アンナ・カレーニナ(上) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (580ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102060018

作品紹介・あらすじ

モスクワ駅へ母を迎えに行った青年士官ヴロンスキーは、母と同じ車室に乗り合わせていたアンナ・カレーニナの美貌に心を奪われる。アンナも又、俗物官僚の典型である夫カレーニンとの愛のない日々の倦怠から、ヴロンスキーの若々しい情熱に強く惹かれ、二人は激しい恋におちてゆく。文豪トルストイが、そのモラル、宗教、哲学のすべてを注ぎ込んで完成した不朽の名作の第一部。

感想・レビュー・書評

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  • かなり長い間積んでいた本です。
    『世界は文学でできている』には『戦争と平和』がお薦めされていましたが、手元にあったこちらを読むことにしました。

    この物語はオブロンスキー家の主のオブロンスキー34歳が七人の子持ちでありながら家庭教師の女性と浮気をします。一つ年下の妻のドリイの末妹のキチイはコンスタンチン・リョーヴィンに求婚されますが、ヴロンスキーに恋しているためにそれを拒絶してしまいます。

    オブロンスキーの実妹のカレーニン夫人(アンナ)はオブロンスキー家を訪ねてきますが、列車の中で知り合った婦人の息子であるヴロンスキーと一目で恋に落ちます。
    アンナはオブロンスキー家に滞在しキチイと親交を深めますが、キチイの気持ちに気づきます。

    ヴロンスキーの求愛にキチイの気持ちを知り、アンナは身を引こうとしますが、二人は当然のようになさぬ仲になってしまいます。

    リョーヴィンはうちひしがれ、作家の兄を訪ねます。キチイも結核にかかり、田舎へ行って療養します。

    アンナとヴロンスキーの仲を知ったカレーニンはアンナを問い詰め、アンナは真実を告白してしまいます。
    カレーニンは社会的体面を保とうとします。
    そしてアンナはヴロンスキーの子どもを妊娠してしまいます。
    キチイは療養先でワーレンカという友人ができて気持ちが明るくなり、ロシアの我が家へ帰ってきます。

    作家の池澤夏樹さんが他の本で「この小説が正にメロドラマだ」とおっしゃっていますが、「メロドラマ大いに結構」と思いました。アンナは本当に美しく、ヴロンスキーは凄いイケメンです。アンナとヴロンスキーの二人の場面が、カレーニンは愛のない結婚をアンナとした悪役なのでハラハラしてしまいます。
    アンナとヴロンスキーの出会いの場面は本当に素敵でうっとりしてしまいました。
    二人の会話も現代のドラマより格調高い会話で本当にうっとりとしてしまいます。

    P376より
    <あの連中は幸福とはなにかということなんか、てんでわかっちゃいないのだ。あの連中には、ぼくたちはこの恋がなくちゃ、幸福もなければ、不幸もない、いや、生活そのものがないってことが、わからないんだからなあ>
    P391より
    「あたしはね、飢えた人がお腹いっぱい食べさせてもらったみたいなものね。そりゃ、その人は寒いかもしれませんよ。服もぼろぼろに破れているかもしれませんし、恥ずかしいかもわかりません。でも、その人は不幸ではありませんわ。あたしが不幸ですって?いいえ、ねえ、これこそあたしの幸福ですわ」

