ハツカネズミと人間 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1994年8月10日発売)
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  • 本 ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102101087

感想・レビュー・書評

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  • ノーベル文学賞作家、スタインベック。アメリカの貧しい農家を渡り歩いてギリギリの生活をするジョージとレニー。レニーは精神遅滞でありジョージは昔からレニーをいじめていたが、孤独を回避するために2人で農家を渡り歩く。2人の夢は「土地」を買い、美味しい作物を作り、ウサギを飼って楽しく暮らすこと。一方、ある農家で出会う障がい老人、黒人、美人女性。さらにレニーの精神遅滞。貧しい時代に差別されながらも必死に生きなくてはならない不条理、さらに人間のもつ孤独、人間とは何か?何故生きるのか?著者の世界観を見ることができた。⑤

    [ガーディアン必読1000]

  • 夢と現実
    生きるとは
    人との繋がりとは
    孤独とは
    友情とは
    ものすっごく短いお話なのにいろんな事を教わりました。
    戯曲用に書かれた作品らしく、リズムよく、間延び感もなく読みやすい。
    読書初心者にもおすすめできる名作。

  • 冒頭:ソルダードの数マイル南で、サリーナス川は丘側の岸に迫り、緑色をして深く流れている。
    末尾:「おい、あの二人、いったいなにを気にしてるんだろう」
    契機:ブックオフでタイトルが気になって購入。以降約1年間の積読を経て読了。この本は手元に残しておくことになりそう。


    【あらすじ】
     小柄だが頭の切れるジョージと大柄だが頭の弱いレミーは、自分たちの土地と農園を持つことを夢見る渡り労働者だ。幼稚で頭の弱いレミーをジョージは決して見捨てず、ともだちとして世話を焼いていた。前の農園から、レミーの子供のようないたずらに慄いた女性が警察に駆け込み、ふたりはリンチを恐れて逃げ出した。
     新たに働き始めて農園で、自分たちの計画へ、キャンディ老人を仲間に加えて、お金を貯めるべく働いていた。しかし、この農園の親方の息子カーリーに目をつけられてしまったレニーは彼の手を砕いてしまう。カーリーには妻がいたが、彼女はさみしさからレニーに近づき、レニーは彼女と触れ合ううちに困惑し叫び出そうとした彼女の首を折ってしまう。
     面倒事が起きたときの約束で、河の畔に隠れていたレニーにジョージが合流する。カーリーと労働者たちが銃を担ぎ血眼になってレニーを探す音が辺りに響き始めたとき、ジョージはレニーの後頭部を打ち抜いた。


    【感想】
     読み終えて、しばらくショックで動けなくなった。
     ジョージの決断を自分だったら、どうしたと考える。レニーが、カーリーの妻の首を折って殺してしまったいきさつを読んでいるから、故意ではないのが痛いほどによく分かる。
     でも、それを知らない人からみたら故意か故意でないかなんて関係がない。レミーをどこまで許容できるか。制御できない力、それは例えば、ハリケーンだったりブリザード、地震、津波なんかの天災と同じような気がする。天災に殺意はない。意思も無い。避難するか、近づかないか、離れるかを誰だって選択する。
     とすると、ジョージこそが、レミーを原因と結果と過程の全てから死に追いやった張本人じゃないか?
     善意があるから悪意がある。
     施設に入れず、見放すこともなく、ひたすらレニーの面倒を見てきたジョージ。でも止めよう。こうやって悲劇をひとつひとつ蒸し返すのは、レミーの死が寂しかったからだ。

     そう。寂しさ。カーリーの妻が死までに、たくさんの人の寂しさが紙縒りのように絡み合い描かれる。
     老人のキャンディは、片手を失い、やがて老いが進むと、使用人として役に立たなり、この農場を追い出されて、施設に行くことを知っていた。家族みたいに連れ添ってきた老犬は、匂いが臭い、役にも立たないと他の人間が言うがままに処分させてしまった。キャンディがそこで暮らすには、使用人たちのパワーバランスに従わなくちゃいけなかった。
     黒っぽのクルックスは、黒人差別で居住も馬小屋にあり、他の使用人たちと友人になることすらできない。

