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Amazon.co.jp ・本 (388ページ) / ISBN・EAN: 9784101281919
作品紹介・あらすじ
150日間、僕たちは深い森の中で、ひたすら耳を澄ました――。広大なアマゾンで、今なお原初の暮らしを営むヤノマミ族。目が眩むほどの蝶が群れ、毒蛇が潜み、夜は漆黒の闇に包まれる森で、ともに暮らした著者が見たものは……。出産直後、母親たったひとりに委ねられる赤子の生死、死後は虫になるという死生観。人知を超えた精神世界に肉薄した、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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ヤノマミにとって、産まれたばかりの子どもは人間ではなく精霊なのだという。
精霊として産まれた子どもを人間として迎え入れるのか、それとも、精霊のまま天に返すのか(母親が殺める)。
「命」を巡る決断は女が下し、理由は一切問われない。
我々の善悪は、そこには無い。
あるのは、人知を超えた精神世界。
15年たった今、「文明」がどれだけ浸透しどのような影響を与えているのか気になるところです。
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アフリカを起源とする、現生人類であるホモ・サピエンスは、なぜか、5-7万年前にアフリカからの移動を開始した。それは、「出アフリカ」とか「グレート・ジャーニー」と呼ばれている。ヨーロッパやアジアに散らばっていった人類は、やがて、シベリアから、ベーリング海を越えて、アラスカに渡る。アメリカ大陸に到達したのだ。人類は、アラスカから更に、アメリカ大陸を南下していく。そして、1万年前には、南アメリカの南端に到達したと言われている。
本書の題名になっている「ヤノマミ」は、ブラジルとベネズエラに跨る広大な森に生きる先住民で、推定25,000人から30,000人が200以上の集落に分散して暮らしている。ヤノマミ族は、最近まで外部の人間と接触したことがなく、従って、原初の暮らしを、すなわち、グレート・ジャーニーによって南アメリカ大陸に到達した1万年以上前の暮らしを今でも続けていると考えられている。
2007年11月から2008年12月にかけて、NHKの取材班が、ドキュメンタリー番組を制作するために、4回に分けて、延べ150日間、そのヤノマミ族の集落に同居した。それは、NHKスペシャル等として放送された。本書は、その書籍版である。「ヤノマミ」というのは、彼らの言葉で「人間」という意味である。今に続く、我らの先祖たちが、すなわち、人間はそもそもどのような暮らしをしていたのか、という点で興味深い。
彼らは1万年間、森から与えられるものを食べ、そして自らも亡くなった後、森の栄養分として森に還っていくという循環を繰り返している。その中で、出来るだけ部族が生き延びるチャンスを増やすための様々な仕組み・決まりを設けている。
そのこと自体、および、その内容も興味深かったが、もう一つ興味深かったのが、筆者のような文明の中で暮らす人間が、ヤノマミの暮らしをどう捉えたか、という点である。筆者は、150日間の同居を終え、日本に帰った後、すっかり体調を崩してしまう。その時のことを、筆者は下記のように記している。
【引用】
ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剝き出しのまま、ともに同居していた。
だが、僕達の社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。僕はそんな「常識」に慣れ切った人間だ。自分は「何者」でもないのに万能のように錯覚してしまうことや、さも「善人」のように振舞うことや、人間の本質が「善」であるかのように思い込むことに慣れ切った人間だ。
