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Amazon.co.jp ・本 (258ページ) / ISBN・EAN: 9784101379135
みんなの感想まとめ
多様な人々との出会いを通じて、著者の独自の視点が光るエッセイ集です。白洲正子は、魯山人や黒田辰秋といった著名人から、桜に魅せられた男まで、さまざまな人物の記録を語りながら、同時に自身の内面にも触れてい...
感想・レビュー・書評
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白洲正子さんが戦後から昭和40年代にかけて、日本の国宝級の芸術家たちを取材されて執筆された随筆集。
それぞれの分野で美術史に残る偉大な功績を残された「大先生」ばかりなのだが、白州さんだから言える、白洲さんしか言えないヒヤッとするような表現で、その「大先生」を一見こき下ろしたかのように見えて、実は誰よりも愛を注いでいることが分かる。
例えば、「北大路魯山人」では、
(抜粋)
先生先生と、あがめる取り巻きだけ残して、心を分かった友、技を伝えた弟子が去って行く姿を見て、どんな気持ちがしたことでしょう。が、人間は一生、同じ模様を描くもののようです。淋しがりやのくせに、わがままで、一人よがりで、人の言葉につんぼ同然の性格は、最期の時まで変わることがありませんでした。
結局、魯山人の芸術の特長は、その素人的なところにあったと思います。素人というと、誤解を招くおそれがありますが、技巧に溺れず、物のはじめの姿というものを、大掴みにとらえていた。
物を見る(うぶな)眼と、職人の(熟練した)手というものは、中々両立しないものですが、その両方を兼ね備えていたといえましょう。
京舞の井上八千代については
(抜粋)
都踊を見て、面白くなかった話もしました。が、そういっても不快を感じる様子はなく、「あんたはんなんぞには、そうでっしゃろなあ」と、あれも一つのしきたりだから仕方ないという風です。
(中略)
姿といい顔といい、とりたてて美しい所もないお師匠さんの舞は一見平凡に見えるかも知れません。が、平凡なものを活かすのは非凡な力です。人目を驚かす技、鮮やかな舞姿、一般人を喜ばせるものは往々にして二流の芸術です。そしてそんな人なら沢山いる。私は踊りたくない人の踊こそ見たいものだと思いました。
白洲さんが幼児から習われていた「能」の世界についての記述は興味深い。
(抜粋)
勢いのいい人はこんなこともいいます。一体お能のように封建的な、絶対服従の世界などけしからんではないか。ところが封建的・絶対服従の世界ほど、ある意味で住みいい所はないのです。(略)六百年の歴史を持つこの芸術は、隅から隅まで形式が整っている。人はその完全な様式のなかにはまり込みさえすれば救われるので、あとは生まれつきの才能だけが物をいう、つまり自然に任せておいて間違いはないのです。自由を求めて孤児的となった近代の芸術家たちが、かえって自由のために方向を見失い、苦しい思いをして自ら束縛を作りだす所を、それだけの労苦が省かれている。とうてい一代では見出すことが出来ない不可能な規範が求められるとともに、私達はそれにのっとって、正しい生き方を学ぶことが出来る。古典に帰るとは何も懐古趣味にふけることではない。古人の魂を現代に再び生かす行為を言うのだと思います。
この本の3分の1を占める黒田辰秋氏についての随筆には感動した。木工家であり漆芸家でもあった黒田辰秋氏は明治37年、京都木屋町で生まれた。木屋町というのは「木屋」の町、つまり材木屋の町であったそうだ。今はそんな面影はないが、材木を積んだ舟が淀川から高瀬川を上って直接木屋町に入ってきていたのを黒田さんは子供のころ良く見ておられたそうだ。
黒田家は蒔絵などの下地を作る無地の漆専門の職人「塗師屋」だったそうで、黒田さんのお父様はよく黒田さんに「名前が残るのは仕上げをした工だけで、塗師屋は縁の下の力持ちだ」とおっしゃっていたそうだ。
やがて黒田さんは柳宗悦氏の民藝運動に開眼し、柳宗悦氏、河井寛次郎氏らと共に上賀茂に「民藝協団」を発足し、世間に「民藝」を広めると共に物を見る眼を養われていったそうだ。
また黒田さんは「貝」に興味を持ち、「美しいメキシコ貝を使った螺鈿を作りたい」という目標から漆にも興味を持ち、「美しい蒔絵を作るには下塗りが大切だ」ということに気づき、さらに美しい下地を塗るには木工が重要だと認識されていったのである。だから、黒田さんは木工から漆の下塗り、漆の仕上げ、蒔絵まで一貫して自分でされるようになったが、「漆の下塗り」「木工」といった縁の下の力持ち的な地味な仕事を決して疎かにしない仕事をされる方だった。
