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本 ・本 (221ページ) / ISBN・EAN: 9784102082010
感想・レビュー・書評
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小学生の頃に読んで知った「あしながおじさん」。それから数十年
再び出会ったこちらの文庫版「あしながおじさん」には、装幀のイラストに
心くすぐられてしまい、ならばこの機会に再読して、更にまだ読んでなかった
続編も続けて読んで、本棚にはぜひともこの2冊を並べたいと思って読みました。
小学生の頃に読んでいたときのうきうきとした幸せいっぱいな気持ちと
大人になって読んで感じた気持ちには少し違うものがありました。
これが...悲しいお話ではないはずなのになぜか泣けて...。
ジュディはとっても明るくて前向きで元気で、若さにあふれていて成績もよく
まじめで友人関係も良好で、楽しく有意義に過ごす学園生活の毎日を
まるで日記でも書くように熱心に書き綴っているその手紙からは
一途な少女の気持ちが文面いっぱいにあふれ出ていて、胸がきゅうっと
締め付けられて、ジュディがそばにいたならぎゅっと抱きしめたくなりました。
だけどこんなに明るく振る舞うジュディでも、時には寂しく思うことがあったり
甘えたい時だってある。そんなとき、決して届くことのないおじ様からの
お返事を待ち焦がれるジュディを想うと思わず涙がぽろり...。切なくなりました。
あれだけ熱心に手紙を書いているのにそのお返事がないなんて
私ならきっと気がどうかしちゃう..。(笑)手紙のお返事はやっぱりほしいもの..。
そもそもジュディの書いた手紙は学費融資をして頂いていることへのお返事
(お礼)なのだから、おじ様からのお返事はなくて当然なのだけど...でも....
お返事はないものと割り切っていながらも、おじ様から何かしらのアプローチが
あることを願っているジュディの心の内が手紙の文面に垣間見えるとなんとも
愛おしくて。それでもひたすら熱心に手紙を書き綴るジュディの一途な健気さに
胸が熱くなってしまったのでした。 -
人生で三度目のあしながおじさん読了でした。三度目にして初めて、ウェブスターの緻密に計算されつくした構成力と感情の変化を間接的に描き切った描写力に気がつき、脱帽させられてしまいました。
誰もがあらすじを知っているように、決して正体を明かさないお金持ちの男性が、孤児の女の子を大学に進学させてあげるかわりに、毎月自分あてに手紙を書かせる物語。
8歳と19歳のときにすでに読んでおり、結末は知っているのに、約10年ぶりに再読してみると、全く違う物語のような印象を受けました。
以前読んだときは、孤児として育ったにもかかわらずハツラツとした無邪気さを持つ主人公の活き活きとした大学生活の描写が心に残ったのに、今回はどちらかというとその逆。
瑞々しく明るい描写の中に垣間見える、孤児であることを親友や愛する人にさへ隠そうとする少女の葛藤や虚栄心、裕福な友人たちへの羨望、若い娘らしい物欲など…ただ一途で前向きなヒロインにとどまらない、より生身の人間らしい少女の心情に初めて気がつかされました。
そして何より目から鱗だったのは、この物語は少女から「おじさん」にあてた手紙のみで構成されている「一視点」の物語であり、「おじさん」の心情は全く描かれていないにも関わらず、その手紙の中の描写から、気まぐれに援助をしだしたはずのおじさんが彼女に1人の男性として徐々に恋情を募らせていく過程が丁寧に織り込まれている点です。興味本位からひたむきな愛情に変わっていく様、ライバル男性への嫉妬、焦燥、独占欲、束縛など、実に多くの「おじさん」の感情が、手紙の中で少女が記すおじさんの行動を通じて容易に連想されるようにできています。しかし、少女はそんなおじさんの強烈な恋心には全く気づいていません。並程度の表現力なら、「それはないだろう」とつっこみたくなるはずでしょうが、それが実に見事に無理なく描かれています。他人の視点を用いて別の登場人物の心の変化をこれだけ鮮やかに描き出したウェブスターの筆力と緻密な構成に脱帽させられた一冊でした。 -
ひゃぁ~、やっぱり、これですよね~。
新訳となった「あしながおじさん」を読み、
大変面白く、でもなじみになじんだこちらが懐かしくなり、
翌日読みました。
なにせ、30年来のお付き合いでございますから、
どうしたってこちらの方が愛着がありますの!
お若い方、初めて読む方は新訳でよろしいかと存じます。
好きな本の新訳って何かとイライラッとくることあるけれど、
畔柳さんの翻訳は、うん、問題ないんじゃない?
(いつものように、上から)
でもさ、こちらの松本恵子さんの翻訳の言葉遣い、
これがね、私は好きだからさ!