ヤノマミは違う。レヴィ=ストロースが言ったように、彼らは暴力性と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。そんな人間に直に触れた体験が僕の心をざわつかせ、何かを破壊したのだ。
僕を律していた何かと150日間で見たものは余りにかけ離れていたから、バランスが取れなくなってしまったようだった。
【引用終わり】
本も面白かったが、放送されたNHKスペシャルの番組を見ることが出来ないか調べてみると、NHKオンデマンドというサイトから有料で観られることが分かったので、実際にお金を払って観てみた。番組は、書籍で読むのとはまた異なる迫力を持っていた。もし、本書を手に取ろうと思われた方は、一緒に番組もご覧になることをお薦めしたい。 -
――――森に産まれ、森を食べ、森に食べられる
以前NHKで放送されたドキュメンタリーを今でもよく覚えている。
わたしにはとても衝撃的なもので、正直鑑賞後どのように理解すればいいのか戸惑った。
「ヤノマミ」はブラジルとベネズエラにちょうどまたがる地域に住んでいるそう。食料はほぼ狩猟と採集で調達しており、古くからの生活を今も続けているひとたちだ。ヤノマミとしてひとつのグループとなっているのではなく、小さな集団が100以上もあり内紛状態にあるらしい。
この作品はそのヤノマミのひとつの集団に180日ほど断続的に滞在したドキュメンタリーだ。できるだけ個人的な感情を挟まず、淡々と出来事が書かれている。
この冒頭に書いた「森に産まれ、森を食べ、森に食べられる」というのはNHKのなかで出てきた言葉で、彼らの人生を現している。特に「森に食べられる」というのは穏やかではない。これは出産したときに母親に突きつけられる選択に関わる。出産したとき、へその緒がまだ付いた赤子はまだ人間ではない。母親はこのへその緒の処理をして「人間」にするか、それとも「精霊」として森に返すかを決断しなければならない。母親にしか決定権はない。食料のこと、家族のこと、いろんなことを考えてそれを決める。もし決めたらだれもその意志を覆すことができない。…そしてもし、「精霊」に返すとなったら、彼女はそっと、まだ人間になっていない子供をバナナの葉で包み、シロアリの巣に置く。シロアリが食べつくしたころ、そのシロアリの巣を焼くのだ。衝撃。わたしにはその風習自体を理解できない。でも理解できないといって、否定もできない。ドキュメンタリーで観たとき、悲しくはないのか、と疑問だった。この本のなかにもある。ある日子供を精霊に返した女が(男勝りでめったに泣かないような女性だったのに)泣いていたという。シロアリの巣を焼くときも、涙をこぼしていた。悲しくないわけがないよね…。
感情としては納得できないのだけど、文化というものはそういうものなのだなあと別の意味では納得した。外から見ていくらそれが許せなくても、そのひとたちにとってみればそんなのは「押し付け」だろう。未開の地や野蛮…などという言葉はどうしても陳腐だ。いくら切なくても、納得できなくても、「それが文化だ」という理解はできる。かつて幕末の昔、野蛮だと日本人も思われていた、というのを考えると「野蛮」という言葉は使いたくない。そういう人たちがいる、とそれだけでいい。
ちょっと、正直、本当にショックだったのはもう仕様がない。
ただこの本を読んでいると、圧倒的な生命力にびっくりする。美しいとさえ思う。力強いひとたち。-
こんにちは。
テレビもこの本も未見ですが、渾身の力をこめたブリジットさんのこのレビューは素敵ですね!
森に生きる「ヤノマミ」のあり方...こんにちは。
テレビもこの本も未見ですが、渾身の力をこめたブリジットさんのこのレビューは素敵ですね!
森に生きる「ヤノマミ」のあり方が、切実に伝わってきました。
2013/11/26 -
こんにちは!
完全に夜中の勢いで書いたので、今読むと熱いですね…。笑
色んな文化があるのだとは分かっていても、なかなかに衝撃的でした...こんにちは!
