- Amazon.co.jp ・本 (181ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102045015
感想・レビュー・書評
-
アンドレ・ジッドの自伝的要素を持つ物語(レシ)。
謹厳で学問に誠実に打ち込んでいた古典学者が、結婚後に大病を患いそして復活を遂げるとすっかりと道徳的・性的に「背徳者」になっていたという話です。
言ってみれば身もフタもないか・・・。(笑)
新婚旅行中の本人の病気や妻の病気療養で辿るヨーロッパや北アフリカの国々の描写は、いい加減に安静にしてないとだめだろ!という突っ込みの反面、様々な旅愁が醸し出されていてとても良かったです。
また、中盤では実は本人が大農園の領主だったということで、お屋敷や農村や森林の風景が随所に散りばめられていて、これもある意味、牧歌的な雰囲気があって良かったですね。
この物語では行く先々での自然とのかかわりを背景とするような描写が続いていて、それが「背徳」化した主人公と対比的・象徴的に描写されていたように思います。
大自然が本当の自分を開花させるみたいな。
本人が病気療養中に浴びていた月夜の光が、打って変わって燦然と輝く太陽や大自然の中で次第に健康が増幅され、さらに自らのこれまでの道徳的な生き方からの脱皮でもあったのは大いなる皮肉でした。
実際にこの物語では期待するほど(!)エロチックな場面は出てこなかったのですが、終始、同性愛や少年愛を暗示するかのような内容となっていて、行く先々で少年を愛でる行動はこれはもはや倒錯的な世界であると言っても良いでしょうね。
かつて愛でていた少年がしばらく見ぬ間に、多少大人めいてくると途端に手のひら返しで冷たくなるのはどれだけ少年好きなんやねん!(笑)
しかも一方では泥臭い男くささにも憧れをいだいているようでもあり、わたし的には少し悪寒が走りましたよ・・・。
そして、一番に「背徳」なのは、病気療養中の妻をいたわりながらもそれがもう片方では少年たちと遊び戯れる行為であり、そもそも妻の療養にかつて自分の療養で妻が介抱してくれた国々を辿り直し少年たちと再会するのを楽しみにするというのは偽善以外の何ものでもないですよね。
妻の死の苦しみに際して、そっと抜け出しかつて自分がときめいた少年とその愛人とで3Pを暗示するような描写はまさにこの小説の真骨頂でした。
アンドレ・ジッドの作品はローマ教皇庁から発禁処分になったとのことですが、現在からみるとそれほど大した描写ではないと思えますが、その底流にある反社会的な風俗が危険視されたのは頷けることです。
タブーに縛られることが多かった時代の中で、ジッドが吐露した「背徳」な流れは押しとどめようもなく、現在ではありがちな光景となってしまったのはジッドの先見性?のあらわれなんでしょうか。
いまの世の中を果たしてジッドならどう見て感じ、次はどちらの方向に向かうのかは興味はありますね・・・。少しね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
3月
狭き門を読んだので、続けてこちらも。
転落するべき要素もないのになぜか転落してダメになっていく。
巻き込まれた妻はかわいそうだが、結局主人公のミシェルは何をしたかったのか?
ダメになったことが「背徳」であるにせよ、その理由がわからない。官能的な何かがあったわけでもない。 -
退廃的というかやや病んでいる精神の持ち主が貴族的な信条と希望も絶望もない心情のもとで刹那的に生活しているが、好きでもない女性に対してどうにか愛情を持ちたいと願望しつつも結局はその女性を絶望の底で命を終わらせた挙句、自らもやはり希望を見い出せないことを謳った物語。こんなお話結構好きです。
-
2021年 24冊目
灼熱の太陽の下強烈に不健康な精神をもった男のアンバランスさ。
フランス文学は自分のなかでちびまる子ちゃんの藤木くんて感じ。健康的なネクラの模範生。病んでいるけど狂気を感じるほどでもない。でも一番我々に近いところにあり、いつ自分が太陽に魅せられてしまうのだろうかという妖しさがある。 -
最後、妻が亡くなる時まで、なぜか彼が背徳者だとは思えなかった。さらに言えば読了するまで完全に背徳者だとは一切思わなかった。
「人間」であっても動物的に生きたいと思う気持ちは誰でも持っているものだと思う。ある意味彼は本物の「生」に目覚め、しかしその「生」によって彼は自分の身を滅ぼしてしまった。
解釈の難しい小説だった。 -
新潮文庫の17刷改版、58刷の古本を購入したがだが訳が古過ぎた。好きな作品なので版の吟味をせずアマゾンでポチッた。
-
ジッドに石川淳の翻訳という取り合わせに惹かれて読み始めました。20歳前後にジッドにはまった時期があったのですが、狭き門と本書がきっかけでしたね。
-
ジッドは相変わらず憎い。
碩学な学者が、肉体の感覚に目覚め学問から離れつつ、結局アフリカにいって妻も何やらも失ってしまう話。
月並みな感覚に目覚めて学問への情熱を失ってしまって、かといって官能は高ぶるでもなく、ついにそれを埋めるものはなかった。
「狭き門」でも「田園交響楽」でも偽善というか自己欺瞞が描かれていた。今回もある種の移り気や軽薄さが、学問を超えた真理やあるべき生き方として理想化されている。また、妻を愛しているということ、自分が正しいということへの弁解に満ちている。
だが、それにしては欲望があまりに弱いものではあるまいか。結局学問から離れず遊び以上のものでもなく、常に自己は保身されている。損なわれるのは妻の命や周りの人の利益ばかり。
生き様を見ているとしんどくなる。
でも、逆に、こういう生き様しかできないのだとしたら。許されないのだとしたら。
彼のように開き直るのも一つなのかもしれない。それにしても、何も残らない。だがそんなの気にするものか。