- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102042021
作品紹介・あらすじ
この街を出て、永遠にどこかへ行ってしまいたい――むせかえるような緑色の夏に、十二歳の少女フランキーは兄の結婚式で人生が変わることを夢見た。南部の田舎町で、父や従弟、黒人の女料理人ベレニスとの日常に倦み、奇矯な行動に出るフランキー。狂おしいまでに多感で孤独な少女の心理を、繊細な文体で描き上げた女性作家の最高傑作。≪村上柴田翻訳堂≫第一弾、村上春樹の新訳!
感想・レビュー・書評
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夢みがちな少女が小さな自分の世界から抜け出すことを夢想する。しかし現実は彼女にはお構いなしに進んでいく。彼女に幸せはやってくるのか?
村上春樹訳で後半からは引き込まれた小説でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
73冊目『結婚式のメンバー』(カーソン・マッカラーズ 著、村上春樹 訳、2016年4月、新潮社)
米の女流作家カーソン・マッカラーズが1946年に著した作品。
著者の自伝的要素が多分に含まれており、田舎街での生活に倦む12歳の少女の、広い世界へ旅立つ事への渇望が生々しく描き出されている。
狂気的と言っても良いほどに暴走してしまう彼女の様は痛々しいが、そこには我々読者も経験した、過ぎし日の相貌がある。
「あたしたちはいろんなことを次々に試してみるんだけど、結局は閉じ込められたままなのさ」 -
自分はなんのグループにも所属しておらず、なんのメンバーでもない。自分は世界のどこにも含まれていない。
そう思い悩む12歳の少女フランキーの、むせ返るような緑色で灰色の"気の触れた"ひと夏の物語。
村上春樹も絶賛しているように、多感で孤独で早熟な少女のみずみずしい感情をすくいあげた小説でした。そう、文芸的に優れているというだけでなく、何か特別でとんでもないものが飛んできたかのような、特別な種類の鮮やかさがある。
南部アメリカの片田舎で、冴えない父とのろまな従弟と黒人の女料理人と、灰色のけだるい午後の台所が自分のすべてで、どこにもいけない閉塞感に焦燥と苛立ちを募らせ、押しつぶされそうになっているフランキー。毛を逆立て全身を尖らせるその姿があまりにも可哀想で、愛おしくて、かつての私をみつけてしまって、たまらず抱きしめてあげたくなった。「大丈夫よ」と背中をさすってあげたくなった。
好きな場面、好きなセリフがたくさんある。
p49 春の朝とても早い時刻、これまで気にも留めなかったなにげない風景がフランキーを傷つけるようになった。アイデンティティーを見失いだす過程。
p192 気怠く長い午後のおしまい頃に台所のテーブルで無節操に繰り広げられる「聖なる主にして神」の世界。
p220-244 フランキーの叫び。「世界中を飛び回るの!ひとつの場所に留まったりしない!世界中を巡り歩くの!それが絶対間違いないところよ、もう、なんたって!」「わたしたちは世界全体のメンバーになるのよ!もう、なんたって!」私はほとんど泣きそうだった。
p309 結婚式がおわったあとの現実。「自分を変えてくれる」と信じていたものからあっけなく裏切られる。結局のところ、他でもなく今いる場所こそが、空想ではない彼女のすべてなのだ。
出口のみえない真っ暗なトンネル。私もかつてそこを歩いてきた。12歳の、ちっぽけな少女だった。
でも完全に通り抜けたわけではないのだ。作者であるカーソン・マッカラーズが考えるのと同じように、未だ継続した物語として続いている。当時の自分を忘れたくないし、「そういう時期もあったわね」「みんなが通る道よ」なんて退屈な大人のように軽率でデリカシーのない言葉ではとてもまとめたくない。 -
ベレニスの言ったこと。かかった熱病の種類によっては、その後の一生がどうしようもなく方向付けられてしまう。同じダンスを続けようとして、でも以前とは同じようにステップを踏めないことにいつまでもなじめなくて、くるしみ続けるのかもしれない。違うダンスを踊るには、今までのステップを踏めないまま無様に動くしかないけれど、かつてうまく踊れていたことを忘れるのはいいことだろうか、悪いことだろうか。
