- 新潮社 (1970年1月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (272ページ) / ISBN・EAN: 9784102010099
みんなの感想まとめ
人間の孤独や自意識の苦悩を描いた本書は、偏屈な主人公の視点を通じて、現代にも通じる普遍的なテーマを探求しています。彼の自己中心的な視点や世間への呪詛は、読む者に強い印象を与え、時には苦痛を伴うものの、...
感想・レビュー・書評
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<ぼくは病んだ人間だ。…僕は意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えではこれが肝臓が悪いのだと思う。もっとも、病気のことなどぼくにはこれっぱかりもわかっちゃいないし、どこが悪いかも正確には知らない。(P6)>
元官史の語り手は、おそろしく自尊心が強く、極端な迷信家で、あまりにも自意識過剰で、とても臆病で、際限なく虚栄心が強く、他人との交流もできず、心のなかで鬱屈を抱えている。
遺産によりまとまった資産を手に入れた語り手はペテルブルクの片隅のボロ家に引き込んだ。そんな生活をしてもうすぐ20年にもなる!やることといえば心の鬱屈を手記にぶちまけるだけ。
あれも気に食わない、これも嫌い、人から嫌われることばかりするのに人に尊敬されるだろうと思っている、昔のことばかりグジグジ繰り返している、この手記だって自分のために書いているけれど、世間の諸君が読むかもしれないではないか!
…という感じのグジグジぐだぐだウジウジした語りが続き、「この話全部この調子なの…(´Д`) 」とえっらく読むのに時間がかかった。
しかしその語りは最初の60ページまでだった。その次の章からは、自分の鬱屈した正確を示すものとして、まだ引きこもる前の若い頃の出来事が語られる。これが「なにやってんのーー」と、けっこう笑えてきた。
●語り手は、ある将校に無視されたことから数年に渡り一方的に恨みを持つ。いつかあの将校に自分がどんなに重要な人物かを認めさせ、詫びさせてやる!語り手は将校の後をつけて彼のことを調べる。通りでは何度もすれ違った。だが将校は自分を認識すらしない、こんな屈辱があろうか!こうなったらあいつをネタにして誹謗中傷小説を書いてやる!出版社に送ったのに無視された!悔しい!!こうなったら決闘だ!語り手は決闘申し込みの手紙を書く。我ながらなんたる美文!将校がわずかでも<美にして崇高なもの>を解する男だったら、ぼくの素晴らしさがわかるだろう!この手紙はかろうじて投函されなかった。だって何年も経ってるんだもん、さすがにわからないかもしれないよね。
それでは通りであの将校に道を譲らせてやる!それにはまずぼくのことを認識させないといけない、では身なりを整えないとな。上司に給料の前借りをして、あらいぐま…いやビーバーのコートを買って、手袋はレモン色…いや黒のほうがいいだろう。
自分を認識していない相手に何年も執着し、独り相撲して、勝手に苦しみ、誹謗中傷小説まで書き(無視されたが)、やったことは「通りですれ違う時に、ぼくの方から避けずに肩がぶつかったぞ!ぼくの勝ちだ!!」
⇒そ、そういうことにしておこうか…
現代で言えばネットに誹謗中傷書きなぐるタイプだな、妄想の中で満足してまだ良かった。
●ぼくはあらゆる空想をする。自分自身が空想の中ではあまりにも素晴らしく幸福の絶頂を味わい、全人類と抱きあいたいたい気分になる!!そこで学生時代の友人を訪ねた。
そこではかつての学友たちが集まっていたんだが、語り手の姿を見ると明らかに嫌そうな雰囲気になる(語り手の一人称だが、それがわかる)。学友たちは、遠方に将校として赴任するもう一人の友達ズヴェルコフの送別会を計画していた。このズヴェルコフは語り手は全くタイプが違い、出世街道に乗り、女を口説き、仲間と酒を飲み明かす生活を楽しんでいる。
そんなズヴェルコフの送別会なので当然語り手は招かれない。そこで語り手は「ぼくを忘れちゃ困る!!ぼくも彼の送別会に行く!!」と突然のアピール。あっからさまに嫌がる学友たち。うん、気持ちはわかるぞ!!
