- 新潮社 (1955年4月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (160ページ) / ISBN・EAN: 9784102001059
みんなの感想まとめ
孤独と自由をテーマにした物語が展開され、主人公クヌルプの流浪の旅を通じて人生の美しさや苦しみが描かれています。彼は初恋の裏切りをきっかけに放浪生活を始め、自然と人々の生活に触れながら、時に痛みを抱えつ...
感想・レビュー・書評
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20世紀ドイツの作家ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の小説。1915年。
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主人公クヌルプが昔の友人知人から尋ねられたように、私も「かつてのあなたがなぜいまは」と不躾な糾問に答えを濁して振り払ったことが何度もある。もちろんクヌルプのように落魄するほど振り切った生き方ができるわけもなく、傍から見れば私の生活もそこそこの形にはなっているのかもしれないが、それでも「ここは本当に自分の場所だろうか」「自分にはどこか別の場所があるのではないか」という「ここではない」不全感にずっと憑きまとわれて今日まで来ている。そしてそれを、臆病さだとか完璧主義だとか不寛容だとか、自分のパーソナリティに帰責させてしまっている。クヌルプは出会った人々に彼への親愛の感情を惹き起こしたが、クヌルプの「神」に代わって、何によって、いかにして、私は肯定されるのか。そもそも、何かによって肯定されなければならないのか。いまは否定されているのか。なぜ? 何によって?
「神」は「あるがままのおまえ」(p151)と言うが、無際限の自問自答の中でそんな核のようなものは残りそうにないし、「神」もいない。「神」がいない以上、自分で自分を肯定するしかないのだろうが、そもそもそれは一体どういうことなのか。生の肯定とはなんだろうか。生の否定とはなんだろうか。
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「神さまの声はだんだんかすかになり、あるときは母の声のように、あるときはヘンリエッテの声のように、あるときはリーザベトのやさしいおだやかな声のようにひびいた。」(p153)
この一節に触れて、自分の臆病さがこれまで犯してきた過ち、傷つけてきた人たちのことが、その人たちが示した悲しさや嬉しさが、日々の怠惰ゆえに眼を逸らしてきたせいでもうそのほとんどが朧な記憶でしかない顔たちが、呼び起こされてくる。そして呼び起こされるいままさに、零れ落ちていく。欠けていくばかりの記憶の中で、それらをこれからどんなふうに束ねて生きていけばいいのか。記憶がその場限りのものになっていくと、芯の通った生き方も何もあったものではないのではないか。
「ふたりの人間のあいだには、たとえどんなに密接に結ばれていても、いつも深淵が口を開いていること、それを越えうるのは愛だけで、その愛もたえず急場しのぎの橋をかけることによってかろうじてそれを越えうるのだということ」(p76)
せめてこのことは肝に銘じておく。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヘルマン・ヘッセのとっても美しくて大好きな小説です。あることがきっかけで気ままな流浪の旅人となったクヌルプ。変に世間ずれしていませんから、行き当たりばったりの旅でも人びとに愛されます。子どものような純粋さ、時には残酷さもあったと思います。美しいものを見て、感じて、求めつづけて。私たちは生活のために働いて、世界の美しさよりも日常の人間関係に悩んだりすることが多いから、彼のような子どもみたいな人を羨ましく思ったのかも知れません。
