- Amazon.co.jp ・本 (362ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101356310
作品紹介・あらすじ
漱石門下の異才・内田百〓の代表的著作のひとつに数えられるこの随筆集は、昭和8年に上梓されるや大いに評判を呼び、昭和初期の随筆ブームの先駆けとなった。漱石の思い出から自らの借金話まで、軽妙洒脱、かつ飄逸な味わいを持つ独特の名文で綴られた作品群は、まさに香り高い美酒の滋味妙味たっぷり。洛陽の紙価を高めた古典的名著が、読みやすい新字新かな遣いで新潮文庫に登場。
感想・レビュー・書評
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なんというか、金策に走る話までもなんだかのんきな感じがして、くすっとしてしまった。
新聞の広告を見て高利貸しの家を訪ねていく話が特におかしい。
大真面目なやり取りをユーモラスに描いている。
挙句、「お金がなくてもなんとかなるんじゃないかなぁ」とこっちまで思わせられる。
手に取った時、「変な表紙」と思ったら、芥川龍之介画だった。
でも確かに、内容もおおむねこの絵のような雰囲気。
息抜きになる一冊!?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
以前からなんとなく気になっていて、竹田昼さんの漫画「ヒャッケンマワリ」を読んだらどうしても読みたくなった内田百閒。
まずは入り易そうな随筆集から。
随筆集とあるが、必ずしも随筆ばかりではなく、本人らしき人が主人公の短編小説も多数入っている。
「ヒャッケンマワリ」によれば「錬金術」と言われたという内田百閒の借金癖がこの中でも披露されていて、借金をしに行く話や、どことなく奇妙な高利貸しと、そこにお金を借りに行く男の話が、次から次へと出てくる。
借金を返すために借金をするという行為が、ごく普通のこととして出てくるし、そんな忌み嫌うようなものではないと、淡々と語られて、ちょっとこちらの感覚も麻痺しそうになる。
そんな随筆集。
ところで、「ヒャッケンマワリ」にも出てきたが、内田百閒と懇意であったという盲目の琴奏者・宮城道雄氏との話も出てくる。
僕はなぜかこの宮城道雄という名前を知っていた。
宮城道雄という人は、昔読んだ永六輔氏の「芸人その世界」か「役者その世界」にも名前が出てきた人。
永六輔氏の本を読んでいたのは高校生か浪人生の頃だから、40年ほど経って、初めてその名前に再会した事になる。
その時はまだ内田百閒という名前は知らなかったから、ホント、偶然に自分の嗜好がぐるーっと回って、40年前の自分の軌跡にかすった。そんな巡り合わせ。 -
毎日少しずつゆっくりと味わいましてよ。偏屈ワガママぶりも貫き通せばまた才能だな・・と。その生き様に感心。はい、偏屈ばばあ目指します。まだまだ百鬼園先生の足もとにも及ばず。精進せねば。
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ニヤニヤしたり、不思議に思ったり…。なんと表紙のイラストはあの芥川龍之介による落書き。
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ドイツ語の先生のくせして辞書を売り払い、
大使館では面倒なのでドイツ語話せないふりして過ごそうとする話とか、
学生時代どうしても居眠りしてしまう先生の授業があり、
先生に申し訳ないとは思うものの、自分が教師になってみると今度は
生徒に読ませている間に居眠りしてしまい、いびきをかかなかったか心配してみたり。
百?先生、キュートな人物なのね。
債鬼に追われる話にしても、悲惨というよりむしろ滑稽。
自分をちょっと斜め上から見下ろしてるような視点が良いのでしょうね。
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少し退屈な本だった。今、私がもっと楽しい本を読みたい気分なのかもしれない。ただ、百閒先生が愛されているのが分かる本だった。当時の人々の生活が見えたり、くすっとなるところもあった。現代でも読みやすいようになっていて、気軽に読めるのも嬉しかった。
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1930年代初頭の、まだ平穏な心理的にも余裕のある時期。
東京の、まだまだ開けていない街や家屋の描写も良い。 -
淡々とした日々の経過
金を借りる、殺人事件についての記載がリアルでした -
第100回アワヒニビブリオバトル第2部タイマンビブリオバトル 第6戦「飛行機」で紹介された本です。ハイブリッド開催。チャンプ本。
2023.6.10 -
カバーイラストは芥川龍之介によるもの
内田百閒の伸ばした鼻毛が
自身のドッペルゲンガーを捕まえているようであるが
逆に、ドッペルゲンガーの伸ばした鼻毛で
内田百閒が捕まっているようにも見える
芥川にとっての内田百閒はそういう人だったんだろう
…どういう人なんだよ
構造としては、ヨーヨーという玩具を考えてみてほしい
人間から見れば、上下運動をしているのはヨーヨーなんだが
ふとそれに感情移入をはたしたとき
人間のほうで上下運動の浮遊感を感じるということがある
つまりそういうことだ
もうひとりの自分自身に規定されて、地に足がつかない!
…このように、赤の他人の一方的に決めつけた話が
回り回って当人の耳に入ったとき
ドッペルゲンガーという幻想は生じるのだと思う
とはいえ、内田百閒という人が
じっさい地に足のついてない印象をまとっていたであろうことは
「百鬼園随筆」を読むと察せられるのだった
教員職についていたとはいえ、職務態度はデタラメで
原稿も書かず借金を膨らませており
そのくせ、余計なことにカネを使っては一人で後悔ばかりしている
根は生真面目なんだろうけど
そういう自分に耐えられない部分があったのではないか
その耐えられない部分を
小鳥や小猿に託していっときの開放感を味わったりもするんだが
そんなことは何の具体的解決にもならない
結局、書くことによる自己相対化のみが救済をもたらしたのであろう