⇒現代で言えば「自分だけ同窓会に呼ばれない」エピソードですね(;^ω^)
●送別会では自分の偉大さを認識させてやる!…と、乗り込んだが誰もいない。そう、時間変更していたのに知らされなかったのだ。
●それでもみんなもやってきてズヴェルコフの送別会が始まる。あっからさまに無視される語り手!それでも現代の待遇を馬鹿にされたり、嫌味丸出しのスピーチをして場を険悪にする。元学友たちに完全に無視された語り手は、送別会の三時間の間部屋を有るき回る語り手!ずっと無視される!だが語り手は「自分の存在はみんなに刻み込まれたはずだ」とうそぶく。
●送別会の二次会で娼館にしけこもうという元学友たち。語り手は「ぼくも行くぞ!金を貸してくれ!!」あまりのみっともなさに、学友の一人が「恥知らず!」と投げてよこした金を手に取り娼館へ向かう。道中でも頭の中では「あいつらに思い知らせてやる!」などと考えているが、この勇ましい言葉も有名ロシア文学からの受け売りでしかないんだ。
●娼館でも取り残された語り手は、残り物の娼婦のリーザと部屋へ。事後のベッドで語り手はリーザ相手に御高説をぶちまける。
娼婦の君の人生とはなんだ!?きみはこの仕事と魂を引き換えにしたのさ!
リーザは答える。「あなたの話って、本を読んでいるみたい」そう、語り手がどんな演説しようとも、受け売りが見透かされてしまうのだ。それでもリーザは我が身を振り返り号泣する。
●娼婦リーザは、自分が娼婦と知らない男からもらった手紙を語り手に見せる。自分をちゃんと扱ってくれる男だっているのよ、という拠り所だった。
⇒リーザは見かけとしては可愛げない様子だが、この大事な手紙を語り手に見せる場面はとてもいじらしい。
●語り手はリーザに自分の住所を教えて「訪ねてこいよ」なんて言う。しかし帰ってから後悔する語り手。本当に来たらどうしよう、リーザは自分が語った言葉を聞いて、自分が崇高な人間だったと思ったに違いない、だがこんなボロ屋見せられないし、事後でもないのに格好いいことなんて言えない。リーザのところに行って「やっぱり来るな」っていおうか、いやそうもいかない、うぎゃーーーーー、と葛藤しまくる語り手。
●語り手にはアポロンという中年召使いがいる。非常に態度がデカいらしいが、読者としてはそりゃーこんな雇い主だったらばかにするよねとは思う。このアポロンに月給を渡さなければいけないんだが、「アポロンが自分に『給料をください』と平身低頭しないのがムカつく!!!」と、金は用意するが渡さない。しかしアポロンに舌打ちされたり睨まれたりすると「待て!!金はあるんだ!支払ってくださいと頼め!!」とか言ってますますバカにされる。
●三日後にリーザが来るが、語り手は非常に悪い態度を取り、ひどい言葉を浴びせる。リーザは、語り手に握らされた金を拒絶して去っていくのだった。
…ということで、「現在でもいるよね」とか、「ここまで極端でなくても気持ちはわかる部分もある」とか、「こんな奴に関わった周りの人のうんざりさがわかる」などと言う気持ちになってなかなか楽しめた。
語り口は、引きこもり男が勝手にグダり続けだけなんだが、これが小説として読めるものになっているのがさすがの大文豪だよなー。今でもこんな事を考えている人はたくさんいて、たまたま誰かがそんなことを言っているのを聞いてしまったり、ネットでうっかりそんな人の文章を読んでしまうこともある。そんなときはかなり嫌な気持ちになる。
しかしこの小説ではそのような嫌な気持ちにはならず「あるわー」「なにやってんだーーー」と、語り手と、語り手の周りの人双方の気持ちがわかりながら読んでいけるんだ。その意味では実に面白い小説だった。(最初の60ページ以降は)
語り手は自分のような人間は自分ひとりだと思っている。<だれひとりぼくに似ているものがなく、一方、ぼく自信も誰にも似ていない(…略…)ぼくは一人きりだが、やつらは束になってきやがる。P70>というわけだ。
だが語り手のような考えを持つ人間は当時も、今も、世界中にたくさんいる、ある意味人間の心の普遍的なものでもあるだろう。この「自分は孤独だ!」と思っていても、周りから見たら「たくさんいるよ」という感覚もいつでもあるものだ。
なお、語り手は読書について<ぼくの内部に煮えくり返っているものを外部からの感覚で紛らわしたかったのである。(P75)>と言っているのだが、ドストエフスキーの考えでもあるのかな。この読書への取り組みは何となく分かるんですけど。頭が混乱している時にも読書ってしますよね。するととっちらかった脳を一つに収集するのがなんだか分かったりして。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読もう!と決心してから…腰を上げるまで時間がかかるのだドストエフスキーの作品は!
