- Amazon.co.jp ・本 (667ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102010105
感想・レビュー・書評
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めっちゃおもしろい。ドストエフスキーはやはり素晴らしい。カラマーゾフの兄弟はドストエフスキーの集大成的な作品と聞いていたので、楽しみにしてとっておいたのだけれど、裏切られないで非常に楽しめた。
相変わらず名前覚えづらいし、ニックネームでも呼び出すし、登場人物多いしでわけわからなくなりそうだったけど、ネットに落ちてた人物相関図に非常に助けられた。まだ読んでいない人は、ネットにある人物相関図を参考にしたほうがいいよと勧めたい。
それにしても父親と長男はキチガイすぎだし、次男のイワンは頭よすぎだし、三男のアリョーシャは修道僧なだけあっていいやつ過ぎるし、この家族ヤバい(笑)
アリョーシャがどれだけすぐれた人格の持ち主でも、カラマーゾフの血が流れているんだと恐れているのは、おれ自身が父親の血が流れているからやはり父親みたくなるのかなと思うときとかぶった。アリョーシャがヒョードルみたくなったらヤバいけども。
カラマーゾフの兄弟は、この一家以外の人物もぶっ飛んでるやつが多くて、登場人物のキャラの濃さとキリスト教についてのトークが結構インパクトにあっておもしろい。イタリア、フランス、ドイツ、イギリスとかではなく、すごいロシア的だなと思う。何かもう上巻だけでも超長かったのに、あと中巻下巻とあるから先をどんどん読み進めていきたいと思う。 -
「この世のだれもが、何よりも自分の人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」
「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
胸を打たれる、素晴らしい言葉がたくさんありました。
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上巻の真ん中くらいで、今までずーっと「スルメジャコフ」だと思っていたのが、「スメルジャコフ」だと気がついた。
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はじめは退屈。250ページくらいのドミートリィの語りあたりから面白くなった。
「大審問官」は面白いというより、考えさせられた。パン=金と考えて、目の前の利益と規律を求める人を正当化しているのか、と考えた。さきを読んでから要再考。
以下、気に留まった部分の抜粋。
・個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対する私の愛はますます熱烈になっていく
・異教徒のタタール人がたとえ天国に行ったとしても、その男がキリスト教徒として生まれてこなかったことに対して、責任を問おうとするものなんぞいませんし、一匹の牛から皮を二枚剥ぐわけ二杯かないってことは、だれだって承知してますから、そのことに対して罰を与えようとするものもいませんよ。
・すべてはあなたのプライドの高さからきているんですよ。そう、そこには侮辱や屈辱も多いでしょうが、それもこれも全てプライドの高さが原因なんです・・・・
・「パパ、ねえパパ、お金持ちは世界で一番強いの?」
・教養がないから、百姓はなんの感情も持てるはずがありませんよ。
・「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
・もし髪が存在しないのなら、考え出すべきである。
・まだ短なものを愛すことはできるし、ときには遠くからでさえ愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめだと言ってもいい。
・食を与えるものこそ塔を完成できるのだし、食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ。
・人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、なんのために生きるかということにあるのだからな。 -
その名著の名こそ有名だが、なかなか実際に読んだという人には出会ったことがないドストエフスキー最後の長編小説。とあるハルキストが「読んだし持ってる」ということで拝借した。
タイトルにもなってる「カラマーゾフの兄弟」たちよりはじめに、父親にあたるドスケベアル中親父(失敬。)が登場するんだけどその男の名前が著者フョードル・ドストエフスキーと同じフョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフなのがまずめっちゃおもろい。
上巻にはほとんど登場人物をセッティングするための説明書きだったり人柄がわかるエピソードだったりでページが費やされるんだけど、まず長男のドミトリーのサイコパスさがええ、、ってなって(しかも父親と同じ女性を好きになる)、次男イワンのインテリサイコパスさにもうわぁ、、てなるし、唯一救いがある見習い修道士のアリョーシャがいちいち父親や兄に真面目に純粋に向き合ってて健気というかちょっと痛々しい。
母親も育ちも何もかも違う一旦バラバラになった兄弟が集まってドタバタしてるんだけど、兄弟全員言ってることは別々なのに自分の主張のルーツを「だって俺たち兄弟はカラマーゾフだから」で根拠づけてる一体感が謎。血の運命ってそんなに抗えないもんなのかな。
上巻最後第5章の中の「大審問官」っていうイワンが詩の体をとってキリスト教に関する思想をすごい剣幕で独白するシーンかなり圧巻だったけど、聖書のバックグラウンドわからないから凄いことはわかるけど腑に落ちない箇所がちょっとあったから最後まで読んだらもう一回戻る。
台詞重いししんどいエピソード多くて時間かかったけど面白かった!
