- Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101364711
感想・レビュー・書評
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朝廷を支配した藤原氏の闇を描いた歴史書籍である。藤原氏は政敵を冤罪で抹殺して権力を独占した。藤原氏は冤罪で他者を排斥して権力を独占した。その体質は現代日本の官僚にも継承されている。「冒険を好まず、自己保身に走り、特権を享受する官僚の原形を作ったのは、藤原貴族社会ではなかったか」(279頁)
律令制は貴族達の土地私有で崩壊していったと考えられがちである。意外なことに藤原氏は土地の私有化制限を図る側とする。藤原氏以外の貴族の土地所有を制限するためであったとする(290頁)。藤原氏は国家権力で自己の権力を維持する側である。この点でも民間を抑圧する近現代の官僚の全体主義につながる。
むしろ、荘園には民間感覚があった。「荘園は国の役人から干渉を受けることなく自由に経営でき、その成果を子孫に伝えることができたので、農地開発や農業経営の進化が促された」(伊藤俊一『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』「はじめに」)。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
奈良時代から平安時代にかけて、日本を事実上支配していた藤原一族。その支配の方法は親戚関係を結んだ天皇を影で操ることだ。また、ライバルとなった貴族を政治的策略で次々と排除する。その代表例が長屋王、菅原道真。さらに、日本の歴史を一族の都合のいいように作り変え、日本書紀を編集する。
こうしたことから藤原氏は日本史においてヒール的存在として扱われてもよさそうだが、なぜか彼らの印象は悪くない。それどころか、一族は現代まで近衛家や一条家と名を変えて皇室に近い立場にいる。
なぜ藤原氏は非難されることがないのか。その大きな理由に大化の改新での中臣鎌足の活躍がある。極悪人の蘇我氏を葬り、現代まで続く天皇家を救い出した正義の味方である鎌足を祖とする一族というイメージが藤原氏にはある。
しかし、不思議なことに中臣鎌足の若い頃の履歴はよくわかっていない。日本書紀によって天皇は神の子孫であり、蘇我氏の功績を否定する歴史を創造した藤原氏だが、なぜか鎌足の過去についてふれていない。著者はその矛盾を研究し、結論として、中臣鎌足は朝鮮人の王族であったと説く。
その他、様々な藤原氏の政略、統治を著者は解説する。藤原氏の権力の源泉は歴史の重要性に気がつき、それを創造したことだ。 -
藤原氏のための日本書紀にさえ藤原氏の祖先は記されず唐突に鎌足が現れるのはなぜか。
露骨な創作はできないながらも、当時は皆誰もがが判っていたからこそ意図的に「書かれなかった」事があるのではないか。
そういう視点で書紀の内容と書かれた当時の状況を基に藤原氏の由来から藤原氏の権力確立までを中心に解きほぐしている。
核心となる鎌足=百済の王というのは少し強引な気もするが、本書の良さはその正否にあるのではなく、天智、天武、不比等辺りの当時の主導権の流れや蘇我や物部との関係、今なお残る蘇我支持等含めた民衆側からの視点が判りやすくとらえられているところだと思う。
極悪人入鹿とそれを倒した天智・鎌足という図式はあまりにも単純で実際はどうだったのだろうか…それが壬申の乱につながり、大宝律令制定への流れへとつながっている。
関の見立ては聖徳太子が進めようとしていた蘇我・仏教側の律令体制整備への反対勢力としての反蘇我、反改革である旧氏族の代表として天智側がクーデターを実行した。
強引な近江への遷都により蘇我を葬ったかと思いきや、蘇我・太子の理念を引き継ぐ天武側がすぐに体制をひっくり返した。
天武朝では不遇であったはずの不比等が大宝律令制定により天武側の政策理念を引き継ぎながらも、天智側(藤原側)を正当化し今の日本のベースにしてしまった。
すべては政策や理念より権力掌握・正当化のための方便だったのかもしれない。それを実行するだけの力を伴っていたからであろうが…。
まさに藤が寄生主にまとまりつくように、相手の理念や成果をのっとってあたかも自分たちの業績として歴史に残す。
このことによって藤原氏は正当化されるとともに女系家族の力を活用して日本の根本体制を形作ってしまった。それが本当に百済の家系であるならば古代からヤマトは渡来系に母屋を奪われていたことになる。 -
関裕二 「 藤原氏の正体 」 日本書紀の疑問から 藤原氏の出自や悪行をまとめた歴史本〜異説ではあるが、通説と異なる説を立証しようとした面白さはある。
梅原猛 氏に近い仮説が多いなか、驚いたのは 藤原鎌足=百済王 豊璋(ホウショウ) 説。日本の律令制と天皇制を千年 牛耳った藤原氏の祖が 朝鮮国王という仮説になる。
著者の興味深い仮説
*日本書紀は藤原不比等の思惑そのもの
*藤原鎌足=百済王 豊璋(ホウショウ)
*藤原不比等が 律令と天皇を悪用の基盤を作った
*藤原氏は悪行の祟りを恐れて 善行を行なった
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鎌足以降の藤原一族を炙り出していく感じで進む。
奈良時代がメイン。
鎌足=豊璋説からスタートするのだけれど、やけに断定的な書き方が読んでいて気になる。一つの仮説、仮定として読ませてくれないので、読んでいて少し苦しい。 -
2020/12/09:読了
中臣鎌足が、百済の豊璋だったというもの。
そういえば、少女マンガの天智と天武も、そんな設定だった。
藤原氏が豊璋から始まるかはよう知らんけど、当時は、日本と百済・新羅・任那(伽耶諸国)は、人の往来が多くて、そんなこともあったのかもしれない。
だいたい、日本国内だって、九州と大和は、伽耶諸国と日本の関係みたいなもんだったのかもしれないし。
藤原氏の平安時代は、国風文化が生まれたと、それなりに評価して良いのかと思っていたが、最近読んだこの人の別の本では、『平安時代は、平和な時代ではない。繁栄したのは藤原氏だけだった。東北蝦夷征伐は長期化し、人々は疲弊した。』とあった。
※「縄文」の新常識を知れば、日本の謎が解ける。
関裕二
基本的に対立をあおって、自分の地位を確保するという考え方は好きでない。
平安時代以降も、いっていの勢力をたもちつつ、きっと今も、何らかの影響力をもった本剤なんだろう。なかなか判断が難しい統治者だと思った。 -
あくまで推測の域はでないであろうが、面白かった。
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天智・天武天皇のあたりは語り部によってまったく見方が異なるので注意しなければならない。
「日本書紀は天武天皇の肝いりで編纂されたので天武天皇にとって都合のいい内容である」とする考えがある一方、本書は、「天武天皇崩御が西暦686年、日本書紀成立はその34年後の720年であることから、日本書紀は天武天皇ではなく、その間の政権・藤原不比等にとって都合のいい内容である」という見解だ。
中臣氏の祖先については日本書紀によると、中臣連(むらじ)の遠祖・天児屋命(あまのこやねのみこと):天照大神を天の岩戸から引っ張り出すときに活躍したとある。
律令制度が整う以前、独裁権力を出さないために、一氏族の中から二人の参政官は出せないという慣習があった。ところが、不比等はこれを律令の中に明文化しなかった。そして、四人の息子を「四つの家」に分け、「一家からひとり」だから問題ないと、藤原氏から複数の参政官を輩出した。 -
今もなお続く藤原家。本当に恐ろしい。