「地下室」と「ぼた雪にちなんで」の二部構成
※以下軽くネタバレ有ります
「地下室」は40歳の元役人がペテルブルグの片隅の住居・地下室になんと20年近く籠城しながら、社会に溶け込めない自分の不満(彼なりの思想だか哲学)が「俺は病んでいる……。」から始まり、延々60ページ近く言葉を変え変え独白するという内容
逆に言えばよくもまぁ同じことを手を変え言い続けられるものだ 60ページも!(まぁ20年と考えれば少ないくらいか(笑))
思想も理論もへったくれもない
ただただ自我剥き出しの醜悪な内容
他人を一切信じずに見下しているくせに、全て裏を返せば自分をわかってくれる人を心の奥底から求めている
ここを読むのはかなり大変だが、乗り越えた次の構からもうそれはそれは一気に面白いのである
そのための助走として頑張って読むのだ(笑)
(ここが面白くなったら本物のドストエフスキーファンと言えるのかなぁ…)
「ぼた雪にちなんで」
こちらは24歳の主人公に起きた出来事
大きく3つの内容に分かれている(と思う)
1つ目
「地下室」の独白された主人公の具体的な行動により、彼を読者がよりわかりやすく知る序章的内容
独りよがりの妄想決闘とでも言えようか…
ここはパロディ的に面白い(相手が全く気付かない決闘なんて!そして自分が勝ったのだ!と歓喜するのである)
2つ目
学生時代の同級生との出来事(ある人物の送別会)
みんなと仲良くやりたい本心があるのだが、もうそれはそれは真逆の態度で戦闘モード
皆に嫌われて、引っ込みがつかないとわかってもと言い訳を考えては「帰る」という選択肢を取らず居座り続ける
まるでスポイルされまくった駄々っ子のような最高の醜態をさらしまくるのである
3つ目
娼婦であるリーザとの出会い
ロマンチックな自分を演出しながら「君は間違っているんだ」と偉そうに正しい道を諭すようなことを言ってみせる
しかしながら再会した折に、うっかり自分の脆さをみせてしまい、ついついそんな自分をぶちまけはじめ、隠していたはずの内面をマグマが噴き出すかのごとく暴露してしまう
そして………
現代なら一体何という名の精神病であろうか…
妄想癖、誇張癖がひどく虚栄心が異常に高い
自分の殻に閉じこもって悪態をついて憂さ晴らしをしたかと思うと、自己嫌悪に陥らないための言い訳だらけのストーリーを組み立て自分を納得させる
人恋しいクセに異常なプライドと自分を守るために人を見下し陥れようと常に考えているのだが、所詮器が大したことは何もできない
たまに少し攻撃姿勢を見せるのだが、途端、亀が首を引っ込めるように言い訳して逃げる
まぁとにかく呆れること甚だしい
ここまで人の醜悪性や滑稽さをむき出しにした作品も珍しい気がする
しかもそれを全く負としてのオーラを出すことなく、悲劇のヒーローにも全くならず洗いざらいの醜態を読者にみせつける
もしかしたら、心に全くの闇のない澄んだ人にはさっぱり理解できない作品だのではないだろうか
最初あまりにもパロディじみた内容に笑ってしまったりしていたのだが…
主人公にまったく共感したくなんかないのに、まるで誰にも絶対に見られたくない自分の心を見透かされ、ズルズルと日の当たる公の場所に引きずり出される…そんな激しい心の痛みを覚え愕然とする
読むのにこんな意味で辛くなる作品があるのかと正直驚いた
人間の心の底とか魂とかではなく、なんというか「核」みたいなものにズドンとくる
ズドンときたら穴が開いてそこにすきま風が遠慮なく吹きつける
何が起きたのか…としばらく放心してしまう…
そんな何とも言えない衝撃作品だった
くる人にはくる(堪える)やばいヤツである
やっぱり凄いぞドストエフスキー
これは本当に読む価値がある
どこにも逃げ場がないほど、とことん自分と向き合える恐ろしい作品
ちなみに主人公の名前は「ネクラーソフ」
