- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101313351
作品紹介・あらすじ
心を病んだ恋人との生活に耐えきれず、ストロングゼロに頼る女。年下彼氏の若さに当てられ、整形へ走る女。夫からの逃げ道だった、不倫相手に振り回される女。推しのライブ中止で心折れ、彼氏を心中に誘う女。恋人と会えない孤独な日々で、性欲や激辛欲が荒ぶる女――。絶望に溺れて摑んだものが間違っていたとしても、それは、今を生き抜くための希望だった。女性たちの疾走を描く鮮烈な五編。
感想・レビュー・書評
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あなたは、『ソーシャル ディスタンス』を意識していますか?
『コロナ禍』初期、首相官邸・厚生労働省が掲げた”密閉・密集・密接”を避けることを謳う”三密”という言葉。そんな言葉を誰もが口にするようになる中で、私たちは人と人との間の距離感を意識するようになりました。対面で会話することさえ憚られる日々の中に、私たちは自然と人から離れることを意識するようにもなっていきました。
そして、新たに登場した『ソーシャル ディスタンス』という言葉。そんなカタカナ言葉の登場とともに、人と人とは一定の距離を置くことが当たり前のような雰囲気感がさらに高まってもいきました。私たち人間の関係性はどのようになっていくのだろう、こんな世の中がこの先ずっと永続してしまうのだろうか?鬱屈とした日々の中にあった『コロナ禍』の私たち。
さてここに、そんな『コロナ禍』真っ只中に刊行された作品があります。五つの短編から構成されたその作品の中で一人の主人公はこんなことを思います。
『蓮二と最高のセックスをするために生きていた私は、いつの間にか「マスクして!」「手を洗って!」と迫る人になってしまったのだ』。
この作品は「ソーシャル ディスタンス」が叫ばれた時代に人と人との繋がりを見る物語。距離を置くことが大切とされた時代にそんな距離感を意識する物語。そしてそれは、「アンソーシャル ディスタンス」という書名が問いかける人が人を求める想いに光を当てる物語です。
『ミナちゃんは今の彼氏と結婚するの?』、『イケメンバンドマンとの結婚なんて憧れるなー』と同僚の吉崎に言われ『彼安定した職についてないし、まだ分かんないです』、『今はただのフリーター。それにそんなイケメンじゃないよ』と答えるのは主人公の桝本美奈。『確かに彼はイケメンだ。私の彼氏はイケメン』と心の中では思う美奈は『先に社食を出ると、歩いて三分のコンビニに入りストロングのレモンを二本手に取り』ます。そんな時『スマホが震え』、『六本木の熟成肉の店行かない?』と誘う裕翔(ゆうと)の名前をトーク画面に見る美奈を『憂鬱が襲』います。『元々彼女とはうまくいってなかった』、『二股してたのは事実だし』、『彼氏と別れろとかそういうことは言わないから、辛い時とか寂しい時に使われるガス抜きでいいから…』と『裕翔が彼女と別れたと告白した時』の話に『体のいいセフレ』と公言されたと感じた美奈は、『二本目のストロングに指をかけ』、その後会社に戻ります。
場面は変わり、家に帰り『薄暗い部屋の中ベッドに潜ったままの行成(ゆきなり)と目が合った』美奈は、『忙しいの?』、『言ったでしょ。今週校了』と短い会話を交わします。『付き合い始めて二年は天にも昇るような気持ちで毎日を過ごしていた』二人でしたが、そんな日常が一年前に『狂い始め』ます。『新しく配属された女性編集長に気に入られ』た行成でしたが、『彼女いるんで』と話したことから嫌がらせを受け始めます。バイト先を解雇され、その後、『明らかな鬱状態に突入し』た行成は、『ベッドにいる時間が日増しに長くな』ります。『眠れる薬が欲しいと言う彼のために』、メンタルクリニックに赴き、『彼の症状をそっくりそのまま虚偽申告し、抗鬱剤と睡眠導入剤をもらってきた』美奈。そんな美奈はその頃から『酒量が増え始め』ます。『アル中という言葉が常に頭のどこかに存在しているのを感じながら、見て見ぬ振りをし続け』る美奈。『朝起きてまずストロングを飲み干』し、『化粧をしながら二本目のストロングを嗜』み、昼食中『あるいは戻る前にビールかストロングを飲』み…『帰宅後一分以内にストロングを開け意識が混濁するまで飲んでからベッドに入るかソファでそのまま寝付く』。朝起きてから寝るまでアルコールに溺れていく美奈は、『私がシラフでいる時間はほとんどなく、睡眠時間以外でお酒を飲んでいないのは会社にいる時間と移動時間だけと言っても過言ではなかった』という日々を送ります。