カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

制作 : 原 卓也 
  • 新潮社
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本棚登録 : 3752
レビュー : 274
  • Amazon.co.jp ・本 (680ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102010129

作品紹介・あらすじ

父親殺しの嫌疑をかけられたドミートリイの裁判がはじまる。公判の進展をつうじて、ロシア社会の現実が明らかにされてゆくとともに、イワンの暗躍と、私生児スメルジャコフの登場によって、事件は意外な方向に発展し、緊迫のうちに結末を迎える。ドストエフスキーの没する直前まで書き続けられた本書は、有名な「大審問官」の章をはじめ、著者の世界観を集大成した巨編である。

感想・レビュー・書評

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  • ついに読んだ。
    実に2週間ほどかかって、やっとこさ読了いたしました。疲れた~。

    昨年2013年の目標として、『月に1作品、文豪といわれるような人が書いた古典文学を読もう』と思い立ち、はや一年。
    太宰治の「人間失格」から始まって、奇数月は日本の偶数月は海外の作品を手に取ってきました。
    最後の12月は絶対ドストエフスキーにしようと、「カラマーゾフの兄弟」にしようと心に決めていたのです。

    それにしても長いし難しいし、本編より周辺の話ばかりで、上巻は結構つらかったです。
    正直字面追ってるだけで頭に入ってこなかった。
    中巻に入って、ようやくお父さんが殺されるという事件が起きて、そこからは面白かったです。
    いちいち長くて、本筋に関係ないところを削ったら、もっと分かりやすくて読みやすい本になるんだけど、その関係ないところこそが、「カラマーゾフ」が文学史に燦然と輝く作品であるところなのかな、という気はしました。
    宗教観とかはよく分かんない部分も多かったけど、下巻のはじめと終わりの子どもたちの話はよかった。
    本筋のところも、現代みたいに科学捜査ができない分、心理的な分析や想像がスリリングでした。
    それぞれ、冷徹な心や侮蔑な態度や、それでいて良心の呵責やら脆いところがあって、翻弄されますね。

    ラストは唐突なんだけど、どうやら続きがあったみたい。
    けっきょくアリョーシャが本作の主人公ってとこが、強引な感じになっちゃうもんね。

    それにしても、とりあえず読んだということだけで、私は満足です。
    これからもたまにはこういう文学作品読んでいきたい。

  • やっと読み終えることができました。
    もう、読了至福の満腹感でみたされています。
    上中下と長い時間かけて読んでいたので、ページ数が少なくなってくると、だんだん寂しくなり…カラマーゾフ三兄弟に、もう会えなくなるという気持ちにさえなりました。(再読すればいいのだけど)

    下巻のクライマックスは長男ミーチャの父親殺しの嫌疑による裁判。
    検事のイッポリートと弁護人のフェチュコーウィチの論告対決が、ストーリー内の聴衆とともに私も左右されてしまったり、拍手を送ってしまいそうになったりと、すっかり傍聴気分でした。

    判決は、あぁ、やっぱりそうなってしまったかの結果だったけど、それでもミーチャは愛するグルーシェニカとの今後への想いがエピローグで語られていて、カラマーゾフ的情熱には参りました。

    しばらくは良い意味でドストは読めそうにありません。
    来年になったら別の作品にチャレンジしたいです。
    (本日は平成27年12月15日)

