完訳チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)

  • 新潮社
3.52
  • (28)
  • (43)
  • (93)
  • (7)
  • (1)
本棚登録 : 751
感想 : 70
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (575ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102070123

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  1928年に出版されたこの小説は支配階級の令夫人とその土地の森番との不倫、露骨な性描写が書かれているということで、センセーショナルで、当時裁判にまでなったほどだった。
     読んでみると、多くのブク友さんが書かれているように、今と比べて大した性描写はないというのはもちろん、そういうシーンが突拍子もなく出現して思考撹乱される多くの小説と異なり、そこに至るまでの頭、心、体の変化を目を逸らさずに書いていることで、美しく、温かく、クリアなレンズで見る花のように感動的で視界がパッと開けていく小説だった。
     チャタレイ夫人の夫、クリフォド・チャタレイは炭坑のある土地の支配者で、議論を闘わすことが好きで、同じく若い頃から議論好きだったコンスタンスと結ばれたが、戦争で下半身付随となった。それでも至って健康で生気溢れるクリフォードはコンスタンスの力を借りて本を執筆したり、自分の領地の炭坑の経営に力を注ぐことによって、名誉欲を満足させていった。
     元々クリフォードと知的な交わりで結ばれていたコンスタンスはそんな夫の執筆業を助けることに喜びを感じていたが、しだいにクリフォードの書くものが実は中身が空っぽであることに気付いた。また、クリフォードがどんどん“支配者“として偉そうになっていき、「下層民に仕事を与えてやっている」という態度に我慢出来なくなっていった。そして、クリフォードの口から出た最も嫌らしい本音は、「下半身不具となった自分の代わりに誰か他の男との子供を産んでくれればいい。本当の父親が誰かなど関係ない。チャタレイ家の後継として立派に育てればいいのだ」ということだった。
     そんな時、コンスタンスが森を散歩していて出会ったのが、チャタレイ家の森番であったメラーズであった。繊細そうで何処か悲しい線の細さに彼女は惹かれていった。そしてメラーズのほうも知的でありながら、本当の女性らしさを持っているコンスタンスに惹かれていった。メラーズはチャタレイ家の身分の低い森番であったが、戦地では将校も経験していて、読書量も豊富で世界各地に赴いたこともあり、本当はもっと洗練されたクリフォードに劣らない知的な人物であった。が、機械化され、労働者がこき使われ人間らしさを失っていった近代社会にうんざりし、また、女性経験でも手痛い経験を持っているため、社会から身を隠し、一人の世界を保てる“森番“として、言葉づかいもわざと下層階級の人が使う方言を使って生活していた。
     コンスタンスとメラーズは何度か逢瀬を重ねて子供が出来た。しかしいくら「他の男との子供でもチャタレイ家の後継として育てれば良い」と言っていたクリフォードでも、使用人である“森番“との子供など認めるはずはない。また、コンスタンスも、メラーズと自分との子供をクリフォードの子供になどしたくない。
     コンスタンスは姉や父親とこヴェニス旅行を機にクリフォードの元へは帰らないことを決意。だけどクリフォードは離婚してくれない。一方、メラーズも獣のような奥さんが離婚してくれない。
    ストーリーとしてはこんなところ。
     メラーズがコンスタンスに語ったことが滔々と心に染み込んできた。例えば、(言葉は異なるが大体次のようなこと)
    ・男女の交わりで大切なのは「温かい心」である。
    ・機械がどんどん金を生み出し人類は金の奴隷になり、金の為に世界は大きな戦争をするようになり、世界の人口の何割かが失われるだろう。
    ・男がもっとおしゃれになり、労働に忙殺されることがなければ、女ももっと魅力的になり、音楽やダンスを楽しんで、“金“ばかりを求めない生活をするようになるだろう。

     「富める者は貧しいものに施せ」から「富めるものは貧しい者に仕事を与えよ」と変わってきたキリスト教の考え方が、クリフォードのような「支配者」を後押しした。他にすがるもののない人々の精神を支えるはずの「宗教」が、「支配者」や「戦争」を正当化させる手段となってきた。解説の言葉を借りれば「仏陀にしろ、プラトンにしろ、イエスにしろ、みな徹底的な厭世主義者で、唯一の幸福な人生から解脱することを教えたのみである。ローレンスは、イギリスのヴィクトリア朝の偽善的美徳に抜くべからざる根となっていた清教主義(ピューリタニズム)に激しく反発した」とのこと。