(日本人しか笑えないが…)
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再読ですが、ほとんど覚えていないので
ほぼ、初読みです。
正直、読むのに苦労しましたし、
読み終えての満足感は得られませんでした。
ただ、相手は全然、眼中にないのに、
自分だけが気になり、その挙げ句に
ストーカーになる姿は、少し、
共感してしまいます。。。
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海外の太宰治?という感じ。笑
偏屈な人の偏った書記。
人によってめちゃくちゃ評価分かれそうだけど、なぜドストエフスキーがいつの時代も評価されるのか少し感じさせられた(気がしませんでした、すみません)
失敗をしないチャレンジもしない。
自分以外は愚かもの私だけが全て。
そんな人間、今の時代もいるから究極の頷き本かもしれません。 -
主人公がダサい。あまりにもダサいし、痛々しい。 働きもせず、地下室にこもり、自意識が奇妙に歪み切ってしまった男の手記。他人や社会を見下しながらも、彼はそのくせ、彼らの「生きた生活」に激しく憧れている。だが同時に、その「生きた生活」を恐れ、いざその渦中に置かれるとひどくうろたえ、面倒に思い、何もない地下室の生活へと逃げ戻ろうとする。
彼の行動は、滑稽なほどに歪んでいる。
ある日、道を通るために士官にどかされたことを、彼はひどい屈辱と感じる。復讐のために、街でその男と正面からぶつかっていこうと計画するのだが、いざとなるとビビりまくり、自分から道を譲ってしまう。何回目かのチャレンジで、ようやく肩が少しだけぶつかることに成功すると、彼は有頂天になる。自分が男と対等であることを周囲に証明できたと安心する。――誰もそんなこと、気にも留めていないというのに。
また、自ら疎遠にしていた昔の学友たちの集まりに勝手に参加し、彼らを不愉快にさせた挙句、無視されるエピソードもある。それでもかまってほしくて、彼らの側を行ったり来たり往復するが相手にされない。置いてけぼりにされた彼は、復讐を心に誓って彼らが向かった売春宿へ行くが、見つけることができず、たまたま目に入った売春婦のリーザと寝る。そこで彼は、彼女に「こんな生活はだめだ」と大説教をかまし、ひどく興奮して自分の家の住所を渡してしまう。
後日、彼に救いを求めて彼女が家を訪ねてくる。しかし、彼は自分の惨めで貧乏な私生活を見られたことに狼狽し、彼女を激しく憎む。ついには「自分は善良な人間にはならせてもらえない」と号泣しながら、自分の窮状を暴露してしまう。
ダサい。ダサすぎる。 しかし、この過剰な自意識や、「生きた生活」に憧れながらもそれを面倒に思ったり、見下したりする心理は、笑えないほど見覚えのあるものだった。
「とにかく、ぼくらは、真の『生きた生活』を、ほとんど労役かお勤めとみなすまでになっていて、それぞれ腹の中では、書物式のほうがよほどましだとさえ思っているのだ。」
本で読む人間の生活には愛着がわくし、憧れもする。しかし、自分がいざその渦中に置かれると、ひどく面倒ごとに感じてしまう。
「ぼくらは人間であることをさえわずらわしく思っている。」
多くの人々が当然のように行っていること。就労、勉学、家事全般、育児、結婚、遊び、エトセトラ。これらが耐えられないほど面倒に感じ、傷つくことを恐れて、自分だけの「地下室」に引きこもる。
この物語の最後で、男は一番見下していたリーザの前で取り繕うこともできず、号泣して自分の窮状をぶちまけた。 これは、彼にとっての「救い」ではなかったか。 どんなにダサくても、みじめでも、彼は生身の人間と泥臭くぶつかり、這いずり回ることができたのだ。自意識の殻を破り、「生きた生活」の渦中に、彼は確かに立っていた。 -