『もうずっと、自分のことを把握できていない』という思いの中にいる美奈は『行成を捨てたい訳ではない、行成と別れて裕翔と付き合いたい訳ではない、二股を継続したい訳でもない、どうしてもお酒が飲みたい訳ではない』と『全て否定形』の考えに陥ってもいきます。しかし、『お酒が抜ければ、一度ゆっくりスマホもストロングもないところで自分と向き合って考えれば、自分の望み、今後の展望は見えてくるはず』と思うものの、『そんな機会は今の生活の中では完全に失われてい』るとも思います。『私がシラフでいる時間はほとんどな』いという、アルコールに溺れきった美奈の苦悩の日々が描かれていきます…という最初の短編〈ストロングゼロ〉。アルコール飲料そのまんまのタイトルがあまりな絶妙な好編でした。
“私は、もう、だめだ”、”絶望の果てに暴走する女性たちを描く鮮烈な短編集”という言葉が”不倫”、”整形”、”ストロングゼロ”といった単語と共にピンク色の本の帯に踊るこの作品。どこか暗い雰囲気が漂う表紙と絶妙な対比を見せてくれます。五つの独立した短編から構成されたこの作品は、「アンソーシャル ディスタンス」というどこかで嫌というほど聞いた言葉に似た書名がつけられています。そうです。新型コロナウイルス感染症の拡大防止対策としてすっかり耳慣れた言葉『ソーシャル ディスタンス』。そう、この作品の単行本が刊行されたのは2021年5月26日です。今から振り返れば、まだまだコロナ対応に大きく振り回される日々を私たちが送っていた時期に執筆されたことがわかります。そのため、五つの短編の後半二つの短編には、『コロナ禍』どっぷりな物語が描かれていきます。しかし、一方でこの作品はそんな言葉の先頭に『アン』という否定の表現が置かれています。これは何を意味するのでしょうか?この点もとても気になります。
では、まずは後半二編に記される『コロナ禍』の表現を見てみましょう。この作品では『コロナ禍』に対する金原さんの考え方を垣間見る表現が多々登場します。まずは、なんと『コロナ』を『世間』に比喩する表現です。
『コロナは世間に似ている。人の気持ちなんてお構いなしで、自分の目的のために強大な力で他を圧倒する。免疫や抗体を持った者だけ生存を許し、それを身に付けられない人を厳しく排除していく』。
『コロナ』を語る表現多々あれど、『世間に似ている』というような視点から比喩した表現は聞いたことがありません。非常に興味深い視点であり、『コロナ』というものが当時の世相にあってどのように位置付けられていたかがよく分かります。もう一つ『コロナ』を比喩した表現を見てみましょう。
『何があっても死ぬことなんか考えないようなガサツで図太いコロナみたいな奴になって、ワクチンで絶滅させられたい。人々に恨まれて人類の知恵と努力によって淘汰されたい』。
これは凄いです。自分たちの人としての弱さを嘆く主人公の沙南と幸希。そんな思いをまさかの『コロナ』になりたいと考える先にその強さに憧れていくという場面です。最後は『コロナ禍』で散々に言われた『同調圧力』についての表現です。
『自分たちが感染源となり何の罪もない人たちを殺してしまう結果になることも怖かった。なんていう偽善を盾にして、私は万力の如き同調圧力で、自分と同じだけのことができない人たちを押しつぶし、殺してやりたいと思っていたのだ』。
これも表現としてかなり過激です。『コロナ』が厄介な病だと思ったのは”無症状者”が存在するからだったと感じます。従来、病気とは何らかの症状があってのものという考え方は基本でした。しかし、『コロナ』は症状が出ていなくても”無症状者”として、人に感染させる危険があるという考え方が登場しました。結果的にこのことが、”人に迷惑をかけてはいけない”ことを何よりも重視するこの国において、ある種”ツボにはまった”状況が生まれたのだと思います。『万力の如き同調圧力』…物凄い表現ではありますが、この主人公の叫びのような心持ち、改めてなんと恐ろしい時代だったのだろうと思います。
『コロナ禍』が過去のものとなった今から見ると只の狂人としか思えない描写が連続するこの作品ですが、あの時代この雰囲気感は決して他人事ではありませんでした。スーパーの買い物かごを持つことに抵抗感を感じたり、マスクのちょっとしたズレにヤキモキし、それが諍いの元となるなど社会全体がどうかしていたと思います。私はこの作品を『コロナ禍』が過去となった時代に読んでいますが、『コロナ禍』リアルの時代に読んだ方とは恐らく見方、感じ方が違っているとも思います。ブクログのレビューには、コロナリアルだった時代に書かれたレビューが多数並んでいますが、今読ませていただくと、その感覚の違いがよくわかります。なかなかに興味深い視点を見せてくれる作品だと思うと共に、『コロナ禍』描写の作品を多々刊行されていらっしゃる金原さんにとって『コロナ禍』は、創作意欲を掻き立てる起点でもあったのかもしれない、そう思いました。