      “「仲間がだれもいねぇと、気が変になっちまう。だれでもかまわねぇ、いっしょにいるならそれでいい。だって」~「だってなあ、あまりさびしくなると、病気になっちまうんだよ」”

    と漏らす。カーリーの妻は「あたし話す相手がだれもいないの。とってもさびしいのよ」と言う。
     ジョージは

      “「おれたち二人はそんなじゃねえ。先には望み がある。たがいのことを気にかけあう話し相手が、ちゃんとある。ほかに行くところもねえからと酒場へはいって金を無駄使いすることもいらねえ。ほかのやつらは、ブタバコにでもぶちこまれりゃ、もうそれっきりだ。だれがかまおうと、だめになっちまう。だけど、おれたちはそんなじゃねぇ」”


    と、ひとり日雇い労働者をして生きる孤独を恐れている。

     老若男女がこれほど「さみしい」と口にする物語もまた少ないと思う。
     でも、これがわたしたちが喉まで出かかっていつも吞みこんでいる言葉だろうなぁと思う。カーリーの妻の「さみしい」を知ったら、世で「さみしい」を理由に不倫に及ぶ人を正面切って責められない。ジョージや他の農場労働者たちは、いまで言うフリーターのようなものだろうか。ひとところのさんやさんかもしれない。この人たちが破滅に向ってくのだって「さみしい」からだ。老いも障害も差別も「さみしい」を生み出す。

     「さみしい」は理屈じゃない。

     レニーはハツカネズミを可愛がって殺してしまう。子犬を可愛がって殺してしまう。カーリーの妻に静かにしてほしくて、殺してしまう。
     彼は言葉を発音できたかもしれないけれど、言葉を介して理解し合うコミュニケーションはとれなかった。人付き合いができるのはこのコミュニケーションが通じる相手とだけだと言う事実が、怖くて怖くて仕方がない。
     「理解できない恐怖と伝わらない恐怖」のなかで理解を命綱にして生きるわたしたちの脆さをまざまざと見せつけられているよう。
     もし相手を理解し、自分を理解してもらえなけえれば、容赦なく排除される環境に生きていたら?
     もし相手が自分のことを全く理解することなく、一方的に生殺を判断される環境に生きていたら?
     もし自分が相手のことを理解できない状態で、それでも理解できない相手と共存しなければならないとしたら?
     でもこれはちっとも「もし」の話なんかじゃない。分かり合えないからひとは殺し合っている。今この瞬間にもだ。
     スリムの

      “「どうしてだかわからんがね。たぶん、この世の中の者が、みんなたがいにひとを怖がっているんだろう」”

     一言が突き刺さる。
     でもそうするとわたしたちはもっと一人でいることになるだろう。寧ろ、積極的に何かがひとを一人にさせようと影響を与えているのかもしれない。

     カーリーの妻は「おかしいわねえ。男の人が一人でいるところへ行くと、うまくおつきあいできるのに。でも、男の人が二人一緒になると、もう話もしないんだもの。ほんとにどうかしてるわね」と言う。女性を取り合って対立する男の心理のことだ。
     石器時代には人はグループの男女間で複数人とセックスをしたそうだ。だから、結婚なんて契約システムと家督・財産相続などに派生する地位と名誉を守るために性の本質が置き換えられた末の対立かもしれない。或いは雄と雄がテリトリーや雌をめぐって争い合う動物の本能となのかもしれない。
     だとしたら、生きることに「さみしさ」は付随するのかもしれない。
     「ともだち」は免罪符なのかもしれない。

