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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784102001035
感想・レビュー・書評
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『車輪の下』。中学時代からずっと本棚に並んでいたのに手にとらなかったヘッセの小説。
私も、「受験戦争」という言葉や「偏差値」という言葉が世間を騒がせていた時代に青少年時代を過ごした。片田舎で育ち、中学、高校、大学受験を経験したからハンスの境遇には少し近い。都会への憧れはあったものの自然の中で育った環境や思い出を否定することはなかった。
主人公ハンスは、周囲の期待を一身に背負い、神学校というエリート養成機関で過酷な競争にさらされ、精神的に追い詰められていった。学校を追われた友の影響を受け、成績も心も落ちていった。
エリート意識の揺らぎが思春期の揺れと重なり、繊細なハンスはどんどん病んでいく。
社会の車輪の下に圧し潰されないで。そんな叫びは届かない。
子育てを終え、孫育てをしている今だからこそ読んでよかったかもしれない。大人がさまざまなものさしを与えることができたら、きっと子ども達は救われる。 -
ヘルマン・ヘッセの自伝的小説。
少年ハンスは、神童として将来を期待され、それに応えようとひたすら勉強に励み続けた結果、心身ともに疲弊し精神を病んでしまう。
退学して故郷に戻り、周囲の理解が得られないなか、機械工として働き、ものつくりの楽しさを知るようになる。
そんなある日、仲間と酒を飲んだ帰りに…という話。
ハンスは頑張ったよ。本当によく頑張った。両親らの期待に応えるためだけに、これ以上ないくらい頑張った。
目標もなく努力を強いられるのはしんどいよね。だから、ハンスは心を削って頑張るしかなかったんだ。
社会や学校の車輪の下敷きにならない方法はなかったのかなと思わずにはいられなかった。
もっともっと自分のために生きてほしかったな。 -
多感で傷つきやすい少年、ハンスの短い青春。
ヘッセの自伝的小説らしいが、小説としてより自然の描写にそのすごさを感じた。これは川端康成の雪国にも感じたことで、現代人には内容はピンと来ない部分が多いが、逆に今はない自然豊かな空気により癒しを感じるのかもしれない。 -
著者、ヘルマン・ヘッセは、ウィキペディアによると、次のような方です。
---引用開始
ヘルマン・カール・ヘッセ(Hermann Karl Hesse, 1877年7月2日 - 1962年8月9日)は、ドイツ生まれのスイスの作家。主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者である。
---引用終了
で、本作の内容は、BOOKデータベースによると、次のとおり。
---引用開始
ひたむきな自然児であるだけに傷つきやすい少年ハンスは、周囲の人々の期待にこたえようとひたすら勉強にうちこみ、神学校の入学試験に通った。だが、そこでの生活は少年の心を踏みにじる規則ずくめなものだった。少年らしい反抗に駆りたてられた彼は、学校を去って見習い工として出なおそうとする…。子どもの心と生活とを自らの文学のふるさととするヘッセの代表的自伝小説である。
---引用終了 -
自然豊かな片田舎の少年ハンス。その天賦の才と勤勉さをもって、周囲の期待を一身に背負い、神学校へ入学する。
神学校でのハンスは、規律・学問という教育社会の車輪の下で苦悶する。詩人を望むヘルマンとの耽美的友情。彼の退学による孤立。ハンスは、精神的に疲弊していく。
田舎に戻り、機械工を目指す。労働への挫折感。見下していた同級生との葛藤。その中でも、製造という営みに人間らしさを見出しつつあった。
ハンスは、友人達との酒宴の帰路、溺死する。
若い頃読んだ時、ハンスは自殺の印象だったが、死因については、ふれられない。事故かもしれない。
再読してその理由は不要なのかと思う。
自伝的小説とのことだが、ハンスとヘルマン二人が、ヘッセを表現しているかと。ヘッセ自身は、神学校を退学し、詩人への道を模索するが、神学校という車輪の下に残された意識の破壊の表現と思えた。
ラストの場面は、印象的で、初読の後内容は忘れても、ミレーの「オフィーリア」に脳内変換されていたのだが、もう少し普通の川。
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神童の主人公が来る日も来る日も勉強を重ねて、合格した先にあるのもまた勉強を重ねる日々。自分がやりたいなと思ったことを心の中にしまい、やるべきことや求められていることに注力していく中で出会う、愛情や死の形、暴力や非行の形は彼の人生の中で「自分とはどのような存在であるのだろうか、何者であるのだろうか」という問い直しを与える。