    中巻に続く

  •  社交界の華であり誰からも好かれ、非の打ちどころのない、青年士官ヴロンスキーは、シチェルバツキー家の三女、キチイの気を引き、花婿候補と見られていたのに、ペテルブルグの名士カレーニン夫人(アンナ・カレーニナ)を一目見た途端、その美貌に心を奪われた。
     キチイは彼女に求婚してきた、リョーヴィンという地方の貴族に本心は惹かれていたのだが、ヴロンスキーに愛されていると思って(それにその相手は彼女の母親の価値観に合っている)、リョーヴィンの求婚を断ったのに、結局、ヴロンスキーに裏切られ、恥しさで病気になってしまった。
     リョーヴィンも恋敵に負け、もう、自分には結婚の望みは無いという失意のまま、田舎に帰るが、田舎の彼の広大な土地の自然は、彼に元気を与える。植物の芽吹く音が聞こえるくらい、ロシアの森の春は活き活きしているらしい。リョーヴィンはいい男なんですよ。大人の私達には分かるんですよ。大地主として、真面目に農地経営の計画を立て、論文も書き、自分の森の木の数も把握し、どれ位の価値があるか知っている。同じ貴族でも、モスクワやペテルブルグで、コネで適当にいい役職につき、見栄と名誉を重んじ、社交界の付き合いで借金まみれになっている人達とは違うんですよ。
     病気になったキチイは湯治先で出逢った、ワーレンカという清楚で無欲で義母に尽くす娘に心惹かれ、あんなふうになりたいと願う。
     リョーヴィンとキチイには幸せになって欲しいものだ。
     一方のヴロンスキーとアンナ・カレーニナ。二人の不倫関係はヴロンスキーの言葉を借りれば「月並みな社交界の情事ではなく、あの人は俺にとって命よりも大切なものだ。あの連中(二人を責める人々)は幸福とは何かということなんかてんで分かっちゃいないんだ。僕達にはこの恋がなきゃ、幸福も無ければ、不幸もない」というほど本気。アンナにとれば、名士で人々に尊敬され、その名誉のためだけに、アンナに対しての態度まで欺瞞で固めた俗物官僚の夫との生活を守るよりも、ヴロンスキーとの不倫のほうが自分に対して嘘のない、ある意味倫理的なことかもしれない。しかし、ただ一つ気になるのは、息子のこと。一方ヴロンスキーは、アンナが息子のことで、心を痛めていることは理解出来ない。また、自分がアンナに走ったせいで、キチイを傷つけたことにも気づいていない。これ程、周りを傷付けていることに気づかない人というのは、こうまで、自分の気持ちに真っ直ぐになれるものなんだなあ。
     アンナはヴロンスキーの子供を身籠ってしまい、そのことをヴロンスキーに打ち明けるとヴロンスキーはカレーニンに正直に話した上で、駆け落ちしようという。多分カレーニンは自分の名誉が傷つくのが何より嫌なので離婚などさせてくれないだろう。それに、息子はどうなるだろう。
     アンナ、キチイ、リョーヴィンそれぞれの運命はどうなるのか?
     不倫小説だが、細かい所まで、描写が重厚。トルストイがそのモラル、宗教、哲学の全てを注ぎ込んで、完成した不朽の名作の第一部でした。

    • Macomi55さん
      あります、あります。家に二種類CDありました。一つはゲルギエフ指揮、キーロフオペラでした。あまり長いのが苦手なので、私は聴いたことないですが...
      あります、あります。家に二種類CDありました。一つはゲルギエフ指揮、キーロフオペラでした。あまり長いのが苦手なので、私は聴いたことないですが。プロコフィエフ、色々オペラ作っているようです。
      2021/06/23
    • goya626さん
      ほう、トルストイの原作でオペラを作っていたんですね。
      ほう、トルストイの原作でオペラを作っていたんですね。
      2021/06/24
    • Macomi55さん
      そうですね。
      そうですね。
      2021/06/24
  • いつかは、トルストイの「戦争と平和」を読みたいと憧れてはいるものの読み切る自信が無く、まずは本作で、初トルストイを体験してみようと手に取った。
    「アンナ・カレーニナ」上巻
    意外にも読みやすく、面白い。
    わかりやすい訳文で、しかも展開が早い。
    すでに波乱が巻き起こっている。
    ご婦人方は美しく可憐に、夫達は醜く滑稽に描かれている。
    そりゃ浮気するし、されるわな、って感じ。
    この時代のロシアの上流階級の暮らしが垣間見れ、愛憎劇が繰り広げられそう。
    ここまではとても私好みだ。
    でもこれからが長い。中、下巻とまだまだ続く。
    ゆっくり、自分のペースで読み進めて行こうと思う。

