あらためて教養とは (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101375519

作品紹介・あらすじ

教養の原点-それは、モラルにあり。いかに幅広い知識や経験を身につけていても、人間としての「慎み」が欠けていては、真の意味での教養人ではないのです。ヨーロッパで生まれた教養教育がやがて日本に伝わり、大正教養主義や戦後民主主義教育によって移り変わってゆく過程をたどりながら、失われた「教養」の本質を再確認させてくれる、日本人必読の書。

感想・レビュー・書評

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  • 新潮の「大人の学校」というフェアが、なかなか楽しいラインナップだったので。
    続けて読みたかった村上陽一郎をチョイス。
    『やりなおし教養講座』の改題とのこと。

    教養とは何か、非常に分かりやすく、筆者の意見が述べられている。
    教養学部、リベラルアーツという学問の歴史から説いてくれる書に出会えて良かった。
    ヨーロッパがアリストテレスの書物をイスラム、レコンキスタという流れから入手したというのも、初めて知って驚いた。

    個人的には、リベラルアーツと下手に言われると、広く浅くなんでもアリのヤツか、と薄っぺらく感じていたものだ。(すいません。)
    エリート市民の教育機関となると、学問とのズレを感じないではないが、知識を持っているだけでは教養とは言えないと何度も述べられている。
    昔でいう「修身」という要素を強く感じさせる。
    社会をリードする人間として、知識を持った上でどう振る舞うのか、ということだ。

    併せて、恥を知ることの大切さも論じている。
    みっともないことをしない、ということ。
    他者の目があることを意識して、規矩を保つ姿勢も教養には含まれるのだと。

    なるほど。これは、現代社会からすると大きな反発を呼びそうだ(笑)
    「自己主張して何が悪い」
    「そんなの自分の勝手だろう」というやつ。
    そのくせ、他者の振る舞いにはある種の規矩を求めるという矛盾も強いのだけど。

    知識だけがあっても大人ではありませんよ、ということなのでしょう。
    相応しい自分に磨いていけるかどうか、これを「養って」いくのは、あくまで自分自身なのだと思う。


    「その意味では「古典的教養」と言われているものは、どうしても一握りの有産階級に限られるというのは、歴史的に見れば明らかですね。……(中略)なお、念のために付け加えておけば、国家形成に決定的に重要な「艦隊」は、同時に人間形成に決定的に重要な「糧」という意味にも使えるのではと考えられ、「クラシック」という言葉の意味は、拡大されたのでもありましょう。」

    「つまり、何を材料にして自分を造り上げるか。広い知識や広い体験は決定的に大事な材料の一つですけど、全部ではない。造り上げるというと、いかにも何かがちがちに造り上げた完成品ができてしまうように見えますけど、そうじゃないんですね。自分というものを固定化するのではなく、むしろいつも「開かれて」いて、それを「自分」であると見なす作業、そういう意味での造り上げる行為は実は永遠に、死ぬまで続くわけです。もしかすると死んでからも続くかもしれない。その中で、一生をかけて自分を造り上げていくということにいそしんでいる、邁進している。それを日常、実現しようと努力している人を、われわれは教養のある人というのではないか、そう私は思っています。」

    「ちょうど私が、父親が私に受け継がせようと試みたものを、ある程度は受け入れながら、しかし、そこからはみ出たものへと自分を広げたように、次世代の人々が自分を広げていくことの役に立つと信じるからなのです。そのために、残された余生のなかで、少し頑固な父親になろうと思っています。」

  • 教養は1日にしてならず。まさにこの一言がぴったりの内容。

    教養という言葉を銘打った本は数あれど、それらと本書が決定的に違うのは、すぐに役立つ即効性のあるテクニックなど、実用的な部分はあまりないことだと思う。

    教養とは、自らを立てることである。立てるとは揺るがない自分を造り上げるということ。言い換えると、自分に対して則を課し、その下で行動できるだけの力をつける。則は規矩であり、モラル。

    本書は、平易な口語体で書いてあったり、話が横道にそれたりすることもあるため、全内容を一回で理解しよう、腹落ちしようとして読むのではなく、井の頭公園のベンチで腰を掛けながら、気軽な気持ちで著者と会話しているような心持で読むことおすすめします。

    世の中まだまだ知らないことの多さを思い知らされるとともに、こんなにも興味深く面白そうなことが世の中にはまだまだあることを気づかされます。それらに気づいていくことが自らを立てる第一歩かもしれません。

  • 科学史・科学哲学の碩学である村上陽一郎氏の「教養論」。村上氏の硬い文体とは異なる軽妙な語り口に違和感を感じながら読んでいたが、「あとがき」を読んで合点がいった。本書は語りを文章化したものなのだ。
    本書で「規矩」という言葉を初めて知った。
    「規」とはコンパスのことであり、「矩」とはさしがねのことである。ゆえに「規矩」とはコンパスとさしがねのことになるが、転じて「基準」の意味を持つ。
    自分を律する基準、自分の行動を律する基準のことを規矩と言うが、村上氏が「規矩」と言うとき、それはより深い意味を持つ。
    慎み深く生きること、恥ずかしくない行動をとること、分別を弁えること。こういった意味を込めて村上氏は「規矩を持つことが教養である」と説く。