    「原始に帰れ」ということ。「アダムとイブのリンゴはそんなに大きくはなかったはず」。
    勇気ある書。人類必読の書だとおもう。

  • コニーは裕福な貴族クリフォード・チャタレイのもとに嫁いだ矢先、夫はすぐに戦場に赴き負傷し下半身不随となってしまう。若いコニーは心も体も満たされず心苦しい日々を過ごしていた。ある日、森番のメラーズと出会い男女の一線を越えてしまうが、コニーは女として本当の悦びを知り逢瀬を重ねていく。

    20世紀最高の性愛文学と言われ、発禁処分や検閲から数十年を経て再版された完全版です。
    女としての経験を経て、はじめて「女として生まれた」と噛みしめているコニーの発散された想いは悦びと愛情に溢れています。メラーズもまた、心から愛した女性との行為に悦びを爆発させています。夫を持つコニーの行動は決して賞賛されるものではありませんが、絶望の淵にいたコニーとメラーズがぽっかりと空いた互いの穴を埋めるように惹かれ合い、体も心も満たされていく描写はただただ綺麗です。
    性描写が注目されがちで、言ってしまえば不倫関係です。しかし激情的なものではなく、傷を抱えた二人が求め見つけた、癒しにも似た真実の愛は温かみすら感じます。そこから派生する人間模様や心情描写、背景にある社会階級問題など、純粋に文学作品として上質なものを読んだという印象でした。

  • クリフォード・チャタレイ卿と結婚したコンスタンス(コニ-)は、第一次大戦での負傷で下半身不随となった夫との空虚な生活に不満を抱いていました。やがて森番のメラ-ズに魅かれていきます。嫡子の望みを絶たれたクリフォ-ドはコニ-に「ほかの男の子供を産んでくれるといいんだが」と漏らします。この時代の労働者階級は下層民として蔑まれていたので、チャタレイ夫人の相手の男を知ったクリフォ-ドは「あの生意気な田舎者とか! あの下卑た無頼漢とか!」と怒り狂うのでした。100年前の貴族社会の道ならぬ恋を描いた物語です。

  • ある年代以上の人なら「チャタレイ夫人」と言えば「猥褻」の代名詞というイメージだと思う。私も敢えて猥褻なものを読んでみようとは思わなかったので読んでいなかったのだが、たまたまロレンスの短編集を読んだら、素晴らしかったので、ロレンスの作品が猥褻だけの筈がない、と読んでみた。
    まず、読む前のイメージは、夫が戦争で下半身不随になり、性に飢えた上流階級のチャタレイ夫人が無学でマッチョな森番と性愛の悦びを知る、という感じ。
    だから、チャタレイ夫人がそもそも森番に出会う前にも浮気をしていたことや、夫もそれを認めていたこと、森番が中背で痩せていて、無学ではないことはちょっとした驚きだった。チャタレイ夫人とメラーズの関係は、身分違いだが真っ当な恋愛なのである。
    貴族であり、作家でもある夫の人間としてのつまらなさ、浮気相手ともわかり合えない空虚さ、さらには炭鉱で働く人々を搾取することについての夫との意見の相違(これは、階級についての小説なのだ!)がまずチャタレイ夫人の苦しみで、性的な問題はその苦しみのひとつに過ぎない。
    メラーズも、森番ではあるが、フランス語も操り、本も読み、戦争では出世した人物であるが、戦争や妻との関係、体を壊したことなどから、孤独であることを敢えて選んで生きている。
    身分違いの恋愛、それからイギリスにがっちり根付いた階級の問題、日本よりずっと早くやって来た炭鉱の黄昏、その中であがきながら生きる二人の物語なのである。性愛のシーンはあるが、多分今どきの一般的な恋愛小説よりずっとあっさりしていると思う。これが猥褻とされて最高裁までいったということに隔世の感を抱く。そういうシーン自体全体の分量からすれば、それほど多くないし、そもそも全体をちゃんと読めば、猥褻が目的ではないことはわかって当然なのだ。
    読んで面白い小説だし、本当に人間というものがよく描けていると思う。
    とりあえず一番古い伊藤整訳で読んだが、光文社の古典新訳文庫もよさそうだった。ちくま文庫の訳は、メラーズが九州弁を喋るのがどうしても違和感があり(なんだかコミカルになるというか)読めなかった。
    翻訳ものは、複数の訳がある場合は、よくよく吟味してから読んだ方が良いと思う。九州弁が悪いわけではないけど、外国の方言を日本の方言に置き換えるのは無理なのではないかと。

