- Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101376424
作品紹介・あらすじ
離婚して1年、夫と暮らしていたマンションから引っ越した36歳の砂羽。昼は契約社員として働く砂羽は、夜毎、戦争や紛争のドキュメンタリーを見続ける。凄惨な映像の中で、怯え、逃げ惑う人々。何故そこにいるのが、わたしではなくて彼らなのか。サラエヴォで、大阪、広島、東京で、わたしは誰かが生きた場所を生きている――。生の確かさと不可思議さを描き、世界の希望に到達する傑作。
感想・レビュー・書評
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時間を辿って砂羽の行動と心の動きを追う、それは自身の思い出に浸ったり、見聞きしたドキュメンタリのなかのことでもあったりする。
近代文学(大正末や昭和の初め)の私小説が戻ってきたのか、と読み始めは思う。語り手平尾砂羽の日常生活が事細かに描写してあり、特に戦争や紛争のドキュメンタリーのビデオを見るのが好きという語りは、なんだかくらい特殊な趣味のようで、鬱屈している昔の文士のようかと、つまり暗らーくて欝々がメインのようなのだ。
たしかに現代のある女性の孤独な生きづらさがよくわかるようにうまく描かれている。時々クスリとさせられるユーモアをまじえた、数少ない関わりの人(有子やその父親富士男さんや中井さん)たちとの交流の描写が光る。ほんと、なかなかの筆力だと思う。(わたし期待する)
過去の何かあったこと、かかわった人々のことにこだわる生き方は、思いやりがあるようで、なんだかやりきれなさも感じるが、そこでこの小説が大転換してしまうのが、意外だった。主人公がすり替わるってあり!?いやいやそこがメインなのか。
葛井夏というもう一人の女性。彼女は砂羽とは正反対の明るい性格だが、それもそこら辺にいそうな人物、学習塾の主任という日常が描かれ、その行動がこの小説の結びとなる。彼女の見る瀬戸内海の風景への賛美はちょっと国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」を彷彿させるし、最後の火事の描写は川端康成の「雪国」を思い出す。
この小説はこうして読者にも思い起こさせるものを、感じ取らさせるものとなる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自分が今存在していて、過去には存在していなかったこと。自分以外の人になれないこと。時間は遡れないこと。当たり前に聞こえるが、それらを意識することで、日常は少し違って見えると思う。
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どうも今の私には合わなかったようです。文字がなかなか頭に入ってこない。でも時々ハッとしたりグサッときたりする表現があったので、何年か寝かせて再チャレンジしたい。
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これは純文学。でもとても読みやすいし、登場人物達が魅力的で感情移入しやすいと思う。
時間の経過を強く意識しながら、人と人との間に起こる争いが、女性らしい細やかな視点で表現されていると思う。大きな戦争を主人公は意識しているけれど、その底にある、争いのもとになっている自身の感情を意識しているようないないような、何とも味わいのある表現が秀逸だと思う。 -
柴崎さんの小説に時々出てくる、見ず知らずの人と話をする人が、ここにも出てくる。
私は、そうしたいとよく思っていて、できるときとできないときがある。
そう、よく分からないことがこの世にはたくさんある。
そう、話したいなら話せばいい。
そう、世の中つながりすぎている。
そう、終わりは何かの始まりだ。
そう、私に近い人は必ずいて、その誰もが私ではない。
共感と違和感が交差する。
私はその時、どうしていた?