では次に五つの短編の中から三つの短編をご紹介しましょう。
・〈デバッガー〉: 『今日大山くんと飲むって?』、『大山くんて愛菜にとって男なの?』と同僚の優花に訊かれ『まあ、男の子じゃない?』と返すのは森川愛菜。11歳年下の24歳という大山とは、会社の取引先のおっさんの『単細胞ハラスメント』発言から愛菜が庇ってもらったことをきっかけに一緒に出かけたりするようになります。そんな中で、次第に『意識し出すと小じわや毛穴なんかが激しく気にな』りだす愛菜。そんな愛菜はやがて『皺を目立たなくさせるための美容外科施術』を『取り憑かれたように』検索しだします。『至近距離からの直視に耐えうる顔を手に入れなければ…』と『美容整形』に思いが囚われていく美奈は…。
・〈アンソーシャル ディスタンス〉: 『もう妊婦じゃないのか』と『悲しげに笑う』彼を見るのは小嶺沙南。『私と幸希の赤ちゃんが搔爬され吸引器によって吸い取られ、死んだ』と思う沙南。場面は変わり、『おかえり、ちゃんと手洗った?』、『完全に除菌するには一分は必要よ』と母親に言われる沙南は逃れるように『二階の部屋に上がってい』きます。そして、『ベッドに横たわりスマホを見』る沙南は、内定をもらっている『HILDEからメールが届いてい』るのに気づきます。『不要な外出を控えるよう注意喚起を促す』内容を見て迫り来るコロナウイルスのことを思う沙南。そんな沙南が幸希の『旅行行こう!』という誘いの先に旅に出る様子が描かれていきます。
・〈テクノブレイク〉: 『犯罪起きそうじゃね?』、『恋人同士で使ったら絶対浮気できなくない?』と『位置情報共有アプリ』の『ゼンリー』のことで盛り上がる面々。流れの中で『インストールした』のは芽衣。そんな芽衣は『映画や本の趣味も、激辛料理好きというところも一致してい』る蓮二と付き合っています。『全ての嫌なことのご褒美に蓮二とのセックスを設定していた』と二人の『セックス』にのめりこんでいく芽衣は、蓮二にも『ゼンリー』をすすめます。そんな中にまさかのコロナ禍が訪れます。『マスクを何箱も買い溜め狂気じみた怖がり方をするようになっていった』芽衣に対して、『戸惑いと呆れを隠さな』い蓮二のそれからが描かれていきます。
五つの短編のうち、レビュー冒頭で作品冒頭をご紹介した〈ストロングゼロ〉を含めいずれの作品も二十代から三十代の女性が主人公となり、そんな彼女たち女性視点で物語は描かれていきます。それぞれの短編は、内容紹介にある通り”絶望の果てに暴走する女性たち”という点が共通しています。いずれも金原さんの作品らしい狂気と背中合わせの内面感情を迸らせる女性が主人公として設定されているのが特徴です。一編目〈ストロングゼロ〉の主人公・美奈は、『鬱』に苦しむ同棲相手の行成の面倒を見る中に『アルコール』に溺れていきます。『まるでアルコールを求めて徘徊するゾンビみたい』とある意味冷静に自分のことを思いもする美奈ですが、
『私がシラフでいる時間はほとんどなく、睡眠時間以外でお酒を飲んでいないのは会社にいる時間と移動時間だけと言っても過言ではな』い
まさに『アル中』な日々を送ります。この作品に見られる美奈の『アルコール』への依存を示す描写のリアルさには『アルコール』の恐ろしさが強いインパクトをもって伝わってきます。また、強いインパクトという意味では二編目〈デバッガー〉の主人公・森川愛菜がのめり込んでいく世界も負けてはいません。
『ここ数年の画像に残る私は明らかに二十代の頃と違う輪郭をしている。体重は変わっていないのに顔が変わるということは、やはり加齢でしかないはずだ』
そんな思いの先に14歳年下の大山と付き合う日々を送る愛菜は『美容整形』にのめり込んでいきます。
『こうして人は美容整形に溺れていくのか』。
そんな思いの先に後戻り出来なくなっていく愛菜を描く物語は『美容整形』の世界のリアルをこれでもか!と読者に晒していきます。そして、この作品の大きな特徴は後半の二編に突如『コロナ禍』の描写が現れることです。二編とも『コロナ禍』初期の世の中を描いていますが、最後の短編〈テクノブレイク〉に描かれる主人公・芽衣はそんな『コロナ禍』を象徴したような存在です。『映画や本の趣味も、激辛料理好きというところも一致』という蓮二を恋人とし、セックス漬けといって良い日々を過ごしていた主人公の芽以ですが、二人の関係は『コロナ禍』によって大きな変化を迎えます。