そんなクヌルプだって、なんの苦しみも悲しみもなく旅をつづけてきたわけじゃありません。長い旅の中で、彼もたくさんの痛みを知ります。背負いきれないほどの悲しみをリュックにつめてひとりで旅をしたんだと思います。社会の枠を外れて生きる厳しさです。ともに背負う人がいないんですから、苦しみはそれはそれは大きいでしょう。人生の最後に、彼は自分の人生を振り返ります。ラストにクヌルプは神様とお話をするのですが、このシーンは涙なしでは読めません。神様のお導きはいつだって正しい。彼の人生はこれで良かったんだ。そう思って本を閉じました。 -
「早春」「クヌルプの思い出」「最期」の3編から成る。
年上の初恋の娘に裏切られた時から、クヌルプの漂泊の人生が始まる。旅人となり放浪する彼は、自然と人生の美しさを見いだす生活の芸術家となり、行く先々で人々の生活に灯りをともす。肺を病んで雪の中で倒れ、人生を後悔する彼に、神は彼らしく生きたと語りかける。
「早春」「クヌルプの思い出」と読み進めていて、この話の何が名作なんだろうかと、正直疑問に思った。クヌルプは、私には、わがままで厚かましく、自己中心的が過ぎるような気がした。誰もが彼を好いて、きれいな子供が屈託なく生き進んでいるかのように評し、放浪している彼に喜んで手を差し伸べている。それがなぜだか理解できなかった。
そのもやもやは最後までやはり残るが、「最期」の編を読むと、彼がいかにして絶対的な孤独を好むようになったのか、自然に包まれながらさすらうことを望むようになったのかが描かれていて、私にとってやや愛すべき人に変貌していき、独り死んでいく彼を憐れむ気持ち、慈しむ気持ちが不思議と湧いてきた。
クヌルプの死の場面は、この上なく美しい。子供の頃、フランダースの犬のネロとパトラッシュが天に召される場面を知った時の、深刻で強烈だった感覚と似ていた。
☆神さまとクヌルプは、互いに話し合った。彼の生涯の無意味だったことについて。また、どうしたら彼の生涯が作り変えられ得ただろうか、ということについて。なぜあれやこれやがああなるよりほかなく、なぜ別なようにならなかったかということについて。
あるがままでいいんだ、何も嘆くことはない…何もかもあるべきとおりなんだ。
あの時こうしていれば、など、時々立ち止まって深い後悔に打ちひしがれたりは年を重ねれば誰しもあることだけれど、何もかもあるべきとおりなんだ、と大きいものに肯定されたようだった。 -
若い頃の挫折から足が地につかない生き方をしてきた男の終末期を描いたお話、と言葉にすると何とも味気なく寂しい限りではあるけれど、人の一生について、その生き様が本当に哀れだったのかどうかと問いかけのある深みがあります。
彼の記憶、経験、見聞きしてきたもの、感情が、<孤独>ではあったけれど、孤独故の<自由>もあったわけで、何をもって自分自身の人生に満足するかは誰かに決められるものではない。<自分自身がどうなのか>ということなのです。
クヌルプの生き様を覗いて自分自身の人生をはたと振り返り考える、「大人が読むべき本」だと腑に落ちました。 -
〝最期〟で神と対話するクヌルプ。
我が人生の数々の不完全さを嘆くも、彼の存在そのものが神の御心のままに生きて死んでいくことなのだと啓示を受ける。
読後は非常に清らかな気分になる。 -
「何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考え出すほかないんだ。本から学ぶことはできない。」
自由と孤独をえらんだものの寂しさが、じっとりと身体をぬらす。自分の人生の傍観者。傍聴者。あまりにも刹那的。だからとても美しい。夏の夜の花火のように。春に咲いて散る桜のように。
諦観を拒絶し善も悪も受容する魂はしかし、夢のなかまではじぶんを欺けない。"私"と彼との対話は、ひとりの中の二面性におけるそれに他ならない。
