- Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101449227
作品紹介・あらすじ
「汚くしてるけどおいでよ、おいでよ」というので、およそ十年ぶりに会ったこの人は、すっかり「おばさん」の主婦になっていた。でも、家族が構成する「家庭」という空間の、言わば隙間みたいな場所にこの人はいて、そのままで、しっくりとこの人なのだった…。芥川賞を受賞した表題作をはじめ、木漏れ日にも似たタッチで「日常」の「深遠」へと誘う、おとなのための四つの物語-。
感想・レビュー・書評
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閾とは、刺激の強さを連続的に変化させたときの、生体に反応をひき起こすか起こさないかの限界。生理学・心理学の用語。(webからの引用)らしい。読んだ感想とはだいぶ違います(笑)
少し時代が古いので、女性へのある種の偏見も含まれます。が、割と現代的で知的内容だとおも思います。
この中で気になった点は、主婦には主婦を中心とした時間軸が無いという点。主婦は主導権を握っている様でその実、家族の予定に合わせて動いてる事がほとんどで、自分の時間はある様で無い。
昼寝する時間はあるが、それが自由時間かと言われると、ちょっと違う。相手に合わせるが故に起きる、自分で立てた予定ではない空き時間の様なもので、その間も食事の献立や明日の家族の予定などで頭は基本いっぱいなのだ。
そこをサラリとなんて事ない感じで描いてる点が面白いと思う。この淡々とした感じがないと主婦はやっていられない笑。女性は柔軟でないと辛くなるのです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
兎角ものを考え続ける主人公たちの心情を執拗に追い描き、風景や時間経過と共に「生きていく」ことを捉えた作品が並ぶ。表題作は第113回芥川賞受賞作。しかしどの作品にもドラマチックと呼べる劇的な展開は見当たらない、最後に収録の『夢のあと』の結末に幼稚園で出くわす状況や、『東京画』で「煙草屋の二階の物干しにじいさんとばあさんが椅子か何かに腰掛けて裸でいた」ことくらいか、静かな佳作たちだ。ただ日常というものはそういうことが起きないから「日常」なのだし、その常なる生活状況に豊かさや深みがあることを著者が丁寧に紡ぐ作品は、評するならば尊い。
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この人の評論は間違いない、と大学時代の恩師に言われ、何度か読んだが難しすぎて分からなかった。でもかろうじて理解できる部分に、間違ったことは書いてなかったと思う。
この人の閾、新しい小説の一つとして、悪くない読書時間だった。ちょいちょい出てくる考察がいらない、いっそそういうものすらなくした小説が読みたい、読者に対するヒントなしの。この地に足がついた文章は読んでいて心地よい。
芥川賞の選評見ても、まぁどの芥川賞も大抵そうだけど、賛否両論。技術的な部分やまとまりはともかく、みんなそれぞれ独自の小説観を持っていて、それはプロの作家であるのに、賞レースにおいても一定の評価基準がないのは、芸術であるがゆえ。一つの小説で色んな読み方が、楽しみ方、うまい部分、表現があると思うけど、たぶんいい読み手はそれをなるべく多く汲み取れるし、いい作品はそれが多くて質も高いんだと思う。
シンプルなゆえに味わい深く、そういうことを考えた。 -
1995年上半期芥川賞受賞作。仕事先の小田原でぽっかりと空いてしまった3~4時間を、大学の同級生真紀さんと、ちょっとビールを飲んだり、庭の草むしりをしながら語りあう―プロットを語ればこんなものだ。そこにはおよそ事件も、物語的な展開も何もない。語り手の「ぼく」は37歳、真紀さんは38歳なのだが、学生時代くらいまでは「現在」だけが凄まじいスピードで過ぎて行くが、ここにある時間は過去を持つ重層的なそれであり、流れもゆるやかだ。また、「動かされない駒」でありたいと願う「ぼく」には、すでに諦念のようなものさえ漂う。
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季節の記憶を読んで以来、保坂和志が気になって気になってしょうがない。これはBOOKOFFで100円で買ったやつで読むのは二作目。
この作品は芥川賞を受賞しており、近年(といっても10年以上前だが)芥川賞を受賞した作品の中でも個人的に納得のいくものである。
