- Amazon.co.jp ・本 (170ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101304519
作品紹介・あらすじ
宝くじに当った河野は会社を辞めて、碧い海が美しい敦賀に引越した。何もしないひっそりした生活。そこへ居候を志願する、役立たずの神様・ファンタジーが訪れて、奇妙な同居が始まる。孤独の殻にこもる河野には、二人の女性が想いを寄せていた。かりんはセックスレスの関係を受け容れ、元同僚の片桐は片想いを続けている。芥川賞作家が絶妙な語り口で描く、哀しく美しい孤独の三重奏。
感想・レビュー・書評
-
作者が描く風景とメッセージが胸に流れ込んできて、いい読み心地でした。絲山秋子さんの物語はどっしり背中を預けて読めます。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読めば読むほど好きになる一冊。
最初は一体どのようなジャンルなのか、物語との距離感が掴めずにいた。が、掴めた瞬間、間違いなくこの世界にすっぽり包み込まれていた。
ファンタジーも孤独も哀しみも、誰との関係も…寄せては返す波のよう。
絶妙なタイミングでサッと心に押し寄せて柔らかく触れ、心を波打たせ、サッと引いていくような感覚を味わった。
ファンタジーとは一体、何ものなのか、ファンタジーとは誰の心にも存在するものなのか…読めば読むほど味わい深く、好きになる。
そしてなんとなく枕元に置きたくなる作品。 -
素晴らしい作品‼
恋がしたくなります。
ファンタジーよ君は俺のすぐ側にも
いるのかい? -
日常を生きるなかで、こういう読み物が連れて行ってくれる世界がどれだけ潤いになっているか。
あらためて感じさせられた。
自分が読んだ本を人に薦める人がいる。今までは自分はあぁはならないぞと思っていたけど、汲々とした時を過ごしている人には何よりも、こういう世界に連れて行きたくなる。 だから、今は人に本を薦めるお節介も許せてしまう気分だ。
読み終えて、「宝くじを買わなくちゃ」と思った人もきっといる。わたしもだけど。
河野の生き方が、生きる世界が現実の煩わしさから遠いところにあるだけでなく、彼が抱えた人生の苦難に静かに向かう姿勢、滲み出る佇まいに共感を覚え、愛してしまった人たちが、彼の世界を創っていることもわかってくる。
ここには心地よくて、頼りにならない神の寄り添う『ファンタジー』の世界がある。 -
宝くじを当てて敦賀の海辺に移り住んだ河野。自身のことを役立たずの神様と呼ぶファンタジー。岐阜から遊びに来たかりん。河野の元同僚の片桐。どれも魅力的なキャラクターで、それぞれの道をのびのびと歩んでいるの感じがとてもよかった。
あらすじだけ読んだときは変な名前の神様が出てくるし、それこそファンタジー小説なのかな?なんて思っていたけれど、決してそんなことはなかった。魅力的なキャラクターが登場するけれど、べたべた依存するような関係はなく、それぞれがそれぞれの孤独を抱えて、それを認めながら生きていた。この小説は人間の孤独さを描いていて、けれど孤独が悲しいこととして描かれていないことがいい。 -
敦賀半島でヤドカリと暮らす河野(男)とその元同僚の片桐(女)、白いローブを纏った落ちこぼれ神様「ファンタジー」(神様)の日本海ロードムービー。カーオーディオからは神様お気に入りのカーティス メイフィールド。河野の鼻歌は「恋はあせらず」。宝くじ三億円が当たったり、近親相姦トラウマで不能だったり、恋人がガンで死んだり、雷に打たれて失明したり。波乱万丈。なのに淡々とした語り口。ラスト、盲目の河野が浜辺でチェロを弾く。パット メセニーの「レター フロム ホーム」。凪いだ海のように静かな小説でした。
-
切なさが残る。
読み終わってすぐはあっさりとした感覚だった。でも、この本のことを考えると少しずつ心の奥底に切なさが降り積もっていき、今はずっしりとした気持ちになった。
会ったこともないはずのファンタジーに想いを馳せる。彼は一体誰なのだろう。とても不思議な存在で、そこにいなくても誰も困らないし、いつかきっと忘れてしまう人。それなのに会うと嬉しくて心が温まる人。まるで人の希望が具現化したような人だな。
不器用でも、傷を抱えていても、孤独でも、人は生きていかなくてはいけない。私たちはみんな、孤独とともに生きるのだ。静かな夜にじっくりと読みたい一冊。 -
仙人とは「世の中を避けて生きている人」ならば、この世の多くはファンタジーだ。ブルートパーズは11月の海の色。生きとし生ける者、私達は海から生まれた。一粒の真珠が輝くようにそっと花開いた。だけれど知っている。私達には温もりがあり、愛があったことを。私は真珠でも仙人でもない。未来を憎み、それでも愛していると産声をあげた、泣き止まなかった、私には感情が与えられた。醜い過去は潰すしかない。一人じゃないと触れた闇から寝息が聴こえてきた時、最期は独りなのだと無色な海を想いました。傷だらけの自分を抱きしめた。胸がある、目が見える、命がある。神様、私は人間なのだ、と笑っている。
-
敦賀の海はどんな海なのだろう。
私の中にあった閑静な港町のテンプレートのようなイメージが、最初のページ、主人公が「オレンジ色のダットサン・ピックアップ」で早朝の浜に乗り入れるところから一気に“敦賀”としての確かな形を見せ始める。なんて気持ちのいい物語のはじまり。聴こえてくるのはピックアップが砂を散らし走る音、風が吹き抜けて朝日にきらめく凪いだ海の静かな波の音。車のオレンジと海の青が鮮やかに目に浮かぶ。「海の仙人」はまるで海のような小説だった。
登場人物たちはそれぞれがつかず離れずの距離で集まっては移動し、また離れてゆく。孤独をわきまえ、孤独に向き合い、そして傍にいてくれるのは海と、あとは“ファンタジー”くらいのもの。そんな彼らの“個”と“個”の間に敦賀の海が横たわる。作中、ファンタジーに対して河野が感じる“不安”は、きっと海をずっと眺めていると心に浮かんでくるどこか不安定な感情と同じものだ。
孤独はそもそもが「心の輪郭」であり「最低限の荷物」だと作中では語られる。人生という「旅」の、「最低限の荷物」だ。旅に出て分かるのは、自分自身は常に自分自身にしかなり得ないということ。河野は、過去を清算し自分自身何か変わろうと思って片桐の車に乗った。しかし結局は何も変わらなかった。旅で自分が変わるなんてことは旅に出る前だけの幻想だ。自分はどこまでいってもただ1人ということを学ぶのだ。“個”を固くする作業である。
きっと海と向かい合ったときにも同じような心象を心に抱く。
わたしと、外。
わたしと、あなた。
わたしと、世界。
最後、盲目となった主人公は完全に自分自身の内側へと眼を向けられるようになったのかもしれない。ある意味究極の“個”を最終的に完成させることができたのだ。そこで河野の“個”に唐突に侵入してくる片桐は派手で潔く、しなやかで美しい。真っ赤なアルファロメオが無彩色の景色の中で鮮烈なインパクトを残していった。