- Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101293080
作品紹介・あらすじ
高知の下町に生れ育った喜和は、十五の歳に渡世人・岩伍に嫁いだ。芸妓紹介業を営み始めた夫は、商売にうちこみ家を顧みない。胸を病む長男と放縦な次男を抱え必死に生きる喜和。やがて岩伍が娘義太夫に生ませた綾子に深い愛をそそぐが…。大正から昭和戦前の高知を舞台に、強さと弱さを併せもつ女の哀切な半生を描き切る。作者自らの生家をモデルに、太宰治賞を受賞した名作。
感想・レビュー・書評
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<桂>
本書は,僕がめったに読まない「文庫本」である。大概の新刊は文庫になる前に単行本で読む。まあこの本はずいぶん昔の本だから今更単行本ってわけにはいかないのだが。で,何故この文庫本を手に入れて読む事になったのかが自分でも実は分からない。先に読んだ宮尾登美子の本が無茶面白くてそれでこの『櫂』も読んでみる気になったのかも知れないけど,その最初に読んだ本が何だったのか心当たりが無いのだから。
物語冒頭は「喜和は,朝,出がけの岩伍(いわご)からいいつけられていた・・・ 」 で始まる。さて,この主人公の『喜和』。実はその読み方が一回も本中では詳らかになっていない。ルビを振ってあるところが無いのだ。さてこれはなぜか。と云うより まず読者諸兄姉の皆様はこの『喜和」をいったいどう読んでいるのだろうか。きわ,よしかず,きな,よしわ ・・・。沢山の読み方が考えられるのだが。(と書きながら,まあ『きわ』と読んでいるのだろうなぁ,とは思いながら・・・)
のっけで話に出て来る土佐高知の『種﨑』と言う場所を実は僕はよく知っている。土佐湾の入り口に架かる浦戸大橋を坂本龍馬銅像の立つ桂浜側から渡ったところにある町である。僕らは学生時代 その町にある『種﨑海水浴場』の海岸で毎年キャンプをしていたのだ。いやぁ実に楽しい青春時代だったなぁ。 僕は高知市から国道32号線で2時間弱程北上したところに在る徳島県阿波池田という山間の町で生まれ育った。夏の休みには友人達とバイクと車を連ねて,この種崎海水浴場までキャンプ遊びに来ていたのだ。
『喜和』と違って,作中 何度何度も振り仮名(ルビ)がついている漢字に『楊梅』:やまもも がある。読みづらい漢字は普通最初の一回だけルビが振られるが,その後はあまり繰り返し振られないのだが。で,気になるのでググってみた。そうするとビックリ。やまもも は徳島県が最も有名な産地なのだそうだ。そういえば僕も年少の頃に似たようなモノを近所の野山で採って食べた様な気もする。甘酸っぱかった様なそうで無い様な。あまりに昔なので勝手に記憶を作っているだけかもしれないが。
それから本書では「家」と書いて「く」と読む。これは僕の生まれ育った阿波池田でもしごく普通の言い方であった。ばあちゃん(家)く,おっちゃん(家)く,そして るいさん(家)く,ぬらさん(家)く,ペグさんく(家)・・・w。今でもこの言い方は田舎のみなは普通に使っている。好きな言い方である。(標準語ではこの言い方は「んち」なのだろうな。「ぼくんち」って。)
ここ最近は新刊書本ばかり読んでいた僕にとって,この本『櫂』はかえって新鮮で また読みがいのある作品だった。言い換えると ”今まで読んだことの無い類の小説” とでも言えば良いか。まあいわゆる ”純文学ジャンル“ には入る本なのだろうが,どうしたことか 僕の読書欲は今回それ程 純文拒否反応 を示さなかった。そりゃ しっかり読もうと思うと,雑念を一切シャットアウトして本に集中しないとなかなか頭に入ってこないけどが。
さて,とにもかくにも本作のテーマは「世間体」だと思しい。何事をするにも決めるにも一番気にかけて優先するのは「世間体」。他人の目/廻りの目である。自分自身や直接の相手の事は二の次なのである。まあ21世紀の今だってそういう事はもちろん少しはあるが,この『櫂』の時代ほどではないだろう。(全くの余談だが,中華人の多くにはこの 他人の目を気にする,というココロが欠落しているのであろう。いわゆる羞恥心無し/恥ずかしいという気持ちが無い,というやつである。彼らのあらゆる言動はそのことを証明しているのだ)
僕の感想の最後に『櫂』と『櫓」を比べてみた結果を書いておこう。これは僕が学生時代(40年以上前のことw)に流体力学の講義で教授が雑談としてしゃべっていた内容が印象に残り,以来ずっと覚えているものである。
割と簡単に舟を漕ぐ事が出来るのは「櫂」。でも速く進もうとすると懸命に漕がなければならない。有体に言うと その時の舟の進む速度よりも更に速く櫂を動かして漕がないとそれ以上の速度は出せない。
