ひとり暮らし (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101266237

感想・レビュー・書評

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  • これも、無印良品店舗の拘り本棚で見つけた一冊。詩集ではなくエッセイ集。文章は80年代から15年間ほどに書き溜められたものだけど、何ひとつとて古びていない。

    その中で「これを読んだから、後の文章はお腹いっぱいで読めない」と思う一文があった。

    「恋は大袈裟」(作品社『恋歌1』はしがき1985)。
     初め私は母親のからだの中にいた。私のからだと母親のからだは溶け合っていた。
    ‥‥と始まる。確かにそうだよね。

     私は母親のからだから出て、私自身のからだをもったが、そのからだはともすると、母親のからだの中へ帰りたがった。
    ‥‥と続く。ここまでは、マザコンの文章とも言えなくはない。

     母はひとりの人間であるとともに、自然そのものであった。
    (略)母と一体になりたいという欲望は、自然に溶け込みたいという欲望と区別できなかった。
    ‥‥ここまで来れば、それは最早不平等社会を批判して「自然に帰れ」と謳ったルソーを彷彿させる。だが、やがて母親は自分の身体の死などを以て人間社会のしきたりをも教えるのである。そうやって、子供は親離れをして「母親に代わる存在を求める」。

     恋とは私のからだが、もうひとつのからだに出会うことに他ならない。
    ‥‥ここで初めて「恋」の文字が出てくる。壮大なのである。

     心とからだの矛盾に満ちた関係は、人間と自然の矛盾に満ちた関係から生まれた。矛盾を生きることで、調和を見出そうとする欲求も両者に共通なものであるとすれば、恋もまた、人間同士の戦いであるとともに、人間の自然との戦いのひとつと見ることもできる。そこでの平和がいかに得難いものであるかは、誰もが知っている。
    ‥‥山極寿一さんは『暴力はどこからきたか』の中で、人類をサルから人間に変えたものは、直立歩行と、もう一つは「家族」だと喝破しました。家族という共同体を守るために人間は進化したのであるが、その共同体を守らせるために、人間は暴力装置(=国家)を作りました。その国家は、「戦争」という矛盾の固まりを発明しました。しかし、戦争は40万年の人類の歴史の中で、まだ1万年以下の日にちしか経っていません。これからが、改善過程なのだ。恋をして、平和な家族が可能なように、平和な国家関係はきっと可能なのに違いない。

    谷川俊太郎さんは以下の様に最後の行を書きます。あまりにも要約し過ぎて意味が通じないかもしれませんし、ちょっと大袈裟に紹介し過ぎたかもしれませんが、私が「もうお腹いっぱい」と言った気持ちだけはわかってくれたでしょうか?

     ひとつのからだ・心は、もうひとつのからだ・心なしでは生きていけない。その煩わしさに堪えかねて、昔から多くの人々が荒野に逃れ、寺院に隠れたが、幸いなことにそんな努力も人類を根絶やしにするほどの力はもてなかった。
     恋は大袈裟なものだが、誰もそれを笑うことはできない。

  • 詩人の暮らし、どういったものだろうと気になっていた。
    感性がどのように磨かれるのか、日常にどう歓びを見出すのかを語る。
    彼のように静かに物事を捉えられる老人になりたいなぁ。
    社会の変容に翻弄される自分を見つめ直すのを手助けをしてくれる。

  • なぜかとても心が安らいだ。
    一語一語が私に寄り添ってくれているかのような、とても心地よい時間。

    特に「自分と出会う」が好きだ。
    「自分のこころはもしかすると他人のこころよりも分かりにくい。」
    という言葉を読んで、そうなのかと驚いた。
    というより、私は自分のこころも、他人のこころもよく分からない。
    でも少しずつ自分のことが見えてきたかなとも思っていたのだけど、この先にはさらなる混沌があるのだろうか。
    「ほんとは誰でも自分とつきあうのは大変なんじゃないか。」
    という言葉には、嬉しくなった。
    私だけじゃないんだ、という情けない喜び。