「いいあんばいに」「大いに愉快に」
「とても美しゅうございます」
なんて、ちょっとパラパラめくっただけでも
次々、今はほぼ使われない、でも魅力的な日本語が
散りばめられているよね。
あと「髪を出来るだけ豊富にちぢらして」
(これはロック・ウィローの女中キャリーの行動ね)とか、
「料理番はいつでもこね粉をひとかたまり取っておいて
子どもたちに焼かせてくれます」
(これはサリーのお家へ行ったときのお話ね)とか、
いかにも昔っぽい言い様、でも心がほのぼのとして
なんだか面白くて嬉しくなるこの気持ち、
伝わるかしらん。
ずっと大事にしよ、この本。
裏表紙チラリ…、本の値段…240円、安い! -
2024/04/28読破
一言 女の子の成長と、紳士との日常にユーモアを交えた物語
感想 女の子の言い回しに感情が乗っていて、読んでいて状況が目に浮かぶことが多々ありました。表現も複数用いることで、ユーモアたっぷりな文章で読み進めるのが楽しかったです。なんとなく少女漫画みたいな感想でした。
「光源氏計画」に似ていると他コメントから学びました。
好きなフレーズ
p159
ジュディ「私は大作家になれなくてもかまいませんから、人生ろ路端に座り込んで、小さな幸福をたくさん積み上げることにしました」
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夫の実家の本棚にあったもの。金井美恵子の『お勝手太平記』で、この作品の中のバラの花束について触れられていたことから読みたくなる。偶然?いや金井美恵子は同じ書簡体小説であることを絶対わかって触れたはず。
食わず嫌いのとはこのこと!あまりに有名で今更という気持ちで手に取らなかったけれど、いやこんなに夢中で読んでしまうとは!多くの魅力があるけれども、やはり一番は一方通行の書簡体だという点ではないだろうか。何を書き、何を書かないかを巡る想像を掻き立てられ、そして自分の気持ちを人に伝えるという中で言葉が自然と選び抜かれることに不自然さがない。
そして、この時代のアメリカの上流階級の暮らしも1つの魅力でした。ジュディの描いた線描画も何とも言えない味。
他の翻訳も読んでみたくなりました。 -
数十年間いわゆる「名作」の数々を苦手としてきたが、芦田愛菜ちゃんおすすめの本だし、いっちょ頑張って読んでみるかと重い腰をあげたのだが、やっぱり無理だった。
ごめんなさい。
昔の本は本当に字が小さい。
読書眼鏡プラス読書用虫眼鏡の合わせ技で立ち向かうも辛い。
字の小ささだけでなく、邦訳の言葉遣いが辛い。
書簡2通目でリタイア。(早過ぎ!)
超有名な本だけど、あらすじも結末も、もう知らないままでいいや。
読み終わっていない本を未設定に入れておいたら大変なことになり、昨年末に仕方なく「読み終わった」に移行したので、本書もそこに分類しておく。 -
手紙形式で、最初は抵抗あったけど、けっこうわかりやすかった。
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221P
資産家の匿名のおじさんに孤児が学校に通わせてもらう話なんだけど、日々私が読んで感動してる英国古典とかの話を手紙で報告するの。お父さんと私は血がつながってるけど、お父さんを連想する。お父さんのお陰でたくさん本を読めたから。孤児とかじゃなくても、親に学校通わせてもらった子供は全員共感できると思う。
ジーン・ウェブスター Jean Webster
生年:1876年
没年:1916年
米国ニューヨーク州出身の小説家。母は文豪トウェインの姪で、父はトウェインのビジネス・パートナー。寄宿学校時代に18歳でアリスからジーンに改名。名門女子大ヴァサー・カレッジに進み、経済学と英文学を専攻する。在学中、新聞に「女子大生のおしゃべりコラム」を連載して好評を博すと、卒業後、その文体を活かした初の小説『パティ大学に行く』を出版。 一方、社会改革にも深い関心を持ち、イタリアの貧困問題を取り上げた小説『小麦姫』も執筆している。1912年には『あしながおじさん』が雑誌に連載され、同年これが書籍化されると一躍ベストセラーとなった。その後も『あしながおじさん』の戯曲化、続篇『ディア・エネミー』の執筆など精力的に活動を続けたが、長女出産の翌日、産褥熱により39歳で死去。
あしながおじさん (光文社古典新訳文庫)
by ウェブスター、土屋 京子
サリーは最高に楽しい人です。そして、ジュリア・ラトリッジ・ペンドルトンは最悪につまらない人です。教務課もずいぶん 両極端 な人たちを同室にしたものです。サリーは何でもかんでも(落第点を取ることさえ)おもしろがっちゃう人です。ジュリアは、ありとあらゆることをつまらないと思う人です。ジュリアには、他人と仲良くしようという気がこれっぽっちもありません。ペンドルトン一族に生まれただけで 文句 なしに天国に入れてもらえると思ってるみたい。ジュリアとわたしは、生まれながらの 仇敵 です。
お返事、くださいませんでしたね。重要な質問だったのに。 おじさまはハゲですか? おじさまの 容貌 を細部まできっちり考えてみました。かなりうまく想像できたのですが、頭のてっぺんを描く段になって、行きづまってしまいました。おじさまが 白髪 なのか、黒髪なのか、ごましお頭なのか、それとも毛がぜんぜんないのか、決められないのです。 これが、おじさまの絵です。