  • 中巻の後半からおもしろさが増してきたので、下巻を一気に読み終えてしまった。カラマーゾフの兄弟は本当に名作だ。久しぶりにこういったいい本を読んだ。
    カラマーゾフ家の、金の亡者で道化者の父親フョードルや愛に愚直な長男ドミートリイや頭脳明晰で思想家の次男や善良な修道僧の三男アリョーシャという設定が絶妙によかった。父親と長男がキチガイじみた行為をしているところを、無神論者のイワンと信仰心あふれるアリョーシャが冷静な視点で見ている風なんだけど、そこは神を信じている者と信じていない者による視点の相違もまたおもしろい。それにしてもアリョーシャを見ていると、イワンのようにどれだけ頭脳明晰であろうとも真実のみを語る善良さとは何て素晴らしいんだと思う。この本を見ると、人間てアリョーシャのようになるべきだなと思い、自分を省みてしまう。ただアリョーシャの善良さというものは、信仰心に起因しているので、やはり宗教というのは非常に重要な概念なんだとも思った。宗教でいうと神は存在するかというように、この小説は要所要所で宗教についてのシーンが出てくるけど、基本的にイエズス会を冷笑している節があって、ロシア正教とイエズス会ってそんな違うんだということもわからない日本人な自分を見ると、宗教についてもっと学んだ方がよいと思った。
    キチガイの父親や長男や冷静な次男も全員アリョーシャを好きだし信頼しているところを見ると、すべては善良さによって得られたものだと思う。
    ストーリー的には、この下巻は裁判でのやり取りがメインになっているのだけれど、検事の発言内容は読んでいてイラっとした。逆にドミートリイを弁護する側の弁護士の発言は裁判所に来ていた聴衆者と同様自分も感嘆するところがあった。あと証人喚問で発言したカテリーナにもイラっとしたというか、カテリーナの恋愛脳が見ていてムカつく(笑)最初の発言と、イワンをかばうために急に出た発言の内容の真逆さが本当に呆れてしまった。グルーシェニカの方がよっぽどいい女なのに、カテリーナに売女よばわりまでされてかわいそう(笑)裁判の判決が結局望んでいたものではなかったけど、ストーリーとしてはおもしろいから正直どちらでもよかった。
    とりあえずスメルジャコフって本当悪い奴だね(笑)
    下巻の最初が、上巻でいじめられていた子供といじめていた子供がアリョーシャを介して仲直りしている話から入って、途中でこの話いるのかと思ったけど、最後のアリョーシャと子供たちのシーンが非常に重要で、確実に必要だったなと思った。というかこういった殺人事件が起きて、裁判が行われ、判決が下された後で、子供たちとアリョーシャで自分たちも将来悪い大人になるかもしれない、ただ善良だった頃の思い出が将来悪い行いを躊躇させる手段になりえるというような会話が非常に感動した。アリョーシャは本当に素晴らしい人格者だし、このストーリーに欠かせない存在だ。ただ、こういった善良さから現代人は非常に乖離している気がして、なんてくだらない価値観や争いに毒されているんだろうと少し感傷に浸った。また、この本を読む上で自分はなんておっさんなんだろうと思った。こういった本は、若い時こそ読むべきだと思う。34歳のおっさんより

  • 終わったあああ!これをつまらないということが知性欠如の証であろうと、面白いとはえいない。でも読んで無駄だったとは思わない。キリスト教徒は悩むのが好きだな。ロシア人は饒舌だな。私は速読ができるんだな。「水源」の裁判シーンは耐えられるんだけどな。
    誕生日にこの作品から解放されたのはうれしいな!

  • 感情的な文章を読み続けなければいけないのでグッタリ・・・宗教的な感情表見が多くて難しかった。

  • ドストエフスキー五大作品の最後の最後。

    過去4作品と比べて本書が一番よかった。
    「慣れ」の影響も大きいだろうけど。
    つまり、以前はただ冗長に感じた部分に、
    深さというか、すごさというか、
    面白さを感じられるようになった。
    気がする。

    さて。罪と罰に戻って2巡目に入ろう。

  • ようやく、ようやくの読了。
    他の読書と並行していたので、何年もかかってしまいました。

    ドストエフスキーは前のめりになって、燃え盛るように登場人物に語らせるのですが、
    (紙に食いつくように、ガリガリとペンを走らせる彼の姿が見えるようです)
    それがドストエフスキー自身の台詞ではなくて、それぞれの登場人物の、
    各個の哲学をもって語らせるのが、本当に面白い。

    登場人物の姿を借りて、彼自身が語っているのではないのです。
    ドストエフスキー自身が、憑依型の役者のようなところがあるのでしょう。

    あとがきで『カラマーゾフの兄弟』は未完であるということが書かれていました。
    また小林秀雄が「未完とは思えないほど完成された小説だ」と言ったことも。

    しかし私には、アリョーシャの中に滾るようなエネルギーを感じていて、
    それが未だ発散されずに物語が終わってしまったような感覚を覚えています。

    登場人物が多いだけに目立たない部分ではあるかもしれませんが、
    彼の天使のような振る舞いのなかに、グツグツと煮えたぎる何かを感じるのです。

  • (01)
    解法をほぼ無限に有する傑作なテクストで、テーマとモチーフ、ドラマとロマンス、エピソードとアレゴリー、ミステリーとヒストリー、コミカルとシニカル、どうつまんでもおいしいのが本書である。
    さしあたり人物の魅力ということなら、兄弟の主人公たちはともかく、いつも泣いたりへらついたりしているけれど漢(おとこ、そして無頼漢)な一瞬がキラキラしているスネギリョフ、悪意のない虚言で煙に巻きなんだかコロコロしている住所不定のマクシーモフ、カテリーナやリーザへと達する兄弟の恋路にいつも関門の様に立ちはだかりしかし自分の恋路にはキチンと段取りを踏むホフラコワ夫人などなど、登場するたびにしでかしてくれそうで嬉しくなる人物にも事欠かない。
    沸騰し狂騒し罵声する声たちがありとあらゆる場面で登場(*02)し、それはポリフォニーとも評されるが、情景を口やかましく彩る様を読んで見つめるとき、読書することの幸福を感じるとともに、発せられ読者に読まれてしまった、声、セリフ、一句、一語、それらのいちいちが、登場人物ではないかという眩暈にあてられてしまう。その意味で無限の解法がここにある。