彼のことを、彼の内面を、すべて知ろうとしてしまっていることに気がついて、じぶんの愚かさにおかしくなった。そしてよりいっそう、わたしじしんの人生をも愛しはじめていたことを、思い出した。
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学生時代に読んだ『車輪の下』以来のヘッセ。初恋で傷つきエリート街道から逸れて漂泊の人生を歩むようになったクヌルプについて描かれた3編からなる作品。自由に漂うことを楽しみ羨ましがられることもありつつ、無責任な孤独さをたしなめられたり自分自身でもどこか自分の人生を歩んでいないのではないかという他人事的な感覚もある歩み。そしてそんなクヌルプがその人生の歩みの最後の自身の人生をどのように総括するのか。時代背景や社会状況は異なってもクヌルプの傷つきやすさや感覚に共感する人は現代でも多いのでは。名作。
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気ままに生きる人間でちょっと理解しがたい所もあった。
周りを見下している節もあったが、最後に自分の生き方を肯定してもらって死んでいく。普通の生き方を嫌がってたが、それでも迷いはあったのだろう。
やっぱり理解が難しい人間だった…。感想が難しい。何を読んだかよく分からなかった。 -
二カ月ほど前、我が家に猫がやってきた。母が道端で鳴いていた黒い子猫を拾って来たのだ。その頃は目も開いておらず、当然餌も自力では食べられないため、注射器にミルクを入れて飲ませなければならなかった。時が経ち、日に日に成長した猫だったが、自分たち家族は彼のために様々な気を遣い、世話を焼かなければならなかった。その割に本人は飄々として自由気ままに過ごし、気の向いたままふらついて行く。呆れることもしばしばあったが、しかしそのぶん家族間の空気は和み、癒され、以前に比べて笑顔も増えた。すべて彼のおかげである。
さて、この話の主人公クヌルプは、まさにこの猫のような人間である。
自由気ままに放浪し、旅先の知り合いに世話を焼いてもらう。しかし、その憎めない性格ゆえに、訪ねる先々で倦厭されるどころか歓迎される。
ヘッセと言えば「車輪の下」「デミアン」など重苦しい作品が代表作としてあげられるが、本作はそうではない。作者お得意の自然の描写はやはり美しく、主人公はアウトサイダーの人間ではあるが、優しい童話のような雰囲気さえ感じられる作品だった。ただその核にある物は決して軽々しいものではない。やはりそこには前述したふたつの代表作に通じる真理があるのだ。
このことは訳者により巻末で詳しく述べられている。 -
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1⃣ 多彩で豊かな才能と、ひとを惹きつける天性の魅力を持ちながら、人並みの幸福に背を向け日の当たらない隘路をひとり彷徨い続けてきた男、クヌルプ。クヌルプは自身の死期を悟り、旧友からの施しを受けながら思い出の地をたどる。
▶▶▶一歩ずつ後ろへと消えていく旅の路面をただ見つめるだけのクヌルプ。そのとき彼の胸に去来しているのは、家族持ちの友人に対する憧憬か。あるいは日常を徒におくる者たちへの憐憫か。
2⃣ クヌルプはマホルト医師との会話の中で、自分の"さすらい"の引き金となったのが年上の美女フランチスカに捨てられたことだと告白する。「あれから私の何かがこわれてしまうか、台なしにされてしま」ったのだと。
▶▶▶しかしそもそもクヌルプはフランチスカに「男はやっぱり(エリート校の)ラテン語学校より(アホでも入れる)国民学校ね♡」などとテキトーなことを言われただけで、在籍していたラテン語学校をスッパリ辞め国民学校に入りなおしているのだ。……こんな無茶なことを平気でするような人間はフランチスカなんかいてもいなくてもやがていつかは道をはずれ"さすらい"に向かって大手を振って歩きはじめるのである、絶対に!