  • 青年期、中年期に、そして今回の老年期にと3回目の再読です。
    このような世界文学をけっこう再読しておりますが、読む時期のパターンがだいたいこのようになっております。

    新型コロナウイルス肺炎の自粛が長引く中、再読し遺したものはないか?と頭をよぎるのも精神的影響でしょうか。

    この有名な不倫小説『アンナ・カレーニナ』を選びました(笑)深いわけはありません。むしろヒロインアンナの運命より、副主人公リョーヴィンの堅苦しいほどの真面目な人生観が、若年の頃より印象深く残っているので、もう一度しっかり読んでみたいと思ったのでした。

    さて、上巻は美しい魅力的なアンナ・カレーニナが兄オブロンスキーの浮気が原因の夫婦喧嘩を仲裁するためモスクワにやって来て、舞踏会で出会った美青年士官ヴロンスキーと不倫愛に至ってしまうところから始まります。
    オブロンスキーの友人リョーヴィンは、オブロンスキーの妻ドリーの妹キチイに結婚を申し込んであっけなく振られます。なぜか?キチイはヴロンスキーが好きだからです。けれどもヴロンスキーはアンナに心奪われていてキチイは目じゃありません。リョーヴィンもキチイも失意のどん底。やがてアンナも好きではない夫カレーニンに、浮気がばれて困りはてるどん底が。

    などとあらすじを言うとなんだかハーレクイン出版物のようですね。でも、トルストイさんの筆にかかると世界文学の名作になるのですよ。ま、わたしは登場人物の一人ひとりに寄り添ったるるたる描写が、人間のこころ、気持ちの動きを奥深く見せてくれる、そこに魅力を感じるのです。

  • はじめてのロシア文学。他の本に目移りしながらも、1年かけてやっと読了した。幸いにも、登場人物の関係図を作成しながら読んでいたので、大体のあらすじは忘れないまま読み進めることができた。(今後、ロシア文学とか、登場人物多い&行き詰まりそうな本を読む時は関係図は必ず作るようにしたい)

    ロシア、貴族、19世紀など、自分がふれる日常の世界とはかけ離れた世界で繰り広げられる人の営みは興味深かった。読み進めるうちに本書の世界観に慣れた後は、繊細かつ鋭い登場人物たちの考察や心理描写に集中できるようになった。

    読了直後の新鮮な感想をまとめると
    ・文学を読む初心者として、時代や立場が違くても変わらない、人と人との関わりの中で生まれる感情に共感できたという喜びがあった
    ・登場人物たちのとても繊細でいて、賢くて、鋭い考察や心理描写が面白かった
    ・のめり込めるほどの読書体力はついていないが、ぜひ下巻まで読破したい。
    ・他の方の感想に書かれているような、深い読み方や感想の言語化できるように語彙力を高めつつ、自分の人間力を高めていきたい

  • 恥ずかしながら、この年になるまでトルストイには手を付けたことがなかった。よくドストエフスキーと並んで19世紀文学の双璧として扱われる人だけど、海外文学を読み始めた中高生のころは、ドストエフスキーの方が苦みがあって、深刻な感じがして、なおかつ都会的なイメージがあった。ちょっと小難しいものに触れていたいという、ひねくれた自尊心からドストエフスキーに手をつけて、【罪と罰】にどっぷりハマった。それに、好きだった日本の文人は小林秀雄にしろ、安部公房にしろ、ドストエフスキーを自分の文学の根底に据えているような人ばかりだったし、なによりもトルストイの方にはなんとなく抹香臭い、悟り澄ました爺さんのようなイメージが根強かった。

    トルストイを意識したのは、映画評論家の町山智弘が、大好きな新井英樹の漫画をトルストイの【戦争と平和】になぞらえていたのを知った時だ。新井英樹の漫画は膨大な登場人物が登場するが、そのいずれもがもの凄くキャラクターが立っていて、なおかつ脇役に至るまで人物の人生や人格が克明に描かれている。町山智弘はそれを「世界を描いている」と呼んでいた。かれにそう呼ばしめた根幹がトルストイにあるのなら、触れておいて損はない。そう思い、六本木の青山ブックセンターで新潮社版の【アンナ・カレーニナ】上中下と【戦争と平和】一~四までを買い込んだ次第。

