切羽へ (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (241ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101302546

感想・レビュー・書評

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  • 何かを成す途中にはとても大切と思われていた場所が、終わってしまえば影も形も消えてしまう、そんな場所をあなたはご存知でしょうか?

    これはなかなか難しい質問です。簡単には思い浮かばないと思いますが、例えばビルや家の工事現場がそんな場所と言えなくもありません。もちろん白い幕に覆われていて容易には目にできないという突っ込みはあるかもしれませんが少なくともそんな場所をイメージすることはできると思います。私たちが当たり前に目にするビルや家が今の姿になるまでにはその途上の姿がある、それが工事現場です。しかし、最初の質問の解答としてはこの答えは少し不適切です。何故なら工事途中の形状こそなくなってしまうとはいえ、そこにはその途中の積み重ねの結果としてのビルや家が姿をとどめているからです。

    では、そんな質問に対する答えはあるのでしょうか?全く思いもしなかったそんな答えを私は偶然にも手にしました。井上荒野さん「切羽へ」というこの作品。直木賞も受賞されたその作品の書名となる『切羽』とは、”トンネル掘削の最先端箇所”のことを指す言葉なのだそうです。トンネル工事にたずさわる方でもない限り決して見ることのできないその現場。それは、トンネルを掘るという一大事業を進める中では一番大切な場所です。しかし、トンネルが完成してしまえばそんな風に定義される場所自体どこにもなくなってしまいます。

    そんな『切羽』という文字を書名に関するこの作品。それは、人がいっ時抱くある感情の存在を思わせる描写が淡々と続く物語。いっ時が過ぎればそんな感情がこの世にあったこと自体消え去ってしまうことを感じる物語。そしてそれは、登場人物から消え去った感情が、読者の心の中にいつまでも余韻として残り続けるのを感じる物語です。
    
    『明け方、夫に抱かれた』と、『私を眠らせたまま抱こうとする』夫の存在を『眠りの中で感じ』ているのは主人公の麻生セイ。そんなセイが『目を開けて、夫を見上げ』ると、『できあがった』『明日。一緒に見よう』と得意そうに夫の陽介は微笑みます。朝になり『小さな丘のてっぺんに建っている』という家の庭に出て『野蒜を抜いていると』、『見る?』と陽介が声をかけてきました。そして、『手を繫いでアトリエに向か』う二人。『かつて父の診察室』だったアトリエは『雨戸もカーテンもすでに開け広げられていて、明るい日差しがいっぱいに差し込んでい』ます。そこに、『百号の大きなキャンバス』に『海を描いた絵』が『日を浴びてい』ました。『これは、どこね?』と訊くセイに『俺たちの島たい』と答える陽介はセイ『の腰に腕をまわし』ました。『一日中でもそうしていたかった』ものの、『小学校の養護教諭』でもあるセイは『今日は卒業式だ』と出かけます。『小学校へ行くまでに私は丘を三つ越える』という丘の多い島に暮らすセイは、三つ目の丘の麓にある港で『港湾課の村崎さん』に声をかけられます。『人間より先に荷物が着いてしもうて』と言う村崎は東京からの荷物を見て、『家賃が格安』で、『本土から島へ渡ってくる人は、たいてい』入るという『岬住宅』に引っ越してくる人のことを話します。そして、再び歩き出したセイは『生徒は九人』という小学校へと着きました。『今日で、アキラとミドリはいなくなる』という別れの日。そんな日にピアノを弾くのは『何かと噂の的』になる『グラマーで、その上いつでも体にぴったり張りつく服を着てい』る月江先生。その横に『風貌のやさしい』校長先生と、『がっしりした山男タイプ』の教頭先生が並ぶ卒業式、そしてその後の懇親会も終わった中、月江が『季節はめぐっていくのよ』と話しかけてきました。『新入生?』と訊き返すと『新任教師。男。東京から』と答える月江に、朝の一件がピンときたセイは『もう会った?』と訊くと、『まだ何もしてないわ』と悪ぶって答える月江。そして、四月となり、『石和聡(いさわ さとし)といいます』という『歳は三十歳前後 ー 私より少し下かもしれない』、『背はさほど高くなく、少年のようにするりと瘦せている』という一人の音楽教師がセイの前に現れました。そして、そんな石和のことを強く意識しだすセイのそれからの一年が描かれていきます。

    「切羽へ」という書名の意味と読み方がまず気になるこの作品は、2008年に第139回直木賞を受賞している井上荒野さんの代表作です。私は井上さんの作品を初めて読みましたが、美しい表現とともにゆったりと展開する物語の中に、独特な世界観が作り上げられているのにとても魅了されました。まずはそんな表現の数々を見てみたいと思います。