対して櫓は扱いが難しい。ハッキリ言ってちゃんと舟が漕げるようになるにはかなりの経験と時間がかかる。しかし一旦櫓の漕ぎ方を覚えると櫂に比べて長距離をかなりはやい速度でしかも楽に漕いでゆくことが出来る。昔ながらの船頭さんが操る河川の渡し舟などは全部「櫓」で漕いでいる。それはなぜか。ここではヒントを一つだけ書き残して僕の読書感想文を終える。ヒント:「櫓の断念形状は飛行機の『翼形』似ている』。まあもちろんググればわかるけどね。あ,最後不真面目で すまなかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
宮尾登美子さんの自伝的小説。
高知県で芸妓紹介業を営む岩伍。その夫の仕事受け入れられない妻喜和。
仕事に打ち込み家庭を顧みない夫、肺病を患う長男と放縦な次男、夫の気ままで雇い入れる人間たちの中で喜和は懸命に生きる。
そんな中、岩伍が娘義太夫に産ませた赤ん坊の綾子を引き取ることになる。
いつの間にか綾子に深い愛情を注いで育てるようになり、綾子こそが自分を支える全てとも感じるようになる喜和。
大正の暮らしと高知のひとびとの生き様が宮尾登美子さんらしい美しい言葉で綴られる。
言葉ひとつひとつが現在では用いられないものも多く、こういった表現が段々と薄れていっていることを感じさせ、時代の流れをさみしくも思う。
宮尾登美子さんや有吉佐和子さんの小説を読むときは、辞書は必須だ。
文章が美しいだけでなく、物語の展開も素晴らしい。
中だるむこともなく、寧ろ加速するかのように読者を引き込んで離さない。
時代が時代なので、女性はとにかく忍耐。
小さい頃は父親に、結婚したら夫に、老いては子に、常に誰かの庇護のもとにあるが逆らうことも出来ない。
本書での岩伍も現代ならとんだDV夫になるところだが、この時代の妻は実に健気だ。耐える、堪える。
夫が浮気して、子供が出来たから妻であるお前が育てろと平気で言えてしまう。
土下座して頼んでくるならまだしも、嫌だと言う喜和を怒鳴り殴り倒す岩伍。
こんな突っ込みどころ満載な、無理を通して道理を力技で押し込めるようなことがまかり通るという。
喜和は、なさぬ仲である綾子を大切に育てる。いつの間にか心の支えとなるほどに。
そして、喜和の人生の波乱はまだまだつづく。
この物語が、実話があってということにも驚かされる。
こういう涙を堪え、ひたすら耐え忍んだ女性がたくさんいたのだろう。
わたしの母親も父親には忍従だったように記憶しているので、少し以前まで女性はそういうものだったのだろう。
日本は変わった。
ナントカハラスメントが溢れて、権利権利、平等平等の世の中になった。余りにも女性の権利意識が強すぎて、少々戸惑ってしまうほど。
こちらの作品は、喜和目線の「櫂」にはじまり、宮尾登美子さん自身でもある綾子目線の「春燈」「朱夏」とつづく。
まさに劇的に物語が展開するため、本屋さんに駆け込むこと必至。そして売っていなくて泣く。
「春燈」を入手したら、直ちに読む。 -
2023/7/17 読み終わった
天璋院篤姫を読んでいたく感動し、宮尾登美子さんイヤーを開催したので。でも実はそれは去年のことで、この本は一度、20ページくらい読んで挫折していた。リベンジ。
読み終わり、なんとも言えない、もどかしい気持ちになった。えっここで終わるの?寂しすぎる…。篤姫もそうだけど、自分の中に強い芯を持ちながら、時代や環境の変化に抗えず、竿を刺すも流される、そんな女性を描いた作品だった。
宮尾さんの描く女性は、強いけど弱い。そういう印象。また、そんな周りの変化に対して付いて行けずか付いて行かずか、自分の考えをあくまで押し通す主人公の言動は俺からしたら「それはただの我儘だな」と思うことも少なくない。そういう意味で、ただ高潔で誇り高い人物というわけではなく、悪く言えばそこら辺にいそうな、よく言えば等身大の、まさに人間を描いている、宮尾さんの視点にはグッとくるものがある。
本編を読み終わって、気持ちを整理しながら解説を読んでいたら「本作は四部作の第一作目である」との記述。まじ…?全部読まなきゃじゃんそんなの。
宮尾登美子イヤーは続く。 -
1925年頃、高知市の下町。実際にそこに降りたって、登場人物たちといっしょに生活を送る、そんな強烈な実感を伴うような読書を体験できた。
・・・町のざわめきと生活臭があたりを包む。当時の風俗、道具立てが、読者の個人的な記憶に置き換わっていく。
・・・群衆の中からひとり喜和の姿が浮かび上がり、彼女の着物の、奥の乳房のぬくもりまでもが伝わってくる。その情欲、不安、諦念のうずの真っただ中に、喜和本人と同様に放り込まれ、ぐるぐると回り沈んでいく。
・・・そんな想像をふくらませていると、背後からのし歩いてきた男にぶつかりそうになり、すんでのところでかわせた。歩くたびに着物の裾から交互に突き出るその巨大なコブのようなふくらはぎに気圧される…。気を付けろ! アイツこそ最近幅を利かせてきた成り上がりの女衒、岩伍だ!
