悪霊(下) (新潮文庫)

制作 : 江川 卓 
  • 新潮社
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本棚登録 : 1006
レビュー : 68
  • Amazon.co.jp ・本 (758ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102010181

感想・レビュー・書評

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  • ちょっと前に「白痴」も読んだが、ドストエフスキーって長編作家として欠点有り過ぎだと思う。
    海堂尊さんは同日に同時並行に起こる事件をデビュー作として書いたが、編集者の助言で「チームバチスタ」「ナイチンゲール」の2作に書き直したという。僕が編集者だったら、この作品をステバン氏、ピョートル、ニコライが主人公の3作に書き直させるな。

    終盤のステバン氏の再登場。ロシアの大衆を愛すると云いつつ、世間知らずで、まったく大衆を知らない。知と美に殉じ、変な拘りで自分を追い込んでいく。しかし、ドストエフスキーは愛情をもって、このピエロ的人物を描いている。

    その息子、ピョートルは頭に穴が開いたよう軽薄な人間。その仲間たちの中で披露されるシガリョフの説は、平等を齎すため人々を原始的な天真爛漫な家畜に作り替えるべきという。まるで毛沢東やポル・ポトを予言しているようだ。ピョートル以下の破壊分子達はロシアの改革に理想を見ていない。ただ、破壊を目指している。
    平然と転向者の汚名を着せた人間を殺害し、その罪を自殺願望者に押し付けるピョートルは人間的な感情を失っている。

    最後に未完の稿として収録されたニコライ・スタヴローギンの告白がなかったら、彼は単なる奇妙な登場人物であったろう。人々を、女性を、陰謀家のピョートルまで惹きつける魅力のある人間なのに、周囲を破滅させ、平然と罪を犯す。何故こんな人間が出来上がったのかと考えれば、高等遊民でロシアの地に根を張らないデラシネであったこと。そして、やはり当時の無神論の所為だと思う。
    チホンとの対話の中で黙示録が引用されて、「白痴」にも黙示録を購読する無神論者が登場していたことを思い出す。しかし、僕はロシア正教にも黙示録にも不案内なので、首を捻るばかり。社会主義が神への信仰の問題と語られるのは日本人には理解しがたいと思う。

    ピョートルが知事夫人に取り入って、大イベントの裏で陰謀をめぐらす茶番劇はあまり感心しなかった。
    この顛末は、頭が悪く立場をわきまえない首相夫人が、かなり低能なペテン師にいい様に乗せられていたことを想い出させた。本当、くだらない茶番だ。

    カバーの裏表紙に「組織を背後から動かす悪魔的超人スタヴローギン」とある。
    新潮文庫とあろうものが、何だ、この出鱈目は。

  • 禍々しい表紙とは裏腹に、滑稽な描写が目立った上巻。しかし、下巻も中盤以降に入ると、じわりじわりとその禍々しさが露見してくる。表紙に内容が追いついた、とでも言えようか。

    本編を読んだ段階では、『悪霊』と形容できる具体的人物はスタヴローギンではなくピョートルであるように感じた。上巻のおしゃべりはどこへやら、極悪非道の限りを尽くすピョートルに、あるいは魅せられる人もいるのではないだろうか、と思うくらいだ。事実、巻末解説によると、元来は主人公はピョートルであり、ドストエフスキーはその設定で700枚以上の原稿を書いていたらしい。

    ここで注を入れておくと、物語冒頭で引用されている聖書の中の、悪霊に取り付かれた豚が次々と自ら溺死していくと言うエピソードと、革命、共産主義、無神論に取り付かれたロシア人たちが次々と破滅していくと言うこの物語は呼応しており、悪霊とは特定の人をさすわけではなく、これら共産主義や無神論を指しているものであるらしい。

    いずれにしても、人間があたかも悪霊に取り付かれた豚さながらに次々と滅亡していく様にはある種の爽快感すら感じさせる何物かがある。また、物語終盤で展開されるキリーロフの人神思想は、必読とされるスタヴローギンの告白に勝るとも劣らないすさまじさで、読んでいて恍惚感のような、人間を超えた何かとでもいえるような、異質なものを感じたことを記しておきたい。

