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Amazon.co.jp ・本 (296ページ) / ISBN・EAN: 9784102057049
作品紹介・あらすじ
名門女子大に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー……ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。――村上春樹による新訳!
みんなの感想まとめ
人間のエゴと精神的な苦悩を深く掘り下げた物語が展開されます。名門女子大に通うフラニーは、自己の存在意義を問い、兄ズーイは彼女を支えようと奮闘します。彼らの会話には、家族の絆や宗教的な隠喩が織り交ぜられ...
感想・レビュー・書評
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サリンジャー2冊目
ナイン・ストーリーズを読んだ時、グラース家について知る
サリンジャーの連作風?作品にたびたび登場する一家
この本にはp80に訳者村上春樹さんの注釈が付いている
グラス家には7人の兄弟がいる
長男 シーモア バナナフィッシュで亡
次男 バディ 作家
長女 ブーブー 三人の子の母
三男 ウオルト 第二次世界大戦で日本で戦死
四男 ウェーカー 宗教家 三、四は双子
五男 ゾーイ 俳優
次女 フラニー 女子大生 恋人はレーン
彼らは皆 容姿端麗で天才揃い
母親べシーは 普通のおばさんっぽい
末の二人の物語となるのだけど 作中で 兄弟の事が会話や手紙で登場してくる
「フラニー」で 今女子大生の彼女がいかに世の中のエゴで参っているかが語られ、最後は失神するほど精神的に弱っている
「ゾーイ」で そんな妹を心配する兄が彼女の話を聞いて解決策を考えようとする
そんな感じ
物語の中に宗教絡みの隠喩が散りばめているらしい…それがまずわからなくて
充分作品の良さをわからぬまま終わりました
この作品の頃の直木賞で読んだ事があるもの
1959 梟の城
1960 錯乱
なんか比べようもないですが、やっぱり翻訳物読むのが下手
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昔、野崎孝の訳で読んだことがある本。私はどちらの訳も好きだった。
村上春樹訳の本を好んで読んでいた時、ある人から「村上春樹の訳した文章は全部、村上春樹の色がついちゃっててまるで良くないと思わないか」みたいなことを言われ、心底「ムッッッ……」としたことがあったのを思い出す。私だって、村上春樹の訳には「村上春樹」の感じが漂っているなぁと思ってはいるのだけれど。それを「エゴ」と言う人もあろうが、という話である。
サリンジャーには「グラース・サーガ(グラース家の物語)」と呼ばれている作品群があって、先日読んだ『ナイン・ストーリーズ』という短編集にも何作か「グラース・サーガ」ものが混じっている。グラース家の両親は名の売れた元ボードビリアンで、彼らの子供は五男二女。なかなかの大家族だ。しかし子供たちはもうすっかり成人してそれぞれの人生を歩んでいる。グラース家全員が一堂に揃うことは叶わないだろう。グラース・サーガにおける主人公は家族のうちの誰かが担う。あちこちに散らばって刊行された物語をつなぎ合わせていくと「こんな感じの家族なのかな?」というのが朧げに見えてくる。「グラース・サーガ」を拾い集めていくのであれば、『フラニーとズーイ』はグラース・サーガのピースとしてはかなり大きなピースになる一冊だと思う。しかし、この家族の物語の中心になるのは長男シーモアなので、『ナイン・ストーリーズ』の一番最初の短編はやっぱり外せないかなぁ、と今回新訳を読んで思った。「バナナフィッシュにうってつけの日」はとても短い話なのだけれど、ラストに突き放されたと思った。あの衝撃より何倍も大きな衝撃をグラース家の人たちはシーモアから受けたのだろう。
フラニーはグラース家の末っ子の次女、ズーイはフラニーの兄で五男。この本の時に出てくる彼らの年齢はフラニーが20歳でズーイが25歳。フラニーは女子大生で、週末、フラニーが別の大学に通っているレーンという男の子とデートしようとするところからこの物語は始まる。
