悪霊(下) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (758ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102010181

感想・レビュー・書評

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  • かなりてこずりましたが、意地で読了しましたよ…。
    なんというか、本書は読んでいて盛り上がりがないのですよ…。
    そして、本書の一番重要な『テーマ』が理解できない。
    もちろん、ストーリーとしては理解できるのですが、ドストエフスキーが本書を記した意味が分からないのです。

    ドストエフスキーの5大長編で読了した『罪と罰』『白痴』の2冊はテーマがはっきりとしていました。
    『罪と罰』は「肯定される殺人はあるのか」というようなテーマ。『白痴』は「純粋無垢な男性が女性二人を同時に愛するとどうなるか」というようなテーマでした。
    いずれもテーマとしては非常に分かりやすかったのですが、本書『悪霊』はものの本によると
      『無政府主義』
      『無神論』
      『ニヒリズム』
    などをテーマとし、実際の『ネチャーエフ事件」をモチーフにして描いた傑作と言われているのですが、難しかった…。

    やはり、アナーキズムや無神論などはそれ専門に勉強しないと日本人にはいまいちピンとこないのではないでしょうか。

    1873年に本書が発刊された当時のロシアはまさに「農奴解放」(1861年)から「ロシア革命」(1905年)の間の時代という混乱に満ちた時代でした。
    この時代に生きた人々が、このいわゆる内ゲバ事件である「ネチャーエフ事件」をどのように認識していたのかということが分からなければ、本書の本来の意味を読み取るのは難しいのでしょう。

    まあ、もともと「難解だ」と言われているドストエフスキーの小説。そしてドストエフスキーの長編のなかでも分かりづらいと言われている『悪霊』を初読で理解しようとする方がおこがましいのかもしれません。
    この本は、何度も再読することによって味が出てくるということなので、また時間をおいて読んでみたいと思います。

  • 混沌としているうえに大仰で、ちょっとしんどくなったので流し読みしてたら、途中から訳が分からなくなってしまいました。
    図書館で解説本借りてきて読んで、ようやくそういうことだったのか、と。
    つかれた・・・
    視点人物の不安定さ(なんでそれ知ってるの?とか、途中で消えたと思ったらしれっと復活する、とか)、狙いなんだろうか。

  • ■ニコライ・スタヴローギン。こいつはそもそもどういうヤツなんだ?

    カリスマ性がある。謎めいている。皆の視線が集まる。女にむちゃくちゃもてる。金持ちである。突拍子もないことをやりだして人を驚かす…。
    多くの者にとってのあこがれの的のようだが、それにしても皆が皆、ニコライに自分の理想を勝手に投影している、その度が過ぎるのだ。

    ●シャートフは、社会主義からロシア土着のキリスト教に転向するが、自分の指導者にして理想の人、ニコライの最近の言動に失望し、ニコライに食ってかかる(いきなり頬を殴りつけたりする)。
    ●キリーロフは、ニコライから吹き込まれた人神思想を強烈に推し進めた挙げ句、狂人になり果て、もはやいつでも自殺する気満々である。
    ●マリアは自分を迎えにきたニコライを、自分の知っている人と違うニセモノと言って突き放す。
    ●ダーリャは、ニコライのどこをどう見て言っているのか、生涯を通じての看護婦になると言い出す。
    ●リーザはマヴリーキーと婚約までしているのに、ニコライがどうせ断らないのを知ってて抱かれにいく。
    ●ワルワーラ夫人は、ニコライを狂人と認めたくないあまり、黙って金だけ仕送りし続ける。
    ●ピョートルの入れ込みようは異常で、ニコライが男前だと褒めたたえ、革命後のロシアの帝王か書記長かに担ぎ出そうとたくらんでいる。

    なぜだか彼は他人に都合のいいように思われる。というかそもそも、他人に勘違いされるたびにニコライは、「いや、それは違う、自分はそんな人間ではない」と否定したりしないのだ。それではなぜ否定しないのか。