ひとつ、どんな事情があろうとも死守するルールを作りました。翌朝どれだけたくさんの試験が控えていようとも絶対に絶対に夜は勉強しない、というルールです。そのかわりに、ふつうの本を読むのです――というのも、わたしの場合、一八年間のブランクがあるからです。わたしがどれほどものを知らないか、おじさまはきっと信じられないと思います。わたしだって、いまようやく 事 の重大さを 自覚 しはじめているところなのですから。ふつうの家庭で親きょうだいや友人や本に囲まれて育った子ならあたりまえに知っていることを、わたしは聞いたことさえないのです。
たとえば、わたしは『マザー・グース』も、『デイヴィッド・カッパーフィールド』も、『アイヴァンホー』も、『シンデレラ』も、『青ひげ』も、『ロビンソン・クルーソー』も、『ジェイン・エア』も、『不思議の国のアリス』も知らなかったし、ラドヤード・キプリングの詩も読んだことがありませんでした。ヘンリー八世が何度も結婚したことも知らなかったし、シェリーが詩人だってことも知りませんでした。人間がかつてサルだったことも、エデンの園は美しい神話にすぎないことも、知りませんでした。R・L・Sがロバート・ルイス・スティーヴンスンの頭文字だということも知らなかったし、ジョージ・エリオットが女性だということも知りませんでした。『モナ・リザ』の絵を見たこともなかったし、信じられないでしょうけどシャーロック・ホームズの名前だって聞いたことがありませんでした(8)。
いまでは、ぜんぶ知っていますし、それ以外のこともいっぱい知っています。でも、追いつくためにはまだまだがんばらなければならないことがおわかりになると思います。とはいっても、これはとっても 楽しい努力 です! 毎日、夜になるのが待ち遠しいです。夜になったら、ドアに「とりこみ中」の札をかけて、お気に入りの赤いバスローブにくるまって、毛がモコモコの室内 履きをはいて、長椅子 の背にありったけのクッションを積んで、読書用スタンドをすぐ 脇 に持ってきて、本を読んで読んで読みまくるんです。一冊だけじゃ足りなくて、同時に四冊読んでいます。いまは、テニスンの詩集と、『 虚栄 の 市』と、キプリングの『高原平話集』と、(笑わないで!)『若草物語(9)』を読んでいます。この大学で、子供のころに『若草物語』を読んでいない学生は、わたしだけでした。でも、そのことは誰にも言っていません(そんなことを言ったら変人の…
というわけで、おじさま、ご安心ください。わたしの教育は着々と進んでおります! ところで、まじめな話、わたしって物書きじゃなくて絵描きになるべきだと思いませんか? あと二日で休暇が終わります。みんなが大学にもどってくるのが待ち遠しいです。いまの 塔 内は、ちょっと寂しいから。定員四〇〇人の寮に九人しかいないと、やっぱりガラガラです。 一一ページも書いちゃった――気の毒に、おじさま、読み疲れたでしょう? ほんの短いお礼状を書くつもりだったのに、書きはじめたらペンがひとりでに走ってしまいました。 さようなら。そして、わたしのことを思ってくださって、ありがとうございます。この完璧な幸福感をおびやかす小さな暗雲が地平に……二月に試験が迫っているのです。
今夜、ジュリア・ペンドルトンがわたしの部屋に遊びにきて、丸々一時間も居座っていきました。それで、家系の話になったんだけど、彼女、いったん家系の話を始めると止まらないんです。で、わたしの母親の旧姓は何というのか、って聞くんです。孤児院出身の人間にそんな質問をするなんて、 無作法 きわまりないと思いませんか? わたし、知らないと答える勇気がなかったので、なさけないことに、思いついた最初の名前を口にしてしまいました。その名前は「モンゴメリー」です。そしたら、ジュリアは、それはマサチューセッツのモンゴメリーなのか、ヴァージニアのモンゴメリーなのか、と聞いてきました。
じつは、わたし、数学とラテン語で落第点を取ってしまいました。いま 補講 を受けていて、来月 追試 があります。がっかりさせてしまったら、ごめんなさい。でも、そうでないなら、わたし自身はちっとも何とも思っていません。だって、 履修 便覧 にのっていないことを、ものすごくたくさん学んだからです。小説を一七冊読んだし、詩も山のように読みました。『 虚栄 の 市』や『リチャード・フィーヴァレルの試練( 13)』や『 不思議 の国のアリス』のように、すごく重要な作品ばかりです。あと、エマソンの『エッセイ』と、ロックハートの『ウォルター・スコット伝』と、ギボンの『ローマ帝国 衰亡 史』の第一巻と、ベンヴェヌート・チェッリーニの『自伝』を半分まで。チェッリーニって、おもしろい人だったんですね。朝食前にぶらっと出かけて、さらっと人殺しをしちゃうような人だったんです。
春が来て、何もかもが緑に美しく 芽吹く季節になると、わたし、勉強なんかほっぽり出して外へ遊びに走っていきたくなってしまうんです。野山には冒険がいっぱいあるんだもの! 本を 書く よりも本の世界を 生きる ほうがずっとずっとおもしろいです。 ギャッ!!!!!! いまのわたしの悲鳴を聞いて、サリーとジュリアと(やっかいなことに)四年生が 廊下 のむこうから走ってきました。悲鳴の原因は、こんな感じのムカデです。
わたしが望んだものはただひとつ。 そのただひとつは与えられず。 ために存在を 捧げると申し出たら 強大なる商人がにやりと笑った。
人間って、みんなそんなものだと思います。わたし、 逆境 や悲しみや失望が心を強くするという説には同感できません。親切心にあふれているのは、自分自身が幸福な人たちです。 厭世家(いい言葉でしょう? 最近仕入れたばかりです)なんて信じません。おじさまは厭世家ではないですよね?
