ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

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レビュー : 161
  • Amazon.co.jp ・本 (428ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102081013

作品紹介・あらすじ

舞台はロンドンのサロンと阿片窟。美貌の青年モデル、ドリアンは快楽主義者ヘンリー卿の感化で背徳の生活を享楽するが、彼の重ねる罪悪はすべてその肖像に現われ、いつしか醜い姿に変り果て、慚愧と焦燥に耐えかねた彼は自分の肖像にナイフを突き刺す…。快楽主義を実践し、堕落と悪行の末に破滅する美青年とその画像との二重生活が奏でる耽美と異端の一大交響楽。

感想・レビュー・書評

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  • 今日、仕事帰りにTSUTAYAに寄ったんだ。DVDを選んでいたら、近くに20才前後のカップルが来たんだ。男は向井理みたいで、女は武井咲みたいだった。俺は、何となく二人をずっと見てしまった。ニヤニヤしながら。そしたら、「何見てんだ?」みたいに見られたんだ。その時、気付いたんだ。そういうジロジロ見てるジジイやババアはたくさんいて、かなり前までは俺もジロジロ見られてたけど、彼らの気持ちが分かったんだ。確かに、女の子の方はかなりの美人でかわいくてミニスカートに白い肌がエロかったけど、俺は断じて、いかがわしい気持ちで見ていたわけじゃない。俺はその時、こう思っていたんだ。

    「若さって、素晴らしいな」

    は?

  • 「もし『ドリアン』がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいものだろう。そうなるものならなあ!」

    画家がワイルドの前で発した一言がはじまりだった。

    この小説に登場するヘンリー卿の、人を惹きつける様な逆説と快楽主義の言説の数々は、この小説の大筋、すなわちドリアン・グレイの物語とは独立しているように感じられる。おそらくそれらはワイルド自身の言葉であり、彼はかねてからそれを何かしらの形で表現したいと思っていたに違いない。
    彼は画家の言葉に物語を思いつき、主人公に影響を与える人物としてヘンリー卿を設定し、その口を借りただけなのかもしれない。
    彼の言葉を読むだけでも、この小説は価値のあるものだと僕はおもう。

    「誠実な人間は恋愛の些細な面しか知ることができない。きまぐれな浮気者だけが恋愛の悲劇を知ることができるのだ」(p.33)
    「ぼくにとっては、美は驚異中の驚異だ。ものごとを外観によって判断できぬ人間こそ浅薄なのだ。この世の真の神秘は可視的なもののうちに存しているのだ、見えざるもののうちにあるのではない……」(p.50)

    その酔いも覚めやらぬうちに、物語はドリアンとその肖像へと主題を移していく。
    肖像画がドリアンの罪や堕落を代りに蓄積し年をとっていく、という(画家の一言に端を発した)どこかSF的な設定が、常人離れした美を持つ主人公の葛藤を描き出す。肖像画の表現も妙にリアル。

    「これはおれにとって良心と同じようなものだったのだ。」という、クライマックスの主人公の気付きで全てが線になった。
    シビルの死以降おもに表される、ドリアンが肖像画に脅えるさまは、まさに人が罪を犯すときに感じる「呵責」であり、
    彼がそれに繍布を被せて向き合わないようにし、挙句の果てには屋根裏に封印するのも、まさにそれが「良心」の象徴だからなのだろう。

    あと気になったのが、美の象徴たるドリアンが「美なるものの創造者」(序文より)である芸術家を殺す場面だ。肖像画にナイフを突き刺す最後の場面より如実に描かれ、『罪と罰』を髣髴とさせる凄惨さで、この小説において奇特に浮いている。
    もしかしたら、これこそ唯美主義、芸術至上主義者としてワイルドが一番描きたかった場面なのかもしれない、と少し思った。人は結局、美そのものにはかなわない。考えすぎかな……

    「芸術が映しだすものは、人生を観る人間であって、人生そのものではない。」
    序文の中でこの言葉が一番すきだ。個人的に。
    肖像画の中に映し出されたあらゆる醜さは、客観的に「罪」とされるドリアンの人生そのものでなくて(彼が犯した堕落や悪行は噂として語られるだけで具体的に描かれない)、それを主観的に見つめるドリアンのこころだったとしたら、彼はほんとうの意味で悲劇の主人公だなと思った。
    ヘッティ・マートンのくだりを読むあたりで、ドリアンの愚かさに誰もが気付くだろう。彼はその愚かさゆえに、自分がその過去を罪だと感じていることにさえ気付かず死んだのだ。

  • この本は展開性を重要視してはいない。
    神を棄て、美に溺れ、快楽の骨頂を得る為に、自身を滅ぼしていく。
    ―芸術家の在るべき姿。

     一言一言が美しいのだ。綴られた言葉の一つ一つが厳選された生花の様に、―それは月の蒼い光を帯び、或いは水滴を纏い陽光の下で煌めく。 全てが無機的でありながら煌びやかな七色の光を持つ、宝石の様な"生命体"だ。