フラニーは大学生活や自分が打ち込んでいた演劇に対してナーバスになっている。何とかそれを気取られずに楽しいデートにしなければ、という気持ちはあるものの、全然気持ちを立て直すことができない。結局、自己嫌悪の波に襲われたフラニーはデートの途中で失神してしまう。フラニーが比類なき美人なので、彼女を引き連れていることに鼻高々になっているレーン君は、実にいけ好かないイキリ大学生であるのだが、それでもデート相手の女の子がこまっちゃくれたことを色々と言いはじめ、あまつさえ倒れてしまうのは、さすがにちょっと気の毒である。(イキリ大学生なりに紳士的にしようともしていたし……)
>もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。
(サリンジャー・著 村上春樹・訳『フラニーとズーイ』p.36より)
>私は自分がただ人を好きになることに、うんざりしているの。ほんとの話、尊敬できる人に出会えたらいいのにって思うわ……。
(サリンジャー・著 村上春樹・訳『フラニーとズーイ』p.37より)
>「~雑誌社か広告代理店の仕事をしていたかもしれない。結局のところ、それは誰でもあるのよ。みんながやっていることはすべて──なんと言えばいいのかしら──ぜんぜん間違ってないの。意地悪くさえないし、必ずしも愚かしいという訳でもないの。ただちっぽけで意味が無くて、そして──気が滅入っちゃうだけ。でもいちばんまずいのは、もしあなたがボヘミアンとか、そういったとんでもないものになったとしても、それはそれでまたしっかり画一化されちゃうということなの。ちょっと違った風にではあるけれど、やはりみんなと同じになってしまう」。
(サリンジャー・著 村上春樹・訳『フラニーとズーイ』p.46より)
これは全部フラニーの発言であるが、ほんのひとつまみ程度だ。
フラニーの章が終わるとズーイの章になる。デートで倒れてしまったフラニーは実家に帰ってきてご飯も食べずに寝込んでいる。母親が心配し、ズーイに妹の話を聞いてやるように促す流れになる。この章は小説家であるズーイの兄、グラース家の次男バディーがズーイとフラニー、あと母親のベッシーから事の顛末を聞いたことを文章にした、という体のものになっている。
フラニーの章では特に誰視点ということも記されていなかったので、急にバディーが※入りの脚注を引っ提げて、地の文で割り込んでくるのには唐突な印象を受ける。読者である私に対してあれこれ語りかけてくるのだから。
『フラニーとズーイ』は内なる信仰というようなちょっと抹香臭さのある芯があり、ズーイの章はグラース家から一歩も外に出ない、家族だけの物語になっている。しかし、閉じ籠った感じは無い。妙にオープンマインドな雰囲気はこのバディーの書きっぷりのおかげなんだろう。
役者業に勤しむズーイは頭が切れる毒舌家で舌鋒鋭く、母親をうんざりさせたり、励ますはずであるフラニーのエゴに対して切り込んでますます落ち込ませてしまったりする。(フラニーは演劇をすることがエゴの発散であるかのように思っている節がある。)
彼は色々難の多い美男子だが、非常に清廉な思いやりの心を持っている。ズーイは私にとって、この世の色々な物語の中で比べても、かなり好きな登場人物だ。途中で失敗しかけながらも、ズーイはフラニーに人前に出て何かを表現をする意義を説いてやり、フラニーの抑圧を軽くしてやる。その示唆はグラース家の良いところ、悪いところ、全部の経験が詰めこまれたものになっている。
たまたまこの村上春樹訳の『フラニーとズーイ』を読んでいる時に『村上春樹WORKS』全16巻が2027年1月27日から刊行されるというネットのニュースが流れてきた。そこで、うってつけの一文を見かけた。
この全集、値段が一冊一万円越えということだし、辞書みたいに分厚い本を16冊も並べられる本棚が無いため(拙宅、ウサギ小屋故……)、私が購入する見込みは一切無い。無いのだが、特設ページに村上春樹のメッセージが添えられていたので読みに行ったのだ。
"「僕は小説家なのだ」と確信するようになった。性格がただ厚かましいだけなのか、それともそこで僕は「本来の自分を見いだした」ことになるのか、どちらかは今でも判別しがたい。"
この一文に、私はフラニーの悩みとズーイから与えられた魂の救済について思いを馳せた。
きれいなものであろうとして疲れ切っているフラニーと彼女を励まそうとするズーイ。その安息はもしかしたら束の間の救済であるのかもしれない。