  • 読んでいて、色んなことを考えた。
    まず、同じ近代貴族女性の不倫小説である『アンナ・カレーニナ』を思い出し、同じ不倫を扱っていても小説の雰囲気は全然違うなと驚いた。

    アンナ・カレーニナは、暗い。キリスト教的価値観に支配されたロシア文学ならではの重苦しさや罪の意識が物語を覆っている。
    宗教的には当然タブーなのだから、主題に宗教が入ってくると主人公の行動を肯定的に描けるわけがない。

    一方の『チャタレイ夫人』は、性愛の喜び、愛する人に出会えたことの喜びが全面におしだされている。
    とはいえテーマはもちろん性愛だけではない。
    精神的優越を誇る(のに実は中身は空っぽな)貴族の傲慢さへの批判、階級制度そのものへの批判、産業社会資本主義社会への批判、そういったものが全て詰め込まれて、主人公コニーが夫のクリフォードを嫌う理由になっている。

    恋人メラーズは、あらゆる点でクリフォードとは逆。身分とは裏腹に誇り高い高貴な人間。
    そのうえ体の相性まで抜群と来たら、そりゃ惹かれるでしょう。
    本当に優しさと愛に満ちた幸せなセックスは生命礼讃や魂の解放の域にまで達するのだなあ、などと考えながら読んでいると今度は『百年の孤独』を思い出した。

    ここまでいくとセックスも尊いものに思えてくる。そんなふうに思える相手と出会えるって素敵なこと。
    2人のセックスの性描写は少しもいやらしくなく、愛に溢れてロマンチックで、読んでいる方まで幸せになる。
    摘んできた花を挿したり名前をつけて呼び合ったり身体を撫でて可愛がったり。そして達する時の波がどうこうという描写もとてもうまい。

  • 大学で軽音楽サークルに入りました。「オヤジ君は、そうだな、むっつりスケベでしょ?」先輩にこう言われて即座に否定しました。普通にスケベであると自任していたから。

    その点、本作『チャタレイ夫人の恋人』も謂わばむっつりじゃないスケベ、おっぴろげエロです。むしろどぎついかもしれない。

    ・・・
    チャタレイ夫人ことコンスタンスは中流ながら自由な空気の下で教育と経験を積み、貴族であるクリフォード卿と結婚する。しかしクリフォード卿は第一次大戦で下半身が不具となり、いなかの炭鉱町テヴァーシャーの屋敷に夫人と引っ込み隠遁的生活を送る。クリフォードはいくつかの文芸作品で名声を得つつあるなか、コンスタンスは閉じこもった田舎生活・貴族仲間の辛気臭い高尚な議論に飽き飽きし、果ては森番メラーズと不義の愛を交わし、その関係にはまっていく。

    ・・・

    つまり本作はありていに言えば不倫モノであるが、描写が非常に生々しく肉感的。一番印象的だったのは愛し合う二人が互いの陰部を『ジョン・トマス』『ジェイン夫人』と呼ぶところでしょうか。しばしば陰部とは抑制や理性の網の外になりますが別人格として呼ぶところにエロチシズムを感じます。


    とはいえ、これがただのエロ・グロ・ナンセンスかといえば、そればかりではなく、他の切り口があると考えます。それは例えば、人間らしさとは何かとか、自然の重要性とは何かとか、肉体の不自由はどのように克服するか(むしろしなくても良いのか)等々です。

    主人公のコンスタンスは鬱屈した生活の果てに、肉体の満足こそ善でありすべてと言わんばかりに自らの愛の道を突っ走ります。他方で不倫浮気は社会通念上も法律的にも許されないこととされており、そのルールには必ず背景があるわけです。社会と個人との関係、社会にあっての倫理、こうしたトピックを考える上ではよいマテリアルかと思いました。