    之がオスカー・ワイルドの、そして訳の福田さんの「協奏曲」への印象だ。

     あらゆる悲劇は美しくあれ―。其れは私が胎内から外界に触れた瞬間に、この二つの眼球を駆使して認識する世界の中で生まれた我が舞台を華やかにする、唯一の意義を齎す、究極の展開だ。
     死した知己に悲嘆し絶望に呑まれ、闇を知る自己の姿が、感情が、―安易に味わえない劇的な展開によって、突如として生み出されたそれらが、最も美しいものであると―。
     死んだ事実によって其の存在が最も映え、煌々と輝きを帯びて"生"を持つ。―それは何ら不思議なことでは無いではないか。

     快楽の逆は倦怠だ。
    あらゆる苦痛も快楽になり得る。倦怠に覆われた退屈のみが、最も忌むべき存在だ。

     この本は私の中で最高傑作の「絵画」だと認識したのである。―少なくとも、私が今まで出会った本の中では逸脱した芸術品、だ。

  • azuki七さんの影響。
    何も考えずにこれを読んでいたら、青春賛美とかワイルドの同性愛趣味か、などど間違って読んでしまっていただろう。
    年を取るということは、肉体が衰え苦しみが増えるのではない。ヘンリー卿が言いたかった青春賛美は、その時その時しかできないこと、感じられないものを楽しむことなのだと思う。
    そして、世界はいつも自分からしか開けない。どのような美しい姿をしていても、自分のしたことは、自分が一番よく知っている。肖像画は良心と呼ばれるものかもしれないが、紛れもない自分自身に他ならない。彼は良心から自分を殺したのか。いや、彼は考えることをやめ、自分で自分を否定したのだ。

  • まず最初に述べたいのはワイルドの持つ逆説の美しさ。これは幸福な王子収録の短編についても言えるが、逆説を扱わせたら彼以上に巧みな人間はそういないかもしれない。だが逆説と言うのは、単純に言葉を弄するだけのものではないという事にも気付かせてくれる。
    時として真理を外れたかのように見える、ある意味『過剰な逆説』と言えるような違和感も感じないことはない。しかしそこで立ち止まって考えてみると、逆接には真理を言い当てようと言う意図のほかに、重要な役割が潜んでいる事にも気づかされる事になる。それは思考の『枠』を外す行為だ。固定観念からの解放と言うだけでも、鮮やかな逆説は十分に意味のある働きをしたといえるのではないか。
    そもそも人間は常に文脈で生かされている。それはミクロにもマクロにもあって、その一番大きいくくりは歴史に違いない。人間は先人の積み上げた歴史を通してしか世界と向き合う事はできない。それ故に、そこに逆説が生まれる。
    逆説が生まれる。と言うのがどういうことなのかと考えてみると、それは世界のありのままの姿と、我々の持つ、我々の歴史持つ見解とが食い違いを見せているということを証明してることに違いない。そしてそれはあらゆる事物に適応できる考え方である。逆説に至る前の『順説』なるものの存在が、そもそも歪んでいる。
    本来、ある事象に解釈を加えるとき、二通り以上の解釈は両方が排斥関係におかれないことが多い。人間が一般的に思っているほど論理性は択一的でも限定的でもないからである。我々の論理性に一種の必然性を付加するのは、まさに歴史的に積み上げられてきた偏見に過ぎない。
    鮮やかな逆説の応酬には、そのような事を考えさせられた。

    物語の本筋としては、まずワイルドの持つ芸術への感性に大いに共感と憧憬を感じた。審美派、耽美派と言えるその方向性は作品を貫いて華やかで幻想的で、どこか不安定である種陰鬱な印象を醸している。

    作品で表現されていた事の中にも、また逆説が潜んでいるように感じた。自分の実在と、魂を切り離す事に成功し、老いや罪を肖像画に背負わせる事であらゆる呪縛から解放されたはずのドリアンが、その事によってかえって逆に『肖像画』と言う存在に縛られ、不自由な生と数奇な運命を辿る事になるという逆接。肖像画により永遠を得たはずのドリアンは、最後には肖像画により人生に幕を引く事となる。
    『肖像画』というものが一体何の象徴だったのか。それには『良心』と言う言葉もあてられていたが、それは『魂』でもありえて、そして『罪』でも『破滅』でも『恐怖』でもありえるし、そしてそのまま『本人』でもありえる。
    自分の行為によって、世界との関わりによって自分が全く変化せず、影響を受けず、変化するのは常に肖像画だとしたら...一体本当の自分と言うのは身体か、肖像画なのか...
    そこからは物心二元論にも通じる深い問いかけが存在していると感じた。
    何より肖像画という特異な存在を通して、我々が普段見落としがちな沢山の真理を異化し、改めて考察するのには大きな意味があったと思う。

