- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101467252
作品紹介・あらすじ
ぼくはすごく不幸な少年・青年時代を送ってきた。親や先生の「いい子」だったぼくは「自殺してはならない」と自分に言い聞かせ、強く生きようと決意し、長い間、修行してきた。そして、30年間「なぜ生きるのか?」と悩んで見出したのは、「そのことを知るために生きるのだ」という回答だった。自らの苦い経験を振りかえりながら、いま不器用に生きるすべての読者に捧ぐ、「生き方」の訓練。
感想・レビュー・書評
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毒を持って毒を制す。自身の凝り固まった考え方をリフレーミングするには手軽だが...。うやむやにしてきたこと、現在進行形で偽っていることなどが浮かんでは消えていく...。うん、もうしばらくは消したままにしておこう。
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自分のことを言われているようで、読んでいて動悸が激しくなる場面が多くあった。
共感ができる部分はかなりある。
でも、カインにはなれない。 -
中島先生は生の無意味さと死の避けられなさに怯えと焦りを隠さない。本書でもそれは徹底的に踏襲されており、読む者の共感を呼ぶとともに深い絶望へと誘う。
一方で永井均は対照的に「存在の祝祭」、つまり長い歴史のなかで己が現在の社会に存在することの驚きを表明する。自己という存在の奇跡を高らかにうたいあげる。同じ現象がこれほど正反対に評価されるものなのかとしみじみ思う。
対照をなす二論のうち、中島先生はどうしても険しい方を選ばざるを得なかった。あえて苦しい道に進まざるを得なかった。それは自分には、あえて弱さを選択するという強さのように見える。気のせいだろうか。 -
この世の中は自分に正直であればある程生き辛い。思っている本当のことを口にすれば、周囲の人間や世間からパージされる恐怖に怯えなければならない。この世にはびこるのは常識、モラル、欺瞞、偽善。それらは本当はウソであるにも拘らず、善良な顔をして私達をがんじがらめに拘束しているのである。誰もが本当は「心の叫び」を上げたいはずだ。「心の叫び」が飽和点に達した時、自らの命を絶つ人が本当にいるのかもしれない。それだけ人間は弱い生き物なのである。では弱い私達はどう生きればよいのか? そのヒントがこの本に記されている。この本は弱い私達を慰めてくれるような優しいものではない。しかし、それでもあえて推薦するのは、この本には「ほんとうのこと」しか書かれていないからだ。人間の「心の叫び」に耳の奥まで傾け、きれいごとを一切排した真摯な言葉が、悩める者達の心の奥まで突き刺さるに違いない。
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人生で一番衝撃的な本でした。けど、この本に共感できる読者はけっこう限定されると思います。子どもの頃から周囲の期待に応えるように生きてきて大人になって行き詰っている人は、これを読むことで心にのしかかった重荷をどけることができるかもしれません。
かもしれませんと書いたのは、本書は重荷のどけ方を教えてくれていますが、あくまでどけるのは本人だからです。けど、これだけ自分のことを分かってくれていると感じられたのは本書が生まれて初めてだったので、そのことだけで私には十二分の価値がありました。
<目次>
はじめに ぼくはいかにして「強く」なったか
1 どんなことがあっても自殺してはならない
2 親を捨てる
3 なるべくひとの期待にそむく
4 怒る技術を体得する
5 ひとに「迷惑をかける」訓練をする
6 自己中心主義を磨きあげる
7 幸福を求めることを断念する
8 自分はいつも「正しくない」ことを自覚する
9 まもなくきみは広大な宇宙のただ中で死ぬ
あとがきに代えて 三〇年前の自分へのメッセージ
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-850.html -
2008/6/29〜30.7/2
ふむふむ
これは友人からかなり前からオススメされていた本であります。
私、中島義道さんのこのなんともいえない強ーい思いの塊みたいなのが大好きでして、
なぜか元気が出ます。
そんな感じでこの本もすごくいい本でした。
なんだか錯覚かもしれないけど
強くなれるような気がしました。 -
懐かしい
二十歳前後に読めば大いに影響を受けた
今は「そうか」と思うだけ -
幼い頃から「いい子」でいた著者が、同じような生き方をしてきた結果、20歳になって自分の生き方に疑問を抱き苦しんでいる「T君」へ向けて書いた、9通のメールという体裁の本です。
著者は、社会と折り合いがつけられない不器用な若者に、そうした自分を圧殺してしまうのではなく、逆にそうした生きづらい自分の人生を考えるために生きる、という道筋を示そうとしています。
おそらく「T君」も、著者の手紙を読んですぐさま悩みから解放されるということにはならないのだろうと思います。そうした自分自身のほとほと嫌気がさすような「どうしようもなさ」に付き合っていくうちに、そうした自分の「どうしようもなさ」を決して投げ捨てることができず、それと付き合っていくしかないという諦めがついたときに、「なぜ生きるのか?」という問いを考えるために生きるという、著者の語っている答えに出会うことになるのではないか、という気がします。