わたしが出会った殺人者たち (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (426ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101315027

作品紹介・あらすじ

犯罪事件を取材して半世紀。幾多の殺人の真相を書き続けてきた作家が、古希を越えた今、これまでの取材を振り返り、殺人者との交流を回顧する。拘置監で大粒の涙を見せた無期懲役囚、「自分を小説に書いてくれ」と資料を寄越した家族殺害犯、著者が喪主を務めた前科十犯の男――。昭和・平成を震撼させた凶悪犯18人の知られざる肉声や人間臭い横顔を描く、著者の集大成的な犯罪回顧録。

感想・レビュー・書評

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  • 星3.5
    久しぶりの佐木隆三さん。
    殺人百科もそうだけど 1人の犯人についての分量が少ないので さらっと読めるけど 物足りない部分もあり。
    むかし 死刑囚ものをたくさん読んでたときに 手記を読んだ死刑囚もいて その時は知らなかった前科前歴を今回初めて知って 今更ながら 自分の甘さに気がついたっていうか。
    最近の事件はちょっと変わってきてるけど その当時は 確かに罪は重いけど そこに追い込まれた犯人の事情も重いものがあったり そこで一線越えてしまう犯人とわたし自身って そこまで大きく違わないんじゃないかとか 警察の捜査の仕方もどうなの?とか いろいろ考えて。でもやっぱり手記って 客観的じゃない部分とか 自分に都合悪いことはかかないとか そのまま鵜呑みにしちゃダメなんだなって思った。ある意味ショーゲキだった。
    勉強になりました。

  • 18名の殺人者たちを取り上げ、その取材方法からインタビュー内容、佐木さんが感じ取ったそれぞれの事件に対する思い。
    それらが1冊にまとめられた本。
    「復讐するは我にあり」が初めての犯罪小説だと思っていたけれど、佐木さんはそれ以前に「偉大なる祖国アメリカ」という本を書いていた。
    沖縄で起きた少女殺害事件を扱った小説らしい。
    多分にフィクションも入っているようだけれど、根幹を成す部分は取材に基づいているようだ。
    残念ながら取りあげられた事件の多くをリアルタイムでは知らない。
    けれど、犯人の多くが「自分は理不尽な扱いを受けている」と感じているところが興味深かった。
    世の中には思うようにならないことが多い。
    というよりも、ほとんどが自分の思惑とは違う方向へと流れていってしまうのがあたり前だ。
    何をきっかけに人を殺してしまうような犯罪に手を染めてしまったのか?
    元々そういう本性を持ち合せていたのか、それとも後天的な環境がそうさせたのか。
    読み終えて感じたのは、やっぱり理解できない・・・だった。
    獄中婚をする死刑囚もあり、誰かを大切に思うことで人間らしさを取り戻していくこともあるらしい。
    でも、それでは遅すぎる。
    奪った命は二度と戻らないのだから。

    永山則夫を取り上げた章が特に興味をひいた。
    高裁で無期懲役の判決を受けた永山に対し、検察側は「判例違反」として上告をする。
    論点は次の3点だった。
    ・4人も殺した被告人が死刑を科せられなかった前例がない。
    ・「いかなる裁判所がその衝にあっても死刑を選択するであろう程度の情状がある場合に、限定されるべき」との見解は以後の死刑判決のできなくする。
    ・世論や被害感情からみて無期懲役は納得できない。
    高裁では
    ・永山の年齢が19歳を越えたばかりだったことと、精神的な成熟度において18歳未満の少年と同視しうる状況だったと認めらられる点。
    ・収監中の永山に大きな変化があらわれたこと(反省と贖罪の気持ちが著しい)。
    ・印税を被害者の遺族におくり、慰籍の気持ちをあらわしている。
    を理由に、被害者の冥福を祈らせつつ、生涯を贖罪に捧げしめるのが相当という意見だった。
    だが永山は結局死刑となる。
    そして現在、「永山基準」というあらたな基準が前例として使われることが多い。
    判例主義の裁判において、永山の起こした事件がひとつの指針になっている。
    人として最低限の環境を与えられるのは憲法で定められた国民の権利だ。
    けれど、永山にはその最低限の環境すら与えられなかった。
    時代が違う・・・と言ってしまえばそれまでなのだけれど。
    それぞれの事件がどれも凄惨で極刑もやむを得ない、と思うものだった。
    時間をかけて取材をし、ノンフィクション・ノベルという分野を作り上げた佐木さんには敬意を表したい。