    ヘンリー卿の述べた忠実さについての言葉は、ここ最近頻繁に考えていた事と合致していたので興味深かった。
    こういう連中が忠実と呼び、まことと名づけているものを、ぼくは習慣の惰性とか想像力の欠如とか呼ぶ。感情生活における忠実さというものは、知性の生活における一貫性と同様に、失敗の告白に過ぎないのだ。
    忠実である。誠実であると言うことに、本当に意味があるのだろうか?と考えると、明確な答えなど得られないことに気付く。所詮は人間が、ある文脈において、ある種の人間に『有益』であると言うことから生み出した概念が、長い時間を経て人間性の中にこびりついた遺産に過ぎないのではないか?時としてその忠実さ、誠実さへの固執は、人間の機会の、価値の喪失を導く害悪ではないだろうか?
    これも逆説が気付かせてくれた事の一つであろう。

    それから
    思想の価値はそれを表現する人物の誠実さとは何のつながりもない、むしろ、人物が誠実さを欠けば欠くほど、思想の知性度は純粋となる。というのも、その場合、思想が、個人の願望、欲求、偏見といった物で彩られる心配がないからだ。
    と言うのも心に残った。
    昔から言っているが、思想家や芸術家に対して、高い人間性を求める民衆の心理と言うのは歪で奇怪である。そしてそれは直接、一般的な人間からの芸術、そして思想への無理解を示していると言える。

    そしてこの本からは、芸術観についても大きな影響を受けたと感じる。
    何よりも人間は感覚を重視するべきであろう。感覚と言うのは人間と世界との境界線であって、芸術もまた人間と世界との境界線に生まれる。
    思考は違う。合理性は違う。それらを内包するような知性は違う。知性とは必ずしも世界のとの境界線で生まれる必要はなく、世界と人間のどちらか一方が欠けたとしたら成り立たなくなってしまう。
    知性の終わるところに芸術が始まる。そしておおよそ芸術とは、価値がないこと自体に価値がある。つまり頭を空にしなければ真の芸術には辿り着けないし、かと言って心まで空にしてしまってもいけない。
    おそらく言葉にするのはそう難しくないことではあるけれど、それを感覚的に感じるのは非常に難しい。多分今この芸術論を言葉にするだけの文章力は持ち合わせていない。
    でも少なくとも、世界との触れ合い方について何か大きな、大事なものを読み取った気がする。時々ここに戻り、そしてそれを基盤にして掘り下げ、磨き上げ、確固たる感覚を成立させたいと思う。

  • 名言のオンパレード。ヘンリー卿に注目。

    デカダン的な香りが強烈に漂うがそこに嫌気がささなければすらすら読めて行く。必読の書。

  • 年末に購入してようやく読了。ワイルドの美意識が炸裂、芸術がある男の一生を崩壊させていくという芸術史上主義のマニフェスト。

  •  オスカー・ワイルドという創作家は、すぐれた芸術家なのかどうなのかよくわからん人間である。その代表作とされるこの小説にかぎって言えば、少なくともわたしにとっては、(おそらく18〜19世紀以来)古今を通じて数限りなく世に生み出されてきたであろう、凡百の怪奇文学・お耽美文学の域を大きく出るものではない。<br>
     ワイルドはこの小説を通じ、美しく、自己崇拝に満ちた、悪魔的で、かつ息の詰まるほど魅惑的な人物を作り上げようとしたのだろう。だが、残念なことにドリアンの美しさも残酷さも、際だった印象を読み手のなかに刻印しない。それはドリアンが底知れない彼岸的存在としてではなく、自愛のなかにも自分が背いた倫理への恐れをかいま見せる、妙に人間くさいキャラとして描かれてしまったせいではないか。それも書き方によってはすぐれた題材になったのであろうが、この小説においては、その葛藤と背徳性についての描写がどちらも中途半端なまま、ドリアンの卑屈さと破滅だけが印象に残ってしまった。結果、小説全体がどこか大衆文学的なエンターテイメントの一作品に墜ちてしまったような気がする。

  • 生きるということは、自分の醜悪さと付き合っていくということでもあるのかもしれない。

  • 私のオスカー体験は遥か昔に読んだ戯曲『サロメ』のみだった。まだ17歳くらいだったから、その官能的でありグロテスク、そして耽美的な雰囲気に夢中になったものだった。
    しかしこの『ドリアン・グレイ〜』はどうだろう?ヘンリー卿の警句など、現代であればフェミニストたちから総クレームを受けて出版さえできなかっただろう。女は知性がなく、美貌はあるがそれはほんの一瞬で、本当の美を理解することはできない。…そんなことはあるまい。コム・デ・ギャルソンを作ったのは女性だし、ソフォニスバ・アングイッソラは男たちからの阻害を受けつつも宮廷画家として活躍した。
    思うにオスカー・ワイルドは女が憎いのである。男色家にままあることだが、美しい女そのものが、その相手がどのような性質、心根を持っていたとしても、女という概念そのものを憎んでいたのだろう。しかしそれを自覚していたからこそ、ドリアンは恋人の死に(最終的には)悔やむ。ワイルドの女性への憎悪と芸術的としての美への探究心の背反がこの作品を生み出したのだろう。
    個人的に最後のシーンがちょっと陳腐だと思うが、概ね良い作品と思う。

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