ドストエフスキーの処女作『貧しき人々』から後期の5大傑作長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』への転換点となるのが本書。
うだつの上がらない自意識過剰な中年の小役人が世間に悪態をつき続ける文体の本書。
第一部はひたすら世間を呪っているばかりで非常に読むのが苦痛だったが、第二部の主人公の回想パートになり、同窓生と会うというところになってからは主人公の他人との関わりが感じられ、まあ、共感はできないものの分かりやすく読み進めることができた。当時のドストエフスキーの心情を推し量ることができた作品だった。
本書が執筆されたのが1864年、日本で言えば慶応元年(明治維新の4年前)、新撰組の近藤勇、沖田総司らが池田屋に踏み込んで長州藩らの尊王攘夷派の志士達を切り倒していた幕末の荒れた時代だ。
この時代に活躍した日本の作家を調べてみたら河竹黙阿弥(かわたけもくあみ・1816年~1893年・江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者)が出てきたが、名前くらいは日本史で習ったことあって知っているが、当然、その作品は見たことも読んだこともない。
この時代の文学が今も変わらず読み継がれていることについて、ドストエフスキーやトルストイの偉大さを再認識するとともに、文学のすばらしさを改めて感じたひとときだった。 -
私がドストエフスキーを好きになったきっかけになった本です。いろんな意味でドストエフスキーにしか書けない小説だと思います。初めて読んだときは、自意識過剰な主人公があまりに痛々しくて、でも全然笑えなくて、自分の心がものすごく痛みました。私も彼と同じ、地下室の住人だと思ったんですね。彼の言動は確かにものすごくおかしいのですけど、全然理解出来ないものじゃないのです。誰かに認められたい、わかってほしいという気持ちは誰にでもあるのではないでしょうか。現実世界では馬鹿にされても、自分の空想の中だけでは強くて立派な人間として振る舞えるというのも、私にはよくわかる気がします。
人間は一人ひとりみんな違います。家庭環境も、持って生まれた性格も。作中にあるように、2✕2は必ずしも4じゃない。2は人間が違えば2じゃないかも知れない。3、4、1かも知れないのです。みんなが同じ状況で同じ行動をするわけじゃない。彼のようにしか生きられない人がいるんです。誰かの痛みや悲しみを知るのは想像力しかないことを、ドストエフスキーは私たちに教えてくれていると思います。 -
何とも心にずっしりと重い。その重さの原因は、まるで自分自身の事を誇張して語られているような主人公の語り。自分が何故苦しみながら生きないといけないのか?知能が低い故にその苦しさに気付かない人たちは羨ましい。自分は優れているが故にその苦しみに気が付いてしまう、というのが主旨かと思うが何か共感できる。
このような面倒くさい主人公に共感できてしまう事は何とも心地悪いが、そういえば『賭博者』でも賭け事好きな人の心理を極限まで突き詰めたような感じだった。人の心にあるドロドロした部分に焦点をあてた内容は通じるものがある。
今はまだうまく咀嚼できてないけど、心にズーンと来るものがある小説には中々出会えないが、これは言葉にできないインパクトがある。キューブリックの映画を映像でしか伝えられないものがあると感じるが、ドストエフスキーは小説でしか伝えられない何かがあると思う。
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この本を45歳の今初めて読んだけど20歳の時に読んでいたらどんな気持ちになったかな?
どんな人生になったかな?