農場での暮らしは、毎日毎日楽しいことだらけです。きのうは 乾草 を運ぶ 荷馬車 に乗せてもらいました。この農場には大きなブタが三匹いて、子ブタが九匹います。その食べっぷりときたら! まさにブタの名に恥じぬ食べっぷりです。ヒヨコやアヒルや七面鳥やホロホロチョウは数えきれないくらいバサバサいます。農場で暮らせる身分なのに、都会で暮らしている人なんて、頭がどうかしていますよ。
ローマの詩人。レスビアという名の女性に宛てた恋愛詩を多数書いた。
二年生になりました! 先週の金曜日に帰ってきました。ロック・ウィローを離れるのは残念だったけれど、また大学のキャンパスにもどるのもいいものです。慣れ親しんだ場所にもどってくるというのは、やっぱり楽しい気分です。わたし、だんだんと大学生活に慣れてきて、右も左もわかるようになってきました。というか、実際、ふつうの 世間 で暮らすという経験に慣れてきた感じです――お情けでこの世界にまぎれこんだ者ではなくて、胸をはってこの世界の一員であるという感じ、でしょうか。
サリーは二年生の級長に 立候補 しています。よほどの 番狂わせがないかぎり、当選するでしょう。 陰謀 に満ち満ちた空気をご覧あそばせ――わたしたち、なかなかの政治家ですことよ! いいですか、おじさま、わたしたち女性が選挙権を得たあかつきには( 28)、あなたがた男性は心して自分たちの権利を守ったほうがよろしゅうございますよ。選挙はこんどの土曜日で、そのあと、誰が当選したにしても、夕方にはたいまつ行列がおこなわれることになっています。
今学期から化学を 履修 することになりました。ものすごく変わった学問です。分子だの原子だのが出てきて、まるで、ちんぷんかんぷん。でも、来月になったら、きっと、もっと確かなお話をできるようになっていると思います。 ほかに履修する科目は、論理学と論証。 それから、世界史。 それから、シェイクスピア 戯曲。 それから、フランス語。 この調子で何年も勉強すれば、わたし、すごくインテリになると思います。
クラスにフランス語が英語と同じくらいペラペラの子がいます。子供のころ両親といっしょにフランスに住んでいて、 修道会 の学校に三年間通ったんだそうです。わたしたちとは比べものにならないくらいフランス語が上手なの、想像できるでしょう? 彼女にとっては、不規則動詞なんてお茶の子です。わたしの親も、わたしを孤児院なんかじゃなくてフランスの修道会にでも捨ててくれればよかったのに。あ、でも、それじゃダメです! だって、それでは、おじさまと知りあうことはできなかったでしょうから。フランス語ができるより、おじさまと知りあえたほうがよかったです。
アメリカ合衆国で女性に参政権が認められたのは、この作品が発表されてから八年後の一九二〇年。
「真の 学徒 たる 証 は、細部に対するあくなき熱情に尽きる」と、化学の教授は言います。 「細部に目を奪われないよう注意しなさい」と、歴史学の教授は言います。「対象から適切な距離を保ち、全体像を把握するように」と。
わたしたち学生が化学と歴史のあいだでいかに微妙な 舵取りを求められるか、おわかりになると思います。わたしは歴史的アプローチのほうが好きです。これなら、ウィリアム 征服 王 のイギリス 侵攻 が一四九二年だと言ったって、コロンブスのアメリカ発見が一一〇〇年だとか一〇六六年ごろだとか言ったって( 33)、単なる細部のひとつとして教授は見逃してくれるでしょうからね。おかげで、歴史の講義は安心してのんびり聞いていられます。化学は、そのような安心感とはまるっきり 無縁 です。
コロンブスのアメリカ発見は一四九二年、ウィリアム王のイギリス侵攻は一〇六六年。
古典といえば、おじさまは『ハムレット』を読んだことがありますか? もし読んだことがなかったら、いますぐ読んでみてください。 こんなにすばらしい作品はありません! シェイクスピアの名前は小さいころから聞いていたけど、こんなにうまい作家だとは知りませんでした。 評判 倒れだろう、ぐらいにしか思っていなかったのです。 わたし、ずっと昔に思いついたすばらしい遊びがあります。字が読めるようになったばかりのころに考えた遊びで、毎晩、自分がそのとき読んでいる本の主人公になったつもりで眠りにつくのです。
おじさま、わたしね、人間にとっていちばん大切な 資質 は想像力だと思うんです。想像力があれば、他人の立場に立ってものを考えられます。想像力があれば、他人に優しくなれるし、同情もできるし、理解してあげられます。子供には想像力を育ててやるべきです。でも、ジョン・グリア孤児院では、想像力のかけらが光ったとたんに踏み消されてしまうのです。ジョン・グリア孤児院が育てようとしたのは、義務感だけです。義務なんて言葉、子供には教える必要ないと思います。義務なんて、憎むべき、 唾棄 すべき言葉です。子供が何かするときの動機は、愛情でなくてはなりません。
サリーとわたしは、読書をいっぱいする予定です。来年の国語と社会学の教材もぜんぶ読んでしまう予定です。夏休みのあいだに教材を読んでおけば非常に役に立つと教授も言ってたし、それに、二人でいっしょに読んで話しあえば記憶にもしっかり残るでしょう?
