- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102001110
感想・レビュー・書評
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シッダールタという求道者が悟りの境地に達するまでの体験を描いた作品。あらゆる師の教えは決して彼を満足させられなかったが、自らの体験と苦悩を経て、すべてをありのままに受け入れることでシッダールタは悟りの境地に達する。高尚な言葉で綴られた書物よりはるかに、この本の中に真実が隠されているような気がする。また、教えというものを言葉にしてそれを目指した時、あらゆるものの一側面しか見ることができなくなる、というヘッセの言葉は、私の心にしみじみと染み渡ってきた。
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シッダールタは釈尊の出家以前の名前であるが、これは別の求道者の話。
シッダールタはバラモンの子であるが、普通のバラモン僧になる気はなく、父の反対を押し切って、沙門(苦行僧)の仲間入りをする。
修行のなかで無我を目指し、誰よりも無我に近い所に辿りつけるが、疑問を感じる。ある日、仏陀に出会い、この世で一番尊敬出来る師だと思った。親友は仏陀の弟子になるが、シッダールタは「教えられる」ということには興味をもてなくなり、一人、仏陀からも沙門の仲間からも離れて修行を続けようとする。
虚しさのあまり、考えぬいた結果、自我に目覚め、町のほうへ歩いて行く。随一の遊女カマーラに出会い、愛について教えを乞う。カマーラに会うためには収入が要ると言われ、カマーラに紹介された商人の所で働き始める。気がつくと、シッダールタは愛欲と金銭にまみれた軽蔑すべき生活を送るようになっていた。
そんな自分にある日目覚め、川に身を投げて死のうとするが、出来ず、川の渡し守をしているヴァズデーヴァに出会い、彼の人の話を耳を澄ませて聞ける人徳に惚れて彼と共に渡し守として働くようになる。渡し守として様々な人びとと出会い、普通のささやかな幸せのために努力している人びとに愛情を感じるようになった。
ある日、かつての愛人カマーラとその息子(シッダールタの息子)の渡し守をすることになる。何年ぶりかに会ったカマーラは毒蛇に噛まれてすぐに死んでしまい、シッダールタは息子を引き取るが息子はシッダールタに馴染まない。シッダールタは息子のことが可愛くて、心配で仕方ないが、ヴァズデーヴァは、馴染まない息子のことを愛情で縛り付けるのは、虐待と同じだと諭し、逃げる息子を追うなと言う。シッダールタはヴァズデーヴァに従い、息子を追わないが、愛する息子と離れ、悲しくて仕方がない。こんな感情を持ったのは初めてだった。川を覗くとそこに、彼の父の顔が映る(年老いた彼自身の顔)。彼自身も曾て父を捨ててきたのだった。生きとし生けるものは巡り巡る。川の流れのように続いている。
普通に一生懸命働いて生活している人が悟っていることを随分回り道して悟ったのだな……というのが率直な感想。しかし、シッダールタは父親に逆らわず、そのまま進んでいれば身分の高いバラモン僧になっていたところ、それを捨て、一人で修行する道を選んだ。初めは高い所から人間を見下ろしていたけれど、最後には川の流れに教えられる謙虚な人間になった。
最後に修行時代に別れた親友ゴーゥィンダに年老いてから再会した時に言った言葉。印象に残ったものを挙げておく。
「知識は伝えることが出来るが、知恵は伝えることが出来ない。」
「探り求めるとその人の目が探り求めるものだけを見る、ということになりやすい。その人は、常に探り求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取り憑かれているので、何ものをも見出すことが出来ず、何ものをも心の中に受け入れることが出来ない。さぐり求めるとは目標を持つことである。これに反し、見出すとは自由であること、心を開いていること、目標をもたぬことである。」
一般人は目標を持って頑張ることを良しとする。子供にだって「目標を持ちなさい」と教育する。しかし、シッダールタは目標を持つことよりも目標を持たず、心を開くことを良しとするを自分で学んだのだ。やはり人生をかけた修行をしてきたのだ。
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良い本でした。学生時代に読んでおけばよかったと後悔しています。
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観念的、哲学的内容ではあるが、非常にわかりやすく書かれていて面白かった。
禁欲にて解脱を目指すのではなく、あるがままを愛していくという無意識の呼吸のような悟りにシッダールタは達するまでの話。 -
最初の方は文章がちょっと読みづらくて、読み進めるのに時間がかかったが、途中からどんどん読みやすくなってきた。