その個性が、その何者かであろうとする行為が、エゴであるというならば、だ。 -
多分一回読んだだけじゃ掴めてないです、結構な割合で。信仰とか祈りについて、そして兄弟のこと。「フラニー」はまだ読めた。「ズーイ」では憎たらしい皮肉を得意とする彼の語りが長く、引き込まれる場面もあるけど疲れる場面もあったり(特別賢いから仕方ないのかも!)。ズーイが少女と犬の光景を見て感じたこと、母ベッシーがフラニーのために作るチキンスープをとても尊いとものとしてフラニーに諭す場面、そして最後に太ったおばさんの話でフラニーが恢復していくところは良かった。目で見えないものに対して常に自分の靴紐を結ぶようにきちんと生きていかなくちゃいけないと言われたかのように。
余談になりますが、ChatGPTって便利だなと思いました(今更かもしれませんが)。やっぱり海外小説を読んでいるとどうしてもその国の背景とか文化とか分かりづらい部分があります。その中でも今回の小説であわわとなったのはアメリカの日常生活で使われるような日用品の固有名詞が結構出てきたこと。普通に検索しても全然ヒットしなくて(これは自分の検索の仕方が悪いかもしれない)、AIに聞いたらすぐ答えをくれました。とても助かりました。 -
フラニーが持ち歩いていた1冊の本の話が印象的だった。一番面白かったのは、恋人のレーンの発言を無視して、フラニーがひたすらその本がどんな本なのか話している場面。
ズーイの語りが長く、言い回しのせいか、母とのやりとりでは要所要所はわかるものの、大分頭に入ってこなかった。なんとなく言いたいことはわかるものの、太ったおばさんが実は誰なのか?など、ネット上の解説を読んで初めて納得できるところがあった。
『巡礼は旅を続ける』
『巡礼の道』(続編)
p149
「イエスの祈りについて自分がやっていることを、君はどう考えているんだ?」p212
という確信的な質問をフラニーにするズーイ。
そして「あなたが言いたいのは、私はイエスの祈りから何かを得たいと思っているということね。〜そんなことくらいわかってるわよ!やれやれ、私のことをそんな馬鹿だと思っているわけ?」と興奮しだすフラニー。
その後、ズーイの語りが長すぎる笑
最後まで口出ししないで、のようなことを言いながら話が長すぎるし興奮してきたしでフラニーがもうやめて!と言っても、すぐ終わるって。と言いながらまだ続ける笑
フラニーと共に、ズーイの語りにうんざりしながら読み進める。
「この家族は誰もかれもが自分のろくでもない宗教を、それぞれ違うパッケージで身につけている」p221 -
不器用ではあるが、優しいズーイが魅力的。
ユーモアを交えた対話で、何としてもフラニーを救おうとする家族愛が、ひしひしと伝わってきた。
登場人物、とりわけズーイのお洒落な言い回しに憧れる! -
エゴだらけの社会に辟易し宗教本にはまってしまった女子大生のフラニーに対して、兄ゾーイが救いの手を差しのべるという話。『フラニー』と『ゾーイ』というタイトルの2編からなる連作小説となっている。1編『フラニー』ではレストランで彼氏との会話、2編『ゾーイ』では自宅でゾーイとフラニーとの会話、という場面の切り替わりがほぼなく、1対1の会話でほぼ成り立っている一風変わった本である。んー正直、フラニーの厭世的な気持ちはなんとなくわかるが、ゾーイの長ったらしい説教で心を病んだ妹を救えるのだろうかと疑問が残る。
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歳を重ねてから読んだせいか、それとサリンジャー作品を何冊か読んでから本作を読んだせいか言われているほど宗教臭いとは思わなかったな。
サリンジャー作品に出てくる女性は大体好きになる自分としてはフラニーも好きになった。ただただ祈る『巡礼の道』のくだりはキリスト教でもあり仏教の念仏的でもあり、インドでもあり、読んでいてわりと腑に落ちました。それも歳をとってから読んだからなのかもしれないし、村上春樹訳だったからかもしれない(どれだけ野崎訳にトラウマがあるんだ自分は)。
ズーイの方はベッシーとのやりとりでは「こいつ嫌いだわー」となるし完全に母親目線で読んでいたけれどもフラニーとのやりとりでは「あれ、ズーイ好きかも」と「やっぱ嫌いだわ」をジェットコースターのように繰り返しながら最後むちゃ感動じゃんとなりました。
