- Amazon.co.jp ・本 (562ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101419053
作品紹介・あらすじ
「何か喰いたい」臨終の漱石は訴え、葡萄酒一匙を口に、亡くなった。鴎外はご飯に饅頭を乗せ、煎茶をかけて食べるのが好きだった。鏡花は病的な潔癖症で大根おろしも煮て食べたし、谷崎は鰻や天ぷらなど、こってりした食事を愉しんだ。そして、中也は酒を食らって狂暴になり、誰彼構わず絡んでいた。三十七人の文士の食卓それぞれに物語があり、それは作品そのものと深く結びついている。
感想・レビュー・書評
-
近代文学者たちの「食」にまつわるおもしろエピソード、といった軽いものを予想して読み始めたが、なかなかの辛辣な表現に、うーん…と考え込むことが何度もあった。特にガス自殺をした川端康成。「マンションの一室でシューシューと鳴るガスをたっぷりと吸い、極限の悲しい喜びの味を満喫しながら死んだ。」とある。
どの作家の生活ぶりも、身近に接するのは勘弁してほしいものばかりだが、それだからこそ書いたもの、書けたものがあったのだろう。それぞれの作品を読むときに読み返してみると、作品に対する見方が変わってくるかなと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
高名な文学者を食の面から捉えた本。
それぞれの作家の生きた時代背景や育った環境などを窺い知ることができて面白い。 -
メディアマーカー時代に読んで以来14年ぶり再読。
1回目の感想---おお!なんかすっげー。妖怪悪食ってタイトルでもいいな。または人格破綻者列伝か。短編伝記としてもおもしろい。あまりにディープでおもしろいのにすらすら読めない。
700余の資料を読み、5年かけて執筆したそうだ。 -
文豪が食べていた食事にスポットをあて、食事の観点から育ってきた環境や性格、起こった出来事を紹介しています。
好きな食事にメニューについて、何故それが好きになったのか考察してあったり、ただの食事紹介ではなく、掘り下げたエピソードがってあって楽しめました。 -
これは労作である。嵐山光三郎というと、テレビに出ている姿や「~~であーる」式の文体といった印象しかなく、こんなにまともな文章を書く人であるということすら知らなかった。
本書では明治から昭和の文士37人を取り上げ、その生と死を食から分析うぃようとしている。
小説や詩などの作品に登場する食べ物の記述はもちろん、日記など本人によるものを調べあげ、友人などのコメントまで集めている。 -
『作家は何を食べて作品を書いてきたのか?』作家における食と作品をの関係をつづった本の第一弾です。どれもみんな個性的な方が多くて圧倒されます。
これと続編である『文人暴食』の二つは札幌にいたころ、ずいぶんと読んだものである。この話は思い出すのも正直つらいのだが当時、僕は本当に食うにも事欠いた生活を送っていたので、せめて想像の中ではたらふくめしを食いたいというほんとうにほんとうに切実な日々が背景にあったというのが実情だが、なるほど、「食と文学」という視点で作家を見ると、これほど奥が深いのかと、この記事を書くために今回また読み返してそう思った。
たとえば、谷崎潤一郎なんかはその見栄えや文体とおりのこってり、ヌラヌラしたものを好んだというし、森鴎外の好物はなんとご飯の上にあんこ入りの饅頭を二つに割って乗せて、その上にお茶をかけて「饅頭茶漬」としてさらさらと食べ、細菌学を専攻した関係から果物にいたるまで「なまもの」は一切口にしなかったそうである。
そのほかにも、種田山頭火の「食と水と酒」の業に近い話や、坂口安吾の「わが工夫せるオジヤ」にまつわる話なんかが面白かったです。機会があれば、ぜひ読んで頂ければと思います。 -
自分では手に取らない本、というのがあります。
見た目と言うか、雰囲気と言うか、オーラと言うか。
私は自他共に認める乱読タイプで、広く浅くたくさん読むほうなんだけど、それでも、しらないうちにある一部分、まったく手付かずにすごしてしまったことに気付くことあります。
例えば、この嵐山光三郎の『文人悪食』はそんな私の手に取らないっぽいにおいのぷんぷんする本です。
人に紹介してもらわなかったら、手に取らなかった確率99パーセント。
だけど、うんとよかったです。
森鴎外や夏目漱石から林芙美子、坂口安吾など、近・現代を代表する作家の食生活、食癖からその素顔を垣間見よう、というような趣旨の本です。
やっぱり、「食べる」って、本能行動だから、ものすごく人間らしい素顔がのぞけます。
私の崇拝する三島由紀夫についても書かれていたのですが、綿密な下調べに基づいて三島由紀夫の食を明らかにした上での人間三島由紀夫の考察がすばらしい!
舌を巻くものでした。
「三島氏は、「虚飾と純粋」をあわせ持っていた人である。人並みはずれた嘘と、人並みはずれた真実を、魔法使いのように使い分けた。」
そうそう!そうなんですよ!
嵐山さん、話がわかるね! -
「何か喰いたい」臨終の漱石は訴え、葡萄酒一匙を口に、亡くなった。鴎外はご飯に饅頭を乗せ、煎茶をかけて食べるのが好きだった。鏡花は病的な潔癖症で大根おろしも煮て食べたし、谷崎は鰻や天ぷらなど、こってりした食事を愉しんだ。そして、中也は酒を食らって狂暴になり、誰彼構わず絡んでいた。三十七人の文士の食卓それぞれに物語があり、それは作品そのものと深く結びついている。
-
<作家の魔は食に顕れる>
または、
<恐るべし 嵐山光三郎!>
テレビでよく見かけたタモリの友人が、こんなに凄い文筆家だったとは!
雑誌編集記者時代に、檀一雄、深沢七郎に付いて歩き、作家の<魔>を目の当たりにした嵐山だからこそ書けた傑作。
食欲は性欲に通じる人間の根底的な欲望だ。
この観点から作家を見れば、作家の本質を炙り出すことが出来る筈だと睨んだ嵐山が、漱石から三島まで日本の大作家たちの食生活を克明に調査していく。
その結果明らかとなったのは、作家たちの誰もが<魔>の領域に居るという、恐るべき真実だった。
真の傑作を書くためには、日常生活の住人であってはならないのだ。
後戻りできない<魔>の領域に踏み込んでこそ、心の<魔>を描くことが可能となるのだ。
だから、日本の作家の大家たちの中で、まともな日常人は一人もいない、と断言できるのだ。
甘い饅頭茶漬けを喰らう鴎外。
<葡萄>の隠語で姪を調教する藤村。
ドブに米をこぼした悪夢に苛まれる一葉
(ここら辺りから嵐山の筆は乗りに乗ってくる)。
食べることから逃げて回った鏡花。
全てに恵まれたがゆえに虚無に囚われた武郎。
一汁一菜の食で恋に生き12人の子供を産んだ晶子。
面白すぎて、食事をするのを忘れてしまった。
それは恐ろしい<魔>を覗き見する行為だ。
それを克明に調べて文章にする光三郎も<魔>に取り憑かれた、<魔>の住人だ。