    読んでみて驚いた。損はないどころじゃない。大当たりだ。ここ数カ月読んできた古今東西(と威張るほど幅広く手をつけられてはいないけど)の作品の中でぶっちぎりに面白い。上巻は亭主持ちのアンナがモスクワで青年将校ヴロンスキーと出会い、彼との密会を重ねて妊娠が発覚し、旦那のカレーニンと決別するまでが主軸となっているが、貞淑だったアンナが恋愛に狂って旦那を生理的に受け付けなくなるまで、もの凄く克明に描かれている。ここの部分だけ抜き出しても、十分すごい。

    しかしトルストイがさらにすごいのは、当時の貴族社会の諸相を多彩な人物の個性を通じて描き出していること。女にはだらしないが精力的なオブロンスキー、農場経営をしているリョーヴィン、共産主義のその兄貴ニコライ、ヴロンスキーにフられて宗教的な献身生活に傾きかけるキチー、そのほかもろもろ。ここはドストエフスキーとは違うところだ。ドストエフスキーの登場人物はあまりにも長い長いモノローグを繰り返して、まるで観念の幽霊みたいになることがあるが、トルストイの描く登場人物は存在感がものすごくどっしりしていて、安心してその挙動を見ていられる。そこにはドストエフスキーのような「近代」に対する不安と省察は乏しいかもしれないが、小説としてはこの上なく面白いのだ。

    自然やスポーツの描写もエンタメ系に近い楽しさがある。リョーヴィンとオブロンスキーがシギ狩りをするところや、ヴロンスキーが競馬の御前試合に出場するようなところ(ちなみに、このシーンはけが人だらけの流血の大惨事になる。ロシアの当時の競馬は超キケンだったらしい)は、今の日本の作家がお手本にしても全く問題ないだろう。

    面白さ際立つ上巻だったが、中盤以降はアンナの幸福の行方や、キチーの宗教的理想などが語られていくのだろうか。興奮しすぎてこの小説が発する問いかけにはほとんど耳を傾けなかったけど、中盤からは腰を落ち着けて取り組んでみたい。

    ケチをつけるとすれば、適当すぎる装丁だろうか。

  • まだ上巻しか読めてないけど面白い。
    ロシア文学、「罪と罰」しか読んだことがなく、あの重苦しくて隅から隅まで詰めてくる空気感が恐ろしく、避けていた時間が悔やまれる。あれはロシア文学の特性じゃなくて、ドフトエフスキーの特性だったのか。知ってたらもっと早くに読めたのに。

    登場人物それぞれに起こる出来事や心の移り変わりが楽しく、ロシア貴族たちのすれっからした会話の感じも面白い。でも一番好きなのはリヨーヴィンが自分の村へ帰った後の春のシーン。土と空気とそこに芽吹き始める生命力。そしてそのうららかなぬかるみで活動し始める人たちに息づく明るさが甘すくことなく表現されていて、100年以上前に誰か(ってトルストイだけど)が書いた言葉をこんな風に読めることに、名作の凄みとありがたみを改めて感じる。

    読み始めるときは長いしちょっと嫌やな、と思ってたけど、今はまだまだ先があることが嬉しくなっている。中をまた読み進めるのが楽しみ!