まだ『大工よ、屋根の梁を…とシーモア序章』を読んでいないのにシーモア嫌いだわとなっていたけど考えをあらためることになるか楽しみです。
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初めて読んだサリンジャーの作品、そしてアメリカ文学。なんというか洗練されていて理解が難しかったが、なんか心に残る作品でした。村上春樹訳で、村上春樹風味な訳し方もありハルキストとしては、読んでて楽しかったです。アメリカ文学を読むキッカケにもなりましたし、もっと読んでみたいと感じました。
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「ナインストーリーズ」を読んで、「謎ときサリンジャー」を読んで、サリンジャーの作品への新しい視点を知ったら、俄然としてサリンジャーの「グラース家」もの、グラース・サーガが読みたくなって、「フラニーとズーイ」を買った。
「ナインストーリーズ」の「バナナフィッシュ…」が言葉少ない、説明を排した短編とすれば、「フラニー」は少し言葉は多いものの説明にはなっていない、説明することを拒むフラニーであり、「ズーイ」は極めた饒舌なズーイの会話劇。ただ、ズーイは饒舌であってもその言葉が特別で、読者に対しての説明にはなっていない。
言葉を読み解くというより、その流れと二人の反応を感じる小説というべきか。 -
最後の会話が電話越しなのがいいなぁ。
「太ったおばさんのために靴を磨く」ことを、読み終わってからずっと考えている。 -
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なんとなくイメージしていたのとは違い、大きな動きのない物語。
簡単に言えば、今で言う「中2病」のような状態に陥ったフラニー。救い上げようとする兄のズーイ。読んでみるとズーイも中々な病み具合ではあると思うし、心配する母親だって若干心配な状態だ。ただ、大人になるまでには必ず通る道で、むしろどのように浮き上がっていくのか?引き上げてもらうのか、自力で上がってこられるのかそこに個性や心の強さ・弱さが出ている気がする。 -
若いころに野崎孝訳で親しんだ世代です。翻訳については、野崎訳派の方による良レビューがすでにあるので、内容に関することをちょっと書き留めておきたいと思います。
はじめてこの小説を読んだときから、多少は宗教のことをあれこれ勉強してきた身として、サリンジャーは東洋の宗教にも強い関心があったわけだけど、キリスト教神学についても、かなりいろいろ勉強して考察していたに違いない、という印象を抱いた。
たとえば、「なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ」(240頁)というズーイーの言葉なんかは、正統カルヴィニズムのいわゆる予定説を、現代的にずっとソフトに表現したもののようにも読める。
また、クライマックスで登場する「太ったおばさん」というのは、キリストの受肉の教説を、これまた現代的なイメージを使って語りなおしたものだろう。
こういうことについては、もうアウグスティヌスとかの時代からずうっと、いろんな教父たちや神学者たちや哲学者たちや文学者たちが論じたり語ったりしてきたので、単純に「受肉とはこういうものです」とは言えないものなのだけど、いまのところキリストの受肉についての、もっとも(よい意味で)単純で象徴的意味の豊かな表現だと私が思うのは、神学者のカール・バルトによる表現で、それは、キリストとは私たちが知っているこの世界と、私たちが知らない神の世界とを切断する、切断線上の一点なのである、というもの。
ところで、キリスト教においてイエスという人物が、なぜあれほどの重要性をもつかというのは、イエスその人自身の言行がもつ意味が重要だから、というだけではなくて、キリストと神との関係を神学的に考え抜いて体系化したパウロの教説にも理由があって、そのあたりの話もいろいろ難しいのだけど、でも根本的には、結局人は「神性」というものを、「肉」をもつ者を通してしか予感できない、というのが一番の理由だろうと思う。