#カラマーゾフの兄弟
#ドストエフスキー
#ロシア文学
#読書記録 -
<≪お前たちの神を捨てて、われわれの神を拝みにこい。さもないと、お前たちにも、お前たちの神にも、死を与えるぞ!≫たぶん、世界の終りまでこんな有様だろうし、この世界から神が消えるときでさえ、同じことだろう。どうせ人間どもは偶像の前にひれ伏すのだからな。p.640>
途中まではダラダラして退屈だけど有名な大審問官のシーンに入ると面白くなる。 -
「筆力」なるものを見せつけられた巻。一人として叙述の適当な登場人物も無ければ、過多な登場人物も無く、ただ作中において生きているという文学の本懐を遂げたこの作品は、やはりバフチン流にその「ポリフォニー」を評するべきであろうか。
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2015.12.02
物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いたさんにんの兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。(裏表紙より)
以前、光文社文庫で読み、約半年ぶりに再読。こちらの訳の方が段違いにわかりやすくてびっくり。あらためてこの小説は実に多彩な顔を持っているなと思う。度々、カラマーゾフ的なと形容される何かを、カラマーゾフ家の皆様は持っていると語られるが、それはまさに、人間の情欲というか、欲望というか、人生への渇望というものだろう。フョードルは物欲や性欲もそうだが、何より自分のそのような本性にあまりに正直かつ不器用なため、それらを隠すというか、そのような獣的本性を抑えられないが一方で人間社会で生きるために、仮面を被り、道化になる道を選んだのではないか。一方でようやって装わなければ自らを受け入れてくれない世界に対する反感も持っているように思われる。ドミートリイはこの強い欲望の現れ方という点では父に最も似ているように感じる。直情的で、自分の情欲をコントロールできず、しかし教養はなくとも理性や良心、名誉心はあることが、まさに彼の存在の悲劇である。カテリーナとグルーシェニカを巡るドミートリイの苦悶はまさに、自らの欲情と、良心の呵責による引き裂かれである。イワンは第5編プロとコントラにあるように、世の中をよく見れる目とそれらから真実を紡ぎ出そうといる頭を持つが故の、思想家のもつ苦悩を持つ。神は信じれても、神の作ったこの世界を認めることはできない。彼のは非常に、人間的というか、人生かくあるべし、世界かくあるべしという理想と、現実は人間時に残虐極まり、罪なき子供は大人に引き千切られるという、この理想と現実のギャップに苦しんでいるのではないか。苦しむあたり、彼は理想を捨てられないんだろうな。現実を現実と受け止め、諦めることができないのだろう。アリョーシャは、より理想に近づいて生きているという印象を受ける。しかし彼はこの、苦しみの人々の真ん中に立つ主人公である。いろんな人々が彼のことを好きなのは、彼の中に人間存在の理想型を見出しているからではないだろうか。情欲に振り回されることもなく、神という理想に仕える。彼からはあまり、動物的な欲情は感じられない。しかし、強く人間の理想を希求してやまない、世界の幸福を願ってやまない、その強さに、カラマーゾフ的なものは宿っていると言えるのかもしれない。カラマーゾフ的なものとは、現れ方は異なるが、それは自らの生に対する、人並み外れた欲望ではないだろうか。ドミートリイは感情的に、イワンは知性的に、そしてアリョーシャは信仰的に、それらが現れている。またこれら兄弟以外の登場人物も魅力的で、カテリーナやスネギリョフの病的な興奮など、はっとさせられるものがある。人はプライドによってこんなにも自分を騙せるものだろうか。単純な理想と現実と対立による不幸というふうには、そんな公理には還元しがたい、人間の複雑さを垣間見るようである。様々な人間、様々な欲望と理想、そしてそれに対する様々な抵抗やもがきがある。対立が対立を呼びその呼ばれた対立によって生まれた対立が最初の対立を対立させるかよような複雑なわけのわからん欲望vs能力の物語である。なんでこんなにも複雑で、どこに解決があるのかも見えず、また解決があるにも関わらず内的な力(悪魔?)によってそれを選ぶことができない、そんな人間たちの生きる姿に、なぜこんなにも魅力を感じるのだろうか。抱えるものが複雑であればあるほど、救い難ければ難いほど、苦しめば苦しむほど、もがけばもがくほど、そんな人間に何か普遍的なものを感じるし、そんな姿に何か破滅的な、美のようなものすら感じる。ここには、人間の生の全てがあるように思う。誰もがカラマーゾフ的な何かを持っている。カラマーゾフとは人間のことではないだろうか。事実、肉的欲望に振り回され理性の介入の余地なき状態も、世界の不条理の認識からくる絶望と反逆も、隣人愛と善なる意志も、私は共感できるところがある。では私は私の"カラマーゾフ"と、この悪魔的なものと、どのように付き合っていこうか、そんなことも考えさせられる。人間を知りたければまずオススメしたい、世界的名作。思わず「人間...!!」という感想の出る作品です。 -