    (02)
    場に登り、場に発せられたものは何なのか、という前にそのものがどこから生まれたかを考えてみたい。
    セリフの過剰に隠れてはいるが、地の文として目に飛び込んできて印象的なのは、口づけと笑いである。口づけの多様と作用、笑いの矛盾と唐突には、いつもいつも驚かされる。このキスとラフは、口の方法と形であって、長広舌を補いつつ、饒舌に対しての反射の様に現れる。
    この口、人間の顔面の下部を占め、食べると飲むに欠かせない機関として働き、言語の様な意味から悲鳴の様な無意味までの音声を発し、臭い息やスカトロジーなどに暴露され機関的な意味での内面の昇降口ともなる、口が問題の端緒でもある。
    目の描写についても冴えをを見せており、太陽が映りこむ水玉などのアレゴリーも豊富ではあるが、本書においてやはり問題となるのは、顔の穴としての口腔ということになるだろう。それは人格の欠格にも対応する。スメルジャコフが向かったのが料理であったこと、その名が放つ異臭は、ゾシマ長老の腐臭とも共鳴しあうこと、これら悪臭の避けられなさは鼻孔という穴に由来している。
    もちろん、19世紀ロシアはヨーロッパの先進性に対し後進性を見せており、その後進は、著者によって、ロシア性、カラマーゾフ性などとしてからかわれながらも引き合いに出され、批評にさらされた。つまりは文明の突出に対するヘコみとしてのロシアであり、大陸的な穴や欠損が卑しくも意識されていた時代であることは見逃せない。
    また、ミーチャの蕩尽は痛快であるが、読者は、それぜったいだめ、という世話焼きな半鐘を鳴らす一方で、頁を隔てた向こう側で使われるルーブル(*03)は読者の財産ではないため、どんどん使っちゃえ、という焚き付けに加担もしている。このミーチャの行動は、ポトラッチとして理解される。つまり、蕩尽による名誉の保全であり、近代的には人格的な欠損を金で補い、箔を付ける実践として理解される。穴埋めというなら正しくその通りであり、彼はいつも埋めなければと切迫している穴を(好んで?)抱えている。
    地獄や悪魔は穴の内容であり、ヒステリーやアフェクトは穴の修繕あり、扉や封筒は穴の容態であった。口、穴あるいは孔のアレゴリーには事欠かないが、ミステリーの肝となる、誰がフョードルを殺したか、という穴はエピローグの円団の時点でどのように満たされたであろうか。
    本書の卓抜は、この作劇上の要点となる犯人は誰という穴に、神の不在というという問いを掛け合わせた点にある。やったのかやらなかったのか、いたのかいないのか、いるのかいないのか、曖昧をさまよう譫妄状態(*04)や、不問に付される情況、フィニュッシュの直前にある寸止め状態に、この作品の命脈を賭けたこと、そこに現れた深淵は尊い。

    (03)
    財産の保管と宗教の保護とに関わる土着性という点でも本書は興味深い考察となっている。ヴェーバーがプロテスタントと資本主義を考察するのは、本書ののちの話であるが、蓄財と散財とが先述の先進と後進とに対応し、ミーチャの散財や、カテリーナの善行と金銭に現れた感覚をロシアやカラマーゾフの美質として、プロテスタントのけち臭さに対置させたところは、面白い。
    ほぼ同様な構図が、医学、心理学、細菌学、法学、神学に対する著者の見地にも現れている。啓蒙的な近代の学問をセットで小馬鹿にしており、在来の神秘や土着を踏まえたところに新時代の精神を築こうとしている。この文学的で政治的な態度は日本の近代化で現象されたことと比較しうる。