  • アンナとヴロンスキー、リョーヴィンとキティ。共に対照的な二組が物語を際立たせる。アンナは情熱的に不倫を受け入れてしまい。刹那的な恋に走り、リョーヴィンは農業を経営しながら、宗教観の何たるかを考え、人生の根源にたどり着く。

    トルストイの宗教観・人生・道徳を盛り込んだとてつもない大作。読んで終わって欲しいと思いながらも、その先の展開、考え方を学びとおした。

    神の教えに従い、しかし人生は流れる如くの連続。その連続の日常こそが愛しいのだと考えさせられた。

  • ⑴前提整理
    本作は、1870 年台後半アレクサンドル 2 世統治下の帝政ロシア貴族社会を舞台としている。この時期のロシアといえば、「ヨーロッパ」という枠組みにありながらも、その⼟地柄か他⻄洋列強からは経済的・社会的に⼤幅に遅れを取っており、負けじと「追いつけ追い越せ」の精神で⼤⾰命を図っていた時代である。実際アレクサンドル 2 世は、元来は保守的な見解の持ち主であったが、戦争で敗れたロシアを 1 日でも早くヨーロッパの列強の水準に近づけるために、有能な官吏の意見を取り入れ次々と改革を断行した時の君主である。具体的には、1861 年に農奴解放令を発し約 2300 万人の農奴を解放、ついでゼムストボとよばれる地方自治会を設立し地方行政を改革、また同じ年に司法制度も改革した。特に 1861 年の農奴解放令はロシア変⾰への起点ともなっている。これまで帝政ロシア社会に深く根付いていた農奴が「制度上で」解放されたことにより、連鎖的に他の諸改⾰が必然化したのである。吉⽥浩⽒の⾔葉を借りるならば、「農民を領主に従属する法的にはあいまいな存在から独立した個人に『格上げ』したことに伴い、個人のイニシアティヴを原動力として社会を活性化することが可能になった。」のだ。また、この時期ではロシア帝国領内においてシベリア鉄道建設計画が成されている時期でもある。つまり上述した事実を踏まえ、『アンナ・カレーニナ』は、「急速に移り変わる」変⾰の時代の物語であると⾔える。
    ⑵「鉄道」が指しているものとは
    では、作中に印象的に何度も登場している「鉄道」は、⼀体どのような存在意義があるのであろうか。私は、「鉄道」は本作において、19 世紀後半の帝政ロシア期そのものであると考えている。その理由は2つある。1点⽬は、そもそもの「鉄道」の⽴ち位置によるものである。というのも鉄道は、産業⾰命を経て開発された画期的な新しい乗り物であり、交通⾰命をもたらした物である。他⻄洋列強に追いつこうと近代化⾰命を進める当時の帝政ロシアを⾊濃く⽰す産物であると断⾔できる。2点⽬は、「鉄道」が持つイメージによるものである。というのも鉄道は、⼤陸をこれまでにないスピードで駆け抜けるものだ。まるで、その他⻄洋列強に追いつかんとばかり改⾰を進め、急ピッチで変化している帝政ロシアそのものを表現しているように感じた。これらの理由から、私は「鉄道=時代そのもの」という機能があると考えた。

    ⑶「鉄道」と登場⼈物の関係性について
    次に登場⼈物の扱いについて論じる。私はこの作品の主軸に「鉄道」を置いた上で、アンナを含めた本作の登場⼈物を「鉄道運⾏に携わっている者」と「鉄道を⾒ている者」の2つに⼤きく振り分けることができると考えている。
     まず前者(=鉄道運⾏に携わっている者)は、アンナなどの「鉄道に乗れる⾼い⾝分の者」、あるいは作中冒頭で事故死した鉄道警備員などの「鉄道を⽀える者」のことを指している。より抽象度を上げて⾔い換えるならば、アンナら「鉄道に乗れる⾼い⾝分の者」は、移り変わりの早い時代の潮流の真ん中に乗ることができ、あるいはその進む⽅向性を定めることができる時の権⼒者である。そして、鉄道警備員ら「鉄道を⽀える者」はその急速に進む時代を裏でなんとか調整し、脱線しないようした働きをしている労働者である。彼らはお互いの間に⾝分差・権⼒差はありつつも、近代化の波⾃体には乗ることができている。
     ⼀⽅後者(=鉄道を⾒ている者)は、鉄道を景⾊の⼀つとして⾒るに収まっている者たちのことで、本作中においては解放された元農奴たちのことを指している。実際、第 5 部 15 章でリョーヴィンは「鉄道が農業の振興に寄与していない、農業に先⾏して⼯業や⾦融業の発達を招いて農業の発展を阻害してしまっている」という鉄道をめぐる考察を⾏っている。近代化そのものである鉄道が国内を駆け巡っているにもかかわらず、その波に乗ることができず、前時代に取り残されてしまっている元農奴たちの現状を暗喩していると⾔える。また、そのような思考を巡らせているリョーヴィン⾃体は、前者と後者を⾏き来している⼈物であると⾔える。だからこそ、俯瞰的に、ある意味⿃瞰的に世の中についての真理を考えることができているのだ。