最後の方に彼が語る神童であったのに気づけば周りから遅れていたというところはどのような形であれ、色々な読み手の人生の思い直しにも一石を捧げるものであると感じた。
働く喜び、人の役に立つ喜び、人を愛する喜び、最終に近づくほどに彼の中に少しずつ湧き立った感情は心の底から生まれた自分自身の本当の感情であるとするならば、我々も生きていく中でそのような「生きている、生きていく」という感情を心のどこかに大切にしておいた方が良いのだなと思った。
人に求められることが多い現代社会、自分らしさとはと問い直す現代社会。ただ自分らしさと自分勝手は違う。その社会、共同体の中で自分の喜びを表せるものやこと、人との出会いを大切にその中で自分なりの「生きている、生きていく」を自分の言葉で、自分の姿で、自分の行動で誇りを持って生きるための一歩を毎日踏み締めて生きたいと感じた。 -
とても面白かった。
ヘッセには他の作品には見られないギラギラとした魅力がある。
大人たちが期待などの善意(残酷な名誉心)によって主人公が苦悩に陥ってゆく?描写が印象に残った。
また読みたい -
悲しく苦しい少年の心理描写が繊細に緻密に書かれていて、心が痛みました。
愛溢れる子ども時代を送ることの大切さを実感しました。 -
あまりにも学校生活ががんじがらめで窮屈そうな息子を見ていて、少しでも彼を理解したいと思い、読んでみました。
率直に言うと、すんなり読める本ではなかったです。
感情を読み解くだけで理解できるものではなかった。
読んでる途中も、読み終わった後も、「うーーむ。これはどうやって読んでいけばいいのかわからない」というのが感想でした。(途中で挫折しそうになった)
しかし、巻末の解説を読み、一晩考えたら理解できました。
読む順番として正しいのかわからないけど、「解説→車輪の下」の順に読むと背景描写が理解できて、この小説の面白さがわかると思います。(ヘッセの人生をある程度理解している人はいきなり作品を読んでもいいと思う)
車輪の下はヘッセの幼少期を自伝的な小説に仕立て上げたという事で、ヘッセの幼少期を知っているか、が肝になります。
作中にはハンス(主人公)とハイルナー(神学校で出会う友達)が登場するのですが、この二人を合わせたものが幼少期のヘッセとなります。
(これが分からないと、本当につまらない小説なのです)
ハンスは勉学に励む人格、ハイルナーは詩をこよなく愛する人格であると。
これを解説で知って、実はこの小説はすごいのでは?と思いなおしました。(名作というだけある)
分身を別の人間で表現するってすごくないですか?
ハンスとハイルナーは別々の道を歩んでいきますが、それぞれの人生はヘッセの人生でもあるのです。
これ、表現の発明だと思うのですが、私だけでしょうか??
個人的には「車輪の下」よりもヘッセ自身の人生の方がぶっ飛んでて面白いと思いました。現実は小説より奇なり、とはこういうことを言うのでしょう。
ヘッセの他の作品も読んでみたくなりました。 -
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最後の終わり方が切ない。
失意から復活し、新たな人生をスタートさせたと思ったのだが、、
過度な期待、それに応えられる自分。
自分がしたいこととしなければならないこと。
ハンス少年は苦しかっただろうなぁ。 -
ヘッセの自叙伝とも言われている本作。この作品が描かれた頃も、今も、学業をおさめる中で心が壊れていく子どもはやっぱりいるんだな。
神学校に入学する前の束の間の休暇にまで勉強させようとする周りの大人たち、その中で靴屋のフライクおじさんだけが、まともなことを言っている。
「おまえの年ごろにゃ、十分外に出て運動し、休養も十分しなくちゃいかん。なんのための休暇だい?」正にこれが正しい。
小学校にいた時に、1年生の入学後から夏休み明けに壊れてしまう子を何人も見てきた。幼稚園で英語や算数や平仮名カタカナ、とにかく詰め込んで勉強してきた子どもは、小学校に入学してから伸び悩み荒れる。新しく学ぶことに「感動」が無いからだ。ハンスが壊れていく様子を読み進めながら、フライクおじさんがハンスの父親だったら、結末が変わっていたかもしれないと思った。
魅力的な同性への淡い感情も、異性への思いも、みずみずしい青春を存分に味わったならば、ハンスはもっと生きられたのではないだろうか。
巻末の高橋健二さんの解説が秀逸。解説を読んでから本編を読むことをお勧めする。 -
有名な小説で10代の頃からタイトルは知っていましたが、40代で初めて読んでみると予想外の内容にびっくりしました。子供から遊びやゆとりを強制的勉強により奪うことへの警鐘。時を経た現代においてもいまだ通じるものがあります。ドイツのシュバルツバルトに行ってみたい。