サリンジャーが描いている現代の世界は、キリストを通して、あるいは何を通しても、人がバルトの言う「切断線」を見なくなってしまっている世界だ。フラニーにも、この切断線が見えていない。だから、「鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかない」(283頁)。言うまでもなく、切断線は「接線」でもある。
「太ったおばさん」は、そういう現代の世界に、ふたたび切断線を浮かび上がらせるものとして導入されている。何のために靴を磨くのか。何のために演技するのか。それはつまり、何のために規律ある生活をするのか、何のために仕事をするのか、ということであり、さらに、何のために生活と人を愛するのか、何のために生きるのか、ということでもある。
それがわかると、この世の「愚劣さ」のせいでヘコんでいる暇はないことがわかるのだ。 -
ありのままを見つめることが大事だと思った一冊。
ありのままとは、目に見える姿ではなくて、見えない、形のない、法とか真理という意味合いで。
最初は、読む本間違えたかと思ったけれど、後半は怒涛の会話劇だった。
舞台は家の中。フラニーのちょっとズレてしまった考えに切り込んでいくズーイ兄さんの圧巻のマシンガントーク。
神とは、イエスとは、祈りとは…。キリスト教のことはそこまで知識ないけど、実生活と宗教は分離していいものではないってこういうことなのかな、と思った。
「ああ、なんていうことだ、まったく。それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。ああ、まったく」
↑この言い方が面白かったし、内容に納得した。
2021.9.21読了 -
別に、村上春樹の訳だからいいんじゃなくて、もともと、けっさくなんですよね、きっと。でも、まあ、春樹が訳したから読み直して気付いたわけで、やっぱり、村上春樹さまさまということでしょうかね。
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グラース家七人兄弟の末の妹と弟、学生であるフラニーと俳優であるズーイの話。
フラニーの章では、レストラン(知的にとんがった学生たちに人気)の食事をはさんで、とある一冊の本についての宗教談義に興奮したフラニーと、彼氏のレーンが会話をする場面が大半となる。
熱に浮かされたような状態のフラニーの相手をするレーンは大変だな。
ズーイの章では、そんなフラニーの心身不調を心配した母親が、妹の目を覚まさせるよう兄であるズーイに頼む。
小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニーと、殻に籠るフラニーを助けようとするズーイとの白熱した議論にはとにかく圧倒された。
「君は大学のキャンパスを見渡して、世界を、政治を見渡して、夏期公演を一シーズンだけ見渡して、出来の悪い大学生たちの会話を耳にして、あっさりこう思いこんでしまうんだ。すべてはエゴだ、エゴだ、エゴだ。そしてまともな知性を備えた女の子がやるべきことは、そのへんにごろんと寝ころんで、頭を剃って、イエスの祈りを唱え、自分をほのぼのと幸福な気分にさせてくれるような、お手軽神秘体験を神様に求めることなんだと」
「もしおまえがイエスの祈りを唱えるなら、おまえは少なくともそれをイエスに向かって唱えなくちゃいけないんだよ。聖フランチェスコやシーモアやハイジのおじいさんをひとまとめにしたものに向かってじゃなくてね。イエスを頭に描き、彼だけを思い浮かべて、お祈りは口にされなくちゃならない。そして彼の姿は、おまえがこうあってほしいと思う彼の姿じゃなく、ありのままのものじゃなくちゃならない。おまえは事実ってものにまるで直面していないよ。そういう事実に目を向けないという間違った姿勢がそもそも、今回の心の乱れをおまえにもたらしているものなんだよ。そしてそうしている限り、おまえはそこから抜け出せないんじゃないかね」
ズーイの言葉は厳しい。
もうやめてあげて!と読者である私が止めに入りたくなるほど追い詰められるフラニーが気の毒になってしまった。フラニー、みんなの妹。シーモアに会いたい、という小さな願いがもう決して叶わないことが可哀想だった。
でも最後の最後、ズーイがシーモアから教わったことによってフラニーを救い出すところは真に感動する。
シーモアは、『ワイズ・チャイルド』に出演するズーイに「太ったおばさんのために靴を磨くんだ」と言った。シーモア的な表情を顔を浮かべて。
太ったおばさんというのが実は誰なのか。フラニーとズーイは議論の果てで、その正体にとうとうたどり着いた。