考えること。それはおそらく、すべきこと。 -
胸を締め付けられるくらい切なくなる。読んでいる途中だけれど、傷ついている人々の再生の物語だと、思う
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生まれてきた偶然と必然、また、死んでゆく偶然と必然、出会いの偶然と必然を思考しながら書かれた本。戦争という主題をめぐるくだりが、「お利口さん」すぎるような気もするが、ジグザグに進む思考がなんとも癖になる。
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平尾砂羽がめんどくさい。人に期待してない感じでめちゃめちゃしてる。口を開けば余計なことを言う。社会に適応してるようで、微妙。なかちゃんと連絡してるのも自分になかちゃんが興味ないからのように見える。夫と別れたこともそれほどダメージうけているようには見えない。でも、それなりに傷をうけていて、戦争や紛争のドキュメンタリーを視ながらなぜ自分がここにいるのか、それをぐにぐに考えている。あの人たちはあそこにいるのに、わたしはここにいて、生きている。死んだ人と生きている人との違いとか。めちゃめちゃめんどくさいけど、すごく、共感できるところもある。子供の頃、核戦争が怖かったとか。葛井夏は若くて、なかちゃんに影響されて変な女になりかけてるけど、ずーっと大阪にいる。時々旅行には行く。でも基本的にきちんと自分の居場所を持っている。平尾砂羽との違いは年齢、それから離婚家庭の子供。平尾砂羽は自分が離婚した。間をとりもつのはなかちゃんとクズイ。クズイはふわふわと主人公たちの周りを方則を無視して漂う衛生みたいなものだ。明日には通りすぎていく。ひとは、結局ひとりだと強く思った。
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時間や距離が隔たった場所の戦争によく思いを馳せる女性がいる。
なぜこの今が、ああではなくてこうなのか。あのとき少し駆け足をして電話に間に合っていたら、違う物語が展開していたのか。はたまたなぜ自分は他人ではなくて自分の中から世界を見ているのか。そんなこともよく考えている。
この砂羽という女性は人とのコミュニケーションは苦手なようで、生き辛さを抱えているように見える。この辺は非常によく分かる。
せっかくなので、引用してみる。
”複数の人間が関わって、二重三重に暗黙の了解みたいなもので囲われた状況が苦手だ。それは三十六歳にもなって人の気持ちを考えられない、もしくは人づきあいのルールがわからない未熟な人間ということなんだとも思う。”(P.30)
”続きがない。1詳細を言う、2聞いてほしいと言う、3言わない、のいずれかを選んでほしい、と思う自分はコミュニケーション能力が欠如しており人の心がわからないということなのだろうか、と気が引けてしまう。”(P.31)
”なぜみんな、こんなふうに気軽に、素早く、なにかを伝えることができるんだろう、と思う。なにか伝えたいことが浮かんでも唐突で変に思われるかもとか、連絡していない別の友人が読んだら快く思わないのではとか、こういう返事が来たらその次はどう書こうとか、つい考えてしまって時間ばかりが過ぎるわたしにとっては、まるで、走っている電車に飛び乗るくらいに、難しいことに思える。”(P.66)
”この根拠の乏しい不安は、子供のころからの考え方の癖のようなもので、待ち合わせ相手が遅れたり近くにいる人が不機嫌なときにも、ほとんど自動的に浮かぶ。”(P.76)
”チューナーになってくれる人がいないとき、他人となにモードで話せばいいかわからない、と前に有子に説明したことを思い出す。”(P.101)
”わたしは、相手が言わないことは聞かないし、聞かれないことは言わないので、やっぱりそれまでと同じように話した。”(p.174)
とても共感できるとともに、このあまりの解像度の高さは、筆者自身だ同様の感覚を持っている以外に考えられない。
ああ、それでこの作風、この文体か、となんとなく納得してしまう。文章が長くてくどいんだけど、分かりやすいくどさというか、すごくしっくりしながら読める。
砂羽には若い頃に通っていた写真教室の時の友人がいて、その一人の妹である夏が途中から主人公のように振る舞い始める。砂羽は急に熱中症になって病院に担ぎ込まれ、フェイドアウトしてしまう。ラストの美しい夕日と妙な火事の、何かカタルシスのようなシーンも夏が引き受ける。ちょっとびっくりするような構成だった。
もう一人、写真教室時代の友人で中井という非常に魅力的な登場人物がいるのだが、もう書ききれない。 -
わかる、わかるけれどそんなになにもかも書いてしまう必要あるのだろうか、とも思う、けど夏の三人称一元視点に移るところ、そうして思いがけないかのじょの重たい過去がほのめかされるところはとてもよかった、「ここで、ここで」の終電から知らない街をながめるシーンすごく好き。
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出版か10年前じゃないか
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記録
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主人公の思考回路が私のそれと似ていた。
これから二度と会わないだろう人と、死んだ人は何が違うのか。 -
たま~にハッとするくらい刺さる一文がある。
主人公が友達に似てて、あの子の痛くて不器用で生きづらそうな愛おしさを言語化してあげたいなと思った