主人公ぼくは小田原に到着するが、待ち合わせをした人とすれ違いに。その人を待っている間、ぼくはサークルの先輩だったある女性のところにお邪魔するが、、、
この人の小説はデビュー作から全然変わってない、淡々とした日常の中での自身の考察、特に言葉への、を描いている。でもこの考察って言うのが、どーしてどーしてすごく鋭くてまあ退屈にならない。
「閾」っていうのは、久しぶりに出会ったその女性の生き方、生活みたいなものを他人の視点から言葉にしたものなんでは。
ストーリーや登場人物を持ち上げることで面白い話を作ってないとこに、今の文学にはないものがある、そして平凡な日常、性を感じさせない男女の関係が文学に成り得た事を私達に教えてくれる。 -
保坂和志の小説を読んでいると、記憶の回路を宝物を探し当てるみたいにして進んでいくような感覚になる。記憶の回路は日常の中で起こる些細な、乱暴に言ってしまえばどうでも良いことの切れ端をつなぎ合わせて構成されている回路で、まぁ色んなものが飛び出してくる。例えば相手すら覚えていないような、もうずっと過去に交わされた会話の断片だったり、何気なく通り過ぎてきた風景だったり、幼い頃の遊び場で行われた、今となっては入り込む隙のないくらい小さな世界のルールで固められたおままごとだったり、それらの一部分がふと頭に浮かぶ(五感をくすぐる)時が普段からあって、なんでそれが今出てくるのかわかんないんだけど、記憶の回路からひょこっと顔を出した彼らに対してなんのためらいもなく消化していくことが可能だけれど、積極的に彼らの存在と関わり合おうと思えば、彼らは実に面白い連中で、保坂和志がやろうとしているのは、そうした連中と交信(というと超常現象のように聞こえる)し、どこまでも気に留めることなのだろう。小説家とは言葉に対して疑問を持つことのできる人間のことで、物語を書くのはただの物語作家だという保坂和志の言葉を念頭に置いて彼の著書を読んでみると、実に多くの見落しを引き出されることが多い。私はこうして書評ともなんとも言えない読書記録を書いているのだけれど、おそらくこれがブログというスタイルで蓄積されていくものでなければ、わざわざ習慣として記録しようとも思わないし、記事を書いたところで何か特別なことを考えているのかといえばそうでもない。読んで何かを考えるという行為は私にとって面倒以外の何ものでもなく、書評だのなんだのとは甚だ遠い話で、最近思うのは、読了後に襲う満足感の中身は空っぽで、あとからあとからじわじわと、読んで考えるというやつがやってくるというとだった。食事をしているとき、テレビを見ているとき、急ぎの用事を足しているとき、恋人の隣にいるとき、読み積まれた言葉の断片がふっと現れたりする。そのときはじめて、読んだと思っていたものが本物の読んだものとして認識されるのではないだろうか。もちろん、認識されずに流れていく言葉も数え切れないほどあって、だけど表向きは自分の中に蓄積されたことになっていて、蓄積されたからにはいつかは消えてしまうのだけれど、それはそれでいいことで、もしかして目に付いた言葉をあれこれ書き留めてしまうことは読んで考えるという法則に反しているのではないかと思うようになってきた。ちょうど『この人の閾』で真紀さんという女性が言うような感じで。
「真紀さん、これからずーっとそういう本を読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ――本当にいまの調子で読んでいったとしたらいくら読んでも感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで灰になって、おしまい――っていうわけだ。」
「だって、読むってそういうことでしょ?」
(保坂和志『この人の閾』)
誰もが言うように、保坂和志の小説に物語性はまるでない。保坂自身が初めから物語を書こうとしているわけではないからだ。阿部和重との対談なんかを読んでいるとよく分かるんだけれど、彼は自分の小説が正しく読まれていないということを十分に承知していて、確か『小説の自由』という著書は僕の小説を解説してくれる人がいないのなら自分で書いてしまおうという意識があったとか、なかったとか。初めて保坂和志の『カンバセイション・ピース』を読んだときは本当にしんどかったけれど、今ではあぁ本物の小説家というものはこういうものかもしれないと、眉間に皺を寄せてながらも楽しく読んでいる。小説に流れる時間を読書という経験を通して共有することはとても貴重だと思う。 -