人間は言葉とか思想じゃなくて、実際の経験の中で失敗したりして学ぶし、成長するんだなと思った。 -
学生時代に「車輪の下」を読んで以来のヘッセです。
いやぁ、深い・・人生において大切なものを気づかせてくれる一冊です。
涅槃の域を求めて流浪する求道者、シッダールタ。“バラモンの教え”“ストイックな苦行”を経て、カリスマ聖者・仏陀と出会います。(そう、タイトルから仏陀の話と思いがちですが、仏陀とは別の“シッダールタ”です)
一緒に修行してきたシッダールタの友は仏陀の弟子となりますが、シッダールタは“教えられる”という事では自我を克服できないと、一人流浪を続けます。
崇高な求道を続けると思いきや、敢えて“堕落”の生活も経験してみるシッダールタ。それでも彼の虚しさは増すばかりです。そんなシッダールタを受け入れたのは、川の渡し守・ヴァズデーヴァでした・・。
物語の中盤までは、シッダールタはどこか上から目線で、達観している感があったのですが、そんな“出来過ぎ”な彼が初めて、マジに悩んだのが「息子がいう事をきかない」という、“普通の父親”的なお悩みでした。息子への執着を通して、“普通の人”の感覚になり、そこから真理に近づいていく、終盤の2章は秀逸です。
すべての“経験”が(教えや修行だけでなく欲や執着も)真理への糧となるのかなと。
因みに私の中でのベストオブ“賢者”は、川の渡し守・ヴァズデーヴァだったと思います。彼の存在こそ真理であり、愛であり、究極の“在り方”ですよね。
この本は読みこむほど、気づきがあると思うので、今後ちょいちょい読み返してみたいと思います。 -
宗教色が強くて、悟りに関する複雑さを理解するのが難解でした。けれど、圧倒的な文章の美しさや精神世界の神秘性に圧倒されました。
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この小説には生きる上での指南が沢山示されているが、最も感銘を受けたことは、賢明である必要はないということ、そして言葉ではなく経験ということである。本を読む私自身もそうであるが、我々は人から与えられる言葉を躍起に求める傾向がある。効率的、合理的に生き、失敗を可能な限り排除するために人から得た知識や箴言を崇め、己が大きくなったと思い込みたいのかもしれない。そのことが錯覚であることにも気がつかず、受売りを真理として周りと比較をし、軽蔑的な眼差しを他者に向ける。これは賢明であることの弊害であると感じる。しかし求道者であるためには、言葉でのみの理解だけで済ます人生ではいけないのである。たとえそこに失敗や挫折が伴っていたとしても、自分の人生しか生きることができないのだから、結論は自分で探究しなければならない。そして、大切なのは自分だけがいきれる人生を重んじているのと同様に、他人も同じであると知るということ。賢明な人間ほど優越に浸る慢心さを持ちがちである。優等と劣等をを物差しにして悟った気になっている間は真の悟りを知らないということである。真の悟りとは、周りから飛び出ることでなく、なじみ切ることであるのかもしれない。自分が特別だという認識より、自分はどこまでも同じであるという寄り添いこそが悟りであり、その位置に身を置いて求道者となることが人生を豊かにする指針であると感じた。
作品の主人公シッダールタは賢明な青年であったが、自分の真理を求める傍らで他者の持つ悲しみ、快楽、慈愛などは腐敗であると軽蔑していた。しかし結局シッダールタ自身もあれほど軽蔑していた幾多の快楽に溺れ、沈湎冒色の生活を送ることになる。他者と比較することで矜持を保ち、受売りの言葉を鵜呑みにした賢明さは容易に崩れ去ってしまう。その失敗の生活で快楽、挫折、倦怠、悔恨、耄碌に苛まれることになった。しかし、この作品のありがたいところは、それでも人は救われることが可能であるということである。生きる上で結論付けるのは自分自身でなければならないということを失敗を重ねることでシッダールタは学んだのである。そしてかつてまであった賢明さと慢心と思想を捨て、全てを受け入れ、川のような自然を師としてあるがままの世界を見つめることで悟りを開いた。人と比べないために、人を受け入れるという視点は新たな発見であった。孤高で思想的であろうとすることは幸福から遠ざかっていることなのかもしれない。失敗をするから人間は愛しく、失敗をするから幸福を知れるのかもしれない。
ヘッセの作品は初めてだったが、人を突き放さない優しさのようなものを感じた。そして、これほど壮大な物語に現実味を帯びさせて人間像を描いているのがすごいことだと思った。「なるほど」とつい唸ってしまうような含蓄を感じるのはヘッセ自身が人生を生きた結晶の欠片が映し出されているからであろうか。 -
仏教の教え,仏教のできるまで,ではないんだな.
ヘッセが20年間研究して,なおかつ,自分で模索して,体験して,ここを書くにいたった.それだけであるが,それだけではないんだ.
シッダールタは人間なんだな.
人間の生き方かな.
著者プロフィール
ヘルマン・ヘッセの作品





