- Amazon.co.jp ・本 (570ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101265735
作品紹介・あらすじ
昭和6年。文士と親しく交流する女優の母と相場師の父との間に鬼六は生れた。純文学を志すが挫折、酒場経営で夜逃げ、一転教師を経て、やがてSM作家として莫大な稼ぎを得る。だが、映画製作や雑誌の発行に乗り出し破産。周囲は怪しげな輩が取巻いていた……。栄光と転落を繰返す人生は、無限の優しさと赦しに貫かれ、晩年に罹患した病にさえも泰然としていた。波瀾万丈の一代記。
感想・レビュー・書評
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2019年4月18日、読み始め。
今までは、鬼六を”きろく”と読んでいたが、この本では、”おにろく”と読んでいる。
そこでウィキペディアで調べると、「本人の弁によると“鬼六”の読みは、“おにろく”でも“きろく”でもどちらでも構わないとのこと。」
63頁まで読んで、返却。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
晩年の団鬼六と関係者に、2年にわたる取材を行って書き上げた評伝である。
団鬼六の波乱万丈の生涯については、生前の団自身が、エッセイや小説などの形でくり返し綴ってきた。私もそれらを読んできたから、「前に読んだことがある」というエピソードがかなり多く含まれている。
とはいえ、本書にも指摘があるように、団の自伝的著作にはかなり脚色もあるようだから、客観的視点からの評伝にはそれなりの意義もあろう。
大崎自身が将棋の世界に深く足を踏み入れた人だから、将棋界と切っても切れない団鬼六の生涯を描くには適任と言える。じっさい、大崎自身も面識のあった小池重明(真剣師)と団のかかわりを描いた章など、この著者ならではの深みがある。
また、著者自身が小説とノンフィクションの両分野で活躍してきた人だから、小説家・団鬼六の内面に踏み込んだ推察・分析には、目を瞠る鋭さがある。
たとえば、純文学から出発し、SM小説の世界に転じ、晩年に再び純文学的な作品に回帰した……などという転機に際して団が何を考えていたかが、心の奥まで見通すように明快に分析されているのだ。
ただ、そうした美点とは裏腹に、細部の刈り込みと書き込みが足りない気もする。
第1に、団や周辺の人々が綴った著作からの引用に、安易に頼りすぎている。
第2に、著者の「自分語り」が多すぎる(著者の学生時代や作家デビュー以前の思い出など、団鬼六と関係のない記述がけっこうあって、読んでいてウザい)。
2年もかけて取材したのなら、もっと緊密な内容にできたはずだと思う。
と、ケチをつけてしまったが、あっという間に読み通してしまう面白い本であることは確か。ただ、その面白さはかなりの部分まで、団の生涯それ自体の面白さによるのだが……。
本書を読んで改めて思うのは、団鬼六が作家としてまぎれもない天才であったということ。たとえば、団が著者と、デビュー当時を振り返って次のようなやりとりをかわす場面がある。
《「私はね、書いた原稿はただの一枚も無駄にしたことがありまへん。すべて金になっています。最初に書いた小説がいきなり佳作に入りまして。その次も次点。それらを集めて短編集を作りまして……。だから無駄は一切なしや」
「習作のようなものは?」
「ありまへん。一枚も」
「下書きとか?」
「はあ。なんでそんなことせなあかんのや」と鬼六は豪快に笑う。》 -
【内容紹介】
栄光と転落を繰り返し、無限の優しさと赦しで周囲を包んだ緊縛の文豪の破天荒な一代記。
昭和6年。文士と親しく交流する女優の母と相場師の父との間に鬼六は生れた。純文学を志すが挫折、酒場経営で夜逃げ、一転中学教師を経て、SM作家として莫大な稼ぎを得る。しかし、映画製作や雑誌の発行に乗り出し破産。周囲は怪しげな輩が取巻いていた……。栄光と転落を繰返す人生は、無限の優しさと赦しに貫かれ、晩年に罹患した病にさえも泰然としていた。波瀾万丈の一代記。
<http://www.shinchosha.co.jp/book/126573/>
【目次】
目次 [003-005]
第一章 御殿を追われて 009
第二章 少年時代 031
第三章 はじめての夜逃げ 076
第四章 純文学作家として 125
第五章 教壇とSM小説 174
第六章 奇妙な隠遁生活 224
第七章 「エロ事師」開眼 265
第八章 鬼プロの興亡 303
第九章 不貞の季節 342
第十章 「新宿の殺し屋」現る 383
第十一章 すべてを将棋に 422
第十二章 最後の愛人 459
第十三章 遊びの果てに 493
解説――天国と地獄(二〇一五年四月、詰将棋作家 若島正) [564-570] -
SM官能小説の大家である団鬼六の人物伝。団鬼六の著作はエロも非エロも読んだことはないが、彼の人生程には驚きはないと思うくらい波乱万丈。作者が対象者の崇拝者になってしまっているのは×。愛憎ある人の方が、愛が深い。
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一日に何人もの人が死んでいるのに、日常を生きていて人の死に様に出会うことはめったに無い。今回小池重明に続いて、この団鬼六伝を読み、人が死ぬということ、そして病気について考える機会を得ることが出来た。生死の境を彷徨うような経験をした人はより、前向きに人生を生きられるというが、そういった稀有な経験をすることはできないし、しようと思ってできるものでもないと思う。やはり健康に生きている間に、より密度の濃い生を実感するがため、死を意識しようとすることは愚行なのだろう。少なからずできることといえばこういった人の死にまつわる物語を読み、少しでも死を身近に感じることぐらいだ。
人工透析をして生きながらえるくらいなら、残された時間を太く短く生きようと言う生き様は大いに理解できる考え方である。しかし、「一期は夢よ、ただ狂え」という言葉を信条に生きている人間でさえ、最終的には医者のいうことを聞いて、「死んでしまえば全て終わり、生きているということ自体に幸せになる可能性がある」という論理に納得するというのはこれまたわからんでもない。つまるところ、アウトローであるが、それになりきれておらず、勤め人になって真面目くさって働くのを馬鹿らしいと見下しつつも、どこかそれに徹しきれないという点が、団鬼六の魅力であり、親近感を感じずにはいられない人間味だと感じた。
死の直前に関東大震災が起き、その直後に団鬼六は屋形船で宴会を開いたエピソードが載っている。自分はその時海外に住んでいたため、日本全体の自粛ムードを肌で感じていないのだが、こういう時だからこそ人生を楽しまなくてはならないという鬼六の考え方は納得できるものがある。そしてそれは死んだ人間と生きている人間の関係性にも似ているように思う。生きている人間はやるべきことをやるべきなのではなく、やりたいことを探してやるだけなのだろう。 -
団鬼六の愛すべき人生。
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これまではどうしても「小池重明を書いた人」
以上のイメージしかなかったのだが、
これを機にほかの著作も読んでみようかと思うくらい、
興味がわいた。