そんなことを思う。
若いとき、この上なく「正解」みたいなものに疑問を感じてた。両親は熱心な信仰宗教の信者だったのが影響したのかもしれない。信じることになんとなく胡散臭さを感じたんだと思う。だから正解なんてないんだと。
23の時、それまで多分「正解」とされていた生き方に我慢が出来なくなって、会社を辞めた。
今思うと、反動とか夢追いとかではなく無限に思われるような疑問に我慢が出来なかった。
自分の中で「なんで?そうなるとは限らんやろ?誰が言い切れるの?」が爆発寸前のような爆弾を抱え込んでいた。
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個人的には今年1番と言えるくらい理解するのが難しい作品でした。
自意識過剰さやプライドの高さ・こだわりの強さ故に、周りとうまく付き合えない主人公の姿は一瞬面白おかしく感じられるのですが、ふと立ち止まって考えてみると自分にも少なからず当てはまる部分がある気がして心がひやっとしました。
当時のロシアの文明・文化に対する意見も記されており、単なる主人公の面白い話なのではなく筆者の価値観が強く反映された物語なのかもしれません。
あれこれ書きましたが、正直なところまだ内容をうまく掴みきれていません。
もう少ししっかり読んでみようと思います。 -
久々に、心に重々しく迫ってきて、余韻を残してくれる本に出会えた。第一部を最初に読んだ時は、思考の飛び方が腑に落ちないことが多々あったが、第二部のエピソードを読んでから再び第一部を読むと、主人公の人間性からだいたい納得できた。
主人公の心の中に築いてきた地下室は、醜悪で屈折していて、下劣で独りよがりだが、ただただせせら笑うことができなかった。内容が違うだけで、自分も地下室を持ってることに変わりはないから。主人公に共感できてしまう部分もあったし、自分が主人公の地下室を醜悪だと思うのと同じように、他人からみた自分の地下室も醜悪な部分があると思う。
共感した部分の一部。
・理性が感情や欲求に勝てずに馬鹿げた行動をとるのが人間だ
・欲求に従うのは人間が物質的に扱われることへの抵抗である
・あまりに意識しすぎるのは病気だということ
・逆らえない性や運命がある、自然の法則がある
・理性で理解すればするほど、欲求との乖離を自覚してもがき、それ故に何を選択しても自分を苦しめる
・何か言い切ったくせにすぐに掌を返し、自分を守るために反対の主張をし始める
・自尊心は高いくせに自分を劣悪とみなしている矛盾、その他矛盾に満ちている内面
1番共感したのは、誰かに復讐する場合の記述だった。直情型の人間は復讐を正義と盲信して行動するが、自意識が強い人間は正義を否定し様々に考えて醜悪さにまみれた挙句、行動する。そんなものは根源的理由などではないと分かっているにも関わらず感情に身を任せてみると、万事を承知の上でわれから自分を欺いたことで、自分で自分を軽蔑する結末になる。行動しない場合には、復讐の妄念に悩まされ続ける。
絶望の中の快楽の話は、逆境で燃えるとか、追い込まれて頑張っている時の楽しさとか、頑張ったからこそ生じている痛みとかを考えたら、一部は分かるけど、一般化できるほどには共感できないし、嫌悪感9割といった感じだった。
主人公の醜悪さを見て、自分だけの理論を持って、理解し難い価値観を持っている人間は、他にも腐るほどいるということに辟易するし、私もそういう部分を持っているから余計に嫌気が差す。
思考か行動かについて、二極論を提示し、一方を貶して一方を崇めているが、考えて行動するのが最善だと思う。思考が完全であることなんてほとんどないんだから、ある一定値で妥協して、行動して、修正する、そう割り切るしかないよな、と。他にも二極論チックな部分が多くあって、その二択にしたくなる気持ちは分かるけど…と思いながら読んだ。
主人公はひたすらに自分の有能さを語っているが、その根拠は全くないし、語られるエピソードは主人公の馬鹿げた行動を物語っている。この小説は、ドストエフスキーが主人公を軽蔑しているからこそ一種の安心をもって読むことが出来ると思う。 -
表層的な快楽を求める生き方と悶々と自己に向き合い内省を深める生き方がある。
はたして、博識は幸せに行き着くのか?
