荒野のおおかみ (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (349ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102001134

作品紹介・あらすじ

物質の過剰に陶酔している現代社会で、それと同調して市民的に生きることのできない放浪者ハリー・ハラーを"荒野のおおかみ"に擬し、自己の内部と、自己と世界との間の二重の分裂に苦悩するアウトサイダーの魂の苦しみを描く。本書は、同時に機械文明の発達に幻惑されて無反省に惰性的に生きている同時代に対する痛烈な文明批判を試みた、詩人五十歳の記念的作品である。

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  • 『荒野のおおかみ』と称するハリー・ハラーが、現代の社会を痛切に批判する物語。このハリー・ハラーは、へルマン・ヘッセ自身を重ね合わせたものとされている。正直、今まで読んだヘッセの作品の中で、いちばん読みづらかった。前半で読むのを諦めようと思ったほどである。ヘッセの混沌とした精神世界を夢遊するような作風であるため、この世界観に入り込むためには、ゆっくりじっくりと味わって読んでいく必要があるかもしれない。

  • 20世紀ドイツを代表する小説家・詩人ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の作品、1927年。時に作家五十歳、第一次大戦敗戦後のワイマール体制下で1923年にはヒトラーがミュンヘン・クーデタ未遂で投獄された情況下、作家自身の自己省察と同時代批判とを本作品で試みた。なお同年の1927年にはにハイデガー『存在と時間』が刊行されている。



    「荒野のおおかみ」ことハリー・ハラーは、ヘッセ自身を表わしていると云われる(そのイニシャルは作者と同じH.H.である)。彼は、ゲーテとモーツァルトを愛し、学芸に則ち書物と古典音楽とに、その観念に、沈潜する。「精神」の人である、「文化」の人である、「考える」人である、「憧れ」を抱く人である、「一次元よけいに持つ」人である、時代の「少数者」である。そうやって・またそういう自己意識で以て、自己の存在を支えてきた人である。そして、観念に沈潜する者は、往々にして「極端」な人である、不可避的に破滅に向かわずには在り得ない「極端」の人である。「世界外」の人である。「対自的」な人である。「不幸」の人である。「夜」の人である。「夢想」の人である。「倦怠」の人である。「破滅」の人である。「運命」の人である。「英雄的孤独」の人である。「全体的」たらんとする人である。端的に云えば、「死」の人である。

    では彼らと対照される「市民=ブルジョア」とは何にか。即物的な功利主義に骨まで浸かった非-精神性。他者との関係性が虚栄と欺瞞の化かし合いかさもなくば享楽と狂騒と官能の交換の為でしかない俗物性。社会通念・公衆道徳、則ちおよそ日常的な平穏さなるものにべったりと同一化しでかつこの日常への屈従状態に対して疑問を抱かないでいられる空虚な自己。こうした堕生態にある「市民」は、破滅に到る極端に陥らない「中庸」を、欺瞞的にも自らの徳であると云う。彼らは徹頭徹尾「世界内」の人である。「即自的」な人である。「太平楽」の人である。「朝」の人である。「規律」の人である。「活動」の人である。「安穏」の人である。「日常」の人である。「匿名的群衆」の人である。「断片化」されている人である。端的に云えば、彼らは「実生活」の人である。

    「もちろん大多数の人間は泳ごうとしません! 地面に生まれついて、水に生まれついていません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません! そうです、考える人・・・は、・・・、まさしく地面を水ととりかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう」

    それゆえに彼ハリー・ハラーは、時代の圧倒的多数者であるところの「市民=ブルジョア」の世界に、自らの存在余地をもたない。「市民」の世界とは、「株式会社に吸いつくされて、支離滅裂な地球のまっただ中で、人間世界といわゆる文化が虚偽に包まれた野卑なブリキ製の年の市のけばけばしさで、どこに行っても、きざな男のように歯をむき出して私たちに笑いかける」世界である。一度でも自己の内面に沈潜しその深淵の底無しに戦慄してしまった者にとって、卑小な日常的「市民」世界は自らの存在をそこに安置しておくには絶対的に奥行きを欠いたものである。内面の深淵とは、内面の深淵の果て無き果てのその彼方であるがゆえに。であればこそ、孤独なる時代沈潜者は、「市民」世界に於いて何者かで在ることが不可能である。ハリー・ハラーが偶然に手にした白昼夢のようなパンフレット『荒野のおおかみについての論文』から、いくつか引用する。