     ジョージが自分の手で、レニーを銃殺するとき、キャンディが「あのイヌは自分で撃てばよかったジョージ。よそのやつに撃たせるんじゃなかった」と言ったのが、ジョージの脳裏を掠めたのではないかと想像してしまう。レニーは一人では生きていけない。ジョージもまた一人では生きていけない。しかし、レニーが生きることを、ジョージもまたそこで生きていく他ない世間の人々は認めない。一人で放り投げるくらいなら、自分の手で殺そう。そこにもまた黒人クルックスの声を通して投げかけてくる。

      “「みんな頭の中に小さな土地を持っている。でもだれ一人、その土地をほんとうに手に入れたものいねえ。まるで天国みてえなもんだ」”

     人が土地を持つんじゃない。土地が人を生み生かす。

      “「土地のくれるいちばんいいものを食って暮らす」”
      “「おれたち、そこに住みつく。その土地のものになる。~自分のものとなった土地に住み着いて~”

     その夢は破れさることになる。

     この話が不条理だとか、理不尽だとかは思わない。起こり得るべくして起こり得たものだし、起こったことの原因は火のない所に煙は立たないとおなじで、自らの存在だろう。不条理と言うなら自分という存在の成立そのものだし、理不尽と言うなら、この不条理な存在が存在し続けるためのすべての「生きる」を指すのだろう。

     ただ途方もなく悲しかった。タイトルの『ハツカネズミと人間』とは、分かり合えないことの象徴じゃないのかと感じたからだ。またハツカネズミはその生殖力の代名詞的な要素を持っている。肯定的に捉えるとしたら、レミーとジョージのように、ほんとうにちっぽけな存在だけど、懸命に生きているその姿本質とのリンクだとも思う。
     分かり合えないわたしたちは「さみしい」を抱えて「さびしくないよう」に生きていく。それなのに「さみしく」なきゃ生きていけない土地へと追い込まれたレニーとジョージを他人とは思えないでいる。

  • 3POとR2など、この組み合わせは黄金コンビですね!
    アメリカ西部の大農場を舞台に、渡り労働者の抱く夢と、夢に集う仲間と友情を描いたジョン・スタインベックの傑作です。
    アメリカの広大な大地と大自然の息吹を存分に感じながらなされるジョージとレニーの絶妙な会話がとても絵になります。頭の弱いレニーに終始付き合うジョージ。そして、そのジョージもレニーのおかげで夢を見る。短い小説ながら、渡り労働者が持つ悲哀とささやかな夢が見事に描き出されていました。
    舞台を思わせる構成と会話も面白かったです。そして、この黄金コンビが雇われた農場にいるのは、農場のドラ息子に、浮気な美人妻、やり手のラバ使いに、片腕が無い老人と身体障害者の黒人の下働きといった面々。揃うべき配役もきっちり固められて、否が応でもドラマへの期待が膨らみます。(笑)この中でやはり、頭が弱いが力持ちで動物愛のレニーの人物設計が一番秀逸ですね。
    ラストは序盤からの全ての思いが集約されたシーンですが、余韻が万感の思いとなって残る名場面です。

  • 『怒りの葡萄』を読んで衝撃を受けたので。
    こちらもカリフォルニアの労働者の小説。
    レニーとジョージという体格や知能が対象的な二人組が農場を持ちたいという夢を語りながら新しい働きグチで過ごし始めるというほんの数日間の物語。
    当時のアメリカを象徴するような人間が登場するが、そこで起こる悲喜劇、事件に胸が痛くなる。

  • 「アメリカ文学」というものがあることを私が最初に知ったのは、ヘミングウェイでもマークトウェインでもなくて、スタインベックでした。

    というのも、1992年に『二十日鼠と人間』が映画化されたからで、ビデオで観たのは翌年か翌々年ぐらいのはずだから、中3か高1ぐらいの頃。それ以前の私は、イギリスには小説があることを知っていたけど(シャーロックホームズで)、アメリカは映画のイメージしかなかったし、SFとファンタジーとアクションとアニメしか観ていなかった。当時は『エイリアン3』などSF映画がつまらなくなっていった時期でもあるけど、それ以外の「ドラマ映画」も観るようになった最初が『二十日鼠と人間』で、次がたぶん『ショーシャンクの空に』とか。思春期で、自分の中身が子供から大人へと変化していく時期に丁度観たこともあって衝撃的だったし、深く心に残った作品だった。