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現代の話と言ってもいいほどの本だと思った。
教育の問題、教育現場での問題は、変わらないんだと感じた。
教育に限らず、少年から青年への移行期に自分が考えていたことがそのまま書かれていたりして、普遍的な問題なんだなと再評価できたりした。
自分が高校生の頃読んだことがあるけど、まったく覚えてなかった。子供を踏み躙る側の大人になった後の方が受け取るものが多いのだろうか。
悲しいかな、教育者の側の考えもすごくよく分かると思ってしまう。自分が少年から青年への移行期から遠く離れてしまったからだろう。成長期の人間を信じてあげることができないんだろうな、と自分自身を振り返った。
教える側である教師たちの欺瞞がはっきりと描かれているが、こういうのって子供たちに見透かされてるのかもな、と感じる。子供を一人の人間として見てるか、ということを突きつけられた感じがした(反省しました)。
ハンスは、大人の期待に応えなきゃと思ってただけで、優越感はあっただろうけど、周囲を故意に見下したりはしてなかったと思う。見下してたら、意地でも機械工にはならなかっただろう。
また、単に、詰め込み勉強がいけなくて、子供には人との触れ合いが大切、ということを書いてるわけでもない。子供を一人前の人間として扱わず、大人の身勝手な考えだけで子供を追い詰めて行くことが間違いだということが言いたいんだろう。大人の身勝手な期待、考えに押しつぶされてしまった、車輪の下になってしまった子供がハンスなんだろうと考えた。 -
「ハイルナーみたいなのと付き合って、車輪の下じき(落ちこぼれ)になるなよ」
本のタイトルにもなっている校長の言葉。
昔に読んだときは悪どく聞こえていた筈が、今や適格なアドバイスに聞こえるようになってしまった。
校長らを庇うつもりは全くないが、彼らには彼らの正義があるだけで、悪気はないのだ。
ハンスがあまりにも無防備で素直であわれ。
彼を見習工に就かせるのもそうだが(書記のほうがどう考えても適正)、ラストもやりすぎ。
どうしても靴屋のおじさんに「教育のせいで、ハンスはこんな目にあったのだ」と言わせたかったのだろうが、若くして死んだらハンスじゃなくても悲劇。 -
「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」と言ったヘルマン・ヘッセの、あまりにも有名な半自叙伝小説。詩的な情景描写がたくさんでてきた。
繊細で感受性豊かな少年・ハンスは、幼い頃から神童ともてはやされ、期待され、猛勉強の末にエリート神学校に合格するも、そこでの規則ずくめの寮生活にやがて心を病んでいく。
退学して落ちぶれていくさまに胸が痛んだ。こういう話だったなんて知らなかった。
ハイルナーとの危うさも感じられる友情や、年上のエンマへの恋心と性の芽生え。成長していくハンスにとって、自然豊かな地元にもどれたことはきっと良いことだったはずなのに。見習い工としてやり直そうと奮闘し、未来はきっとこれからまだまだ拓けていくはずだったのに。 -
100年以上前に書かれたものなのに、ハンスの心情に深く共感した。
なぜ題名が「車輪の下」なのか最初はわからなかったけど、勉強に疲れ切ったハンスに対して、
『疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと、車輪のしたじきになるからね。』
と校長が言ったことで、なるほどとなった。
形骸的な教育や社会制度の歯車の下敷きにならないようにと言う先生や親の言うままに勉強に身を削り、街に溢れる職人を半ば軽蔑していたハンスが、最終的には試験で苦労して通った学校を自主退学し、歯車を磨く職人として働くようになる。
本来、自分や社会を豊かにさせるための勉強であるはずなのに、ハンスが勉強すればするほど精神的に死んでいってしまうのが悲しかった。
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感想 :

ヘッセと云えば『車輪の下』でした。
思わずまいけるさんのプロフィールを拝読し、同じような世代の方かなのか...
ヘッセと云えば『車輪の下』でした。
思わずまいけるさんのプロフィールを拝読し、同じような世代の方かなのかしらと親しみが湧き、コメントしてしまいました。
「車輪の下」必読書に載ってましたが、読んでいませんでした。
しずくさん、同年代だと嬉しいです。
長崎の方です...
「車輪の下」必読書に載ってましたが、読んでいませんでした。
しずくさん、同年代だと嬉しいです。
長崎の方ですよね。さださんの影響で長崎には憧れています。一度訪ねてみたいです。
ありがとうございます!