    教養とは世界における自分の位置を知ることである。そして、自分の中に規矩を持って生きることである。

  • 嫌いな人は嫌いだろうなあ。
    でも私はなぜか、こういう話を聞くのが昔から嫌いではない。
    「人間ならかくあるべし」という言説は時に煙たく、うっとうしい。
    でも、そこにはなにか無下にできないものを感じる。
    ついつい耳を傾けてしまう魅力がある、そんな風に感じる。

    「かくあるべし」というその在り方を、筆者は「規矩」という言葉で表す。
    そしてその「規矩」を作り上げるものこそが「教養」だという。

    本書の巻末には「教養のためにしてはならない百箇条」があげられている。
    ほとんど私には当てはまらない。
    思わず苦笑いしてしまうようなものもある。
    でも否定はしきれない何かがある。
    きっと生涯受け入れることはないにせよ。

    若い世代に向かって、こういう「お節介」なことを言う老人が減った、というのは本書の中で筆者自身が指摘されていることでもあるが、感覚的にも納得できる。

    父は自分の価値観を全く強要しない人だった。
    祖父も95になってまだ健在だが、孫にその生き方を説くようなことはほとんどなかった。
    (正月やお盆の親戚の集まりの中で、それらしいことを酔って喋っていたのを聞いていた記憶はある)

    村上陽一郎氏以外で、この手のことをずけずけ言ってくれるのは養老孟司氏くらいしか思い浮かばない。
    (その点一世代下の内田樹氏は言い方が優しい)

    拒絶反応が出てしまう箇所があるかもしれないが、学ぶことも多い、貴重な(レアな)本だと思う。

  • 最近、教養教育ということに関心があったので読んでみた。教養教育がヨーロッパで始まった理由、米国での受容の仕方、日本における教養教育の荒廃ぶりがよくわかった。
    高い到達目標を掲げて、知的な背伸びをすることは非常に大切だ。わかるとわかるまいととりあえず難解な哲学書を読む。原文で海外の古典を読む。仲間と切磋琢磨する。重要なことは、そのような過程を通じて人間として成熟し、きちんとした価値観をもつことである。
    このような時期を経験しないと、未成熟なまま社会にでることになり、教養が邪魔をしないなんでもありの人間になってしまう。
    大学で教養を身につけるのか、その前の大学の予備課程で行うのか。これは、米国とヨーロッパで大きく違う点である。日本はどちらでもないことが大きな課題だ。

  • 今の日本社会に欠けているもの、それはほんとうの教養だと思います。
    学生たちは、社会の役に立つことばかり求める。即効性のある学問、資格取得に時間をかけて、教養とは何かを学ばない。
    一般社会人は、スマホばかりいじって、まともに読書をしない。教養どころではない。
    そんな問題意識をもちつつ、本書を読みました。
    読んでよかったです。

  • 巻末の教養のためのしてはならない百か条が寿司屋なんかにある湯呑に書かれた親爺の説教みたい(笑)

    その百か条の前半部分の「~区別はするがとやかく言わない・主張しない」というのは心の片隅に置いておきたい。

    ””
    飛躍するようだけれど、恥ずかしさというのがなくなったんじゃないかな。できな
    いことは確かに恥ずかしい。しかしそれを感じさせてはいけない、となったら、教育
    なんて何をすればよいというんですか。

    昔、ルース・ベネディクトが、「日本の文化は恥の文化」と言ったのはご承知の通
    りですけども、その恥ずかしさという概念がかなり薄れましたよね。たぶん、序章で
    触れたディーセンシーもそうだと思うんですよ。知らないということは恥ずかしいこ
    とでなくなってしまった。
    ─ 218ページ
    ””

    恥ずかしさという概念がかなり薄れたというより恥をかかされることの意味が大きくなり過ぎたのではないか?
    恥をかくとそれを拭うことが、挽回することが出来ない。

    だから「恥ずかしい」という感情に蓋をする。蓋をしたふりをする。
    恥とはかかされるものではあるけれど、最終的には主観だから自ら”かく”ものだ。
    自分で認めなければ恥をかいたことにはならない、恥ずかしくない。
    だから、決して恥ずかしいとは認めない。
    傍からみれば「恥ずかしさという概念がかなり薄れた」ようにみえるけれど、内実は大きく違うのではないだろうか。

  • 口述筆記で書いた本とのことで、堅い内容ながら非常に読みやすい。
    日常に追われている我々にはちょっと高尚な気がしなくもないが、やっぱり土台となる教養は必要だと感じた。
    最後の「してはならない百箇条」はいかにも蛇足でとても残念。

  • 教養について書くこと自体が恥ずかしい、ということは筆者も知っているだろうに書かざるを得なかった、というところに義務感を感じる。

  • 教養の歴史。
    人類にとって教養がどのように扱われたか。また、日本人にとっての教養とは何かが書かれている。著者の人生経験も多く書かれていた。

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著者プロフィール

1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学教養学部卒業、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学教養学部教授、同先端科学技術研究センター長、国際基督教大学教養学部教授、東洋英和女学院大学学長などを歴任。東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。『ペスト大流行』『コロナ後の世界を生きる』(ともに岩波新書)、『科学の現代を問う』(講談社現代新書)、『あらためて教養とは』(新潮文庫)、『人間にとって科学とは何か』(新潮選書)、『死ねない時代の哲学』(文春新書)など著書多数。

「2022年 『「専門家」とは誰か』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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