    コンスタンスのように夢中になるときは忠告も悪口に聞こえますし、見境もなくなります。そういう状態は理解できるものの、もう破滅に向かっていることがわかり、助けてあげたいけど助けられないもどかしさを感じました。

    ・・・
    巻末の解説を読み、筆者ローレンス自身が人妻と不倫して、いわば駆け落ち然の海外滞在を余儀なくされたことを知りました。その点で本作は私小説的作品といえます。ノマド的生活の中で一生を終えた彼が、それでも愛が勝つ、と30年前に流行った曲のように主張したかったかはわかりませんが、作品の終わりはいまだ一緒になれない二人の間の近況文通で終わります。その印象は二人の行く末が明るくないことを示しているようにも見えますし、あるいは『社会』に自分たちの生活を踏みにじられたローレンスのルサンチマンのようにも思えました。いずれにせよ、社会に反して生きるというのは楽ではない、そのことは実感しました。

    皆さんはどう読まれますでしょうか。

  • アダムとイヴのように原始的で、動物のように激しく開放的で。チャタレイ夫人コニーと森番メラーズとの愛に、そんな真実の生命を感じました。それは特権階級の古くて醜い価値観を、根底から覆すかのような愛でした。

  • 性と愛という主題のために、ここまでの切り込んだ表現をする必要があったかはわからないが、読み物として面白かった。なお、現代的感覚からすればわいせつ物には当たらない印象。

  • 姉との対話でコニー自身が言うように、コニーとメラーズは互いに名前で呼び合わない。地の文においても二人のみが登場する場面は、一部を除いて、「彼」「彼女」と称されている。コニーに即して言えば、夫との精神的生活(という名のひきこもり生活)を通して彼女は観念的な言葉など無意味だ、ということを悟った。二人の間では既成の名前も意味を持たない。代りに、彼らは自分らの性器に自ら名を与える。『旧約聖書』「創世記」のように、名を与えるところから世界が始まる。二人にとっては肉体が第一であり、肉体の交合を通して生まれる言葉こそが重要な意味を持つ。

  • 約100年前のお話。日本で発行された時は欠落本として出されたのが有名。
    でも、実際読んでみて、全然やらしくない。しかも今っぽい。女の方に収入があるとか。性の不一致とか。
    ロレンスの「性とは宇宙における男女間の均衡である」接触によって互いに生命を与え合う、そう言う合一こそが性行為で、男女の生活は生と死の完全なリズムをたどる永遠の更新である。という考え東洋医学にも通じる考えがあるからかしら?
    そしてダブル不倫なのね。世間から攻撃されない為には結婚しなければならない。その為には離婚しなければならない。

    チャタレイ夫人が不幸だったのは結婚前に喜びを知っていたからかな。知らずにずっと閉じたままなら、夫からアプローチなくともそのまま人生が過ぎ去ったかもしれない。

    クリフォード…「本当にあなたは私にいつか子供を産んで欲しいの?」彼は答える。微かな不安を浮かべて、「そういうことが僕らの間を変えさえしなければ。互いの愛情、僕に対する愛情に変わりさえなければ」

    肉体生活などは動物と同じだ。
    性って難しい。再婚も。前の奥さんと愛し合ったのに現在は憎み合っているその過程を言いにくくても言ってもらうことで、前に進める気がする。

    メラーズ…自分と同じだけ性への興味を持ち、一緒にいく女が欲しい。女も自分から同時に喜びを得てくれなければ自分の喜びと満足をえられない。

    子供を世の中に送り出すというのは恐ろしいと思っている。子供がこの先どうしていくかと思うと、とても怖い。

全70件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

D.H.Lawrence.
1885 ~ 1930 年。イギリス出身の作家。
大胆な性表現や文明社会と未開社会の葛藤などを主なテーマに据えた。
イギリスからイタリア、オーストラリア、ニューメキシコ、メキシコと遍歴。
この間に、『アーロンの杖』『カンガルー』『翼ある蛇』などの問題作を
次々と執筆。ローロッパへ戻ってものした『チャタレイ夫人の恋人』が
発禁処分となるなど、文壇の無理解もあり長編の筆を折る。
その他の代表作に『息子と恋人』『虹』『アメリカ古典文学研究』
『アポカリプス論』など多数。

「2015年 『ユーカリ林の少年』 で使われていた紹介文から引用しています。」

D.H.ロレンスの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×