一言でいえば12歳の女の子がかかった熱病の話なのだろうが、切り離された懐かしい過去として読むことはできなかった。自分の中に閉じ込められていることを、意識する時期としない時期があるだけなのだ。 -
若かった頃読んだときどう思ったかは、すっかり忘れた。今はただ、胸にしみる。その一言。
最初のあたりでフランキーが言う。「わたしがわたし以外の人間であればいいのにな」 そう、いつもそう思っていた頃がわたしにもあった。なぜ自分はこの自分なのか。受け入れられずに、でも、そういう言葉にはできずにいた頃。しかもその子供じみた思いは、まったく消え去ったわけではなくて、実はずっと自分のなかにあるのだった。そのことに思いいたる。
十二歳のフランキーは、共感できる女の子というわけではない。思い込みが強く、不自然な行動をし、ちょっと意地悪で、軽はずみで(こうあげてみたら、この年頃の子によくある性質でもあるが)。彼女の葛藤や苦しみはどこまでも彼女自身のもので、時代や国や民族の違いなどのせいではなく、その個別性で、わたしの安易な理解を拒否している。
それでもなお、「ああ、この気持ちはわかる」と何遍も思った。自分が「何者でもない」ことがたまらず、何かになりたい、なれるはずだ、いやなれないのでは、と自信と劣等感の間を行き来していた。周囲の誰にも理解されないと思い、そのくせ理解されることは拒絶して、ここではない、どこかに自分の行くべき場所があるはずだといつも思っていた。料理女のベレニスが「あたしたちはみんなそれぞれ、なぜか自分というものに閉じ込められているんだ」と言う、まさにその通りに感じて。
訳者の村上春樹が「(自分もフランキーのような少女と同様に)何がなんだかわけのわからないままに『気の触れた夏』をくぐり抜けてきたのだ」と書いている。ここが深く心に残っている。「それは人生の中でほんのいっときしか味わうことのできない、大事な気の触れ方だったのだ」 -
人生のある時期の衝動。
自分が何者か。どこにいるべきか。何をすべきか。
心も脳もバラバラになるほどヒリついた感情。
全てを壊し、自らさえも壊したくなる。そうしないと自分がここにいることが確かめられない といった感情。
そんなものに瑞々しくあふれている。
これはすごい。 -
なんと言えばいいのだろう。
12歳の少女が体験する、12歳の少女(あるいは少年でも)の誰でもが感じる心の機微を、美しい、それこそ我々が12歳の頃に感じていたような美しい夏を舞台に描き出す。
私が読んだのは新訳の村上訳で、多分に私の色眼鏡が入ってしまっている部分はあるとは思うが、少女の心、あるいはある猛烈に暑い夏を描くその文章の美しさ。
物語自体は、本当になんとも言えない。しかしなんとも言えない良さがある。
でもそれ以上に、この美しい文章を堪能して欲しい。 -
舞台や環境、取り巻く状況は何も変わっていないのに心境だけが「すっかり新しく」なり、見えるものの姿が変わり、自分の名前も変わり、フランキー時代の亡霊が後ろをついてくる。どこかに閉まってあった「12才」の心境がありありと描かれる。文学じゃないと描けない「何か」が満載で最高。
登場人物の死をはじめとして所々にドラマチックなことは起きるが、それを圧倒して印象深いのはFジャスミンとして生まれ変わって街に出た景色と、そこから家に帰りベレネス、ジョンヘンリーと過ごす一夏の夕方である。アーカンソー州という多分人生で初めて聞いた州から来た兵隊との出会い。
戦時中、黒人専用席、日本人をはっきり「敵」と認識した描写等がところどころに痛々しく、ただオシャレなだけじゃないアメリカ南部の土臭さがツンと鼻につく素敵な小説だった。タイトルもいい。久々に1冊小説を読み切ったと思う。 -
カーソン・マッカラーズを読むのはこれで二作目だが、ものすごい描写力に圧倒されます。
主人公は12歳の女の子で、その心理は経験したことがなくても共感できるような部分が多くて、一般的にいう「筆力」というものを感じます。
引き込まれる一冊です。