    下巻は面白い、とよく言われる本書だが、すぐに面白くなってくれるわけではないのでご注意を。話がスリリングになるのは第三部に入ってからである。第二部の残りは、そこで挫折することがないように、自分のペースで読むのが望ましい。

    さて、『スタヴローギンの告白』を読み終えた。まず感じるのはその異質な読後感だ。殆ど全ての本は、読み終え次第、開放感や爽快感、そして達成感を得られるものであるが、ことこの本においては違ったわけだ。

    そもそも『悪霊』と言うタイトルの本からいい読後感を得ようとすること自体が間違っているのかもしれない。得られた読後感は、個人的には『カラマーゾフの兄弟』以上の謎と、「1度では殆ど理解できていないだろう。せめて『告白』だけは再読しなければ」と言う気持ちだった。ゆえに消化不良の感が否めないが、これは本のせいではなく僕の読書力のなさのせいだろう。

    星は上巻下巻ともに4つとなったが、詳細に述べると上巻は星3.5、下巻は星4.5と言ったところだ。…と、『告白』を読む前は考えていたのだが、『告白』のあまりの密度の高さに、星5つを進呈せざるを得なくなってしまった。

  • ・「大政奉還」や「龍馬暗殺」が1867年。ほぼ同じ頃ロシアで「ネチャーエフ事件」なるものが起きたという(1869)。この事件は、帝政ロシア打倒を標榜する極左セクトの「内ゲバ」殺人で、小説「悪霊」はこれをモチーフに書かれた(1871-2年雑誌掲載)。そうした同時性を思いつつ読むと、感慨深いのであった。

    ・ドストエフスキー「五大長篇」の他の諸篇と比べてもまとまりに欠ける感があり、テーマを捉えにくい難物である。だが、一方で、当時のロシア社会の混乱、価値観の動揺が色濃く描かれている。社会を混乱させようとする人間たち、という他の長篇には無い異色の事象があり、虚無的な手触りがある。その点では独特の味わいがある。

    ・読み進めるにあたり、この小説世界に、「オウム真理教」の集団的狂気のイメージを重ねることが出来るのでは…、と思いついた。だが、この想定は強引にすぎたようである。「悪霊」はあまりにもロシア的であるため、と思われる。ドストエフスキーの五大長編は、これで全て読了したが、他の長編よりも、なぜか本作にロシア的なものがより強く匂い立つのを感じたのであった。登場人物が、貴族のみでなく町人や庶民も多く登場。たかり屋フェージカ、常に酔いつぶれているレビャートキン(元大尉)。いずれも地べたに近いところで生きている下衆な人間たちだ。さらには、レンプケ知事の妻ユリヤ夫人が催す舞踏会には、いかがわしい者どもがどっと襲来。演目に下品な野次を飛ばす。そうした下衆な民衆の群像や、新思想に翻弄され狂騒する貴族たちの姿が、ロシア的な精神性や文化風土を感じさせたのだ。
    ・「舞踏会(&文化祭)」の一連の場面はなかなか面白い。荒れに荒れたあげくの、「火事だ!河向こうが火の海だぞ!」とさらなる大事件! あまりの展開に笑ってしまった。
    ・そして、ニコライ・スタブローギンである。美貌の青年で、クールでニヒル。決闘の修羅場でも全く動じない、肚の据わった男で、冷徹なアンチヒーローの趣。背筋が寒くなるような凄みを感じさせる存在だ。だが、いまひとつ人物像、彼の思想が見えにくい。だが、本文庫の終りに附録的に添えてある「スタヴローギンの告白」の章を読んでようやく、少々のイメージを得ることが出来た。彼の苦悩、悲観的な思考、破滅的な思想、その理由がわかる。その契機となったある事件が詳らかとなる。(12歳の少女と関係、その娘は自殺。)
    ・というわけで、初めて「悪霊」を読む人は、ドストエフスキーが当初に想定した、第二部八章の終り(本文庫p162)で「スタヴローギンの告白」を読むことを推奨したい。
    ・スタヴローギン。私にとって、ドストエフスキーの作品群のなかでも、最も心に残る人物である。