    この作品の舞台は『かつて大きな産業が栄え、そして衰退した』という一つの島が舞台となっています。そんな島の豊かな自然を感じさせるのが、『蒸し暑い晩だった』という夜に『散歩ばせんね』と誘う夫と共に出かけたセイが見ることになる光景です。『植物ではなく、動物を思い起こさせる草の匂い』が立ちこめる屋外へと、陽介の後に着いて出たセイは『土手を越え、小川のほとりに下りる』陽介の後を追います。『どこへ行くとね』と訊いても教えてくれない夫を追うセイは、足元ばかり気にしていたことで『夫が見ているものに気がつ』きませんでした。そして、『わあ』と思わず声を上げるセイの前には『小川の向こうの林の中から川面にかけて、小さな光が幾つも浮遊してい』ました。『どがんね』と得意そうに言う陽介に『もう、こがん飛んどったとね』と返すセイ。そんな二人の前には蛍が『乱舞してい』ました。『どんぴしゃり、まっさかりやったね』と言う陽介に『いっそう呆然とした』セイは、『目の前の蛍の美しさにうたれ』ます。そして、『まっさかりの蛍を、私たちは毎年ちゃんと見てきたはずなのに、これほど美しい光景をはじめて見た気がする』と思うセイというこの場面。蛍を見ること自体が容易でなくなった現代において、小説中に蛍が登場すること自体なくなりつつあるように思います。私が読んできた小説の中にも、そんな描写をすぐに思い浮かべることはできません。そんな身には、清らかな水の存在があってこそ成り立つ、蛍が舞うという光景は読んでいてハッとするものがありました。そして、井上さんは、さらにこんな言葉を使ってその光景の素晴らしさを決定づけます。

    『私は、蛍が雪のように舞い落ちているほうへ歩いていった』。

    季節が真逆のまさかの雪に蛍を例えるこの絶妙な表現。そして、そんな中にスケッチブックを取り出して鉛筆を動かす陽介…と続くこの場面の美しさにはうっとりと魅せられるものがありました。

    また、ハッとするような描写は自然だけではありません。セイが意識する石和に対してこんな表現が登場します。『石和聡はジーンズをはき、白いシャツを着ていた』という十月のある日の描写。『石和はずいぶん日に灼けている』と彼のことを見るセイ。そんな理由を『白いシャツのせいだろう。そのシャツはしわくちゃで、新品にはとても見えなかったが、奇妙に真っ白だった』と、セイが見る光景をそんな白いシャツと秋の空を絶妙に組み合わせてこんな風に表現します。

    『初秋の濃い青色の空が、石和のかたちに切り取られていた』。

    石和を意識するセイの感情を見事に絵にしたこれまた絶妙な表現だと思いました。

    そんなこの作品は、東京から新任の音楽教師として島に赴任してきた石和聡のことを、主人公の麻生セイが強く意識の下に置いていく姿が全編に渡って描かれていきます。それは、作品に登場する『石和』という名前の数の多さが象徴しています。同じ言葉が繰り返し登場すると数えずにはいられなくなる さてさてとしては、”正”の字を書いてその登場回数を数えてみました。

