- Amazon.co.jp ・本 (367ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101369815
作品紹介・あらすじ
「お前なんか人間じゃない、血塊だ」-養母に投げつけられた身も凍るような言葉。五歳で子役デビューし昭和を代表する大女優となった高峰秀子には、華やかな銀幕世界の裏で肉親との壮絶な葛藤があった。函館での誕生から戦時下の撮影まで、邦画全盛期を彩った監督・俳優らの逸話と共に綴られた、文筆家・高峰秀子の代表作ともいうべき半生記。日本エッセスト・クラブ賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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高峰秀子。大女優が学校に行かれず、身内のために小さなうちから働いていた。母親の身代わりのように。
そのなかで、物事を見る目、人との関わりを学んでいく。
ここに、戦争の影が当たり前のようにさしこんでくる。
時代と個人の考え、人生は切り離せないね。
愛らしいデコちゃんがどうなったか気になる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
何度目の再読だろう…
読むたびに
そうだった のところ
おっこんなことも のところ
へぇーっ それもあったんだ
と 何度も楽しませてもらえる
版が新しくなり
活字が見やすく大きくなっているのも
また うれしい
きっと また 何度も
読みかえす一冊です -
往年の大女優高峰秀子が、養女に貰われてくるいきさつから、ひょんなことから子役として映画界に投げ込まれ、養母との様々な確執と戦いながら芸能界を生きてきた自叙伝である。
引っ張りだこの子役だったために満足に学校へも通えず、学問と縁が薄かった彼女だけれど、これだけの文章を書くには、大人になってからの読書量や、かわいがってくれる周りの大物たちからの「耳学問」の成果が大きいのだろう。
彼女は、俳優「高峰秀子」を演じていたけれども、普段は「平山秀子」であり、結婚してからは「松山秀子」でありたいと思っていたのだろう。その肩肘張らないところが「偉い」人たちには面白かったに違いない。何の因果か養母の前でも「高峰秀子」であった彼女は、「パリへ留学」という形で、日本を逃げ出すのだけれど、結婚してからやっと「高峰秀子」よりも「松山秀子」でいられるようになったのかもしれない。
彼女のエッセイをもっと読んでみたい。 -
何度も読み返しているけど何度でも引き込まれる。やはり母親の強烈な性格がある意味では最大の魅力だと思う。(高峰秀子の)内側の話ばかり読んでいるから、今度は外側からの話を読んでみようかと思った。
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面白かったの一言に尽きます。古い日本映画が好きで高峰秀子さんも勿論大好きな俳優、という私のような人でなくとも、きっと楽しめるでしょう。そこには、映画界という特殊な世界ではあれど、昭和初期の戦争を挟んだ時代の空気感、生活感が満ち溢れ、いきいきと迫ってくるからです。また、「無学」「耳学問」というのが信じ難いほど巧みな筆力で、人並以上の苦労も悲哀もまるで何てことのないドタバタ喜劇かのように笑いに昇華してみせる、その強さと健気さは一人の女性として尊敬の念を持ちます。中でも多くの頁をさいて綴られる戦中のエピソードは、他の類書にみられない独特で率直な視点があり、胸を突かれます。
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778.2
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励まされました、大女優なのにお金、名誉に執着せずに淡々と生きていく姿、いいね~
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ほんとにたまたま出会って、悩まず買って、一気読み。
そのまま、下巻を買いに走り、これまた瞬間読破。久々に引き込まれてしまったエッセイ?でした。
生い立ちや、考え方はともかく、やはり東大入試問題にも使用されたのがうなずけるような文章の力にびっくり。
最近では使わなくなったような言葉や言い回しがとても心地よく、使ってみたいと思い書きとめました。