    「こういう人々はみな、その行為や作品をなんと呼ぼうとも、実際はまったく生活を持たない。彼らの生活は存在ではなく、形を持たない。彼らは、他の人たちが裁判官であり、医者であり、くつ屋であり、教師であるような仕方では、英雄でも芸術家でも思想家でもなく、彼らの生活は永遠な苦悩にみちた動乱であり、岩に砕ける波である。そういう生活の混沌の上に輝く、あのまれな体験や行為や思想や作品の中に、意味を見いだす用意がないとすれば、たちまち彼らの生活は不幸に痛ましく分裂し、おそろしく無意味になる」

    「事務所、役所、執務室、それは彼にとって死のようにいとわしかった」

    「・・・、「自殺者」は、個体化は罪であるという感情に襲われた人間なのである。人生の目的は自己の完成や表現ではなくて、自己の解体、母への復帰、神への復帰、全体への復帰だと思っているような人間である。・・・。彼らは生の中にではなく、死の中に救済者を見るのだから。自己を投げ出し、捨て去り、消えうせて、はじめに帰る用意ができているのだから」



    彼ハリー・ハラーは、或るブルジョアから会食に招かれた際に不体裁を働き、ついに「市民」世界に則ち世界そのものに堪らず、自殺を決意する。さて、反時代的沈潜者は二様に分けられる。則ち、天才とそれ以外と。

    天才は、自己の内なる深淵を現実へと外化し、以て「市民」世界に裂目の戦慄を走らせることができる者の謂いである。尤も、それは現実化された途端に「市民」世界が自らを保持しようとして吐き出すあらゆる欺瞞に塗れることが運命づけられている。これは悲劇であるが、天才の悲劇である。豪奢な敗北である。

    それ以外の者はどうか。彼らは、自己の内なる深淵へ無際限の否定運動――それは、対自的である彼らゆえに、必然的に自己否定に到らずにはいない――とともに下降し、終ぞ何らの具体的な形を与え得ない。「市民」世界からすれば、何とも無害な無用者である。彼らには英雄的・運命的・悲劇的に没落していくことすら許されず、ただただ「市民」世界という地獄と内面世界という深淵とのあいだに宙吊りにされたまま、振り子のように両極を右往左往する。「市民」世界の片隅で、一層強張った内面に於いて尽きること無く否定を繰り出しながら底着くことなく何処までも沈潜していくか、その内面の重みに耐えられなくなるかである。

    では、ハリー・ハラーを含む、天才以外の反時代的沈潜者は如何したものか。ブルジョア教授の家を飛び出して惨めに街を彷徨していたハリー・ハラーは、ジャズが荒れ狂うダンスホールでヘルミーネと出逢う(これは作者の名ヘルマンの女性形である)。娼婦ヘルミーネは、ハリー・ハラーの苦悩にいとも容易く云い放つ。

    「いつもむずかしい複雑なことをやってきたくせに、簡単なことは全然習わなかったの? 時間も興味もなかったの?・・・。でも、人生を思う存分ためしてみたが、何も見つからなかったとでもいうようなふりをなさるのは、いけないわ!」

    こうして彼女やその友人のマリアやパブロから、十代の若者なら誰でも知っていることを、ハリー・ハラーは学ぶことになる。ダンスを、ダンスホールで女の子に声をかけることを、恋することを、ジャズを楽しむことを、ばかになることを、満足することを、笑うことを、そんなふうに平凡であることを、則ち生きることを。

