としての遺言を保たねばいけなかったというだけではなく、そこら辺の複雑な親子関係のぎこちなさがあったのかもしれない。小説家ならではの洞察力で聖書を読み解いていく阿刀田さんの眼力はとても素晴らしい。信者ではない者でもこうして楽しく聖書を読ませてもらっていいんだという勇気をもらった。
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聖書のことをこれほどおもしろく、わかりやすく書いた本は、はじめて読みました。
ぼんやりとしていた部分が、はっきりとわかり、目から鱗が落ちるとは、このことだと思いました。
それでいて、著者の姿勢は非常に謙虚で、語り口にも好感が持てます。著者は似たようなシリーズの著作を手がけているので、ぜひそれらも読んでみたいです。 -
新約聖書が家にあったため、教養になるかと思い頑張って読み終えた。
キリスト教の信仰について、つらつら書いてあり、よく分かりづらかった。
そのため解説書でも読もうと思い手に取った一冊。
信仰を持たないことを前提に新約聖書を解説したこの本は、日本人としてすごく読みすいものでした。
同じ名前の人がたくさん登場すること、盛大にかかれていることは実は当時の社会を写した描写であること等、
まさに解説書として素晴らしかったです。
他の解説書は読んでませんが、新約聖書に関するひとつの解釈として十分に満足できました。
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面白い上にとても勉強になる。
かなりライトに読める。