- Amazon.co.jp ・本 (371ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102060186
感想・レビュー・書評
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久しぶりにレフ・トルストイの長編に挑戦する。
ただ、長編といっても、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を読了してしまうと、この『復活』は分量的には物足りないと思ってしまう、←もはやここまでくるとロシア古典文学に毒されていると言っても良いかもしれない。
まだ上巻を読了したばかりだが、この『復活』はっきり言って最高に面白い。そして読みやすい。
『戦争と平和』のように途中でトルストイの戦争に対する訳わからない独白とか入ってこないしね(笑)。
本書は、ロシア貴族のネフリュードフがたまたま陪審員を務めていた裁判で自分が若かりし頃に恋仲になった純情な美少女が売春婦に身を落とし強盗殺人事件の被告として登場したというところから始まる。ネフリュードフはあの美少女だった彼女がなぜ約10年の月日を経てこうなってしまったかにショックを受け、自分がその原因を作ってしまったのではないかと思い悩み、彼女を救い出そうとする物語である。
いや、マジで面白い。
ロシア古典文学を読んでいて、ここまでページタナーな本は初めてだね。
早速、下巻に進んでいこう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
安定のトルストイ。たまに読みたくなるんだよなーこれ読んだら戦争と平和だけ残るから寂しい。
人間がイキイキ動く。ネフリュードフの青臭さがたまらない。青春パンク。トルストイの晩年の作だから、彼もそれでうまくいくなんて思ってないし、絶望も深いし、今のところネフリュードフは跳ね返されてばかり。
話が厚い。ストーリーは単純なんだけど、重さをもって伝わる。 -
以下引用。
何十万という人びとが、あるちっぽけな場所に寄り集まって、自分たちがひしめきあっている土地を酷いものにしようとどんなに骨を折ってみても、その土地に何ひとつ育たぬようにとどんな石を敷きつめてみても、芽をふく草をどんなに摘みとってみても、石炭や石油の煙でどんなにそれをいぶしてみても、いや、どんなに木の枝を払って、獣や小鳥たちを追い払ってみても――春は都会のなかでさえやっぱり春であった。(冒頭)
ふつう世間では、泥棒とか、人殺しとか、スパイとか、売春婦などというものは、自分の職業をよくないものと認めて、それを恥じているにちがいない、と考えがちである。ところが、実際はまったくその逆なのである。世間の人びとはその運命なり、自分の罪悪や、過失なりによって、ある特定の立場に置かれると、たとえそれがいかに間違ったものであろうとも、自分の立場が立派な尊敬すべきものに見えるように、人生ぜんたいに対する見方を、自分に都合よく作り上げてしまうものなのである。そのような見方を維持するために、人びとは自分の作り上げた人生観なり、人生における自分の位置なりを認めてくれるような仲間たちに本能的にすがりつくのである。もちろん、われわれにしても、その腕のよさを鼻にかける泥棒とか、淫蕩を自慢する売春婦とか、残忍ぶりを誇る人殺しなどについては、驚きあきれざるをえない。しかし、われわれがあきれるのは、これらの人びとの仲間や雰囲気があまりにも限定されたものであり、われわれ自身がその外に置かれているためである。しかし、自分の富すなわち略奪を誇る金持ちとか、自分の勝利すなわち殺人行為を誇る軍司令官とか、自分の権力すなわち圧政を誇る権力者などの間にも、やはりこれと同じ現象が生まれているのではないだろうか? われわれはこれらの人びとの中に、自分の立場を正当化するために、人生観や善悪の観念の歪曲を見出さないのは、そのような歪曲された観念をもつ人びとがはるかに多数をしめ、しかもわれわれ自身がそこに属しているからにすぎないのである。 -
新年最初の読書はそれなりに思想的なものを、と何となく毎年意識しているのだが、今年はトルストイを選択。「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」は読んだが、宗教的なメッセージ性の強い晩年の作品を読むのは初めて。
過去に自分が犯した道徳的な罪、その結果人生を踏み誤った女性・カチューシャが無実の罪で裁かれようとしている現場に偶然立ち会ったことをきっかけに、まさに「眼の中の梁に気づく」ようにして、自分が犯した罪の大きさ、生きにくさを避け自分が身を置く社会の"常識”に迎合することで曇らせてしまった純粋な精神、社会を覆う不公平・不条理・不誠実なシステムなどを、真直ぐ見られるようになっていく主人公・ネフリュードフ。開かれた目で世間の歪みを直視し、子どものような純真さをもってその不当さに疑問を抱き、そうした思いを素直に自らの行動に取り入れていく彼の姿は美しく、過去の暮らしからの誘惑や不条理な社会を前にしての無力さなどの人間くささも合わせ、読む者に共感や感銘を与える。
祈りは人前で行なうものでないように、贖罪もまた他人の承認によってなされるものではなく…ネフリュードフの魂の真の「復活」のためには、カチューシャが彼の愛を受け入れるという赦しによって単純にこの物語を終わらせるわけにはいかないのはある意味で当然。ただ、“正しさ”によって正せない社会の不合理さを前に、個人における精神的な正しさの回復(まさに「復活」)を終着点として「完」とするのは、クリスチャンから見ても理想主義的に過ぎるという印象が残る。ドストエフスキー作品ではそこへの到達を目標として様々に迷い、はいずりまわり、時にたどり着けないまま絶望に至る、個人における精神的な救済という境地に、この作品では主人公たちがあっさりたどり着いてしまうという点も、いささか非現実的。とは言え、トルストイ自身の人生を考えると、この作品が彼にとって大きな意味を持つものであり、重要な物語なのだということは理解できる。結局、ネフリュードフは、トルストイが「こうありたかった」という人生を歩む、トルストイにとっての理想の自分なのではないだろうか。全二巻。 -
裕福で理想を持ち明るい未来を夢見ていた青年が、成長するにつれて私欲につけこまれるようになって大きな過ちを犯す。当時はそれほどまでに大きな過ちではなかったが、ある日の裁判によってその過ちを省み、人間性を取り戻すために奔走する。
理想主義の純真な青年が私欲を満たすことになんの悪も感じなくなったのは軍隊に行ってから。このあたりに著者の批判的な意志が感じられる。ネフリュードフ、カチューシャ、権力者、女囚人、政治犯、農民たち、それぞれが盲目的に考える善と悪の違いがおもしろい。肉体的でなく精神的な活動こそが人間に与えられた最も高貴な部分であり、これをしなければ堕落してしまう。しかし世間一般としては正しいことが悪とされ、悪が正しいとされるから、自分では無く他人を信じてしまうことに陥りがち。そうなると結局は堕落の道をあゆみ、主人公も同様の軌跡をたどるが、カチューシャと思いがけず裁判で再会し、エゴに近い考えだが彼女を救うことで自分も救われようとする。さあどうなる!? -
読書会のため再読。
古くならない… -
愛の理念のもと、人間の復活とは何かを問う後期の大作。老トルストイは世の中にはびこる虚偽と悪に鋭く厳しい眼差しを向ける。殺人事件の陪審員として法廷に出たネフリュードフは、容疑者の娼婦が、かつて自分が誘惑して捨て去った叔母の家の小間使いカチューシャであることに気づき、良心の呵責にさいなまれる。
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弱い自分を見据えて揺れ動く姿。
でも、疲れる。