でもね、おじさま、この約束はきついです。本当に。わたし、とっても淋しいです。おじさまはわたしが大切に思うただ一人の方なのに、まるで正体がわからないんだもの。おじさまは、わたしが頭の中で作り上げた想像の人物にすぎません――そして、たぶん、本物のおじさまはわたしの想像しているおじさまとはぜんぜんちがう人なのでしょう。でも、一度だけ、わたしが病気になって医療棟で寝ていたとき、おじさまはメッセージをくださいましたね。わたし、どうしようもなく身寄りのないわびしい気分になったときは、そのカードを取り出して 眺めることにしています。
雨が降りつづいた一週間、わたしは屋根裏部屋にこもって読書 三昧 で過ごしました。おもにスティーヴンスンです。作品の登場人物よりスティーヴンスン本人のほうがずっとおもしろいです。作家自身が活字の魅力的なヒーローを地で行こうとしたのでしょうね。父親の遺産一万ドルをぜんぶヨットに投じて南洋航海に出てしまうなんて、いかにもスティーヴンスンらしいと思いませんか? 冒険家の 面目躍如 ですよね。もし、わたしの父親が一万ドルを 遺してくれたら、わたしも同じようにすると思います。ヴァイリマ( 39) なんて、思いうかべるだけで胸がわくわく 躍ります。わたし、熱帯を見てみたいです。世界じゅうを見てみたいです。いつか、きっと、見に行きます――本気ですよ、おじさま。いつか大作家になったら、あるいは大画家になったら、あるいは女優でも、劇作家でも、とにかく何でもいいから大人物になったら。
わたし、ものすごく 放浪 志向 が強いんです。地図を眺めるだけで、帽子をかぶって 傘 を手に出かけたくなってしまうんです。「われ命あるうち南洋の 棕櫚 と寺院をこの目に刻むべし( 40)」
ジャーヴィー坊っちゃま、はやく来ないかな。待ち遠しいです。話し相手がほしいのです。正直、センプルさんの奥さんは、ちょっと 退屈 です。何も考えずに、ただぺらぺらしゃべってるだけなんだもの。ここの人たちは、みんなそんな感じです。彼らの世界は、この丘の上で完結しているのです。広い世界のことにはまるで関心が 及ばない、と言ったらわかっていただけるでしょうか。
待て! 止まれ! ヨー、ホー、ホー、ラム酒が一本!――いま何を読んでいるか、わかりますか? ここ二日間、わたしたちの会話は水夫や 海賊 用語になっています。『宝島( 46)』って、おもしろいと思いませんか? 読んだこと、ありますか? それとも、おじさまが子供のころには、まだ書かれていなかったのでしょうか? スティーヴンスンは 連載 料としてたった三〇ポンドしかもらわなかったんだそうです。作家って、割りに合わないものなんですね。わたし、学校の先生になろうかしら。
おじさまは、アーキオプテリクスって何だかご存じでしたか? 始祖鳥 です。ステレオナイサスは? ちょっと不確かですが、これはミッシング・リンク( 48) で、歯を持つ鳥、あるいは 翼 を持つトカゲ、のようなものだと思います。あ、ちがいました。いま本を調べてみたら、 中生代 の 哺乳類 でした。
ことしは経済学を選択することにしました。すごく役に立つ学問です。経済学が終わったら、次は 福祉 と社会改革を 履修 します。そうしたら、評議員様、わたしにも孤児院をどのように経営すべきかわかってくるでしょう。 わたしに選挙権があったら、りっぱな有権者になれると思いませんか? わたし、先週で二一歳になりました。こんなに正直で教養があって良心的で知的な市民を活用しないなんて、この国はずいぶんともったいないことをするものです。
女性の服飾品って、あれやこれや、たいへんでしょう? それに比べると、男性はなんと 不毛 な人生を送らざるを得ないか、同情を禁じ得ません。シフォンも、ベネチア・レースも、刺繡も、アイリッシュ・クロッシェ・レースも、男性にとってはまるで無意味な言葉なんですから。その点、女性はどんな人であろうと、子育てに目が向いている人であろうと、病原菌に関心がある人だろうと、夫に目が向いていようと、詩に関心があろうと、召使いだの、平行四辺形だの、庭仕事だの、プラトンだの、ブリッジだの、とにかく何に関心が向いていようと、基本的にはいつだって着る物には興味があるものです。
とにかく、続けます。わたし、最近、ある秘密に気づきました。お知りになりたいですか? わたしのことをうぬぼれ屋と思わないと約束してくれますか? だったら、言います。 わたし、美人です。 本当です。部屋に鏡が三枚もあって、それでも気づかないとしたら、それこそ大バカです。
ニューヨークからおじさまにお便りするつもりだったのですが、ニューヨークというのはとにかく人を夢中にさせる街ですね。 興味深く、いろいろためになる時間を過ごさせてもらいました。でも、自分があの一族でないことをうれしく思います! 正直、ジョン・グリア孤児院出身というほうがましな気がします。わたしの育ちにいかなる難点があるにせよ、少なくとも 見栄 や 虚飾 とは 無縁 でしたから。