    「笑うことを学ばねばなりません。さて、すべて高級なユーモアは、自分自身をもはや真剣にとらないことから始まるのです」

    「真剣にとるに値することを真剣にとることを学びたまえ! ほかのことは笑いたまえ!」

    こうして「精神の人」ハリー・ハラーは、【生き直す】ことになるだろう。自殺・発狂・薬物・無差別殺傷を拒むなら、これ以外に、無いのだろうか。「精神」との均衡、ジョルジュ・ルカーチの云う節制 Haltung が、実際に如何に為されていくかは、この小説では描かれていない。しかし、そんなこととは無関係に、ともかくも、【生き直さ】れねばならない。【生き直さ】なければいけない。



    本作執筆にあたり、ヘッセ自身も担ってきた「ドイツ的精神」なるものの歴史的現実に於ける存在意義は如何なるものであったのか、第一次大戦を惹き起こし・敗北し・そしてまた来るべき戦争へと向かいつつあるドイツの知識人として、徹底した自己批判を為そうという意志がその根底にあったと思われる。

    「われわれ精神的な人間はみな現実を家とせず、現実をうとんじ、敵視した。だから、われわれドイツの現実においても、歴史においても、政治においても、世論においても、精神の役割はひどくみじめなものであった。・・・。将軍たちや重工業家たちの言うことはまったくもっともだった。つまり、われわれ「精神的な人間」からは、何も生じやしない。われわれは、いてもいなくてもいい、現実にうとい、無責任な、才気に富むおしゃべりの集まりにすぎないというのだ」

  • 精神的枯渇期の五十がらみの男性が、古宿で本をちょっと読んでは、積み重ねてゆく。外をふらついては帰ってくる。ある日ゲーテの亡霊に世俗的若い娘を紹介され、彼はその遊びについてゆけないことを知る。そこからまだまだゲーテ先生にはほど遠いんだなと感じて、そういう庶民的な世情を知るべきだと思うようになる。ヘッセが荒野の狼を描く。ある種のサバイバル感漂う作品だろう。

  • ユング心理学の「影」の概念についての本を読んだ直後だったので、かなり一面的に「影の克服」の物語として読んでしまったが、それが主題であることはたぶん間違ってないと思う。実際にヘッセはユング心理学に高い関心があったというし。私はこの小説で影は一つではないことを知った。あるいは1人の人の中の影にも多様な姿かたちがあることを理解した。平面的なものにとどまっていた影の概念の理解が深まり、驚きとともに嬉しい手応えがあった。物事の理解を深めるのは何も学術書だけではないのだなあ。物語を通して疑似体験できることはとても有意義なのだと実感した。物語としても、仮装舞踏会でのヘルミーネとの恋の踊りは本当に感動した。読んでよかった。
    最後にどうしてもひとつだけ言っておかなくてはならないが、50にもなって自分のことを子どものように可愛がってくれる若い女の人が現れるなんて、反則じゃないでしょうか。

  • 前に読んだときはどうも馴染めなくって、内容としてはヘッセ自身の内省というか実存的な思想哲学の遍歴ってかんじだし、アメリカのヒッピーにとってはバイブル的あつかいというから、もう1度読んだら印象変わるかなっと思って読んでみたはいいものの…やっぱりこれはぼくの好きなヘッセじゃないと思った。

    哲学ヘッセというか内省ヘッセはあんまり好きじゃない。文章の意味がまず妙につかみにくい。それは結局のところ論文を書いているわけではないから、ハラーの日記という体でとても自己内省的な文章になっているのだとは思うけれど、こういうのはもういっそ論文口調でやってほしい。

    ヘッセのときは第一次大戦か、あのときに反戦して自国からは非国民あつかいを受けて、どうもその傷がけっこう深かったみたいに思える。それで人生や人間、生きる時代に対しての悲観、絶望、無気力に陥ったハラーの姿は、そのままヘッセの姿でもあっただろう。

    こう考えるとヒッピーは第二次世界大戦の影響でおなじような無気力、おなじような絶望を抱いた世代なわけで、本書をバイブルとするのは当然っちゃ当然なのか。

    けどぼくはヒッピーって実はあんまり好きじゃないのかも。生の重みを抱えてないっていうか、マリファナとかLSDとかやってラリパッパーだし、実存を語るけどむしろその姿勢は疎外のほうへ向かってるでしょ、っていう逃避だし結局。