私には気づくことができるだろうか?私は、太ったおばさんのためになにができるだろう。 -
「フラニーとズーイ」(J.D.サリンジャー : 村上春樹 訳)を読んだ。
村上春樹版は初めて。
紛うかたなき傑作だと私は思う。
私がずっと親しんできたのは野崎孝翻訳の方で、初めて読んだ大学生の時から現在に至るまでの約四十五年間に、もう何回読んだかわからない。(直近では三年前にも読んでる)
"ライ麦畑"のホールデン・コールフィールド君よりもこっちのグラス家の面々の方が好きなんだな。「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」もとても好きでやっぱり何回も読み返してる。 -
最初、「フラニー」の章を読んでいて、んー、この話どこに行ってしまうんかな、とやや不安に。
しかし、「ズーイ」の章を読むほど、不安がハラハラドキドキ感に変わって、楽しかった読後。
俗物とか、高尚とか、救いとか、そういう崇高な話を引っくるめてポーンと横に置いてみる。
(いや、多分、そういう系の話はきっと誰かが既にしてくれているはずだから)
大学生にもなって厨二病をこじらせちゃったことを自覚もしているフラニーちゃんと、コイツ俺に似てんなーと思ってるからこそ、その醜態をいつまでも身近に晒さんといてくれ!と願う兄ズーイくんのお話。
世界の矮小さを知っている自分が、ストイックに魔法の言葉を唱えたら?
そんなフラニーちゃんに、いやいや、矮小と見下しているシステムから目を逸らしたって、魔法の国なんて行けないから、救いとかないから、なんならイエス様も矮小なとこあるからーっ、と木っ端微塵にしちゃうズーイ。
分かるー。
身内だから、もう見ていられない感じ。
そんなズーイに、私はシーモアお兄ちゃんと話したいの!アンタなんかと話したくないの!と拒絶するフラニーちゃん。
母も妹も、死んでしまった兄、今はここにいない兄をぼんやり見つめている。
それを面白くないと思いながらも、ズーイ自身の言葉ではフラニーに届かないことも知る。
そこで、一つ間をおいて、苦しみながらも彼らに「なりきる」ズーイのくだりが、ここのスピードがすごくゆっくりする所が、すごく好きだ。
こんな風に言いたいんじゃない、こういうことでもない、ああでも、伝えたいソレは確かにあって、ソレはきっと君には伝わるはずなんだよ。
ズーイがどんどんシティーボーイ?から、お兄ちゃんになっていくのに、なんかじーんときた。 -
2017年61冊目。(再読)
特にフラニーの言動・仕草から、いちいち色々勘ぐって読み込んでしまう。
心が狭い・エゴむき出しの自分に気がついてしまった時に感じる罪悪感。
それはむしろ、罪の意識を覚えることで浅はかな自分を相殺し、自分を高貴な立場に持っていこうとするための戦略にも思える。
訳知り顔で得意気になっているエゴ剥き出しな人たちを許せず、嫌気がさし、一般化・画一化して蹴散らしたくなってしまう衝動は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンに似ているな〜と思ったり。
そういう劣等感の裏返しで出てくる周囲への反骨心のようなものの描写が、サリンジャーの小説の中でとても好き。
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2017年21冊目。(初読:2017年5月3日)
出来事が進んでいくというよりも、かなり対話的な小説だったが、特に後半の「ズーイ」の章に、心に残る言葉がいくつもあった。
感情的に共感ができたのは、妹のフラニー。
世の中のちょっとした違和感を極度に一般化し、「すべてを一緒くたにするような攻撃」をしてしまう。
自分が「何者か」でないと耐えられない性格が、アイデンティティの確保のために物事を極論で整理し、そこに安定を見出しているのではないか、と感じる。
その極論のせいで見るもの全てが卑しいものに見えてしまう。
そんな自分をわかっていながら変えられない辛さを抱え、自分への嫌悪に精神を壊していく。
自己破壊的なフラニーを救うために、ズーイはいくつもの正論を投げかけるが、正論であるがゆえか、フラニーははね退け続ける。
人に説得されたくない、自分が考えていない人間だと思われたくない、そんな気持ちが見え隠れする。