でも、おじさま、これだけは言えます――あの家に着いたときから帰るまで、内容のある会話は一つもありませんでした。およそ思想と名のつくものがあの家の 敷居 をまたぐことは、ないのでしょうね。
ミセス・ペンドルトンは宝石と仕立て屋と社交行事のことしか頭にない人で、ミセス・マクブライドとはまるっきりちがうタイプの母親です! わたしがもし結婚して家庭を持つとしたら、マクブライド家そっくりの家庭にするつもりです。どんなにお金があったって、わたしの子はペンドルトン一族みたいには育てません。お邪魔させていただいた家のことを 批判 するのは、失礼なことかもしれません。だとしたら、お許しください。これはおじさまとわたしのあいだだけの 内緒 の話です。
ジャーヴィー坊っちゃまとは、お茶にいらしたときに一度顔を合わせただけで、二人きりで話す時間はぜんぜんありませんでした。去年の夏いっしょに楽しい時間を過ごしたのにと思うと、ちょっと残念でした。ジャーヴィー坊っちゃまはペンドルトン一族の人たちをあまり好きじゃないみたいです――一族の皆さま方も、ジャーヴィー坊っちゃまをあまり好きじゃないみたい! ジュリアのお母さまに言わせると、ジャーヴィー坊っちゃまは頭がちょっとおかしいんだそうです。社会主義者なんですのよ、だって。髪を伸ばしたり赤いネクタイをつけたりしないのがせめてもの救…
ジャーヴィー坊っちゃまは、ヨットとか自動車とかポロ用の馬のような まともなもの にお金を使わないで、変てこりんな社会改革とやらに 片っ端 からお金を 無駄遣いしているのだそうです。でもね、ジャーヴィー坊っちゃまはチョコレートにもお金をお使いになられますことよ! ジュリアとわたしに…
あのね、おじさま、わたし、自分も社会主義者になろうと思います。かまわないでしょう? 社会主義者は無政府主義者とはぜんぜんちがいます。 爆弾 で人を吹っ飛ばそうなんて考える連中とはちがいます。たぶん、わたしは社会主義者になって当然の人間なのだと思います。だって、 プロレタリア階級の生まれ だから。ただ、どういう種類の社会主義者になるかは、…
ニューヨークではお芝居をいっぱい観たし、ホテルや美しい邸宅もいっぱい見ました。頭の中でオニキス( 51) と 金箔 と寄せ木の床とシュロの木がごっちゃになっています。いまも、まだ息もつけないような興奮から抜けきっていませんが、大学と読書の日々にもどるのをうれしく思っています――わたし、勉強のほうが 性 に合っているのだと思います。大学の落ち着いた雰囲気のほうが、ニューヨークの空気よりもすがすがしくていい気分です。大学生活はすごく満足です。本と勉強と毎日の時間割が脳を刺激してくれるし、勉強に疲れたら体育館や外で運動すればいいし、それに、同じことを考えている 気心 の知れた友だちがいっぱいいるし。夜は友だちとさんざんしゃべりまくって、そのあと、世界の重大問題をすっかり解決したように晴れ晴れした気分で眠りにつきます。 暇…
わたし、だいじなのは、とびっきり大きな 歓びを得ようとすることではないと思います。だいじなのは、小さな歓びを最大限に楽しむことだと思います。おじさま、わたし、幸福の真の 秘訣 を発見しました。それは、 いまこのとき を生きることです。過去をいつまでも 悔やむのではなく…
英文学の課程におきましては、ワーズワースの「ティンターン 修道院」を学んでおります。なんと魅力的な作品でございましょうか。そして、彼の 汎神論 の 概念 をなんと 的確 に表現した作品でございましょうか! わたくしといたしましては、シェリー、バイロン、キーツ、そしてワーズワースなどの詩作に代表される一九世紀前半のロマン主義運動のほうに、それ以前の古典主義よりも、はるかに心 惹かれるものがございます。詩の話題が出ましたついでですが、スミス様はテニスンの「ロクスリー・ホール」という魅力的な小品をお読みになられたことがございますでしょうか?
この手紙、もうとっくの昔に書き上げていなくてはならないのに、まだ書いています。お手紙をさしあげる日が多少前後してもかまいませんよね、おじさま? おじさまにお手紙を書くのは、大好きです。自分にも人並みに家族がいるような気分になれるから。いいこと教えましょうか? わたしが手紙を書く相手は、おじさま一人じゃないんです。おじさま以外に二人もいるんです! ことしの冬はジャーヴィー坊っちゃまからすてきな長い手紙を何通もいただきました(ジュリアが字を見て気づかないように、 宛名 はタイプ打ちです)。かなりショッキングな話でしょう?