    ・『石和』の登場回数: 365回

    この作品は文庫で240ページ程度の作品です。にも関わらずこの登場回数はもう異常とも言えます。『石和は音楽の専任教師だった』、『石和聡は料理がとても上手だった』、そして『石和は希望してこの島へ来た』といったように『石和』、『石和』、『石和』と繰り返し登場するその名前に、読んでいてセイの石和への意識の強さがいやがおうにも伝わってきます。麻生陽介という夫がいて、その夫に決して不満な感情を示すそぶりが全く見えない中に、ただただ盲目的に石和を意識し続けるセイ。しかし、そんな作品を読んでいてふと不思議なことに気付きました。それは、石和を意識するセイの感情とはどのようなものなのだろう?というものです。夫がいるのに他の男性のことを思うのは一般的には不倫とされる感覚です。もちろん、この作品の中でセイが石和の体に溺れるような描写がなされていくわけではありませんが、これだけ他の男性を意識するシーンが登場するとそこには、恋愛感情の存在がどうしても想像されます。しかし、この作品には肝心のセイの石和に対する想いというものが全くと言っていいほどに描写されないことに気づきます。これは非常に不思議な感覚です。この作品は全編に渡って主人公である石和セイ視点で展開します。ということは、そこにセイの内面が描写されて然るべきとも言えます。しかし、描写されるのはセイが石和を見る、石和と共にある、そんなある意味淡々とした描写のみです。こんなに意識する存在であればそこには”好き”だとか、”愛する”といった表現が登場してもいいはずですが、こういった表現は一切登場しません。また、これは夫の陽介にも言えます。『もちろん、夫は帰ってきた。それも、予定よりも一日早く』という展開には、妻の何らかの異変を感じ取る夫・陽介の心情が伺い知れます。もちろん、セイ視点なので陽介の内心が表現されることはないとはいえ、二人の会話にはセイの異変を訝しむ表現さえ登場しません。登場人物たちが相手をどう思っているかを表す表現がほとんど登場せずに情景描写だけで進んでいくのがこの作品の特徴と言えると思います。そんな作品を読んでいると、ふと自分自身が、セイの心がそのシーン、そのシーンでどのようなものであるかを類推していることに気付きます。そんな私の類推が正しいかどうかはわかりません。何故なら私はセイではありませんし、そもそも書かれていないことでもあります。逆に言えば書かれていないからこそ、そんな心情を類推する感情が生まれてくるとも言えます。そう、この作品は登場人物の感情を敢えて書かないことによって、そこには読者の数だけ物語が存在する、そんな非常に大きな可能性を秘めた物語なのだと思いました。

    『トンネルを掘っていくいちばん先を』指す『切羽』という言葉。『トンネルが繫がってしまえば、切羽はなくなってしまう』一方で『掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽』であるという事実。そんな『切羽』という言葉を書名に冠したこの作品では、穏やかな島の暮らしの中に現れた一人の男性を強く意識する一人の女性の姿が描かれていました。物語の背景に描かれる美しい島の自然と、ほのぼのとした小学校の日常が一年に渡って淡々と描かれるこの作品。読者の想像力に委ねるかのように、直接的な感情表現が抑えられた極めて落ち着きのあるこの作品。何か大きな出来事が起こるでもない平板な物語に、しっとりとした大人の小説とはこういう物語のことをいうのかもしれない、そんな風に感じた作品でした。

  • トンネルを掘っっていくいちばん先を切羽と言う。
    日本の離島、作中の方言から九州方面でしょうか。
    島出身の主人公のセイは、島内の小さな小学校で養護教員として生活している。夫は、幼児期島で暮らし本土へ渡った、画家。島の丘の上のセイの父親の残した診療所後で、豊かな自然と濃密な人間関係の中、穏やかな日常。そこへ新任教師の男性が本土から、転任してくる。偶然が二人を呼び寄せ、恋に落ちる様に出会ってしまう。セイは、夫を確実に愛していると同時にこの男性にどうしようもなく惹かれていく。彼からも確かにセイと気持ちを絡ませる刹那がある。
    切羽に向かおうとした二人の情愛は、踏み留まる。
    そんなこともあるだろうなあ、と思うけれど、謎めいた新任教師へ傾倒するほど、セイが渇望しているものが何かわかりにくい。

  • 第139回直木賞受賞作。
    離島の小学校の養護教諭の麻生セイ31歳がみた、1年間の島の様々な人間模様。

    セイは島の診療所の医者だった父の娘で、一度は東京に出たこともありますが、今は両親は亡くなって、画家である幼ななじみの三歳年上の夫の陽介と二人で暮らしています。
    島で一つきりの学校である小学校に勤めています。

    同僚の教師月江は、生まれも育ちも東京ですが、五年前から島にいます。月江は独身ですが、妻のある愛人が本土にいて、本土さんと呼ばれるその人は時々、島に月江に会いにやってきます。そのロマンスは島民、全部が知っています。

    小学校の生徒は9人で、教師は他に校長先生と教頭先生だけです。
    そこへ、新任の音楽教師、石和聡が赴任してきて、セイも心がざわついてきます。
    90才の島の老嬢、しずかさんにはセイの心の内を見透かされたようなことを言われて落ち着きません。

    小さな島の何事もない日常だけれど、石和が現れて少しずつ変化していく様子が描かれていきます。
    島ののんびりとした空気、小学校の生徒たちが石和のピアノに合わせて歌っている場面など情景が鮮やかに浮かんできました。

    しずかや、夫の陽介も存在感があり淡々とした一連の出来事もはっきりとその空気感がみえてくるようなしみじみとした作品でした。
    大きな事件もありませんが、平易な文章で情感がありました。