    「殺人者と他の人間との違いは程度の差であって、種類が異なるのではない」(コリン・ウィルソン)
    佐木さんはトルーマン・カポーティの「冷血」に強い刺激を受けたと書いている。
    上記の言葉は、イギリスの評論家コリン・ウィルソンの「殺人百科」に書かれている一文である。
    道を踏み外すかどうかは、結局その人自身にかかっているのだろう。

  • これまで記してきた著作の回顧録。いっぱい書いたから目録でも作りたかったか。かいつまんだ話だけなのでこれで何かを知った気になるのはおこがましいし、もちろん読んで楽しい本でもないし。

  • まさか、あのように報道されていた死刑囚に、そのような一面があったとは。情報を与えられるだけである事の危うさ。足を使い、自ら知りに行くことの大切さ。勉強になった。とても面白い。
    しかし、「殺人者と他の人間の違いは程度の差であって、種類が異なるのではない」は、反社会性パーソナリティ障害持ちの殺人者たちが存在する現代社会では、全く同意することはできず、人間の正体など無い、としか思えない。
    「感情で動くことしか出来ない人間」を越えられない限り(越えたら人ではなくなりそうだが)、何かの拍子で殺人者の側に行ってしまうのは、極々自然であろう。

  •  18件の事件を簡潔かつ個人的な観点から紹介した作品で、読んでいて少々物足りなさを感じたものの、淡々と語られる事件内容があまりにも凄惨で、むしろこの程度でなければ読めなかっただろうなと思った。一方で、事件物を語る上で一部を抜粋したり、要約してしまうのは偏見や誤解を招きかねず、危険なのではないかとも思った。とはいえ、興味深く読了した。
     中でも印象に残っているのが、小林薫と宅間守の事件だ。池田小事件は、私が小学生当時の事件で、前例のない凶悪さに、つい先日のことのように強く印象に残っていた。それだけに、興味深かった。作中で紹介されていた長谷川博一氏との獄中の会話には、心を動かされた。そちらも読んでみようと思う。
     冒頭でも触れられているが、読んでいて思うのはこの犯罪者たちと私とは、大きな差はない。私はいつだって、一歩踏み出せば、そちら側に行きかねない。そのことを絶対に忘れてはならないと肝に銘じた作品だった。 

  • 昭和・平成にわたって世の中を騒がせた
    いや、世間が騒いだ18件の殺人事件を
    裁判傍聴業などして、ずっと取材してきた作家が
    ノンフィクションなど自身の過去の作品にからめて振り返っている


    一章から一八章まで
    わたしが記憶しているものもいくつかあり

    たとえば
    場所は千葉、女医の妻殺人の医師藤田正
    金沢の老舗菓子舗のおかみになっていた福田和子
    連続幼女誘拐殺人の宮崎勤
    和歌山毒カレー事件の林真須美
    オーム真理教事件の浅原彰晃
    大阪池田小大量殺人事件の宅間守

    などなどの18件のおぞましくやりきれない殺人事件の犯罪者の人物
    その後の顛末や詳細を冷静に簡潔に書いてある

    フィクション、ノンフィクションどちらが好きか
    と問われればわたしは断然フィクションがいいし
    それもファンタジーに走らず
    ミステリに近く、ストーリーが複雑で
    なお、文学性に富んでいる本が好みなのであるが

    しかし、この本はノンフィクションであるのに
    あまりにも文学的な文学だと、とても感心してしまった次第

    それは佐木さんも背中を押され、この本の解説者も指摘しているように
    「文学とは人間という不可思議な生き物の正体に、どこまで迫れるかだ」
    という埴谷雄高さんの言葉に表れている