    私にとって身近でないテーマも、すんなり受け止められたように思う(錯覚かもしれないけれど)。
    それはきっと、的確なのにやわらかい言葉で綴られているからじゃないだろうか。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「私だけじゃないんだ、という情けない喜び」
      詩人谷川俊太郎だから、判らない自分を、判らないなりに大事にしよう・・・と言って呉れてるのでしょう...
      「私だけじゃないんだ、という情けない喜び」
      詩人谷川俊太郎だから、判らない自分を、判らないなりに大事にしよう・・・と言って呉れてるのでしょうね(未読なのに断定しちゃった)。
      2012/07/18
    • takanatsuさん
      「判らない自分を、判らないなりに大事にしよう・・・」
      自分のこころが分からないのに生きていることについて、「大胆だ」と書かれていました。
      確...
      「判らない自分を、判らないなりに大事にしよう・・・」
      自分のこころが分からないのに生きていることについて、「大胆だ」と書かれていました。
      確かにえらく綱渡りな状況だと思った次第です。
      2012/07/19
  • このひとの手にかゝれば、日々のあらゆる出来事が「詩」となる。
    生きること。そのことに対する心からの驚きと敬意。頭で考へられた、脳みそ的な人生ではない。谷川俊太郎の生活を示す情報としてのエッセイではない。等身大のひとりの人間が生きることを感じ、考へてゐる、そのひとつの生きた存在であると思ふ。
    生きてゐれば、身体は衰へるし、頭もぼけてくる。大切なひとは徐々に死んでゆき、気づけば子らも成長し家には自分ひとり。
    ことばは、概念といふ形のないものであると同時に、確固たる輪郭をもつたひとつの形である。その狭間で揺れ動き、どこまでも考へると同時にその実体に触れる時、存在といふものを知る。詩とは、さうした詩人(ひと)の歩いた印だと思ふ。茨木のり子さんが数年もの間、次のフレーズが書けずにゐたこと、リルケが存在を前にして、ことばが尽きてしまつたこと。さうして詩の一粒がはらりとこぼれ落ちる。
    生活のあれこれを綴つてゐるやうにみえるこの詩たちも、どれほど丁寧に生活を詩としてゐるのかの現れではないか。自分の詩に対して迷ひのない解説が加へられ、確かな声で朗読ができるといふのは、単にそれが対価を貰つて成される仕事であるといふこと以上に、詩が彼自身であるからではないか。
    ”さびしさ”を「さびしさ」と呼べるやうになるまでに一体どれほどひとは選び、そして捨ててきたのか。捨ててきたもの、ことばにはならないもの、それも含めて”さびしさ”であることには変はりない。それを切り捨て、忘れていくのではなく、共に抱へていくことこそ、愛といふものだと彼は信じて今日も生きてゐる。

  • 谷川俊太郎のエッセイ、よかった。日常ってこういう捉え方できるんだ。
    過ぎるものを過ぎるだけのものとして扱わない観点というか感覚があるのすごいな…。
    ぱっと見じゃわからないような細かいしわみたいなものをなぞってくの、谷川俊太郎の立体感が上がる

    結婚式より葬式が好きだ。葬式には未来がなくて過去しかないから気楽である――。

    この文言にびびっとくる人は読んでみてほしい

  • 中学の頃合唱コンクールで谷川さんの書いた春にを歌って、お隣のクラスは同じく谷川さんの書いた未来へを歌っていて。エネルギーとか大地とか春とか青空とか随分壮大な詩書くのねこの人、よくわからんからこの人の生活と考えてること知りたいかも、と思いながら読み始めてみた2022年最後の1冊。
    すごい人だしすごいスケジュールも交友関係もあるのにそれをつらーーーっと過ごしてるようなお方だったことがわかりました。笑

    死に対する考えとか老いに対する考えが熱すぎなくてアグレッシブすぎなくて、生きるの延長にあるものとして考えて楽しみすらわくような文章いっぱいあって面白かったなー。ダライ・ラマ先生の講話の話と、葬式には未来がないから結婚式より気楽で良いわの話もめちゃくちゃよかった。