3⃣ クヌルプが再会した昔なじみの堅実な石工アンドレス・シャイブレは聖書を引き合いに出し、落ちぶれた境遇にいるクヌルプに向かって責めるように言う。「なあ、おまえはそんなみじめな無宿者よりもっとましなものになれただろうに」「おまえはほかの人たちよりまさった才能を持っていたのに、何にもなれなかった」「気の毒なことだ」と。
▶▶▶こんなことを言われた時のクヌルプの心中はどうであったろうか……いやそれよりもぼくが強く疑問に思うのは、これを言った時のシャイブレの心もちはどうだったろうかということだ。クヌルプが結局「何にもなれなかった」って? それではいったい自分は何になれたと思っているのだろうか? ……そこんとこマジではっきりと聞かせてほしいものだ。
4⃣ それから二週間後。降りしきる雪の中に死を覚悟しながら、クヌルプは神様に向かって訴えかける。「なぜ私はあんなにたくさんのことから何ひとつ学ばなかったのでしょう? まともな人間にならなかったのでしょう!」。そんなクヌルプに神様が答えて曰く。「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においておまえはさすらった。……わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ」。クヌルプは放浪のあいだは絶えてなかった安らぎに包まれながら、積もった雪にしずかに身を横たえる。
▶▶▶……神様からかけられたこの言葉はひとり不安のなか死に臨もうとするクヌルプにとってかけがえのない慰めとなったことだろう。しかしあの場所に、クヌルプと神様の隣に、もしぼくがいたならばぼくは両者のあいだに割り込んで、「いやそうじゃなくておまえが悩み、選択をあやまり、後悔しつづけた、そのことこそがたいへん立派なことなのだ」とクヌルプに言って聞かせたことだろう。なぜなら、人生をたった一度きりの貴重なものと理解している者だけがそのぶんおおいに悩み、常に苦い悔恨もって来し方を振り返ることになるからである。そしてそのことが立派だからこそ、"何にもなれなかった男"クヌルプが主人公の小説『クヌルプ』は不朽の傑作と見なされ、今でも世界中で読み継がれているのだ。『石工アンドレス・シャイブレ』なんて誰も書かないし、あったとしてもいかにもカラっぽのこんな小説、いったい誰が読みたいと思うだろうか………? -
美しい人生を体現し流浪する主人公クヌルプと、そんな彼の自由に憧れ、孤独を慮る人々の物語
100年以上前の作品だけれど、彼の生き様は今尚眩しく映る
ラストシーンがとても美しい -
主人公のクヌルプは、とても魅力的な青年に感じました。
作中に出てくる登場人物たちも、彼を慕っていて、彼が来ると食事やお酒を与え、寝床まで提供します。
しかし、彼はどこにも定住しません。人生に悩んでいるのです。
なぜ、彼にこんなに魅力を感じるのかは、理屈ではなかなか説明できませんが、最後の神様との対話で、その理由が少しわかった気がします。
それは彼が自分の生き様に対して、本気で悩む人だったからです。
最初の頃は、どちらかというと、物事を斜めから見るような印象が強いクヌルプですが、それは彼なりの物事に対する「真摯な態度」の表れだったのかもしれません。 -
私には難しい。
結構わがままな主人公だなってことしか… -
「クヌルプの生涯三つの物語」の副題があるとおり「早春」「クヌルプの思い出」「最期」に分かれている。「クヌルプの思い出」でのクヌルプと友人との哲学的議論が読んでいて面白かった。
流浪者であるクヌルプは何にも縛られず様々なものを愛し自由に生きる反面、孤独を抱えている。逆に、手に職をつけた友人たちは結婚し家庭を築きあげているが、自由であるクヌルプに憧れも抱いている。最期には、クヌルプ自身が自分の生涯を振り返り、自分の生涯が無意味であったと嘆くが、神との対話ですべてあるべき通りの嘆くことのない人生であったと悟る。
クヌルプのような人生に憧れるものの、帰るところのない生活は孤独で自分にはできない人生だが、二度目の人生があるのなら経験してみたいものだ。 -
孤独を愛することは誰かに依存してはいけないんやと、思う。クヌルプはけっこう自分勝手で自分大好き人間やから、孤独とはちょっと違うのかもしれない。人の好意をどう思ってるのかなとはめっちゃ感じたし、そばにいたくないタイプかなーと思ってしまったですよ。
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何があっても、決断したのは自分で、それが自分らしさということと受け止めた。
うーん、今の自分には響かないなあ。 -
雪降る中での神との対話は、これまでの人生の中でも有数の「あまりに美しい」文章だった。この美しさを求めて何度でもページを捲りたくなる、そんな一冊。
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