  • 再読 再登録
     何だか高級な大人の恋愛小説を読んだ気がします。読了済の方はどう思うのだろうか。
    「はっきり言ってくれないと理解に苦しみます」と感想を書いたら、所詮男のあなたには女心が分かってないのよ!と糾弾されそうな微妙なタッチで書いている。ん?いや、描かれていない。←(どっち?はっきりしない)

     小説の舞台は、本書には島としか書いていない。調べてみると、著者の父親井上光晴の故郷長崎県崎戸島だということがわかった。題名の「切羽」は、地名ではありません。この島は、次回に投稿を予定している同著者の「あちらにいる鬼」にも関係しています。炭鉱で栄えた島であったが、廃坑となって久しく山と海に囲まれた風光明媚な島だと思う。行ったことはないが、グーグルマップで書斎から現地へ飛んでみた(爆)

     その島の小高い丘の上に、かつて医院を開業していた父の家に住んでいるセイ(私・主人公)は唯一の小学校の養護教諭をしている。三十一歳。夫(陽介)は画家で元医院の診察室をアトリエにしている。

     物語は、人肌の温もりが感じられる夫婦らしい滑り出しで始まる。
    以下【一部抜粋】
     「明け方、夫に抱かれた。大きな手がパジャマの中にすべり込んできて、私の胸をそうっと包んだ。(中略)『どうしたとね?』終わったとき、微かな不安にかられながら、私は聞いた。夫『できあがった』私『ほんとう?』『うん、明日。一緒に見よう』夫はすでに眠りはじめていた。そのことがまた新しい幸福で私を満たした」

     セイは語り部として、島での生活の日々を丁寧に説明している。美しい自然に囲まれて、学校での出来事や子供たちのやりとり、島で手に入る食材の料理の話など…。
     夫は、セイを通して語っているが、饒舌ではない。そこに不満があるのか、無いのか、しかし、いざという時の行動派の印象を強く感じます。

     小学校に、東京から寡黙な青年で音楽の専任教師石和が赴任してきた。セイは気になりつつも、特に甘い言葉や行動があったわけではないのに、心を惹かれていく。肝心なところでセイは、語りを止めていることがこの作品の本質ではないかと思う。冒頭の通り著者は、何故描かなかったのか?「音」無くして声を聴き、「言葉」無くして心を読んで欲しい、と言っている作品ではないかと思う。

    切羽は、トンネルを掘っている先のことで、開通してしまえば切羽は無くなってしまう。
    何とも儚い作品だと感じた。
     読書は楽しい。

    2013年5月4日読了
    直木賞受賞作品です。この小説は、大人のための情愛小説です。じっくりと想いを馳せながら読まないと、この作品の良さが伝わらないと思います。つまり、作者の伝えたい事が、書かれていないのです。書かないで想わせる技巧は、匠で素晴らしいですね。あとがきの、解説に小説家の山田詠美も同じようなことが書いてます。

  • 最近、ミステリーのように筋立ての妙で読者をひっぱる物語よりも、文章それ自体の力によって、ゆっくりと歩ませてくれる種類の小説に強くひかれる。在るということ、それ自体が発する力を受けとめる緊張感をもった器のような、そんな小説だ。
    九州の小さな離島の、わずか一年間の物語である。眼に見えるような変化はほとんど起きない。ただ、ひとりの男がやってきて、いつのまにかいなくなっただけ。しかしその、何もないように見えて何でもある島の生活は、たとえば、セイの毎日を満たす食べものを通して、こんなふうに描きだされる。
    「こればっかりは島で採れるとが一番」と義父がいう、アオサのおつゆ。から揚げにしようか、さっと煮ようか、叩きもいい、と考えながら市場で買う、とてもきれいな小アジの一盛り。男の親指ほどのミミ竹を採って、その場で味噌をとかしてつくる茸汁。そこで採れる食べ物をていねいに食べる、その一年を通した描写があるからこそ、何かをあきらめたわけでもなく、強がりでも倦んでいるのでもない、「島の女」として、この男の妻として生きていくことを選んだセイの姿が、それでもなお、先の見えない「切羽」へと手を延ばそうとする心のひたむきさとともに、くっきりと像を結ぶのではないだろうか。
    傍目に何もないように見える日常を生きることは、けっして何かをあきらめることと同義ではない。その日の食事をていねいにつくり食べることは、たぶん、空気のなかにひそむささやかな季節の変化、エロスの信号を感じ取ることと通じるのだ。たとえば、夫がはじめて「ぞんざいさと親密さを織り交ぜて」「あんた」と自分のことを呼んだことに気がつくこと。