    「ことばめぐり」に空と嘘の解釈があったのだけど
    青空はその先の宇宙の虚無を隠す嘘
    って書かれていて。あの明るい曲調の合唱曲の謎に包まれた感、何かすっきりしない感は大元にこれがあったからなのか、、、と変に納得した。笑
    詩は詩人とは離れたフィクションとしてとらえてるから谷川さんの詩は面白いのかもしれません。

    独居老人さびしいって言われるけど、灯りのついていない家は気楽でいいもんですよ、とあとがきも最高でした。
    2022年最後にいい本読めたー!再読します!

  • 詩人はどんな随筆を書くのだろう、と興味があった。とある詩人のエッセイを読んだとき、やはり詩人は詩に長けているんだな……などと生意気にも思ったことがある。

    少し緊張しながら読み終えたのだけど、味わいのある一冊、さすがだなあと思った。
    これも本人曰く、実際の生活から離れていない人が書くからなのだろうか。面白い。

    死というものに対する言及が多い。
    あれこれと手を施すではなく、今の次に来るもの、といった自然さがある。
    そうして、そんな身近なものであるからこそ、折に触れて頭に描いたり、他者の死と向き合ったりするんだろう。

    人は生きることを闇雲に是としすぎだと、私は思う。どこかで必ずやって来る終止符と、どのように折り合いを付けるかは、今を歩む上では重要な心がけなのかもしれない。

    「心を動かすことのできる空間、あるいは隙間、そこにはいったい何があるのだろう。せめぎあう感情や思考とからみあって、それらを生かす意識しがたい何かがある。それもまた感情や思考のひとつかもしれないが、それはともすれば固定されようとする感情や思考をほぐす働きをもつのではないだろうか。そして名づけることのむずかしいそれを、私たちはゆとりという仮の名で呼んでいる。」

    「そのくせ犬は途方に暮れているようにも見えた。うちの中に入れて毛布でくるんでやって、獣医のところへ連れていったりするのが冒涜のように思えて、私は何も手出しはしなかった。」

    また、『思い出のマーニー』に触れて河合隼雄が少し書かれている。
    ほんの一、二ページなのだけど河合隼雄を知る人は、是非読んで欲しい、そんな箇所となっている。

    ゆっくりゆっくり咀嚼し、眠気や空腹には抗わず、そっと読み進めていこうと思えた一冊。

  • 著者が有名な詩人であることは知っていたが、このような随筆のような文章に接したは初めてだった.言葉の出どころが普通の作家とはかなり違うと感じた.やはり詩を生み出すことは特異な才能が必要なのかもしれない.後半にある「ことばめぐり」で登場する 空、星、朝、花、生、父、母、人、嘘、私、愛 で表される表現は、凡人にはまねができないと思った.

  • 谷川俊太郎さんが、60歳から70歳くらいの間に、日常生活を淡々と綴った作品。友人と会って食事したり、展覧会にいったり、自炊したり。一人暮らしをマイペースで過ごされている様子が伝わってきました。亡くなられたお父様、お母様への思いが語られるところにはジーンときました。

  • また一冊手放せない本が増えた。読みながら、自分のこと、神様に見える人のこと、他の大事な人のこと、大事にしてるペットのことを思った。
    日常の些細な喜びも大事にしようって話に賛成。昔の人が言ってた、毎日使ってるスプーンが急にすごくかっこよく思えてすごく好きになったって話とか、そういうのが好きすぎて、そんな話ばっかりで100時間くらいおしゃべりできそう。

著者プロフィール

1931年東京生まれ。詩人。1952年、21歳のときに詩集『二十億光年の孤独』を刊行。以来、子どもの本、作詞、シナリオ、翻訳など幅広く活躍。主な著書に、『谷川俊太郎詩集』『みみをすます』『ことばあそびうた』「あかちゃんから絵本」シリーズ、訳書に『スイミー』等がある。

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