    ・「悪霊」のもう1人の主人公と目されるのが、ピョートル・ヴェルホーベンスキー。革命家の必須条件はカリスマ性であると言われるが、彼は自身にそれが無いことを自覚している男。そして、それゆえに、圧倒的なカリスマ性を有するスタヴローギンを組織活動に利用しようと画策。彼につきまとう。しかも多弁。これが、なんともうっとうしい。ドストエフスキー作品群で屈指の、嫌なキャラである。小細工を仕込み、他者を将棋の駒のように扱う。のみならず、策のために実際に殺人も行う。シャートフ殺しのみならず、レビャートキン兄妹殺しも、この男の策略らしい。そして、終幕、いずこかへ姿を消してしまい、読後感としてもすっきりしない。

    ・さて、女性についてである。ドストエフスキーの長編の女性登場人物は、例えば「白痴」のナスターシャもそうだが、言動が二転三転する感じで、何を考えているのか、とてもわかりにくい。クレージーである。
    ・「悪霊」のワルワーラ夫人も然り。ステパンに対する態度も、その後の心境の変転も、その理由がよくわからない。
    ・リザヴェータは、マブリーキーと婚約したが、その後、スタヴローギンとの関係が再浮上する。
    ・女性達の心の動きを納得させてくれる事情や背景の情報が詳らかでなく、結果顛末が明快に書かれぬままのことも多い。彼女らの心理の軌跡はなんともわかりにくい。
    ・ドストエフスキーの長編の読みづらさ。私は、この心理変転の激しさにもっとも難儀している。
    ・本作「悪霊」は、物語の構成が十分に練り上げられていない感がある。それゆえ、読む側の、読解力というか「構想力」が求められる。ときにバラバラに感じられる冗長なエピソードの数々、数多の登場人物の人生の一場面。それらの意味を一つの樹に統合する如く、読者自身で、全体の主題をつむぎださなくてはならないようだ。

  • 20180701
    ロシア民衆の無神論者が組織を組み、国家転覆の意識を基に犯罪を行う物語。ロシア土着の信仰心(無神論、人間観)が悪霊となり、ロシア人を殺し新しい価値観を創設するしかないと取り憑かれた組織の人間達の対話がテーマとなる。
    ルカの福音書の、「キリスト教を信じない悪霊が豚に取付き池に沈んで溺れてしまう」という寓話が底本となっている。
    神を信じないことで、超越した人間になれるという価値観がある。そしてその価値観を表明するのは、自殺して神を超越したと証明するのである。
    一方で、人間を超越する価値観は「愛」であり、やはり神への信仰=キリスト教の信仰が必要である、ということもあげている。
    ステパン氏は死の間際で両方の思想に挟まれ葛藤の中死亡した。
    神への信仰=愛が人間には必要であるという中世・近現代的な考えにも理解を示す一方、自然と一体となって、自己の実現、自己の超越をしていく日本的な価値観を突き詰める、表明していくことに人生の価値を見出したい。

  • 読み終えての感覚は何ともすっきりとしないものだった。
    言うなれば”腑に落ちない”とでもいうか。
    結論から言えばいろいろな誤解が重なってのものなのだろうが、ここまではっきりとペンディングだなと思った作品は今までなかったように思う。


    私の読書人生の中で未読のペンディングと言えばサルトルの『嘔吐』になる。
    かつては本当に読書体力がなかったからの保留なのだが、今なら読めるだろう。しかし、ただ読めるのとそれを消化して己のものとするのは全く違う。我ながらその自信が未だになく、だからこそ手をつける予定が今のところない。
    いろいろと思い入れがある本なのだ。それだけに、切り捨てたくないというのも多少あるのだろう。
    私自身が持つあの本にまつわるエピソードが産む感情と、作品それ自体の感想はけして符合するとは限らない。その不一致を怖れているというのもあるのだろう。