    ⑷「鉄道」による表現効果
    では、「鉄道」が物語の中⼼にあることによって、どのような効果をもたらしているのだろうか。私は、アンナとリョーヴィンという 2 ⼈の主⼈公の物語に焦点を当てつつも、「時代」という巨⼤な時間軸での考察を可能にしていると考えている。というのも、「鉄道=時代そのもの」と置き登場⼈物をその「鉄道」起点で考えることにより、「されど時代は進む」という結論を⾒出していると⾔えるのだ。
    例えば、冒頭の鉄道警備員が事故死するシーン。あの場⾯はアンナとヴロンスキーの出会いのシーンでもあり、彼⼥の悲惨な結末を暗⽰しているとも⾔える。しかし、あくまでもそれはアンナ視点で⾒た時の話である。「鉄道」視点で考えて⾒ると別の⼀⾯が⾒えてくる。それは、「1 ⼈の⼈間の死など⼤きな問題ではなく、⼈はすぐその事実を忘れ、時代は進む」というものである。鉄道警備員はアンナと⽐べれば圧倒的に経済差があり、末端労働者の 1 ⼈である。しかし「鉄道」(=「時代」)からしてみればアンナも警備員も同等である。不遇の事故で轢かれた警備員も、不倫の末⾃殺したアンナも、結局同じなのだ。⼀過的に悲しまれ、同情されはする。されどそのような事実、「⼤衆」からしてみれば雀の涙ほどでしかなく、さらにより⼤きな「時代」からすれば、本当に⼀瞬の出来事なのだ。実際、彼らが死んでも鉄道は⽌まらない。元の⽇常に戻り、運⾏してゆく。
     そう考えた時、結局この物語は、帝政ロシアという時代の変⾰期の本当に限られたごく⼀部を切り取ったものでしかないことが⼤いにわかる。本作の時代の少し後に、ロシアの鉄道はシベリア鉄道へと姿を変え、ユーラシア⼤陸を横断する巨⼤な交通⼿段となる。これは、「誰かが死んでも、この時代は進んでいく。」ということを、⼤陸を駆け巡る鉄道を以ってして表現しているのだ。世の中には、多くの数えきれない⼈々の⼈⽣があり、⽣死がある。しかしそれは、「時代」という⼤きな枠組みで考えた時、取るに⾜らないものとして記憶され、後世に残るのであると、トルストイは暗⽰している。

  • さすが、名作。

    他の人から見れば羨むような美しい存在でも、いとも簡単に、切り立つ崖の先にいるかのように暗く、深遠な醜さに満ちた世界に落ちていくもんやと。
    ちょっとした生活の綻びからやで。
    こんなにも・・・

    良心とか、ほんとに生きるとか、正しいとか、正義とか、そうあるべきだと思われているもんなんか、あんの?と、それがさらに劇的でも何でもなく日常の端っこをちょっとつまんで引き上げるだけでこんなに出てくるでと、ほんで現代でもありえるねんでと、テレビドラマの比ではない。

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著者プロフィール

一八二八年生まれ。一九一〇年没。一九世紀ロシア文学を代表する作家。「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」等の長編小説を発表。道徳的人道主義を説き、日本文学にも武者小路実らを通して多大な影響を与える。

「2004年 『新版 人生論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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