    (04)
    読み返すと、ありとあらゆる文脈に伏線や複線が張られていることが分かる。どうとでも読める、どちらとも読めるという具合に。それはリニアなのか、非リニアなのか。
    しかし、明らかに回収されていない伏線というのもある。有名なのが、13年後(*05)を描いた第2の小説の件である。
    感触として、第1の小説が余した残り半分を示唆しつつも、結果的にはその後半を欠損としたことに著者の最大の遊びがあるようにも思われる。書かれそうで書かれなかったところに、読者を置き去りにしてしまった(*06)こと、本書のテクストを読む限り、この欠損は意図的であったという感触を持っている。その理由は既に記すことができたようにも思う。
    謎めかすこと、おそらくドストエフスキー以降は、映像文化の台頭とともに、文字による物語はやや衰退していくが、その文字文化の精華として本書が示した謎めかしは、今後まだまだ楽しく読み解かれるだろう。
    報道マニヤ、事件マニヤが本書にも現れはじめ、マスコミの予感がしている。この20世紀を圧倒する情報社会の前夜において、書かれたもの、報じられたものどもが、神に対したときに、とてもじゃないが信じられたものじゃないことを、とっくに、そして遠くに著者は見抜いていた。

    (05)
    ある階段の13段目にいるミーチャのはるか下、アリョーシャはまだ1段目にいるとされている。主人公であるアリョーシャは、ありとあらゆる場面に存在しなくてはいけない。場面とは事件のある場であって、事件の場には必ず癖のある人物が配置されている。主人公であるアリョーシャは、神がかり行者ともされるから、彼の業や修行は、このあらゆる場面に立ち会わなければならないことにある。
    したがって、アリョーシャは忙しい。事件の前後となるとなお忙しく、彼が歩き回る場面場面で次々と業が課せられるから、タスクは累積的に彼の背にのしかかる。だから、特に前半の場面転換では、次なんだっけ、今なにしてたっけ、という健忘がしばしばともなわずにはいられない。彼が階段を上れずに踏みとどまっていること、それでもこの物語の中で数段は上れたかもしれないこと、これは西欧のビルドゥングスの伝統を踏まえた上で、どのように考えるべきであろうか。
    おそらくアリョーシャは、物語の中で一度も汽車や馬車を利用していない、メッセンジャーや代理人にはなるが彼自身が誰かを使役することはない。そこにこの天使の踏みとどまりと善の理由がある。疾走する馬車や突き進む戦車は、太陽にも絡んで、物語中で重要なアレゴリーとなるが、天使の羽が、彼にのしかかる厄災をいくらかでも軽くしてくれていることを祈りたいものである。

    (06)
    「私」という審級が問題になる。マンの「魔の山」の「私」は超歴史的な存在ではあった。カラマーゾフの「私」は誰なのだろうか。カラマーゾフ家、特にアリョーシャを讃える伝記作家のようでもある。特に「誤審」の法廷では、この作家も傍聴していたようでもある。「私」は、カラマーゾフ家と同じ町に住み、周辺の人々のその後にも精通している。
    この「私」のほかにも、超時間的、メタ的な存在をほのめかす記述が散見される。不思議な場面で、その人物がのちのちまで覚えていたとする説明がなされるときがたまにある。それは過去に遡る視点が目指すべきタグやポイントになっており、複線の交点のようでもある。逆デジャヴとでもいうようなこの表現は注目に価する。

  • 宗教的な視点でも懐疑的な視点でも、同じように感動することができる希有な小説。
    宗教一家に生れた僕としては、登場人物たちの思想や葛藤が痛いほど分かって、もう嬉しいやら苦しいやら、とにかく何度も泣いて笑った。
    ただ悲しいかな、そもそも宗教の葛藤がない多くの日本人には、このすごさを心から理解できない。だから一緒に語り合える人も、本当は少ない。
    と言っても、そもそも物語としての質が高いので、どちらにしてもじゅうぶん楽しめる。
    そういう意味で究極の愛を体現した小説。

  • ロシアの巨匠の超大作、ドス兄のカラ兄をついに読了しました。
    長かった・・・笑

    序盤はなんせ19世紀ロシアの時代背景についていけずに苦労した。どんだけ接吻するねんこの人達、みたいな。さらに登場人物大量発生(しかもドミートリイって言ったりミーチャって言ったり呼び方変わりまくり)なので上巻はひたすら混乱。

    解説文によると、本書の中心となる話はフョードルの死と長男ドミートリイの殺人容疑の件らしいのですが
    イワンの叙事詩(大審問官といって有名らしい)、ゾシマ長老の生い立ち、そしてゾシマ長老死後の民衆の動揺など
    脇道に逸れた各人のエピソードが秀逸で、それだけで一篇の小説が書けるレベル。

    特に大審問官の話には喰らった。
    視点が面白いし、大審問官、キリスト、民衆、それぞれの動きにいちいち引き寄せられた。

    いろいろ思うところはあったんですがペラい感想文にしかならないのでこのへんで。
    この夏は西洋文学祭にするつもりやったんですが、この3冊で夏が終わってしまいました

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著者プロフィール

ロシアの小説家、思想家。トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪。

「2008年 『罪と罰 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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