曖昧を許せない思慮深さは、時に危険。
ズーイの言うように、より大きな叡智に繋がっていない知識は、むしろ自分を追い詰めてしまうことがある。
小林秀雄の言葉を思い出す。
「自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ」
力いっぱい崩れることができるほどのエネルギーを持っているのなら、それを自分をしっかり保つことに使う。
ズーイのこの言葉にとても感銘を受ける。 -
この世界では、誰もがエゴを持っている。それは聖人も同じだった。自分の憎む対象は自分の心の中にも居る、その理屈に愛憎が表裏一体だと自ずと気づかされる。
今一番、誰にも救いになりえる物語だと思う。 -
蛹の家には、インターホンなどという気の利いたものはない。鍵もかかっていない。葉月はいつも、彼の家の玄関のドアを三回ノックし、返事を待たずに勝手に入る。
「おはようございますー。……起きてます?」
蛹は、居間にもキッチンにもいなかった。ベッドルームにもいない。ただ、ベッドの上に村上春樹訳の「フラニーとズーイ」が投げ出してあったので、それを手に取り、浴室に足を向けた。
「……影響されやすいんですから」
蛹は、湯船に浸かったまま煙草を吸っていた。
湯気には、彼が吸っている細いメンソール煙草の匂いが混じっていた。灰皿の代わりに缶ビールの空き缶が置かれていたが、その周りに灰が散らばっていて、灰皿としての役割を正しく果たしているようには見えなかった。
蛹は何か考えごとをしているようだったが、葉月が戸口に立っていることに気づいて視線を向けた。
「いいアイディアだと思ったんだ。換気扇が回っているから煙は籠らないし、うっかり考え事に没頭しても、ここなら火事にはならないだろ」
それを聞きながら、葉月は靴下を脱ぎ、ユニクロのジーンズを膝下までたくしあげると、浴室に足を踏み入れた。
「どうして、急にサリンジャーなんて読んでたんですか?」
葉月は、寝室で見つけた本を掲げてみせた。
「本屋で見かけたから」
「はあ、そうですか……」
葉月はしゃがみこみ、値踏みするようにぱらぱらとページを捲った。
「こういうのって、蛹さんも考えたりしました?」
葉月は、本に目を落としたまま、問う。蛹は、質問の意図がわからなかったというように、わざとらしく首を傾げてみせた。
「ええと、それは、どういう意味で? ちなみに、風呂で煙草を吸うのは今やっているけど」
「ああ、まあ、楽しそうで何よりです……じゃなくて」
蛹は冗談だと言うように、わずかに笑った。
「周りがみんなバカに見えた時期があったかってこと?」
「そうそう。からかわないでくださいよ……」
「ありそうに見える?」
「うーん、なんていうか、あなたは色々なものに失望しているように見えるから」
蛹は、今度は声を出して笑った。そして、違う、というように、煙草を持った手を振ってみせた。
「フラニーも、ズーイも、腹を立てている。世の中の色々なものに。バカで愚かでみっともない、色々なものにね。期待しているんだよ、期待していなければ腹が立つこともない。もっと知的で、美しくて、よいものであるべきだってね。それが世界の正しいあり方で、現状が間違っていると感じる。フラニーやズーイが感じているのは、そういうことじゃないのかな」
葉月はしゃがみこみ、膝に両肘を置いて、頬杖をついた。
そして、よく分からないというように、わずかに首を傾げた。
「どうしようもなく凡庸で、醜くて、下らないとしても、結局はそれが、今ある姿だろ。それが理想と違っていても、理想に近づこうとした結果であることは間違いない。だからまあ、……諦めるしかないんじゃないのかな」
「あ、そういう風に着地するんですね」
「うん」
それから、蛹は、これが最後と言って、新しい煙草に火を点けた。
「……ところで、そろそろ逆上せてしまいそうだから、これが吸い終わる前に、少し外してくれないかな」
「え? 上がればいいんじゃないですか?」
「あ、うん、君がいいなら、そうさせてもらうけど……」
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ファン多いよね
私もお手上げ
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どっちも読んだことあるはずなんだが全く覚えてない
どっちも読んだことあるはずなんだが全く覚えてない