『蓮二と最高のセックスをするために生きていた私は、いつの間にか「マスクして!」「手を洗って!」と迫る人になってしまったのだ』。
『コロナ禍』は、人による感じ方の違い、もしくは、人の性格の違いが顕著に現れた時代だったと思います。『コロナ危険厨』という言葉で呼ばれる人々の登場。しかし、それを見て『未知のものを怖がる人を笑うのは良くない』と言う芽に対して『でもあれは滑稽だよ』と苦笑する蓮二。『コロナ禍』はそれまで深い繋がり合いの中にあった人たちを分断する起点を作っていくものでもありました。
“コロナは未知のものだったので、特に人間の弱いところや嫌なところが剥き出しになった瞬間だったと思います”
作者の金原さんは『コロナ禍』初期の状況をこんな風に語られます。未知のものに触れる時の人の反応とそこに生まれる感情はまさしくその通りだと思います。金原さんはそんな『コロナ禍』の中にこの作品を執筆することにした経緯をこんな風に語られます。
“コロナに対する反応は人それぞれでものすごく差があることに驚きと興味を抱いていました…人間ってここまで両極端でいろいろな反応があるんだという発見がありました。それは小説が今、言わなきゃいけないことだと思いました”
とても強い説得力を感じる金原さんの言葉。『コロナ禍』には”巣篭もり需要”という言葉も生まれ、それまで読書に関心のなかった方の中にも読書を始めたという方はたくさんいらっしゃると思います。その代表格がかく言う私・さてさてだと思います。生まれてこの方、本というものを真面目に読んだことのなかった私ですが、『コロナ禍』直前の2019年12月に、ふと始めた読書&レビューの日々がここまで続いたのは間違いなく『コロナ禍』あってのことです。そんな日々の中には、『コロナ禍』に刊行されているにも関わらずそんなものがまるでないかの如く書かれた作品も目にしてきました。このあたりは作家さんのお考えの違いもあり何が正解とも言い切れないものがあります。そんな中でこの作品を皮切りに『コロナ禍』を舞台にした作品を多々発表されていかれた金原さん。そんな金原さんは『ソーシャル ディスタンス』という人と人との距離が叫ばれた時代にあって、敢えて「アンソーシャル ディスタンス」という言葉を書名に掲げてこの作品を刊行されました。そんな作品の中で”絶望に溺れ、必死にもがく”女性たちの姿が赤裸々に描かれていくこの作品。そこには、『コロナ禍』であっても失われることのない、失われてはいけない、人と人との繋がりの大切さを見る物語が描かれていたのだと思います。
『コロナに関する意見の食い違いは、その芽衣の自己中心的な資質を浮き彫りにした』。
2020年に突如世界を襲った『コロナ禍』。この作品では、人と人との距離をとることが求められる時代にあって、敢えて人との距離間の大切さを見る五つの物語が描かれていました。『コロナ禍』に対する金原さんの思いを具に見るこの作品。”絶望の果てに暴走”した五人の女性の深い苦悩のリアルな描写に驚くこの作品。
読者の心に突き刺さってくるような筆致の中に、金原さんの魅力を改めて感じる素晴らしい作品でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
その時の行動はその時の正義。
そう思って読まないとダークさに飲み込まれる。
女のというより人間の嫌な部分が見れたという感じ
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5編の女性の依存症の物語を描いた短編集。
ストロングゼロ、不倫、整形、自殺願望・・・
15年ぐらいの自分が凝縮されているみたいで、読んでいて辛くなる。
自暴自棄になってしまう時期は、誰でもあると思う。
その程度が違うぐらいで・・・
ストロングゼロを記録をなくす為に飲み続けたこともあるし、もちろんその時は仕事もまともに出来なかった。
不倫に抵抗がない時期もあった。誰も傷つけなかったら、不倫なんて・・・って思ったこともあった。
もちろん自殺願望も・・・
美容整形だけは手を出さなかったけど、他の主人公の気持ちはちょっとだけ理解出来る。
人間誰しも器用に生きられる訳ではない。
不器用な人間がいることを、この作品を読んで知ってもらうことが出来たらいいと思う。
最後に一言。
ストロングゼロだけは、深みにはまってはいけない。 -
金原ひとみさんの小説を初めて読んでみた。
朝井リョウさんの言うとおり、とてもキマッた!!