完全に夜中の勢いで書いたので、今読むと熱いですね…。笑
色んな文化があるのだとは分かっていても、なかなかに衝撃的でした。15やそこらで出産し、命を決断するということの厳しさ…。
わたしの衝撃が少しでもお伝えできていたなら、意を決してレビューを書いた甲斐がありました。ありがとうございます。2013/11/26
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アマゾンの奥地で暮らす民族ヤノマミ。1万年前から変わらない生活を続けていると言われている彼らと150日生活を共にして、その生活をテレビカメラに収めた副産物の本です。
強烈な本で、よくあるいい話のような異文化交流ではありません。所謂善悪のような物では仕分けする事が出来ないような事が沢山出てきます。命の在り方が我々とは違う為に、それを受け止めようとした国分氏が、神的に変調を来してしまうような衝撃があります。
どんな事があるのかは是非読んで確かめて頂きたいですが、情愛というものの前に、生きていく為に切り捨てて行かなければならない事。これは日本でも昔似たような事が絶対に有ったと思います。
そして、急速に文明社会に取り込まれて行ってしまう民族たちの中で、彼らは従来の生活を堅持しようとしています。そんな中に入って彼らの事を記録するが故に、彼らを文明に近寄らせてしまうジレンマもあります。
特に若者は便利で享楽的な方を選ぶに決まっているので、早晩彼らの世界観も資本主義に染め上げられていく事でしょう。
もうこの本の中の彼らは存在しないんだろうなと思うと、非常にやりきれない想いで一杯です。
とても素晴らしい本で、人間って何だろうと考えこんでしまいました。 -
今まで読んだノンフィクション本の中でもベスト5には入る良作。読み進めながら、読み終わった後、色々なことを考えさせられた。
我々の現代社会とは、物、生き方、考え方、死生観などありとあらゆるものがあまりにも違いすぎる。母親が堕胎することすら何ら「悪」ではない。
しかし、そもそも今ある善悪とは誰が決めたのか?それは本当に正しいのか?そもそも正しいって何だ?とすべてが分からなくなる。人間の文化、進歩は果たして「良い」ものだったのか?それすらも疑ってしまう。
作者が中立的な書き振りだからこそ、読む人によって感じることも違うと思う。価値観を押し付けない書き振りも非常に好感が持てる。どちらが良い悪いではない。
ただ、「知る」ということは、経験値が増え、夢が広がる「幸せ」のスタートでもあり、同時に「不幸」につながる道なのかもしれない。そんなことを少し考えさせられた。 -
ブラジルとベネズエラ国境周辺の「緑の悪魔」アマゾンの密林に居住する先住民ヤノマミの人びとと約150日間、生活をともにして調査にあたったノンフィクションです。中盤まではヤノマミの特徴的な生活を描き、終盤は文明に触れた彼らがどう変わりつつあるかを伝えてくれます。
ヤノマミたちの生活のなかでもっとも目を見張らされた風習はやはり、「精霊として生まれてきた子供は、母親に抱きあげられることによって初めて人間となる」ところで、善悪ではない彼らの生き方が凝縮されているように見受けられます。
そして筆者が取材して生活をともにした「ワトリキ」の村については、彼らの長であり村の創始者であるシャボリ・バタの存在の大きさが印象的です。シャボリ・バタという一個人があったからこそ文明からも適度な距離を取ることができ、「ワトリキ」という共同体が繁栄したことは間違いなさそうです。彼の半生は筆者が取材中に読む『百年の孤独』の物語をも想起させます。シャボリ・バタなしでは彼らと同居するこのような取材自体がありえなかったのではないでしょうか。
ヤノマミを含めた先住民が文明と出会うことで引き起こされる変貌を通して、豊かさや安全や便利さと引きかえに私たち失くしたものが何だったのかを垣間見せてくれます。ここには漫画家・水木しげるが戦地ニューギニアで出会い、親しみを込めて「土人」と呼んだ人びとの暮らしとも重なるところがあります。水木氏は彼らの生活こそ本来の人間の生き方であると述べていました。