おじさまって、どこまで 無分別 なのでしょう? 一人の女の子に一七ものクリスマスプレゼントを与えてはダメですよ。わたしは社会主義者なんですよ? おじさまは、わたしを金権主義者に変えるおつもりですか? おじさまとわたしが仲たがいをしたらどんなことになるか、考えるだに恐ろしいです。おじさまからいただいた物をお返しするのに、引っ越し屋を 雇わなくてはなりません。
文学が好きな女性なら、小学校の図書室の〈少女文学シリーズ〉の棚に並んでいたジーン・ウェブスター(一八七六~一九一六)の『あしながおじさん』(一九一二年)を胸ときめかせながら読んだ経験がきっとあるのではないだろうか。孤児という寄る辺ない身の上、お金持ちの紳士、紳士の経済的援助によって可能にされるアメリカの女子大学での寮生活、「ファッジ」という名前の素敵そうなお菓子、茶目っ気を含みながらもきれいな言葉で綴られたヒロインから「おじさま」への手紙、そして、夢のようなエンディング。見知らぬ遠い世界の出来事で、そのすべてが――孤児の身の上さえ――無知な子どもであった私には、とてもロマンティックで素敵なものに思われたことを憶えている。
のちに「ジーン・ウェブスター」として、アメリカ合衆国でもっとも稼ぐ女性作家の一人に数えられるようになる女性アリス・ジェイン・チャンドラー・ウェブスターは、一八七六年七月二四日、五大湖の一つ、エリー湖に接するニューヨーク州のフレドニアという小さな村で生まれた。当時のアメリカ合衆国は、一八六五年に南北戦争が終結してから、独占資本を形成する大資本家を中心に資本主義が急成長を遂げつつあり、作家マーク・トウェイン(一八三五~一九一〇)が「金ぴかの時代」と 揶揄 的に呼んだ拝金主義と金権政治が 蔓延る腐敗的状況の只中にあった。アリスは、「マーク・トウェイン」として国民的作家の地位をすでに確立していたサミュエル・クレメンスを叔父にもつ母アニー・マフェットと、勉強熱心でエネルギーに満ちあふれた前途洋々の若者チャールズ・L・ウェブスターの長女として、アメリカ合衆国の田舎の中流家庭に生を 享 けたのである。
一八九七年、二一歳になったジーンは、ニューヨーク州西部の名門女子大学ヴァサー・カレッジに進学し、経済学と英文学を専攻する。一九世紀後半のアメリカ合衆国では、女性は男性よりも知的能力が低いと見なされていたものの、「セブン・シスターズ」と呼ばれる名門女子大学がつぎつぎに設立され、女子大学教育の環境が整えられつつあった。もちろん、当時の多くの女子大学は、あくまで妻や母という役割を果たす存在にふさわしいとされる教養と人格の 涵養 を目標に掲げ、男性と競争するような女性の育成を目指してはいなかったが、そのような中でもヴァサーは、経済学、生物学、化学、数学、体育を含むアカデミックなリベラル・アーツ(教養)の科目を中心とした、男性の大学と同等のカリキュラムを有し、職業女性を育てることをも視野にいれた教育をする比較的進歩的な女子大学として知られていた。女性が高等教育を受けると〈男性的〉な性格になってしまうとか神経を病んでしまうとかいった批判が男性からも女性からもなされることが少なくなかった世相の下、ヴァサー大生の活発な振る舞いが、〈 醜聞〉として新聞や雑誌の紙面に書き立てられることも多かったという。だが、ジーン・ウェブスターが作家としての一歩を踏み出すことができたのは、皮肉にも、こうしたヴァサー大の〈悪評〉がきっかけであった。
また、彼女は、大学時代から積極的に海外へ出て、いわゆる観光地ではない場所にも足を運び、社会改革の意識をもって日の当たらない存在に共感を寄せる人であった。たとえば、一九〇五年に出版された第二作『小麦姫』は、大学三年生のときに一学期を過ごしたイタリアで目にした貧困層の生活を題材にしたものであり、ここにはイタリアの貧困を扱った卒業論文のリサーチで得た知見も反映されている。
もちろん、彼女は、アメリカ国内の問題にも深い関心を寄せていた。女性が高等教育を受ける権利と機会を得ても、世間には女性が職業に就くことにたいする偏見が根強く残っているだけでなく、現実問題として女性には参政権が与えられていないなど、当時のアメリカ社会はさまざまな矛盾を抱えていた。
アメリカ人がつねに 笑顔 を絶やさないのは、実は胸の奥に不安や心配を抱えているからだと言う人があるが、ジーン・ウェブスターは、まさにそんな逆説的な生を生きた人であったのかもしれない。父親を悲劇的なかたちで亡くした悲しみを胸の奥にしまいながら、彼女は貧困層や病める人に心情的に寄り添う大きな心と社会改革への意志を醸成し、それを夢や悲しみや孤独やユーモアの感覚がつまった文学作品のかたちに昇華した。もし『あしながおじさん』がそんな作品だとするならば、この作品は、よく批判的に言われるように、単なるシンデレラ・ストーリーや、甘くロマンティックな少女の心性を描写しただけの小説などではないのではないだろうか。次節では、一見、孤児の少女のシンデレラ・ストーリーに見える『あしながおじさん』の裏に隠された戦略に迫ってみたい。
事実、孤児という形象は、アメリカ合衆国を象徴的かつ理想的にあらわす重要な記号として本国でも繰り返し用いられていた。たとえば、少年で言えば、マーク・トウェインが描いたハックルベリー・フィンなどがその典型例にあたるだろう(ハックにはアルコール依存症の父親がいるが、この人物は一般的な意味における父親としては機能していない)。言い換えれば、アメリカ合衆国は、権威に反抗するかたちでアイデンティティをつねに更新していく若い国としての自己イメージを好むがゆえに、孤児が 自助 の精神でときに正統的に、またときにはアウトロー的に、成長していく物語を愛し、生産し続けてきたのである。