彼は、誰かと話をしている。
彼は男で、話し相手は女であるが、よくある男女の話ではない。
それを、不足と感じたり、彼の奥に相手への思いがあるのではとどこかで気にしたりしてしまうくらいに、世の小説には男女の話が多い。
この小説は、その点で他と違う。
彼は話している女の人のことをどう思っているんだろう?、と私が考えてしまうのは、小説の恋愛物語に慣れているから。
だから、ここで親密さや恋や性が描かれないのは、隠されているんだと思ってしまう。
彼の中のそういう部分は、あるのだが、わざわざ書き表されてないんだと。
それは、心の描写をする小説界から遠のき、人が普段生きる世界を神の視点で見た様子に近ずく。
恋や性が描かれると、それとともに自分自身についても掘り下げられていく。
恋や性が取り上げられなかったとしても、家族関係や仕事関係、戦争、運動、でも自分自身の内省になっていくことがあるが、この小説は、そういう自分についての語りもあまり強くない。
恋、性がない小説↓
中野重治『むらぎも』、魯迅、庄野潤三『夕べの雲』、大江健三郎『静かな生活』、マリー・ンディアイ『こころふさがれて』、ミヒャエル・エンデ、SF作家、カポーティ『草の竪琴』、三島由紀夫『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』、遠藤周作『沈黙』等。
恋心や性が描かれていないこういうものは、知的階級と労働階級とか、家族とか、差別偏見とか、SFとか、日本におけるキリストとか、それぞれ何か大きな括りの話をしているが、保坂和志のこの小説はそのようでもない。
なんてことないから描かれなかった日々のほとんどの部分、を描くことにしたような会話。
私の友達に恋愛に興味がない、という子がいる。
その子は、私とその友達bともう1人aと3人で話していたとき、aが付き合っている人の話をした。
その時、私がaにどういう質問をしてどういう声色で返しているのかを見て、その後、恋愛話に遭遇した時には、それを参考に対応しているとbは言った。
bは、興味がないし、どういうことを聞けばいいかもわからないから、恋愛話が本当に困るようだ。
私は、bと出会ってから何年かは、あんまりそういう話しない子だとは思っていたが、そこまでだとは知らなかった。
私に本音を言わないだけで、心の奥に男の人を見つめる目があるものだと思っていた。
化粧品売り場で、化粧品を選ぶ様子は、頭の中に男の人がいるのかと思っていたし、赤い口紅で引き締めた顔は魅力的に見られたいという心なのかと思っていた。
私の感覚を他の女も当然持っていると思っていたけれど、そうではない。
同じような感覚を持っている女もいるが、全然違う子もいる。
恥ずかしくて隠していて、本当はそうなんでしょう?、というのも違うんだ。
本当に違う感覚で生きてきた人がいる。
彼ができたaの話を聞いていた時、経験がある子はやっぱり違うなって言ったのを、彼がいるaの経験だと思っていたが、そうではなくaの恋の話に対応する私のその問いかけやうなずきや反応のことを指していたのだと知って、非常に驚いた。
また能町みね子さんがTwitterで、小学校の国語の教科書に載っていた話が当時分からなかったという。
2022/7/31のtweet
『春先のひょう』
「看護婦をしてたお母さんが氷枕のために必死で外に出て雹をかき集め、そしたらキュウリ畑を荒らしてしまって持ち主の患者に怒られ、でも今度はその患者にお母さんが助けられた…っていう思い出を語って、子供が「だからお父さんもお母さんもキュウリが好きなんだね」って話で、最後に「お父さんもお母さんもキュウリが好きなのはなぜ?」と聞かれて小学生の私は「は?お父さん一回も出てきてなくね?」と、まるっきり分かんなかった。当時から男女の出会いとか恋愛とかが、素で脳内に一切浮かばなかったんだな
この問題がまるっきり分かんない(上に、解説を聞いてもよく分からなかった)ってことが衝撃で、覚えてる。やっぱり自分の中に経験とか感覚とか一切ないものは解きようがないよねえ…って思う。」
というtweetを読んだ。
さらに、なぜ音楽は恋愛ソングばかりなのかとも以前言っていた。初期のスピッツはそういう歌を歌わなかったから好きだったと言っていた。
私の友達と能町みね子の話を出してみた。
小説に男女関係、内省、が無いのを物足りなく感じたけれど、私の友達や能町みね子はこういう小説をどう受け取るのだろうか?