  • 結構よいかも。
    「誰よりも美しい妻」とテイストは同じようだったけどこちらの方が好み。
    人物も魅力的。

    それにしても山田詠美の解説、すごいな。圧巻。

  • 井上荒野さん初読。
    なんだか不思議な小説だった。大人の小説。自分にはまだ早かったらしく「?」という感じで終わってしまった。
    「トンネルを掘っていくいちばん先を切羽という。トンネルが繋がってしまえば切羽はなくなってしまうが、掘り続けている間はいつもいちばん先が切羽」

  • 閉鎖的な島で夫と暮らす「私」と、
    島へ移住してきた男との心の揺れを
    描く物語。

    設定はいかにもだけど、
    荒野さんの丁寧で緻密な文体と、
    生命力溢れる島言葉が美しい。
    そして何より、
    「切羽」という場所に惹かれて読んだ。

    タイトルを見て、切羽詰まる、の「せっぱ」かと思ったら違った。
    「トンネルを掘っていくいちばん先」のことで「きりは」と読む。
    「トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまう」
    「掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」。

    有って無いような場所。
    先へ先へと求め続けるけれど、
    いつかは無くなってしまう場所。
    それ以上先へは進めない場所。
    それとも、未来へ続く扉にもなる?

    その切羽まで、「どんどん歩いて行くとたい」と夫に言い放った主人公の母親。その覚悟。
    夫か、別の男か、どちらが切羽へ進む道なのだろう?

    139回直木賞受賞作。

  • わたしはいったいここ数年で何度、「あ、長崎の話だな」って理由で本を読んだだろう。

    この本もそう。パラパラめくったら長崎弁(らしきもの)が目に入ったので買った。しかしながらしょせんわたしは「よそ者」なので、長崎の話なのかそれとも同じ九州のどこかなのか判断が付かず。本の中で結局長崎とは出てこなかったけれど、空港で買った大村鮨という言葉に長崎だと確信を得て、言葉だけでは確信出来なくとも、地域の食べ物では確信出来るくらいなのだな、と思ったり。

    いつまでわたしの頭の中で長崎弁がすんなり音になってくれるだろう。一度もわたしの口から出る事はなかった言葉。頭の中のひとりごと止まりだった。けれど意味や発音はしっかりわかるようになった言葉。それを忘れたくなくて、まだ忘れていないと思いたくて、こういう本を選んでしまうのかもしれない。

    「本土さん」のようにわたしはずっと「東京の人」だった。「よそ者」でい続けるつもりなんかなかったのに。いまはわたしも石和のように誰にも思い出される事はないのだろう。関わった決して多くはなく、大概は付き合いが濃くもない人たち。通った学校のクラスメイト。何個か働いたパート先の先輩後輩。美容院やまつ毛サロンやジムの店員さん。彼の友人や、バーのお客さん。彼のご家族や親戚。
    わたしの事を「よそ者」と思っていなかった人だけは、もしいるとしたら、思い出してくれる事があるのかもしれない。いるのかはわからないけれど。石和に対してのセイや、陽介、月江のように。

  • これの前に小学生が主人公の本を読んでいたらから、いきなりの大人な内容だな(笑)。
    島の狭い人間関係と切なさがうまく混じりあっていてなんとも言えない雰囲気がある。
    現在、田舎暮らし。
    そういや、田舎暮らしも島ぐらしに近いものがあるように思う。昔から住んでる人とよそ者は区別しているし、周囲で起こったことはあっという間に広まるし。
    近所は皆家族ってな感じ!?
    隠し事なんてできそうもないもん。
    そんな狭い世界で、島外から人がやってくるとか日常と違うことがあったら心がざわざわしそう。
    石和の独特の雰囲気が余計にこちらの心も揺さぶってくるし……。
    よくわからないって気になるものね〜。

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著者プロフィール

井上荒野
一九六一年東京生まれ。成蹊大学文学部卒。八九年「わたしのヌレエフ」で第一回フェミナ賞受賞。二〇〇四年『潤一』で第一一回島清恋愛文学賞、〇八年『切羽へ』で第一三九回直木賞、一一年『そこへ行くな』で第六回中央公論文芸賞、一六年『赤へ』で第二九回柴田錬三郎賞を受賞。その他の著書に『もう切るわ』『誰よりも美しい妻』『キャベツ炒めに捧ぐ』『結婚』『それを愛とまちがえるから』『悪い恋人』『ママがやった』『あちらにいる鬼』『よその島』など多数。

「2023年 『よその島』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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