著者自身が語る通り、仮にこれ以降に彼らを再訪しても従来のヤマノミたちの生活が残っているかの保障はなく、この取材は結果として、ヤノマミが文明に取り込まれてしまう直前のわずかな期間に、いろいろな偶然が重なって残すことができた比類ない貴重な記録となるのかもしれません。
本書を読むことで、謙虚に取材にあたった著者の国分氏を通してヤノマミたちの「アハフーアハフー」という朗らかな笑い声が、あたかも自分で聴いたもののように響きます。 -
ブラジル森林地帯の先住民、ヤノマミ。彼らと暮らした150日間。これは心の内奥を抉ってくる良書であり怪書です。2009年にテレビで放送された番組の文庫化とのこと。ノンフィクション、ドキュメンタリー系の本は普段読まないゆえに面食らった感もあります。終わらない思索と焦燥感。
私たちが当然であるとして疑わないもの、常識と呼ばれているものが、常識ではないということを追体験せざるを得ません。科学や経済、法規や倫理、統治や民権といった観念は人工物に他ならないのだと気づかされます。そんなものはなかった。死生観も違う。ものさしも違う。むき出しの生と死があり、善悪という尺度もまた括弧に入れられる。生き物がいて、精霊がいる。
一万年前からほぼ変わらぬ狩猟採集生活を営む彼らと、ほんの数十年前まで「殺し合い」をしていた私たち日本人。文明人とは過度に着飾った非文明人を意味するのでしょう。
特に、新生児を人間にするか「天に返す」かの大決断をその都度迫られているヤノマミの女性の風習は筆舌に尽くし難いものがあった。私たちの度量衡に当てはまらない知がそこにはあるように感じられます。
http://cheapeer.wordpress.com/2013/11/14/131114/ -
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今なお、原初の暮らしを続けているアフリカの部族ヤノマミに150日間密着したノンフィクション作品。
善悪や規範がなく、真理だけがある社会。
生と死が、隣り合わせな生活。
だからといって、それはサバイバルではなく、あるがままを受け入れて生きるということ。
プライバシーがない社会。
何もかもがあるこの日本にいて、でも、どうしようもない事柄にぶちあたった時、私たちの心は原初に帰るのかな、と思った。
真理を見つめよう。 -
ヤノマミが見つめる世界には善悪など存在せず、彼らはただ自然に向き合っているのだなあと感じた。「食べ物がまだあるのに、どうして狩りに行かなければならないのだ?」というセリフは、不自然な社会に生きる私たちに気づかせるものがある。
「森で産まれ、森で食べ、森に食べられる。
彼らは、ただそれだけの存在として、森の中に在る」 -
アマゾンの奥地で生活する、私達が想像する“原住民”を取材したNHKスタッフの作品。
子供は生まれた時点では精霊であり、母親はその子を精霊として森に返すか人間として育てるか決める権利がある。
精霊として森に返す場合はそのまま首を絞めて殺し、シロアリに食べさせるそうだ。
今の私たちからしたら抵抗も多いが、非常に理にかなっているというか、かっこいいというか……綺麗事のない“生”を感じられます。
印象に残ったのは、文明と接触してしまった現住民族の変わりよう。どんな伝統や風習も、スマホという娯楽と高カロリーのご飯と快適な環境には敵わないらしい。
私たちだって、もし宇宙人が地球に来て、どこでもドアやタケコプターを提供してくれたらそれを使わないなんて無理だろう。
それが原住民と私たち文明側で起こっているらしい。
人間の生の美しさと共に、欲深さも同時に感じる本だった。おすすめです。 -
非常に興味深い世界。
自分の日常と掛け離れすぎていて、もはやファンタジーのような気さえするけど、日本の裏側に実在してる。
毎日が単調であまりにも何も起こらないから、同じような日常が描かれている小説とか映画に、あまり刺激を覚えなくなってきてる。もちろん、おもしろい作品はたくさんあるし、そのほとんどは非日常なんだけど、なんというか、少し想像がつくというか。
フィクションより、ノンフィクションの方がよっぽど刺激的で、想像を掻き立てられるし非日常を体験できる。