    はてさて、話がそれたが、それとは別。読み終えたが全く腑に落ちていないのが本作だ。つまり再読しなければいけない本だと今回の『悪霊』は感じたのだ。
    先に言った『嘔吐』の話のように読解力の問題でいつか読みなおした方がいいのだろうと思う作品は多々あるが、これは少しばかり違う。
    元々、ドストエフスキーの本は前々からうすうす再読、それも予備知識を備えてのそれをしなければいけないだろうと感じていた。
    かの有名な『カラ兄』の”大審問官”の下りに、私はうんともすんとも何も感じなかった。
    あれは逆の意味で目から鱗、なんという衝撃。いやアレに関しては未完の作品というのも大きな要因になるだろう。
    逆に大好きな『罪と罰』はあの曰くありありの光文社の亀山訳である。私個人的には読みやすかったので、いいのではと思っているが、好きな人からすれば許せぬものが多いのだろう。私にとって光文社版の『ドリアングレイの肖像』はまさしくそうだ。そう言う話を聞けば、新潮か岩波もいつかは読んでおかねばなるまい、と考えてしまう。
    結局そう言う理由もあって既読のドスト作品はいつか再読せねば成るまい、と考えてはいたのだ。
    こういう話をするならマンの『魔の山』も該当するのだが、今回は風呂敷をロシア内部だけにしておこう。
    同じ教養小説で、『魔の山』も難所であり、初めて読んだ教養小説だったので鮮烈な印象は残るが、ドストエフスキーはさらにそれを上回る。
    なんというか、こちらの方が私には肌に合っているのだ。物語が壮大で、登場人物それぞれがキャラが立っており、おまけに緻密で、膨大な知識が眠る。
    このドスト先生の洗礼を受けてから、カストルプ君に会いにベルクホープに行った方がさらに新しい印象を得られるだろうと思う。正直マンの著者は私の本棚ではお飾り同然の状態になっているのもあるし。



    しかし、なぜこんなに『悪霊』でそれを感じたのか。
    それは中途半端に消化器系の途中でとどまっているからだろう。
    『カラ兄』のようにかすりもしなければ放置できるし、『罪と罰』ぐらいわかりやすければ熱狂でそれはとどまる。
    なんと言うか、『悪霊』は私の中で何ともいえぬ“途中感”を残しているのだ。
    そんでこの症状が意外にも重いみたいで、次に軽めの本をわざわざ準備したのだが全く進まずスタヴローギンにすっかりとらわれて、彼についての考察を長らく重ねている。
    キリーロフやシャートフではない、ましてやピヨートルでもないのだ。やはりスタヴローギン。むしろそれしか残っていないほどに、彼にとらわれている。
    しかしスタヴローギンは私の今回読んだ限りでは、悪魔的と言うには、あまりにも一貫性や掘り下げが曖昧で、強烈な個性がドストエフスキーの登場人物にしては薄い。
    最後の最後になって、比重が増えて急に主役の座を横取りしたとしか思えないような存在なのだが、それが故にすっかり私は魅了されたようなのだ。
    いやドストエフスキーの小説ってのは最後に向かって緻密にいろいろなものが集約されて行くものだと私は考えている。それすらも『悪霊』はどこか曖昧なのだ。
    内ゲバが主題なのか、革命への批判なのか、無神論なのか、それとも悪徳に対する贖罪なのか。
    なんなのだろう。
    全部であり全部ではない。だからこそいろいろな誤解が生まれ、私は混乱したのだろう。
    いやもっと簡単な理由は見えていて、この途中感を私の中に残した最大の理由は告白の章が本編から抜けているからだ
    アレがなければこの本は全く意味がない。いわば最大の山場なのにそれが結末を読み終えたところで現れる。こっちほっぽって最後の最後にねたばらしして逃げられた気分。なんというか物足りないのだ。前後がつながらない。
    それに関しては作者と出版社側でかなりのやりとり、いやいざこざがあり、その曰わくがこんな結果を生んだのだが、それで全体が乱されてしまっている。あとの解説を詳しく読まないと理解が深まらないなんてどういうことだ。
    こんな批判をしたら夢にでも出てきて呪われそうだが、ドストエフスキー自体も望んでこんな形にしたわけではないのだ。
    時代が今であればこれは完璧な形で、成立できたろうに。
    ドストエフスキーの切り込みは時代に制約を受けたが、驚くべきは自身が時代の渦中にいながらも、むしろそれを敏感に、そして冷静に捉えていたことだろう。
    センセーショナルなそれが肝なのではない。第一、表現の自由や道徳観の変化によってかそれは今の私にはあまり驚きを与えない。しかし、それにまつわる心理模様には普遍性がしっかりと生きている。
    何を今更、と突っ込まれるかもしれないが、『カラ兄』ではわからなかったそれが何となく感覚的に理解できるようになったな、と今では思う。
    とまぁ、とりあえず今回は細かくは書かずに、この辺で撤退しておくかな。