    仮説① 自分がどうおもわれようとそもそも他人に関心がないから。………日ごろの彼のすてばちな言動からこ仮説は支持できる。シャートフがいくら息巻いてもどこ吹く風。めずらしく興奮してニコライを奉るピョートルに注ぐ、ニコライの白い眼を見よ!
    仮説② ”自分はこういう人間なんだ”というものをそもそも持っていない、あるいは探しても見つからないから。………押さえられない衝動はありすぎるほどある。が、それ以外の、ふつうの豊かな感情といったものは作中に描かれなていない。つまり心の中がカラッポのようなのだ。
    仮説③ そもそもこの男は他人につけこまれやすい性質だから。………「心の中がカラッポ」のために、他人とのコミュニケーションが思うようにできない。よって他人から都合のいいように思われても、その誤解を修正できずに放置、ますます誤解がふくらむ結果となる。

    では、ニコライ・スタヴローギン。こいつは結局どんな人間なのか。
    もし「スタヴローギンの告白」がなければ、スヴィドロガイロフ同様謎に満ちたキャラクターとして、上記の①②③があろうとも、逆に母性本能をくすぐるようなプラスの印象を読者に残したかもしれない。しかし勿体ぶって本人が明かしたその正体は、平気で嘘をつき、隠れて悪事を働き、ヤバくなったら逃げ出すような、単なるチンケな犯罪者だったのである。一部評論家の中にはニコライを英雄視するムキもあるようだが、決定的な証拠が提示される「スタヴローギンの告白」をどう曲解しようとしているのしらないが、私は全くそれに与しない。それをいうなら、ピョートルなんかつねに物語を支配して思い通りに事を運んでいたし、最後はあざやかな逐電を決めてみせた。スーパーマンといえばピョートルの方が上だろう。

    ・・・ところでこのピョートル、あれから一体どうなったんだろう。生きていたら、ニヒリズムからロシア革命まで、ロシアの激動の歴史を見守った、あるいは先導した生き証人になっていたはずだ。一方もしニコライが自殺しなかったとして、それ以降ニコライはどんな物語を紡ぎだしたであろうか? どうせ同じなのだ。奇行、優柔不断、軽犯罪、・・・なんだかとってもつまらないでしょ? でも、ピョートル齢八十にして刊行される回顧録があったならば? こんなの『カラマーゾフ』の続編ほどの価値があるのではないか。

    ■ところで本書ではいっぱいいっぱい人が死ぬのよ! みんな死んでしまえばいいのよ~!
    シャートフ(銃殺)
    シャートフの嫁(病死)
    シャートフの嫁の胎児(母体とともに病死)
    キリーロフ(縊首による自殺)
    レビャートキン(刺殺)
    マリア(発狂のうえ、刺殺)
    レンプケ(発狂)
    懲役人フェージカ(銃殺)
    リーザ(撲殺)
    ステパン先生(病死)
    マトリョーシャ(縊首による自殺)
    ニコライ(縊首による自殺)
    セミョーン聖者に会いに行く途中でみた自殺者(縊首による自殺)
    ………大火事でどれほど人が死んだかは不明。

  • ちょっと前に「白痴」も読んだが、ドストエフスキーって長編作家として欠点有り過ぎだと思う。
    海堂尊さんは同日に同時並行に起こる事件をデビュー作として書いたが、編集者の助言で「チームバチスタ」「ナイチンゲール」の2作に書き直したという。僕が編集者だったら、この作品をステバン氏、ピョートル、ニコライが主人公の3作に書き直させるな。

    終盤のステバン氏の再登場。ロシアの大衆を愛すると云いつつ、世間知らずで、まったく大衆を知らない。知と美に殉じ、変な拘りで自分を追い込んでいく。しかし、ドストエフスキーは愛情をもって、このピエロ的人物を描いている。