    でもヘルミーネがハラーにダンスやそのほかの享楽、あまり重々しくない愛を教えるところは好きだ。ハラーにたりないものは、笑うことだって教える。まるでニーチェみたいにだ。ヘッセはやっぱりビルディング・ロマンスなのかなあ。

    ヘッセの描く世間一般にみられるような、いわゆる「軽薄な恋愛」があんまりいやらしく見えないのはきっと、ヘッセ自身が愛をあまりに重々しく考えていたために(なにしろ初期作品では失恋すなわち自殺の人であるし)、かえってこの「軽薄さ」の重要さというものを後発的に気付いた(それもかなり後になって?)人であるから、という気がする。

  • やっぱりヘッセはすごい。個人のある感情についてメタに、俯瞰的に言及することは誰にも可能だ。しかしそれに対してさらにメタの視点で言及することは少し困難だ。これを自由に使いこなす人間が小説家というものだと思う。しかしこれだけでは二流である。一流はさらにそれらに関してメタレベルで表現することができる。ヘッセのすごいところは、さらにこのもうひとつ上のレベルにときどき「ひょいっ」と上がってしまうところである。ヘッセは最初から高みにのぼったりしない。いつも私の手の届きそうなところにいて、いよいよ捕えたかと思うとするっと脇を擦り抜け一段のぼる。繰り返すうちについに私は追いつけなくなってその背中をじっと見つめる。荒野のおおかみという小説はこのようなおいかけっこを人間の心の奥底にあるくらい部分で行った小説であった。

  • ▪️印象に残った言葉やシーン
    荒野のおおかみの論文に書かれていた「ハリーが一つないし二つの魂あるいは人格から成り立っていると思うのは空想に過ぎない。人間はみな、十、百、千の魂から成り立っている」。

    ヘルミーネがハリーに対して言った「あんたは精神的なものが高く発達しているかわりに、いろいろな処世術が酷く遅れている。思想家ハリーは百歳だけど、踊り手ハリーは半日そこらの赤ん坊。同じくらい発育の悪い小さな兄弟たちも含めて、これから私たちが育てていく」。

    ハリーの人格や魂が分裂してできた、老人、青年、女性、強いの、弱いのなどの多数の駒が、将棋盤の上で遊んだり、戦ったり、同盟を組んだり、結婚したりするシーン。内面にある多数の魂が互いに調和したり、押さえつけたりする様子を表しているのだと思う。

    ▪️感想
    自分を振り返ると、日々真面目なことしかしていない。この本を読んでから、身の回りにたくさんある楽しいことに目を向けて、積極的に楽しんだ方が良いと思うようになった。

  • 宇多田ヒカルさんの『荒野の狼』もオススメです。
    この曲を聞くたびに、心が震えます…いい曲です。

  • 人は誰しもいろいろな側面を内に持っている。ハリーはヘルミーネと出会うことで、自己の諸側面について気づき、洞察を深めていく。その中には、自身が否定してきたものと相反する矛盾した自身の姿もある。たとえば、反戦思想を唱え人道を叫びながら、裕福な身分のまま亡命し個人の活動に耽っている自分、自殺志願者である自分についてである。

    物語で、ハリーの矛盾する己の存在への葛藤は、ヘルミーネによって解消される。
    しかし、現実はそうした自己の存在に気づくことは容易ではない上に、気づけたとて向き合うことは非常に勇気のいることである。多くの人は気づいていなかったり、気づいても無意識に知らぬふりをしてしまうだけで、実は誰しもが、未だよく知りえない、向き合えない自身の側面を持っているのだと思う。この物語は荒野のおおかみに限ったものではなく、誰しもが持つ自身についての物語なのだと思う。

  • 共感しすぎて初めて読んだ気がしない本。

    それでいて先人は刺激的で、まだ見たことのない世界まで連れて行ってくれる。現実の日常でもなかなか得られないような交流が、本を介して作者との間に生まれるのだから、作者の力にただただ頭が下がるばかり。体の奥から勇気が湧いてくる。

    もっと頑張ろう、楽しもう。一度きりの人生を。ひとつだけの世界を。

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