しかし、文学・文化テクストにおける孤児像も歴史の流れの中で変容を被るし、孤児といえどもジェンダーが違えばプロットは大きく異なる。たとえば、一八六〇年代から一八七〇年代にかけては、(1)南北戦争、(2)経済状況の悪化による貧困層の離婚および家族遺棄の増加、(3)移民の増加、を背景に、孤児の数がかつてないほど増加した。この時代の孤児は親戚や知りあいの家で労働力として使われるのが常であり、文学作品においても、孤児はつらい労働と孤独にひたすら耐える存在として描かれた。その後、世紀転換期になると、孤児院等の施設の拡充が見られたものの、その内部の孤児たちは、厳しい統制の下で抑圧を受け、個性や生気を奪われていたし、大した教育も受けずに施設を出なければならない年齢に達した後は、都市の工場労働者の大群に加わるくらいしか生きる道はなかった。ジュディ・アボットが孤児院のギンガムチェックの衣服や九七人の孤児が九七卵性双生児のように育てられる環境に嫌悪感を露わにするのは、この時代の文学作品に描かれる孤児院の孤児たちが、大量生産を目的に機械が労働市場に持ち込まれて個性が失われつつあるように見えたアメリカ人の比喩的形象でもあったからである。そして、一九二九年に始まった世界恐慌の時代になり、行きすぎた資本主義への批判や反省が見られるようになると、映画『アニー』(一九三二年)のように、世間の人々に嫌われて傷ついた資本家の心を癒す、かけがえのない個性を有する愛すべき子どもとしての孤児が描かれるようになる。孤児が養子縁組によって大切な家族の一員としてアメリカ社会に包摂され、孤立した資本家もまたアメリカ社会に家族と居場所をみつけて、アメリカがフランクリン・ルーズヴェルト大統領によるニューディール政策の下でほんの一瞬福祉国家の夢を見…
男性読者が『あしながおじさん』を敬遠しがちなのは、なぜだろう? 『あしながおじさん』といえば少女向きの児童文学というイメージがあり、思春期の男子にとっては手に取るのが照れくさいタイトルなのかもしれない。話を極端に単純化してしまえば、たしかに、白馬の王子様があらわれて孤児院育ちの少女が幸せをつかみました、という究極のシンデレラ・ストーリーではある。ただし、主人公ジェルーシャは、あまりシンデレラっぽくない。むしろ、『赤毛のアン』のアン・シャーリーや『若草物語』のジョー・マーチと共通する明るくて困難にめげないお茶目で痛快なキャラクターだ。
こうして、大学在学中の四年間にわたって、ジュディ・アボット( 辛気 くさいジェルーシャという名を自分でちゃっかり改名した!)から篤志家「あしながおじさん」へ宛てた一方通行の文通が始まるのだが、そんな大恩人に宛てて書く手紙であるにもかかわらず、いささかも卑屈なところが感じられないのがジュディの最大の魅力である。
ところで、今回の新訳にあたって、daddy-longlegsにどのような訳語を当てるかは悩ましい問題だった。daddy-longlegsという名の生物は正確にはザトウムシ(クモに似た足の非常に長い節足動物)またはガガンボ(大形の蚊に似た昆虫)であって、「アシナガグモ」とは別の生物なのだ。 本書のイラスト にいちばん近いのは、ザトウムシである。 この作品を日本で最初に翻訳した 東 健 而 は、daddy-longlegsをそのまま訳して、『 蚊 とんぼスミス』というタイトルをつけている(一九一九年)。「蚊とんぼ」とはガガンボのことだ。
著者プロフィール
ジーン・ウェブスターの作品






この作品は大人になってからの方がぐっと来ますよね。
私は岩波の文庫で読んだのですが、子供の頃よりはるかに...
この作品は大人になってからの方がぐっと来ますよね。
私は岩波の文庫で読んだのですが、子供の頃よりはるかに感動しました。
(表紙はこちらの方が素敵です)
というか、子供の頃はあまり本のテーマそのものが分かっていなかったような・・笑
すごーい、玉の輿に乗った話だ!という程度でしたよ。
ジュディは、光り輝くものをたくさん抱えている子だったのですよね。
それが、今も昔も女の子たちの心をつかんでやまないのだと思います。
yumiieさんの心優しいレビューに、何だかすっかり癒されました。
いつもありがとうございます。^^
私もnejidonさんとおんなじように、子供の頃はジュディの明るさ...
いつもありがとうございます。^^
私もnejidonさんとおんなじように、子供の頃はジュディの明るさに気分がうきうきして
最後にあしながおじさんの正体がわかったのと同時にめでたしめでたしで
あ~よかった~♪という記憶が残っているだけでした。
これがおとな目線で読むと、少し違うんですね。ジュディの人柄や
あの年ごろの女の子があこがれたり求めたりするものや、悩みや寂しさや
それにそもそもの境遇の事とか、いろいろ深いところを想像したりして...。
おじ様からのお返事など来ないのに、この子ったらなんてこんなに一生懸命なの!..って
想ったら、いとおしくてたまらなくなっちゃいました。
児童書や童話やきっと絵本も、子供の心で受ける感情と、大人が感じるものとには
ちがった趣があるものですね。赤毛のアンもそうでした。
.....ということで、実は最近ちょっと児童書に目覚めたりしています。^^
絵本も模索中です。nejidonさんとお友達になって頂けたおかげでもあります♪
嬉しいコメントありがとうございました♪