ストロングゼロ、不倫、美容整形、セックス、希死念慮等々、あらゆるものに溺れていく女性が主人公である短編が5つ入っていた。
みんな溺れていくことで生活にとんでもない支障をきたしているのに、そこから抜け出せないし、抜け出せない状態自体をどこか心地よく感じている部分もあり、こちらとしても読みながら脳が痺れる感覚がありました。
完全に共感できるわけではないですが、なんとなく分からなくもない、といったところです。
男の自分でもとても痺れましたが、女性にならもっと響いているかもしれないです。
一番好きだったのは、「アンソーシャルディスタンス」でした。 -
解説で浅井リョウ氏が、金原ひとみの魅力はその文体にあると書いていて「脳内を疾走する言葉を速度をそのままに完全再現したようなドライヴ感」だとその文体の魅力を伝えている。脳内で処理する言葉のスピードに呼応できているからこそ、作品はどんなにぶっ飛んだ設定だろうとリアリティを失わない。浅井氏が読後、「ありがとう金原ひとみ」と高揚して賛辞を述べていたが自分もそれに強く共感した。
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コロナ禍における非日常にある日常。生きづらい閉塞感を抱えた登場人物たちが描かれる。氏のお得意の作風と個人的に出てくる人達がビッチであるのは、見ていて痛々しくもあり、清々しくも写った。とりわけ第一話のストロングゼロは気持ち良いくらいにストロングゼロを摂取して、プルタブを開ける音、飲み干した空き缶の音が溜まっていき、共鳴し合う様まで聴こえてくる。あいも変わらず罵詈雑言、ビッチ100%の吐露に心地よい共感を感じ、ディストピアに生きる純粋な愛の物語を味わった。5つの話どれも好きだ。
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5つの短編。出てくる登場人物も話も違うのに、男も女もみんなが生きることにも性的にも澱んでいて疲れた。『ストロングゼロ』はもう、職場で飲むくらいアルコールに支配されている主人公が見ていられなかった。
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コロナ禍の不安を思い出した。独特な本だなぁ。
ものの捉え方とか人と違うんだろうな、金原さん。他の本も読んでみたいな。オススメ教えて下さい。 -
最近、金原ひとみさんの本は、どれも当たりな気がする。
「Strong Zero」
イケメンの彼氏が鬱になったことで、主人公自身の生活に閉塞感が漂っていく。
そんな行き詰まった状況を打開するかのように、いや、一層酩酊を求めるかのようにお酒を飲んでは、記憶が抜け落ちていく。
そこまでしてボロボロになって、でも彼氏の親に託さざるを得なくなる結末。
ケアする側が、ケアされる側に陥ってしまう現実。
「Debugger」では若い男の子に翻弄される年上彼女、「Conscientia」では旦那の無関心を、他者からの愛によって埋めていく妻の話が描かれる。
誰かがいるから、完璧ではない自分を見つめなければならない。
誰かがいるから、足りなさが生まれて、埋めなければならない。
それでも、関わりたい。
「Unsocial distance」良いタイトルだなと思う。 -
そうそうそうそう、これこれ。
こういう極端でじわじわと悪い方向へどんどんどんどん進んで出口が見えなくなって救いようのないような作品、大好きなんだな。中庸とか、平衡とか、バランスとか、効率とか、要領良くとか、出来ればそうありたいところではあるけれど、私が本当に本当に大好きなのは、極端であること。
本当に人に勧められないような、自分で何でこれがいいんだろうと思っていてもどうしてもたまらなく欲してしまうのは、こういう作品なんだよな。
どうしてそんなに悪い方向にしか考えられないの?どうしてそんなに依存してしまうの?どうしてそんなに過剰なの?よくないよくないよくないよくないよ……悪循環だよ、とハラハラしながら読み進める。こういった作品がたまらなく好きな自分は一体何だ?
でもいいもん。少なくとも一人、朝井リョウはこんなズブズブのいけすかない作品を評価している一人だし、言いたいことはほとんど朝井リョウが解説で言語化してくれてるんだから、いいもん。