一粒の麦もし死なずば (新潮文庫 シ 2-8)

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  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102045107

感想・レビュー・書評

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  • 2016/01/12

  • ジッドの作品の多くがあまり再版されなくなつてゐる。流行廃りがあるとは思ふが、ものを考へ表現することにかけて類ひまれな力のある人間の作品が手に入れにくくなつていくのはどこかさびしい。
    ジッドがこれを書かうとした多大な決意は、表題にある通りである。自分の生きて歩んできた道のりがどんなものであれ、蒔かれなければ、どこまでもそのままである。少なくとも、実を結ぶといふことはない。しかし、一度蒔かれてしまへば、善し悪しともかく、それは幾千にも実を結ぶ可能性が生じてしまふ。それでもなお、彼は書いた。書かねばならぬと駆り立てられた。彼は麦を蒔いた。
    ひとの表現といふものは、そのひとの精神の現れである。彼の作品と、彼の歩んできた道、生活とは切り離せない。たしかにこれは自伝ではあるが、それでもやはり、彼の作品のひとつであることには変はりない。彼は、自身のうけた教育、共に生きたひとびとが精神の大部分を占めてゐるやうだ。特に親族からの影響はとても大きく、それだけ大きな家系であることがうかがへる。そして、様々な学友たち。彼が書くことで、さうしたひとたちもまた、蒔かれる。
    一度蒔かれれば、どのやうな形にしろ、蒔かれなかつたこと以上の可能性が生じる。おそらく彼はその可能性に自分の筆を賭けた。蒔かれた種で救はれる者もゐるだらう。一方で、そもそも蒔いた種が踏みにじられたり、焼かれたりして実を結ばないこともあるかもしれない。けれど、「蒔かれた」といふ事実は蒔かれた以上なくならない。
    もしも蒔かれなければ、そのひとがひと知れず墓場にもつていけば誰も知ることはない。わずかな手がかりから推測するにとどまる。しかし、一度蒔かれてしまへば、どのやうにしてもそれを「なかつた」ことにはできない。可能性が生きるのだ。彼は自らの筆で、可能性を拡げた。
    さう考へると、書かれたことは、ほとんど余すことなく自身の歩んだ道だと考へられる。しかし同時に、可能性のためにわざと書いたり抑へたりしたといふこともあるだらう。4年といふ歳月を経て書かれたにもかかはらず、文体が一貫してゐることから、彼の性に関する指向や行動、他の作家との交流や見聞はおそらく事実として彼の中に根づいてゐたのだらう。だが、ひとの影響をすさまじく内面化する力の強い彼のことだから、多少の誇張や抑制は間違ひなくあるだらう。
    さうした部分を差し引いたとしても、やはり、彼は自身の存在を蒔かねばならなかつた。どこまでも可能性を信じたひとだつた。

  • 少年たちとの交流のところだけ温度差があって潤っていて、それだけ気持ち悪い。
    キリスト教とそれ以外の思いが自然に溶け合って共存している、
    こういう在りかたは日本にはないだろうなぁとも思った。文化として。

  • ジッドは殆どの作品を読みましたが、この本は何度も何度も読み返しました。中学生のときのバイブルでした。ジッドの文学の根底には、或いは表層には、この本の中の出来事があったように思えます。

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