カラマーゾフ的ってわかるようで、わからない感覚。
長年私にとって大きな障害であり続けたカラマーゾフにようやく着手した。
記憶の限り3回は挫折した一巻なので、どれだけ時間かかるかって構えてたんだけどいざ読んでみると意外とするするいけた。
なんだろう。大人になったのかしら。
噂の大審問官のくだりがまさか一巻に出てくるとは思わなかった。
それもさらりと読みすぎたせいか、そこまでの感慨もなく終了。
何か読み方を間違えている気分になってきたな。
やっぱりロシア文学って呼称がややこしくてそれが困る。
ミーチャ、アリョーシャ、ワーニャはまぁいいとして、アグラフェーナがグルーシェニカとなる理由が全くわからん。あなややこしや。
『罪と罰』の時はそんなに悩まされなかったんだけどな。
ドストエフスキーってやっぱり人物を強烈に描いてくれるから読み応えがあると思う今日この頃。 -
噂に違わぬ大傑作。
ただ、、、、読むのにこれほど体力消耗した読書経験はない。もはや途中からモンブランかエベレスト登頂を目指すような感覚だった。
原因はドストエフスキーの文体!!
ロシアどころか、人類そのもの、
人間社会と歴史総てを描こうと言うマクロ的な作品であるにも関わらず、
着ている服のボタンの模様あたりから(これは例えです)ミクロ的顕微鏡を使って語り始めるもんだから、文章が長い長い長いながい!!!1人のセリフで軽く10ページ位喋ってる^_^
これは一体何の話ですか?と何度ドスト兄さんに問いただしたことか。
ロシアの広大な大地と、民族の血筋と、長い長いキリスト教信仰の歴史が、トルストイやドストエフスキーに共通する長〜い文体を創り出したんだろうな。
読んだ後は、毎日グッスリ眠りに落ちるほど、
脳味噌を酷使しました。
ドストエフスキーはこう言っている。
世界は汚く、堕落しきっていて、
もはや神も救いもへったくれもない状態だよねと。
だって民衆を救うべきキリスト者自身がもはや権力にひれ伏し完璧に嘘と欺瞞で堕落してるよねと。
神がいないとすれば、もう何しても良くないか?って言う無神論的ニヒリズムや、恋と性欲によって情熱だけに生きてやる!って言う刹那的京楽主義に対して、もう信仰なんて抱いてる人は時代おくれで、無能力集団で田舎の僧院で引きこもってるお花畑の人々でしかないよねって言う指摘なのだ。
ドストエフスキーが恐らく相当のクズ(すみません!)だから、クズ達の気持ちがリアル過ぎるほどリアルに描写されてて、結局人間はこんなもんだよ、僕を含めて(ドストエフスキー自身)って言ってる気がする。
しかし、そんな世界の中で、
絶対に信じられるものはないのか?美しい無償の愛は何処かにないのか?と言う強烈な渇望が生まれてくるのだ。
それを体現しているのが、
三男アリョーシャとそのメンターであるゾシマ長老。彼らこそ、まさに愛の人だった。
そしてアリョーシャは子供にだけは、
大きな希望を託している。
大人の世界はこんなだけど、君達は希望であると感じている。だからこそ、ゾシマ長老から受けた愛と正義の種をせっせせっせと子供の心に植えていく。
(たとえクソガキであっても、アリョーシャは大好きなのです!)
汚く、希望のない世界だからこそ、
アリョーシャの愛が美しく浮き彫りになり、そんなアリョーシャを子供達も信じ、大好きになっていく過程は本当に美しい。
この世界に存在するあらゆる困難な闘争。
善と悪、愛と憎しみ、信仰と堕落、宗教と俗世、
神と悪魔、唯神と唯物。
ただ、これらの闘争を貫いて勝利に向かう最終的な力は結局、愛そのものなんだよなぁと、ドストエフスキーは語っていたような気がする。
また、あらゆる要素を含んでいる作品だからこそ、どんな年代の人がいつ読んでも、それぞれの視点からの鑑賞が可能。重層的で密度が半端ではない。
再読する度に新しい発見がありそう。
とにかく、登山と同じで一歩一歩進んでいくと、
意味を感じなかった一言一言が組み合わさって、
やがて壮大なタペストリーとして眼前に現れてきます!人生で一度は読破したい作品であることは間違いなし!
自分が読んだのと違う翻訳者や出版社のものって気になりますよね!
自分が読んだのと違う翻訳者や出版社のものって気になりますよね!