この一冊に出会って良かった。 -
1924年、大正13年に生まれ、2010年の暮れに亡くなった高峰秀子自身が書いた半生記。文庫としては朝日、文春、新潮と3度目の刊行。おおもとは1975年の5月から翌年の5月まで「週刊朝日」に連載されたものである。
生まれた家族のこと、養女にもらわれることになったいきさつ、5歳で子役デビューするに至った偶然から、映画界で生きぬいてきた年月のことが書かれている。そうした経歴の概略は、「芸術新潮」の特集号や、高峰の養女となった斎藤明美の本などでも読んでいたが、この文庫で上下2巻になる「渡世」日記はまたすごかった。
13歳のころから、高峰秀子は無学コンプレックスに悩みはじめた。
▼同じ十三歳の女の子に比べて、自分は、なんと物知らずの人間なんだろう……。今でこそ「大学を出たってアホウもいるさ」などと、やけくそな啖呵の一つも切れるけれど、当時の私は純情だったから「小学校もロクに行っていない情けない奴」と、自分で自分をののしり、同じ年頃の娘に嫉妬した。(p.150)
高峰の無学コンプレックスは、ずっとずっと彼女のうちに居座ったものとみえるが、一方でその無学ゆえに、自分はこうなのかもしれないと書く。たとえば谷崎潤一郎や新村出(広辞苑の編者)とのつきあいについて。
▼私は無学のせいか、こわいもの知らずで、「偉い人」を恐れない。あちらがたまたま「偉い」だけで、こちらが「偉くない」だけで、人間であることに変わりはないからである。
しかし、この言葉を不遜と取られては困る。はじめからそう思っていれば、背のびをする必要もなく、肩もこらないからというのがその理由だが、そうは言うものの、いくら私が図々しくてもやはり偉い人に会えばガックリと疲れて、ふだんはかかない大イビキをかいて寝たりするらしい。(p.176)
そして、大のデコちゃんファンであったという新村出に、谷崎夫妻の手引きで会ったあと、高峰秀子は谷崎にこんな手紙を出している。
▼…新村先生のようにはとうていなれないけど、どんな方の前に出ても背のびしたりちゞまつたりせず、自然にありのまゝの姿でぽかんとしていられる人間になりたい、というのが私たち夫婦の課題です。…(p.185)
下巻は、ポツダム宣言受諾の後、終戦からの年月が書かれる。戦後の映画界の話、高峰の青春時代の話にも興味はひかれたけれど、いちばん印象に残ったのは終戦直後のことを書いたここだ。
戦中に、高峰は「日本軍の兵士のために軍歌を歌い、士気を鼓舞し、一億玉砕と叫び、日本軍の食糧に養われていた」。食糧のみならず衣服も、民間では到底手に入らぬ立派なウールが日本陸軍から贈られていた。それが終戦から半年たらずで「今度は米軍の将兵のためにアメリカのポピュラーソングを歌い、PXのチョコレートやクッキーに食傷し」、アメリカ海軍から与えられた服地で仕立てたコートを羽織っていた。
つじつまの合わない「昨日までの自分」と「今日の自分」、20歳すぎの当時を振り返り、そのうしろめたさについて高峰はこう書いている。
▼私の歌った「同期の桜」で決意を固め、爆弾と共に散った若き将兵も何人かはあったはずだ。私がみせた涙で「生」への決別を誓った軍人もあったに違いない。あの日の涙は、何人かの人間を殺している。私は「アーニー・パイル」のステージに立ちながら、混乱するばかりであった。(pp.11-12)
アーニー・パイルは、米軍用に急遽改造された日比谷の東宝劇場である。
自身を率直に書いていく高峰の筆はかなりおもしろく、私はこの渡世日記の上下巻を読みながらずいぶん笑っていたらしい。この年に高峰は何歳…と数えながら、たとえば私は5歳のころに、13歳のころに、20歳すぎのころに、何を思い、どんなことをしていただろうと考えたりもした。
(上3/7了、下3/8了) -
高峰秀子というのは、もちろん有名な女優で名前は何度も聞いたことがあり知っているつもりであったのだけれども、でも、よくよく考えてみると、彼女が出演している映画を観た記憶はないし、テレビでもあまり記憶がない。1924年生まれ、2010年に86歳で没、ということなので、世代が僕とは異なるということだ。
面白い。
文章は「うまい」ということではない。思ったことを思った順番に思ったように、技巧をこらさずに書いている、という印象なのだけども、これが面白い。こういうのは何だろう。才能であるのは確かなのだけれども、人柄・性格、あるいは、生き方・構え方なのではないか、と思った。きっと、相当に魅力的な人だったのだろう、と思わせるような本だ。 -
立ち読み:2011/12/21