私たちは理論の上ではなく、現実世界に生きていることを認識しなければならない。 -
大きすぎる自尊心、強すぎる自意識。自分の思想を人に聞いてもらって認めてもらいたくて仕方なくて、でもそんな自分の卑しさにも気づいていてでも止められなくて…を繰り返す主人公のことを誰が他人事と笑えるんだろう。もう見るからにイタいんだけど、ほとんどの人はそういった面が表出しないよう無意識のうちに細心の注意を払って社会生活を送っているだけで、その差は紙一重なのでは?と思った。
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1部と2部をそれぞれ1日ずつ、2日で読み切りました。
1部はなかなか理解が進まず、始めのうちはあー、うん、なんとなく分かる。って感じなんですが、ページを跨ぐとちんぷんかんぷんだったりと、あれ?俺読んでるけど読めてなくね?って感じでした。
2部は物語となり、おぉ、これこれ、これが見たかったんだと言わんばかりの長広舌が繰り広げられていました。地下室の男には何度ツッコミを入れたくなったか、、、
そして解説ではその時のロシアの状況であったり、思想や哲学についての説明だったんかな。正直前知識がなかったので、難しかっです。
「裕福=幸せ」を2×2=4のような理屈上での幸せだとして、
「貧乏で幸せ」も良いのではないのか、という理屈で説明がつかない2×2=5の幸せも、自由である。 -
人間の本性は非合理的なものである。
フィクションは、嘘を超えて真実に近づくと思う。 -
ロシアの文豪・ドストエフスキーの、
五大長編へ続くターニングポイントと位置付けられるような作品。
人間は不合理な本性を持つものであることを暴くように描いています。
著者は、ゆえに、理性できれいに作られる世界なんて絵空事である、
というようなことを第一部では主人公に語らせている。
人の不合理性と世の中が合理性へと進んでいく、
その齟齬を見つめているところは、
現代の僕らがあらためてなぞっておいたらいい。
また、私欲とか理性のくだり、
人間の行動原理についてのところですが、
著者と議論したかったなあと。
<人間は自分にとっての善しか行わない(それは周囲からしたら悪だとしても)>、
<悪だとわかるには無知を克服していくことが必要>、
<人は他律性を嫌う>、
それら三つをドストエフスキーにぶつけてみたいと思いました。
きっとスパークするものがあったはず。
というか、僕のこういった思考の源泉、基盤となっているものの多くには、
たぶん以前読んだドストエフスキーの五大長編があるのでしょう。
だから、彼に育てられて、後を引き継いだところはあるのだと思います。
この『地下室の手記』を書いたドストエフスキーの年齢と、
それを読む今の僕の年齢がいっしょ。
だからこそ、わかる部分や響く部分ってあるかもしれない。
でも、僕も著者くらいわかっていることはあれど、
彼ほどうまくプレゼン(独白調文体でのだけれど)はできないかな。
すごく饒舌なんですよね。
私語を慎みなさい、と口を酸っぱくして言われ、
それに従わなきゃと、自分を抑えて大人になったぶん、
そういった「饒舌の能力」は育ちがよくなかったです。
言葉の巧みさと、
パソコンでたとえるならメモリの容量の大きさ、
そこが強いと思いました。
また、「地下室」のたとえも、
「こういうことなのか」と読んでわかると、
村上春樹氏が地下室のさらに地下みたいなことを言ったその意味が、
より確かにわかってくる。
それにしても、主人公の自意識がすごいのです。
自意識のすごい描写や独白部分を読むと、
自分の自意識の強い部分が刺激され、
いくらか客観的といった体で知覚されて、
恥ずかしくなります。
小さくなりたい、自分もバカだ、と思い知るような読書になりました。
第二部では、主人公の青年時代の回想になります。
バランスを崩しながら、
そのバランスをうまく平衡状態にもどすことができずに(いや、しようともせず)、
そのまま生きていくことで、
雪だるま式に不幸と恥を塗り重ねていくさまを読み、たどっていきます。
著者は「跛行状態」と書いていますが、
跛行ってたとえば馬の歩様がおかしいときにそう表現します。
なんらかの肉体的なトラブルを抱えてしまった時なんです。
それを、人生が跛行している、というように形容するのは、
バランスを崩している、というよりも上手な表現だなあと思いました。
もう、醜悪で、みっともなくて、性悪で、露悪的で、
どうしようもないアンチヒーローな主人公なんですけども、
それこそが人間だろう、とドストエフスキーは言っているんじゃないかな。
利己的だったり支配的だったりするし、
また、他律性を嫌っているのだけれど、
かといってそれを自覚できていないから、
心に引っかかるものがある状態でうらぶれる。
そして、うらぶれていると癪に障ってくるので他人を攻撃しだす。
そうすることでしか、自分を確かめられなくなっている。
つまり、それが、さっきも書いた「跛行状態」なのでした。
自律に失敗している。
自制がきかない。
そこまでバランスを失ってしまった人間が、
たどり着いてようやくなんらかの安定を得たのが、
「地下室」でもあったでしょう。
それは醜悪な自分を許容することで
入室することができた地下室だったのではないかと思います。
第一部は思想をぶちまけていて、それはそれで面白いのですが、
第二部の後半への、一気に膨らんで破裂するような、
物語がほとばしる感覚、そこはすごいなあと感嘆しましたし、
エキサイティングでした。
この本が好きな人におすすめの本
著者プロフィール
ドストエフスキーの作品