男女の話にならなくていいなと思うのかな?
哲学の本とか、評論の本とかは、男女の話にならない部分が多いな。
仕事とか、covit-19に対する政策とか、物価高とか、猛暑とか、成績の話とか、話す事って恋愛以外にも沢山あるし、それについて話さなければ毎日の生活が仕事がダメになっちゃうようなことが沢山あるのに、毎日職場で恋愛話なんてそんなにしないのに、どうして小説や歌や映画には恋愛が描かれるんだろうね? この本を読んで変だなと思った。
保坂さんは、植物が好きなんだな。
私も好き。
芥川賞の選者コメントを読んだ。
この取り留めのない会話の小説が、世に溢れるドラマのある小説を遠くから見直すきっかけになったが、そのきっかけだけが私の中では大事で、きっかけの役割が終われば、その他の著書を読む気が強く湧いてこない。
著者は、この取り留めのない会話の小説を続けていると聞く。
そうなると、私が得たきっかけとしての役割以外にも、この小説に何かを著者は込めているはずだ。
彼の小説には何があるのか?
はじめ私が得たきっかけ、以外の読み解きが必要だ。
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2022 0621読了
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出来事は何も起きない、淡々と風景を描写し内省的な会話がなされる、安定の保坂和志。癒されるー。普通に生きてたら死とか恋とかそれなりのドラマが展開されてしまうのが自然なので、ここまで何も起こさずに話を読ませるのって逆に不自然で、とてもすごいことだと思う。
特に印象的だったのがかつて住んだ世田谷区の外れの街の話と鎌倉を歩く話。
前者はバブル末期の変化に取り残されながらも変化を強いられる街並みを主人公に据えて、ごく短い時の経過の中で失われてゆくものを描く。たまたま住んだだけで大して思い入れもない街なので、失われるのを眺めながら悲しむでもなく傷つくでもなく、街を眺める人間の方は一切変化をしないことで街の動きを際立たせる。
後者は子供時代を振り返りながら鎌倉をめぐるのだけど、ノスタルジーを拒否する徹底した姿勢が爽やか。最後にごくあっさりとした救いがあるのもよい。
一つだけ引っかかったのは、表題作で仕事人間の男性を完全に対象化していること。通勤の様子とかを述べることで彼にも生活があるんだよーみたいなエクスキューズにしているけど、この人に対してだけATフィールドが展開されてしまう。職場の嫌な奴にはメンチきったりして対等に喧嘩してるのに。仕事人間にも主体的な思考や考えはあるわけで、それを無視してしまうのは不公平にすぎる。視線の向けられ方があまりに意地悪なので、お前自身が高等遊民ぶってるから仕事人間を理解できないんじゃないの?と意地悪を言ってやりたくなる。
とはいえ心地よく耽溺できるほんとによい本でした。