  • 「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりましなのです」雑誌連載時にはその内容ゆえに掲載を見送られた「スタヴローギンの告白」内で用いられる、上記の言葉が個人的ハイライト。そう、無神論というのは「絶対的な神が存在する場所に、絶対に何も置こうとしない」という思想を信仰する、一つの宗教的態度である。宗教に無関心な人にでも、星に祈りたくなる夜は来る。あなたが好きなものを語る時、それは一つの信仰告白が行われているということなのだ。それでも僕らは何かを信じずにはいられない、人は真に堕ちきるには弱すぎる存在なのだから。

  • ■ニコライ・スタヴローギン。こいつはそもそもどういうヤツなんだ?

    カリスマ性がある。謎めいている。皆の視線が集まる。女にむちゃくちゃもてる。金持ちである。突拍子もないことをやりだして人を驚かす…。
    多くの者にとってのあこがれの的のようだが、それにしても皆が皆、ニコライに自分の理想を勝手に投影している、その度が過ぎるのだ。

    シャートフは、社会主義からロシア土着のキリスト教に転向するが、自分の指導者にして理想の人、ニコライの最近の言動に失望し、ニコライに食ってかかる(いきなり頬を殴りつけたりする)。
    キリーロフは、ニコライから吹き込まれた人神思想を強烈に推し進めた挙げ句、狂人になり果て、もはやいつでも自殺する気満々である。
    マリアは自分を迎えにきたニコライを、自分の知っている人と違うニセモノと言って突き放す。
    ダーリャは、ニコライのどこをどう見て言っているのか、生涯を通じての看護婦になると言い出す。
    リーザはマヴリーキーと婚約までしているのに、ニコライがどうせ断らないのを知ってて抱かれにいく。
    ワルワーラ夫人は、ニコライを狂人と認めたくないあまり、黙って金だけ仕送りし続ける。
    ピョートルの入れ込みようは異常で、ニコライが男前だと褒めたたえ、革命後のロシアの帝王か書記長かに担ぎ出そうとたくらんでいる。

    なぜだか彼は他人に都合のいいように思われる。というかそもそも、他人に勘違いされるたびにニコライは、「いや、それは違う」とムキになって否定したりしないのだ。それではなぜ否定しないのか。

    ①自分がどうおもわれようとそもそも他人に関心がない。・・・日ごろの彼のすてばちな言動からこの説は支持できる。シャートフがいくら息巻いてもどこ吹く風。めずらしく興奮してニコライを奉るピョートルに注ぐ、ニコライの白い眼を見よ!
    ②”自分はこういう人間なんだ”というものを持っていない。あるいは探しても見つからない。・・・押さえられない衝動はありすぎるほどある。が、それ以外の、ふつうの豊かな感情といったものが作中に描かれていない。心の中がカラッポのようなのだ。
    ③つけこまれやすい。・・・「心の中がカラッポ」に加えて、他人とのコミュニケーションが十分にできない。よって他人から好きなように思われても、その誤解を修正できずに放置、さらなる誤解を生む結果となる。