こういう見方はよくないのかもしれないけど、すごくおもしろかった。 -
雪で外出を諦めたのでその隙に読了。
ヤノマミ部族を取材した150日間にわたる同居の記録。
文字の文化がないので同じ会話を幾度も繰り返して記憶する、出産をした女はその場で子供を森に返す(絞殺する)か人間として育てるため連れ帰るか選び、命の決断は女が絶対的に握っており男は介入できない、など。
閉じられた文化に文明が入り記録するのは賛否両論あろうが、確実に失われていくものを記録しておくのは必要なのではないかと強く思う。
それも知識欲のエゴなのだろうか。
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闇と密林と我。そういうものを想像しながら、夢中になって読んだ。ひょっとして自分の前世は密林に住む部族だったんじゃないか?と思うほどに惹き込まれた世界だった。
ただそれは、外から見たものだったからなのだけれど。
150日間、ヤノマミというブラジルの先住民族と一緒に生活をした潜入取材の記録である。潜入取材は、NHKのドキュメンタリー「ヤノマミ ~奥アマゾン 原初の森に生きる~」として結実している。私はその番組を見ていない。
見たい、と思う反面、先に本を読んでしまった衝撃から、これを映像として受け入れることが出来るか?という疑問が湧く。恐怖かもしれない。価値観が壊されることへの恐怖、かもしれない。それはとても怖いことなので、私はこの番組を見ることはないだろうと思う。
潜入取材の様子は淡々と描かれ、一度もアマゾンなどみたことのないこの身に置いても、筆者の筆を追って、絶望的にも思える深い森と、闇と、「アハフー」と笑うひとびとを想像する。筆者がそうであるように、読者である私も、最大限の理解と努力を以って、彼らの存在と価値観を尊重しようと試みる。ヤノマミはナプ(部外者)を受け入れない。それはそうであろうと思う反面、歯がゆく、苛々もする。しかしやはり、それはそうであろう、と思う。受け入れればどうなるのか?ネイティブアメリカンが証明しているではないか。
ヤノマミの価値観は興味深い。生きていけるだけの獲物を狩り、余分には狩らない。生きていけるだけの働きをし、余分には働かない。性に対しては比較的開放的だが、制裁や諍いもある。独自の言語。ナプに対する態度。精霊が統べる世界。ホトカラ。
精霊はいるのだと思う。それは、日本に八百万の神が存在するような感覚で、私はそう思っているのだけれど、ヤノマミの世界でも、精霊の役割が終焉を迎える時が来るのかもしれない。
後半は、そんな不安感に駆られる描写が続く。
前半の描写より、アマゾンの深い森の中に生きる人々を想像し、思い描き、分かったつもりになって、親しみさえ覚えた。自分がアマゾンを駆け巡ったような気になり、NHKのドキュメンタリーをぜひ見てみたいと思った。
私は、母親が、たった一人で新生児を人間として育てるか、精霊としてホトカラに返すのか、という選択をするということを、なんとなくふわっと受け入れた。それが酷いこと、とか、許せないこと、とは思わなかった。それが必要であるのならば、そうするしかないと思ったからだ。私がもし生まれながらにその環境にいたとしたら、当然のようにその選択をしたのであろうと思ったからだ。・・・?現代の価値観に置いてそれは罪であるというのならば、人工中絶はどうなるだろう?結局一緒のことではないか?育てられないから天へ返すのだ。経済的な理由からかもしれない、障害の有無なのかもしれない。同じことではないか・・・?ただそれを、どの時期に、誰が行うのかという違いだけで。・・・。
ただ、ヤノマミによるこの選別が、過去よりも現在に近づく方が増えている、という描写が酷く気になった。
過去からずっとこの選別が行われているのだとしたら、明らかに生きていけないと分かる障害を持ったものが、天へ還されることはあったのだろう、と思う。しかしそれとはまた別に、保健所が出来、望めば新生児に栄養剤を与えることが出来るようになって、死亡率が減ったから堕胎が増えた、というのが本当ならば(限りなく本当に思える)、なぜそんな片手落ちの支援をするのか、と思う。新生児の死亡率を下げるつもりがあるのならば、避妊も教えるべきである。そうでないのならば、闇雲に嬰児の殺害を増やしているのは現代社会ということになる。
