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Amazon.co.jp ・本 (288ページ) / ISBN・EAN: 9784102024010
みんなの感想まとめ
音楽とその表現に対する深い洞察が詰まった作品で、演奏者や聴衆が持つべき視点についての考察が展開されています。クラシック音楽、特にフルトヴェングラーの指揮に強く惹かれてきた読者は、その音楽がどのように成...
感想・レビュー・書評
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難しい!わかんない!笑
読むには勉強不足すぎました…。でも、演奏する側、聴く側に求められるものをどう考えているのかが何と無くわかった気がします。 -
2021/9/28
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本当にも15年も昔に読んだ本だけど今大人になって読み返すのも感慨深い。
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クラシックというのは、なぜ同じ曲を何度も演奏するのか。そういうプリミティヴな質問はよく聞かれるけれど、この本を読めば、その「同じ曲」の再現がいかに危うい状況から為されているかがわかる。「再現芸術」と言ってしまえば説明がつくようにも思われるけれど、けっしてそのひとことでは治まらない、楽譜から音楽への変換、歴史的な方法論、進歩によって破壊された方法論、方法論を超えた、再構築とも言える楽曲の再現。しかし自由奔放な解釈に対しては、極めて慎重にならなければならない――。
この本はクラシックだけの話に収まらず、
芸術そのものに対する態度にも触れている。
「すべて偉大なものは単純である」
これはゲーテの言葉だけれど、これがこの本のいちばん最初に置かれている。クラシックという相当に複雑な芸術に携わる人間が、これを引用したというのが面白い。
少し長いけれど、その一文に関わる部分を引用します。
「「全体の中に、魔神的なものが存在している」と芸術家ゲーテは言っています。非有機的な世界はこの種の「全体」を知りません。非有機的な世界は限界というものを持たず、ただ無限にひろがろうとします。ここで言っているような意味においての「全体」という概念を持ちうるというのは、我々自身人間として、有機的な生命に所属しているからなのです。私たちは有機的に思索し、有機的に感覚します。すべての有機体、すべての植物、すべての動物はこの意味において、私たちにとっての一つの「全体」を形づくります。
一つの「全体」はこのように、「単純」でなければなりません。我々がそれを「全体」として見ること、すなわち、もうすでにそれを単純化しているのです。「総て偉大なものは単純である」ということは同時に、また我々が「偉大」として感じるものはすべて有機的な世界に属している、ということを意味します。
我々の身に染みついてしまった、ただただ無限に拡がろうとする非有機的な世界観からは、単純で偉大なものは生まれ得ない。フルトヴェングラーは、科学の時代にあって、その単純である全体を掴むことが如何に難しいことになったかを語っている。それは、21世紀の今日も変わることなく芸術家の眼前に据えられた問題だ。 -
少々品位のない評論集から、一気に格調高いエッセイ!?ニーチェとワーグナーの関係なんかもまさに下衆の極みだけど、著者にかかると芸術と哲学の切れない関係を表していてとても興味深い。ますます、クラシックが面白くなってきた。
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10年サイクル再読本
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まず本書はクラシック音楽の伝統のなかで書かれたものであることに注意せねばならない。そこには、ドイツ的なもの、バッハやベートーヴェン、ワグナー、ブラームスの音楽があるのである。本著は、そのなかでも一流に属する思索であろう。
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クラシック音楽を聴く者であればその名を知らぬ人はいないであろうフルトヴェングラー。
言葉の一つひとつに重みがあった。 -
クラシックとどうしても折り合いがつかん当方では歯など全く立たない本。クラシック愛好家の皆さんがどう読むのか?それを聞かせてもらいたい。よって★評価はいい加減の極みにあるやも。
唯一の手応えは、指揮者は音楽を通して作曲家と、更には社会と、人間と向き合うんだという命題に真摯に取り組む人達なんだということが垣間見えたことかな。 -
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さっぱりわからん。。
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資料番号:010645612
請求記号:760.4フ -
非常に難解。