作者が自分の体の一部と引き換えに悪魔に書かせたのではないかと思われるような傑作。 -
20181001~1004.『春燈』の主人公綾子の育ての親喜和と綾子の父親岩伍との愛憎を描いている。作者の自伝的小説の第一作。土佐の四季と世相の移ろいを流れるような筆致で描いているけど行間から女の情念が湧いて出ているので、ついつい引き込まれてしまう。それは私が妻であり母であるから余計に喜和の心情が推し量れるのかもしれない、と思った。この本を学生の時に読んでいたらまた違った感想を持っただろう。
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喜和はなぜああも頑なに岩伍の商売を受け入れないのか、何より岩伍の何が良くて一緒になったのか、そこが分かるようでいて自分にはない部分なのでどうにも受け入れ難かった。
岩伍に対してのことだけでなく、肺病の長男への過剰な甘やかし、次男への伴侶と仕事への口出し、なぜこうも喜和には弁えがないのかと、終始イライラさせられたのが自分でも不思議だ。もっと若いうちに読めばもしかしたら喜和に同情できたかもしれないが、歳を重ねると気の毒な人に情を掛けるのができなくなってくる。
しかし、この時代。女は教養など身につけず早々と嫁に行き子を為すのみ。どんなことがあってもただひたすら耐えるのが美徳とさえ思われたこの時代、喜和のように生きなければない女は多かったであろう、もっと悲惨な女も作中にはいる。
血が繋がらなくとも心は繋がる。綾子との関係はこの物語全体で唯一ほっできる部分だった。 -
多分ストーリー展開だけが記されていれば、文庫本500頁を超えるものにはならないだろうが、宮尾登美子の文章には、主人公の目に映る自然風景、お菓子、四季の移り変わり、寒さ、風、太陽の昇り沈み、花や草木、衣服、気温、湿気、お菓子、果物、何とはない子供の遊びに使われる小道具などなどの説明表現が非常に多い。男の読者としては、もっと話を進めてくれよと思ってしまうところもあるし、その分ちょっととっつきにくい感じは否めない。ただ同時に、その様な表現を通し事によって、実は直接表現では言い表せない登場人物の内面の思いを読者に伝えている。
時代背景が違うとはいえ、現在の自分には考えられないような男の身勝手さがいやになってくる。
とは言いながら、本当にそうであろうか?自分は違うと本当に言い切れるだろうか?
結局自分も岩伍と同様に、金回りに不自由がない事がイコール家族を思いやっているという意識になってしまってはいないだろうか?喜和もお金を第一の目的として望んでいたわけではない。
うちのカミさんも喜和と同じく、必ずしも思ってることをストレートに表現出来る方ではないし、底抜けに明るいとか、多少のことは笑い飛ばしてしまうという性格でもない。どちらかと言うと、後になってから「ああすればよかった」、「こうすればよかった」と思う方だろう。その様な不安、不満を抱えているであろう彼女の思いをどこまで汲んで、不安なく包容してあげる事が出来るだろうか…男としての真の甲斐性が問われる。
最後の別れの場面は、非常にあっさりとした状況描写であるがゆえに、その分余計に突き上げてくるものがあった。