    その息子、ピョートルは頭に穴が開いたよう軽薄な人間。その仲間たちの中で披露されるシガリョフの説は、平等を齎すため人々を原始的な天真爛漫な家畜に作り替えるべきという。まるで毛沢東やポル・ポトを予言しているようだ。ピョートル以下の破壊分子達はロシアの改革に理想を見ていない。ただ、破壊を目指している。
    平然と転向者の汚名を着せた人間を殺害し、その罪を自殺願望者に押し付けるピョートルは人間的な感情を失っている。

    最後に未完の稿として収録されたニコライ・スタヴローギンの告白がなかったら、彼は単なる奇妙な登場人物であったろう。人々を、女性を、陰謀家のピョートルまで惹きつける魅力のある人間なのに、周囲を破滅させ、平然と罪を犯す。何故こんな人間が出来上がったのかと考えれば、高等遊民でロシアの地に根を張らないデラシネであったこと。そして、やはり当時の無神論の所為だと思う。
    チホンとの対話の中で黙示録が引用されて、「白痴」にも黙示録を購読する無神論者が登場していたことを思い出す。しかし、僕はロシア正教にも黙示録にも不案内なので、首を捻るばかり。社会主義が神への信仰の問題と語られるのは日本人には理解しがたいと思う。

    ピョートルが知事夫人に取り入って、大イベントの裏で陰謀をめぐらす茶番劇はあまり感心しなかった。
    この顛末は、頭が悪く立場をわきまえない首相夫人が、かなり低能なペテン師にいい様に乗せられていたことを想い出させた。本当、くだらない茶番だ。

    カバーの裏表紙に「組織を背後から動かす悪魔的超人スタヴローギン」とある。
    新潮文庫とあろうものが、何だ、この出鱈目は。

  • 禍々しい表紙とは裏腹に、滑稽な描写が目立った上巻。しかし、下巻も中盤以降に入ると、じわりじわりとその禍々しさが露見してくる。表紙に内容が追いついた、とでも言えようか。

    本編を読んだ段階では、『悪霊』と形容できる具体的人物はスタヴローギンではなくピョートルであるように感じた。上巻のおしゃべりはどこへやら、極悪非道の限りを尽くすピョートルに、あるいは魅せられる人もいるのではないだろうか、と思うくらいだ。事実、巻末解説によると、元来は主人公はピョートルであり、ドストエフスキーはその設定で700枚以上の原稿を書いていたらしい。

    ここで注を入れておくと、物語冒頭で引用されている聖書の中の、悪霊に取り付かれた豚が次々と自ら溺死していくと言うエピソードと、革命、共産主義、無神論に取り付かれたロシア人たちが次々と破滅していくと言うこの物語は呼応しており、悪霊とは特定の人をさすわけではなく、これら共産主義や無神論を指しているものであるらしい。

    いずれにしても、人間があたかも悪霊に取り付かれた豚さながらに次々と滅亡していく様にはある種の爽快感すら感じさせる何物かがある。また、物語終盤で展開されるキリーロフの人神思想は、必読とされるスタヴローギンの告白に勝るとも劣らないすさまじさで、読んでいて恍惚感のような、人間を超えた何かとでもいえるような、異質なものを感じたことを記しておきたい。

    下巻は面白い、とよく言われる本書だが、すぐに面白くなってくれるわけではないのでご注意を。話がスリリングになるのは第三部に入ってからである。第二部の残りは、そこで挫折することがないように、自分のペースで読むのが望ましい。

    さて、『スタヴローギンの告白』を読み終えた。まず感じるのはその異質な読後感だ。殆ど全ての本は、読み終え次第、開放感や爽快感、そして達成感を得られるものであるが、ことこの本においては違ったわけだ。

    そもそも『悪霊』と言うタイトルの本からいい読後感を得ようとすること自体が間違っているのかもしれない。得られた読後感は、個人的には『カラマーゾフの兄弟』以上の謎と、「1度では殆ど理解できていないだろう。せめて『告白』だけは再読しなければ」と言う気持ちだった。ゆえに消化不良の感が否めないが、これは本のせいではなく僕の読書力のなさのせいだろう。