    では、ニコライ・スタヴローギン。こいつは結局どんな人間なのか。
    もし「スタヴローギンの告白」がなければ、スヴィドロガイロフ同様謎に満ちたキャラクターとして、上記の①②③があろうとも、逆に母性本能をくすぐるようないい印象を読者に残したかもしれない。しかし勿体ぶって本人が明かしたその正体は、平気で嘘をつき、隠れて悪事を働き、ヤバくなったら逃げ出すような、単なるチンケな犯罪者なのである。一部読者の中にはニコライを英雄視するムキもあるようだが、決定的な証拠が提示される「スタヴローギンの告白」を前にして、何をかいわんやで、私は全くそれに与しない。それをいうなら、ピョートルなんかつねに物語を支配して思い通りに事を運んでいたし、最後はあざやかな逐電を決めてみせた。スーパーマンといえばピョートルの方が上だろう。

    ・・・ところでこのピョートル、あれから一体どうなったんだろう。生きていたら、ニヒリズムからロシア革命まで、ロシアの激動の歴史を見守った、あるいは先導した生き証人になっていたはずだ。一方もしニコライが自殺しなかったとして、それ以降ニコライはどんな物語を紡ぎだしたであろうか? どうせ同じなのだ。奇行、優柔不断、軽犯罪、・・・なんだかとってもつまらないでしょ? でも、ピョートル齢八十にして刊行される回顧録があったならば? こんなの『カラマーゾフ』の続編ほどの価値があるのではないか。

    ■ところで本書ではいっぱいいっぱい人が死ぬのよ! みんな死んでしまえばいいのよ~!
    シャートフ(銃殺)
    シャートフの嫁(病死)
    シャートフの嫁の胎児(母体とともに病死)
    キリーロフ(縊首による自殺)
    レビャートキン(刺殺)
    マリア(発狂のうえ、刺殺)
    レンプケ(発狂)
    懲役人フェージカ(銃殺)
    リーザ(撲殺)
    ステパン先生(病死)
    マトリョーシャ(縊首による自殺)
    ニコライ(縊首による自殺)
    セミョーン聖者に会いに行く途中でみた自殺者(縊首による自殺)
    ・・・大火事で人が死んだかどうかは不明

  • 下巻もレンプケ市長が好きだな、なんで滑稽で一途なおっさんて愛おしんだろうか(性癖か)。スタヴローギンが想像以上にクズ以外の何者でもなくて泣けた。なんかもうあらゆる人に、というかむしろスタヴローギンとワルワーラ夫人母子に振り回されただけのダーリヤちゃんもかわいそうだった。
    最後のチホン神父への告解は救いであっただろうか、いややはりスタヴローギンの肥大した自我には我慢ができなかったようで、可哀想な青年の精神を憐れむ。
    ピョートルもクズはクズなんだけど如何せん小悪党というか、スタヴローギンの前には霞んでしまう存在であった。

  • 相変わらず読みにくい文章で疲れた。
    この本に対する読者評価が高くて驚いた。
    私は何かを見落としてるのかなぁ。

    まともな人物は一人もいないのか?
    終始、暗い印象で、なんとまぁ救いを感じない。
    特にシャートフは不憫でならない・・・

    抽象的で小難しい表現のオンパレード。
    深そうで、実はたいしたことを言ってないような。

    あ、ソフィアって「罪と罰」にも出てきたような。
    主人公の救いとなる名前なのかな。
    たまたまかな?

  • 10年毎に読み返しているが、人生4度めの読了

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著者プロフィール

ロシアの小説家、思想家。トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪。

「2008年 『罪と罰 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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