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「全体の中に、魔神的なものが存在している」というゲーテの言葉を引いているフルトヴェングラーには、音楽というものの「全体」、音楽における「魔神的なもの」に対する感受性がある。彼の指揮者としての偉大さは、この感受性に発するものなのであろう。
規則的な楽節法をもたない音楽を批判しているところにも、「全体」ないし「魔神的なもの」に対する、近代的な感性を超えたものを感じる。ルドルフ・オットーが『聖なるもの』の中で、「標題音楽」は「音楽の合理主義である」と言っているが、オットーも同じ感性を共有している。
フルトヴェングラーによれば、しっかりと楽節づけられた音楽によって立ち上がる知性とは、
(以下引用)「あらゆる生物の生理的な基底的な要求に対応するものであり、それゆえに前代の音楽の楽節法はひとりただ感銘を明確にするに役立つだけでなく、言わば、またそれは、ただ『知的』な契機であるだけではありません。もっと原本的なあらゆる生物の根底的な要望に応ずるものです。不合理な旋律を持った非楽節的な音楽のほうが、きびしい楽節法をほどこした楽曲よりも、より以前の、より原始的な音楽的思念と感覚の状況に対応する、という今日の直観は、まともに正当を主張することはできません。」(引用おわり、73-74頁)
ブルックナーについての章では、近代を、複雑怪奇なものが「コンヴェンション」となった時代と呼び(205-206頁)、そして現代を、歴史的思考が「生命の直接さ、その純真さ」を見失わせている時代と示唆する。また、現代の歴史的思考は、私たちを「人生の傍観者」にする、と(208-209頁)。
ここに、「普遍妥当性とは何か」という問題が浮かんでくる。複雑怪奇なものを「合理性」をもって説明するのが普遍妥当性ということなのか。そうだ、とするのは「科学」の考え方だ。あるいは、「歴史」の中に対象を正確に位置づけ評価することで、普遍妥当性が得られるのであるか。これは単に「客観的である」ということにすぎない。科学的思考も客観的思考も、フルトヴェングラーの言う「全体」をとらえることはないだろう。
またあるいは、「個性」を乗り越えることが普遍妥当性なのか。フルトヴェングラーは、それだけでは十分ではない、と言う。
(以下引用)「なぜなら、そのような努力は主としてただ精神の中に遂行されているのであって、芸術の真の源泉である生命の圏には手をふれえないでいるからです。真の『普遍妥当性』はしかしながら、全人間を相手に対決するものです。一面的=精神的努力のもたらす必然の帰結は、生命の圏が十分に芸術家の対話的意志に参与することができないのです。したがって芸術の源泉であり、始源であるものが切断せられてしまいます。」(引用おわり、212頁)
以上のことは簡単に言えば、合理的・客観的・観念的思考によっては、「真の普遍妥当性」には至ることができないということだ。それは、非合理的で主観的で実体的なものとの対話にしか見いだせない。フルトヴェングラーの表現で言えば、「上と下との間になんの合一しがたい対立もなく、国民的=卑俗なものの中に、神のような自然の高貴な恵みが盛られているところ、至高または崇高なものの中に、芸術家が愛する大地の母胎を、足下に失わないでいるところ」(212-213頁)にのみ、それはある。
作曲家にとっての作品と、それを再現する演奏家にとっての作品とのギャップについての話(「作品解釈の問題」の章)も面白い。 -
「ベートーヴェンと私たち」 読了。合一すること、透徹。単純。ニーチェ/悲劇の誕生 も参照する。7/1,2011
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918夜
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音大生なら読んでおくべき本。なのかな?有名な本。
なかなか難しかったです。全部理解したとは言えないけど面白かった。
翻訳が直訳っぽくて少し読みにくいかもしれません。 -
購入済み
これは時間かかるかも。
(言葉がむずかしいのだった)
音楽の並べ方、音の捉え方、時代の捉え方。
フルトヴェングラーの論理がおもしろい。
ただ彼が書いた文章はたくさんあるらしく、この文庫になっているものは抜粋見たい。
全部読んでみたいなぁ。 -
巨匠フルトヴェングラーがバッハ、ベートヴェン、ワーグナーといった作曲家、再生芸術、ウィーン交響楽団などについて語る評論集。昭和32年の刊行という時代の制約か、文章が翻訳調で読み難いのが玉にキズだが、フルトヴェングラーが単に非常に優れた指揮者であっただけではなく、卓越した哲学家でもあったことがわかる一冊。なるほど、あれだけの音を構成できたのは、これだけの深い思索を持っていた故かと納得させられる。
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譜読み アナリーゼというものがこれほど哲学的で詩的で人間に与える音楽の力の素晴らしさを僕に教えてくれた
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