    星は上巻下巻ともに4つとなったが、詳細に述べると上巻は星3.5、下巻は星4.5と言ったところだ。…と、『告白』を読む前は考えていたのだが、『告白』のあまりの密度の高さに、星5つを進呈せざるを得なくなってしまった。

  • 物心ついたころにはソ連は崩壊していたから、大人たちが「ロシアは何を考えているかわからない、怖い」というのを古い価値観に囚われてるのではと思って育っていた。今ウクライナの戦争を受けて、その感覚がわかってしまった。ロシアの文化に触れれば少しその思考がわかるかなと思って最近ロシアの文学を意識的に手に取っている。そして本書は、今の状況に重ねようとすれば重ねられてしまう要素を孕むだけに、本当に破滅に向かってるのではないか、と不安になった。登場人物の多くの思考回路がわからないのは私が未熟だからか、それとも。。

  • ロシア文学特有ではあるが名前のややこしさがすごい。わりと最後の方までステパン氏が主人公かと思ってたがスタヴローギンが主人公・・。どんどん人間味が出て、出るほどに魅力が薄れてきたり、人に知られたくない嫌な部分が晒け出されたりと読むのが辛くなる。キリーロフがものすごく強烈。やたら狂人扱いされてたが言わんとする思想が少し分かってしまうように感じた。国家に対してデモやストライキ起こす団体を思い起こされた。

  • ・「大政奉還」や「龍馬暗殺」が1867年。ほぼ同じ頃ロシアで「ネチャーエフ事件」なるものが起きたという(1869)。この事件は、帝政ロシア打倒を標榜する極左セクトの「内ゲバ」殺人で、小説「悪霊」はこれをモチーフに書かれた(1871-2年雑誌掲載)。そうした同時代性を思いつつ読むと、感慨深いのであった。

    ・ドストエフスキー「五大長篇」の他の諸篇と比べてもまとまりに欠ける感があり、テーマを捉えにくい難物である。だが、一方で、当時のロシア社会の混乱、価値観の動揺が色濃く描かれている。社会を混乱させようとする人間たち、という他の長篇には無い異色の事象があり、虚無的な手触りがある。その点では独特の味わいがある。

    ・読み進めるにあたり、この小説世界に、「オウム真理教」の集団的狂気のイメージを重ねることが出来るのでは…、と思いついた。だが、この想定は強引にすぎたようである。「悪霊」はあまりにもロシア的であるため、と思われる。ドストエフスキーの五大長編は、これで全て読了したが、他の長編よりも、なぜか本作にロシア的なものがより強く匂い立つのを感じたのであった。登場人物が、貴族のみでなく町人や庶民も多く登場。たかり屋フェージカ、常に酔いつぶれているレビャートキン(元大尉)。いずれも地べたに近いところで生きている下衆な人間たちだ。さらには、レンプケ知事の妻ユリヤ夫人が催す舞踏会には、いかがわしい者どもがどっと襲来。演目に下品な野次を飛ばす。そうした下衆な民衆の群像や、新思想に翻弄され狂騒する貴族たちの姿が、ロシア的な精神性や文化風土を感じさせたのだ。
    ・「舞踏会(&文化祭)」の一連の場面はなかなか面白い。荒れに荒れたあげくの、「火事だ!河向こうが火の海だぞ!」とさらなる大事件! あまりの展開に笑ってしまった。
    ・そして、ニコライ・スタブローギンである。美貌の青年で、クールでニヒル。決闘の修羅場でも全く動じない、肚の据わった男で、冷徹なアンチヒーローの趣。背筋が寒くなるような凄みを感じさせる存在だ。だが、いまひとつ人物像、彼の思想が見えにくい。だが、本文庫の終りに附録的に添えてある「スタヴローギンの告白」の章を読んでようやく、少々のイメージを得ることが出来た。彼の苦悩、悲観的な思考、破滅的な思想、その理由がわかる。その契機となったある事件が詳らかとなる。(12歳の少女と関係、その娘は自殺。)
    ・というわけで、初めて「悪霊」を読む人は、ドストエフスキーが当初に想定した、第二部八章の終り(本文庫p162)で「スタヴローギンの告白」を読むことを推奨したい。
    ・スタヴローギン。私にとって、ドストエフスキーの作品群のなかでも、最も心に残る人物である。