そして、「湿りで乾く」というような繊細な性質を持つ“漆“や「いきもの」であるから「忘れるほどほっておかないと」縮んだり、割れたりして形が変わってしまう木材など自然の素材との息の長い付き合いの中で物作りをされていた。
この白洲さんの本を読んで、「日本人の芸術って謙虚だな」と思った。自然を壊して「我」を出そうとするのではなく、自分を無にして「美しい自然」を見せるのが日本の芸術なのかなと感じた。
白洲さんも20世紀の終わり頃亡くなられたが、この本の中で白洲さんが取材された芸術家の方々もおそらく皆さん亡くなっておられるだろう。
だけど自然と向き合って自らを高められた芸術家の皆さんの生き方もその方たちと白洲さんとの自然な交流も芸術的だなと感じた。そして消えてしまったはずの白洲さんとその芸術家たちとの美しい時間を文字という形に残してくださった白洲さんの文章は最高の文芸だと思った。
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白洲正子がさまざまな人を訪ねた記録や記憶を語ったエッセイ集だ。
訪問相手は魯山人や黒田辰秋といった自分でも知っているような著名人から、桜に魅せられた男や能舞など、知らない名前の人もさまざまだ。
人を語っているのに白洲正子自身について語っているようなところもあって、独特の味わいだった。時代を感じる。 -
表紙の作者がとてもいい
作中では魯山人と井上八千代をこれだけ素直にけなせるのは大したものである -
魯山人以外は知らない人ばっかり。なので、スラスラとは読めない。とはいえ、その内容は今にも通じる話で時が経っても変わらない、価値や感覚みたいなのが感じられる。支那の陶器は完成度が高い。日本の陶器は遊びがあり、見るものが楽しむ余白がある。みたいな話があったり。これは、少し国が違うけど韓国のKARAと日本のAKBの違いに通じているように思う。いいものに触れることの大切さ、美しいものをみることの面白さ、人本来の大切な感覚がここにはまだ失われずにあるように思った。
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白洲正子が芸術家を訪ね、その本質に肉薄し、切り込む「美」の探求記。冒頭の魯山人評は、これまでに読んだことがないほど、厳しく、しかしあたたかい。浜田庄司を訪ねては「民芸運動」と利休の到達点が正反対のところにあると感得したり、とにかく、読ませます。
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上質な人が上質な”もの”を創ったり愛でたりするんだなあ、という。
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白洲正子の本を読むのは初めてだけど、はっきりした視点が小気味いい。他にもいろいろ読んで彼女のことを知りたい。
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人物訪問記。言い回しが面白かった。
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白洲さんの視点、という意味では読み応えがあったし、本の主旨はそこにあるのだと思うけれど、私個人の関心は、白洲さんがものの作り手たちをみてどう考え、語るかということよりも、作り手自身のことばにあったのだろうなと思った。
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白洲さんが出会ってきた人を綴るエッセイ。
黒田辰秋さんの訪問記が本書の1/3ほど占めている。
一番興味深かったのが浜田庄司さん。
白洲さんが抱いていた民藝に対する解釈と疑問を本人にぶつけるべく体当たりで益子まで行くものの、やわらかく粘土でも揉まれるように対応されて、家に帰ってブツブツ言いながら机に向かっているさまが想像できて面白い。 -
美しい芸術作品を創りだした魯山人など、13人の芸術家訪問記。
浜田庄司を訪ね、そこで語られたという内容が印象的。
『結局真の美とは一般人の「常態」の中にしかなく、それは「生活に即し、自然に即する」民芸において極まる』
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