私にはそのことがとても気になった。
もちろん、母親が嬰児を精霊に還す、ということに衝撃がなかったわけではない。筆者が現代社会に戻ってからも自分を取り戻すことが出来ないほどに衝撃を受けた現実だ。私の想像力は、深入りすることを拒んでいる。私はこの事実に耐えきれないだろうからだ。森で生きていくということは、命と命のやりとりなのだと、とても引いた視点から傍観するよりほかにない。
後半の描写で一番恐ろしかったのは、実はこの堕胎のことではなかった。(この件に関しては意思が想像と考察を拒んだからだが。)それは、現代社会の手が、彼らを変えてしまう、ということだった。
ずっと本書を読んできて、私はヤノマミをとても大切に思っていた。それは筆者がそういう立場だったからだと思うし、自分も客人として彼らのテリトリーに入れてもらっているのだという意識があったからだ。だが、ブラジルの社会は違う。彼らは先住民など意識してはいないし、あまつさえ、現代社会よりも下等な存在として認識しているのである。考えればわかることなのかもしれなかったが、まるで違う世界のこととして受け入れていた私には、そのことは全く思いもつかないことだった。
もし、富士の樹海に未開発の人々が住んでいたらどうだろう?我々の社会はそれらの文化を尊重し、それらと共存して生きていく術を模索するだろうか?そもそも日本ではあまり考えにくい案件だ。
ワトリキの人々の生活を丸ごと是として受け入れていた私は、現代社会の文化が彼らの中に沁み込んでいくことが、良いことには思えなかった。じわりじわりと毒が沁み込んでいくように思えてならなかった。
もしかしたら、言葉を覚え、学を身につけることは、死ななくてもよかった人を生かすことにつながるかもしれないし(実際そうであろう)、しなくてもよい困難を解消することに繋がるのかもしれない。でもその時、ワトリキは、ヤノマミはもう死んでいるのだ。シャボリ・バタの力が弱まり、精霊が姿を見せなくなろうとしているように、ゆっくりと、ワトリキの生活は変わってゆき、精霊は死に、いずれヤノマミ自身が死んでしまうのだろうと、そんな昏い未来しか思い描けなかった。
ヤノマミがヤノマミで存在することを望むのは、実は現代社会のエゴなのかもしれない。しかし、彼らがそれを望むのであれば、それは尊重していくべきだと思うのだ。
けれど、現代社会の道具は、利便性は、中毒性があり、一度手に入れてしまえば、もう戻ることは出来ない。
一日中スマホを手に過ごしている自分なんかが、ヤノマミの未来に何の提言が出来ると言うだろう?
彼らの生活はどこまで維持されるだろうか。
そしてそれは、どうなるのが正しい姿なのだろうか。
イゾラドという人々がいるという。
ヤノマミよりもさらに現代社会から隔絶された世界。
もしかしたら、そこが唯一の、人間の手の及ばない原初の楽園なのかもしれない。
ヤノマミを読んでから、マサイ族の本を読んだ。
ヤノマミの世界にどっぷりつかっていた私は、マサイの現代社会への近さに驚いた。そして、ヤノマミがどれだけ特殊な環境であったかを、初めて認識したのである。
価値観について考える。
どの世界においても、他人の価値観を冒すことは出来ない。けれどもそのことを私はすぐに忘れてしまう。
他人との価値観の齟齬に苦しむとき、そっとこの原初の森の人々を思い浮かべる。人を形作る価値観というものを、思い出すことが出来るかもしれない。
「アハフー」という不思議な笑い声と、深い森と闇が、私の中にいつまでも木霊する。 -
NHKスペシャル「イゾラド」のディレクターの本。今この時代で、文明に接してない民族が、アマゾンにいる。彼らの正義と、私たちの正義は噛み合うことはない。文明って幸せなのか?必要なのか?と考えてしまう。
彼らの見てるものはあまりにかけ離れている。
じゃあ、今この瞬間、どうしてるのか。読んでますます興味と想像が広がる。もっと知りたい! -