    それは理不尽な殺人事件を起こしてしまった
    死刑や無期懲役になったおぞましい最低と言える犯罪者を
    普通の人間の隣人であると思うことである
    「日常の陰の隣人たち」(佐木さんの言葉)

    おそましい、おぞましいと読みながら
    果たして自分が、自分の周りがほんとうに正常かあるいは清浄どうか
    だんだんとわからなくなってくるのである

    また
    後期高齢者になった作者自身の自分史のようなものまで
    率直に書き込んであることに好感を持った

    北九州の郷里に戻られ、妻子とも別れ
    海の見える高台で、畑を作りながらの一人暮らし
    といいながらこのような書き物もしていらっしゃるのであるが

  • ノンフィクション

  • 佐木隆三と言えば『復讐するは我にあり』が真っ先に浮かぶ。
    この作品は原作よりも映画を先に観た。映画を観て大分経って
    から原作を読んだ。

    犯人が中華料理店に立てこもり、パンツ姿で逮捕・連行された
    『深川通り魔殺人事件』は事件自体のインパクトも大きかったが
    作品で綿密に描かれた犯人の「電波に憑りつかれている」と
    の言い分に、やりきれないものを感じた。

    大事件の裁判になると必ずと言っていいほど佐木氏のコメント
    が報道される。ご自身が「作家・裁判傍聴業」と名乗っている
    ほど、裁判傍聴歴は半世紀にもなる。

    その裁判傍聴半世紀の間に出会った18の事件の回顧録が本書。
    それぞれの事件への考察というより、事件を引き起こした犯人
    にまつまわる思い出エッセイという感じか。

    「自分のことを書いてくれ」と手記を送りつけて来る犯人って
    結構いるんだね。それがきっかで作品になったりするんだが、
    犯人の言い分を丸呑みするだけじゃ「作家」とは言えないんだな。

    裁判に通って周辺を取材し、事実関係を積み重ねて、時には
    犯人の身内に遠慮がちに接したり。

    「事件」を描くことの難しさってあるんだろうな。読む方は
    好き勝手に批評していればいいのだけれど。

    深川通り魔殺人事件の犯人に対しては、改めて切なさを感じた。
    事件を起こす以前に誰かが病院へ連れて行ってあげれば防げた
    かもしれないのに。

    読み終わって『復讐するは我にあり』の映画を観たくなった。

  • 佐木さんの小説の話題が多くて、読んだことがない私には?な箇所もあったけれど、「犯罪を犯す人間と犯さない人間は、程度の差であって、種類が違うものではない」という言葉にはゾッとしてしまった。

  • 以前、『慟哭』という林郁男を扱った話を読んだ。ただ、今作に手を伸ばすかかなり悩んだ。

    私の記憶にないものも沢山あるが、林真須美や宅間守など、しっかりと焼き付いているものもあり、改めて事件を振り返ると震撼する。

    死んでしまった罪もない人たちに、解決という結末はない。

    けれど、同じ人である以上、何故そうなったかを「理解しようとする」働きが私の中にもあるのだな、と感じた。

    人としての原型が分からないモノほど、恐ろしいものはないと思う。

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著者プロフィール

1937年4月15日朝鮮咸鏡北道穏城郡訓戒面豊舞洞167番地で生まれる。
1941年12月末朝鮮から関釜連絡船で広島県高田郡小田村へ帰国。
1950年6月広島県高田郡小田村中学校から八幡市立花尾中学校へ編入。
1956年4月福岡県立八幡中央高校を卒業して八幡製鉄所入社。
1963年5月「ジャンケンポン協定」で第3回日本文学賞を受賞。
1976年2月「復讐するは我にあり」で第74回直木賞を受賞。
1991年6月「身分帳」で第2回伊藤整文学賞を受賞。
2006年11月北九州市立文学館の初代館長に就任。

「2011年 『昭和二十年八さいの日記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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