    ・「悪霊」のもう1人の主人公と目されるのが、ピョートル・ヴェルホーベンスキー。革命家の必須条件はカリスマ性であると言われるが、彼は自身にそれが無いことを自覚している男。そして、それゆえに、圧倒的なカリスマ性を有するスタヴローギンを組織活動に利用しようと画策。彼につきまとう。しかも多弁。これが、なんともうっとうしい。ドストエフスキー作品群で屈指の、嫌なキャラである。小細工を仕込み、他者を将棋の駒のように扱う。のみならず、策のために実際に殺人も行う。シャートフ殺しのみならず、レビャートキン兄妹殺しも、この男の策略らしい。そして、終幕、いずこかへ姿を消してしまい、読後感としてもすっきりしない。

    ・さて、女性についてである。ドストエフスキーの長編の女性登場人物は、例えば「白痴」のナスターシャもそうだが、言動が二転三転する感じで、何を考えているのか、とてもわかりにくい。クレージーである。
    ・「悪霊」のワルワーラ夫人も然り。ステパンに対する態度も、その後の心境の変転も、その理由がよくわからない。
    ・リザヴェータは、マブリーキーと婚約したが、その後、スタヴローギンとの関係が再浮上する。
    ・女性達の心の動きを納得させてくれる事情や背景の情報が詳らかでなく、結果顛末が明快に書かれぬままのことも多い。彼女らの心理の軌跡はなんともわかりにくい。
    ・ドストエフスキーの長編の読みづらさ。私は、この心理変転の激しさにもっとも難儀している。
    ・本作「悪霊」は、物語の構成が十分に練り上げられていない感がある。それゆえ、読む側の、読解力というか「構想力」が求められる。ときにバラバラに感じられる冗長なエピソードの数々、数多の登場人物の人生の一場面。それらの意味を一つの樹に統合する如く、読者自身で、全体の主題をつむぎださなくてはならないようだ。

  • 20180701
    ロシア民衆の無神論者が組織を組み、国家転覆の意識を基に犯罪を行う物語。ロシア土着の信仰心(無神論、人間観)が悪霊となり、ロシア人を殺し新しい価値観を創設するしかないと取り憑かれた組織の人間達の対話がテーマとなる。
    ルカの福音書の、「キリスト教を信じない悪霊が豚に取付き池に沈んで溺れてしまう」という寓話が底本となっている。
    神を信じないことで、超越した人間になれるという価値観がある。そしてその価値観を表明するのは、自殺して神を超越したと証明するのである。
    一方で、人間を超越する価値観は「愛」であり、やはり神への信仰=キリスト教の信仰が必要である、ということもあげている。
    ステパン氏は死の間際で両方の思想に挟まれ葛藤の中死亡した。
    神への信仰=愛が人間には必要であるという中世・近現代的な考えにも理解を示す一方、自然と一体となって、自己の実現、自己の超越をしていく日本的な価値観を突き詰める、表明していくことに人生の価値を見出したい。

  • スタヴローギンなしには、物語の精彩を欠いていただろう。そこに精神のもがきがあるからだ。あとは俗悪で、または、単に俗っぽさがあるのみだ。ステパンの最後の独白も良かった。良心があった。別立てにされたスタヴローギンの告白はやはり本編に含めるべきだろう。でないと、最後の彼の自殺が物語の救いにならなくなる。色々なことが明晰になるし、チホンとの対話が抜き差しならず、スタヴローギン性がより深みを増すからだ。あとは火事場の描写が迫真だった。

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著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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