アマゾン奥地で、ほとんど現代文明との交渉なく、「原始」のような生活を送る人々に、合計150日間、同居し共に生活することで取材した、NHKの特集番組のディレクターが記す記録。
2009年に放送されたという番組を残念ながら見ていないけれど、私たちの価値観っていったい何なんだろう?人間の幸せってなんなんだろう?と、自分が軸足を置いて生活している社会のあらゆることを根元からひっくり返されるような、
(おそらくいい意味で)モヤモヤしたものが残る、そんな本でした。
あとがきによると、著者であるディレクターさんは、現代社会と(現代だけれど)あまりにも時間軸や価値観が異なりすぎるヤノマニの社会での生活を行き来し、体験したことで、取材を終えてから心身ともに不調をきたすほどだったとのこと。
ヤノマニの人々の生活は、日々の暮らしが成り立つ範囲で自然の恵みを得る狩猟採集生活。「いい男」「いい女」の評価も、家族の在り方も、その狩猟採集生活を継続するために役立つ能力や技術で決まっている模様。私たちと同じように、友人との交流を楽しみ、死者を悼んだり生命の誕生を喜んだりしているようだけれど、子どもは精霊として生まれ、母親が自分の意思で「人間」とする(育てる)か「精霊として送る」(しなせる)か決めるという衝撃的な生活習慣に示されるような、命に関するルールもある。
「アマゾン奥地に(我々から見れば)原始の生活をしている人々がいる!」と研究者として記されているのではなく、また、面白おかしく「文明社会」との比較をしているのでもなく、できるだけ、現代の文明の影響を与えYず、現地の人々の価値観を尊重しよう、そうすることで、素直に彼らの生活を取材しようとした取材班の姿勢に、なんだかほっとしました。特に、出産にまつわるエピソードでは、取材班たちが現地で目撃したことのショックと、事実を事実として、そして、ヤノマミの人々には当然のことであるのだということをしっかり受け止めようとする様子が伝わってきました。
取材を受け入れている時点で、「文明」との交渉はあるわけで、取材の過程でも、少しずつ「文明」が流れ込んでいるという様子が紹介されていました。取材してから10年ほど経った今、彼らはどうなっているのでしょうか。知りたいような、でもそれを知りたいと思うのは私たちのエゴのような気もします。
「ホモ・サピエンス」が農耕社会を広げたことで多くの「(他の)人類」や動物たちを全滅させていった、短期間で多くの種を全滅させるなどということをしでかしたのは「ホモ・サピエンス」だけだ、という「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ)で論じられていたことを思い出しました。
文中の長老が話したという言葉「あなたたちはしっかりと広めて欲しい。自分の家に帰って家族に話して欲しい。ナプが来る前、ヤノマミは幸せだったと。ナプが病気を持ってきて、私の父も母も…(略)みんな死んでしまった…(略)今、ワトリキにいる者は生き残った者たちだ。とても苦しい思いをしてきた者たちだ。」
文明化を拒むヤノマミの人々が、なぜ取材を受け入れたのか、著者がなぜこの本を記そうとしたのか、考えさせられる思いでした。 -
なぜか読むのを避けていたのだけど、初めて入った書店で目についたので購入。
映像の衝撃には敵わないかと思っていたが、これはこれで良かった。作者の気持ちの入りすぎない描写がとても良かった。映画かドキュメンタリーをもう一度見たい。どこかで見れるだろうか -
ヤノマミには、子供は一定の年齢になるまでは人ではなく、神様からの借り物と考えられているらしく、小さな頃に亡くなった場合は神に返すことになるらしい。
別の資料から、日本でも似た考え方や風習があったと知った。
また、ピダハンでは小さな子供は妖精と考えられていたのではなかったか。
かつてベーリング海峡を渡ったモンゴロイドと、日本人が文化的に類似しているのが興味深い。
アニミズムに特有の宗教観なのかな。
もう少し掘り下げたい。
あれ?これピダハンの話とごっちゃになってるかな?
読み直し決定(笑)
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