    この映画でゲイリーシニーズとジョンマルコヴィッチを知った。ふたりは元々同じ劇団で、舞台でスタインベック作品をやってたそう。ゲイリーシニーズはその後『フォレストガンプ』や『アポロ13』など売れっ子になり、マルコヴィッチの方はこれ以前にも有名な映画に出てるけど、この後で大好きなのは『ザシークレットサービス』。だから私は『トロイ』をボロクソに言ったけど、ペーターゼン監督作品でも『Uボート』とか『ザシークレットサービス』とか猿がギャー!な『アウトブレイク』は大好きなんですよ。

    時は流れ、映画を色々観るようになった10年ほど前。スコセッシの『明日に処刑を…』、アルドリッチの『北国の帝王』、ウォルターヒルの『ストリートファイター』(もちろんヴァンダムじゃなくてブロンソンの方)をたまたま立て続けに観た時期があり、それで「ホーボー」を知った。同じ時期に司馬遼太郎の『アメリカ素描』の番組も観て、あの本にはジャックロンドンやスタインベックが取り上げられているので、特にスタインベックが描いた世界恐慌時代のホーボーの姿が、映像で少しずつわかってきた。

    さて今回ようやく『ハツカネズミと人間』の原作小説を読んでみた。最初は、うろ覚えだけど映画版でストーリーを知っていたから、あまり楽しめないかも…と思っていたがさにあらずで、文章の形で読むと、スタインベックの技法がよりはっきりとわかった。160頁ほどしかなく、『変身』『異邦人』『春琴抄』と並んで新潮文庫の薄い本なのだけど、その短さの中に人間の生き様が凝縮されていて、やはり名作だなと感じた。

    以下感じたこと。細かい描写について書くとネタバレするのでそこは避ける。

    ・原題『OF MICE AND MEN』はロバートバーンズの詩からの引用、「The best-laid schemes of mice and men」の部分。詩の内容も関係している。

    ・新潮文庫の旧い大門一男訳の方は、なんと1939年。現行の大浦暁生訳になったのが1994年からで、映画版の1992年の時はまだ旧版だった。大浦訳版も元は1977年なのですでに大昔ではあるが、普通に読みやすい。

    ・小説ではあるけど演劇的で、舞台化・映像化がすぐできそうな内容。解説にも「戯曲的小説」と書かれていた。

    ・カフカの『変身』と並んで実存主義的。「人はパンのみにて生くるにあらず」で、ささやかでも夢や希望がなければ生きられない。ここは非常に感動したところ。

    ・佯狂者、聖痴愚、聖愚者→『白痴』

    ・最近読んだ『蓼喰う虫』が1928年、『すばらしい新世界』が1932年。『ハツカネズミと人間』は1937年。ほぼ西部開拓時代のように感じられるので、同時代のこととは思えない。当時のカリフォルニアといえば、ポランスキーの『チャイナタウン』の頃なので驚く。

    ・のちの作品で連想するのは、『アルジャーノンに花束を』『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』など。

    ・例えばいじめ問題や、出てくる女がホモソーシャルな集団内のサークルクラッシャーであるとか、現代的に捉えようと思えばいくらでもできる。『変身』と違って文章も物語も極めて平易なので、中高生のお子さんがいる方は薦めてみるのも良いと思う。

    ・先ほど書いた「女」。この女には作中で名前が与えられていない。表記は常に「女」もしくは「カーリーの妻」。つまりアイデンティティが剥奪されて、完全に集団内での立場や、(カーリーにとってのトロフィーワイフとしての)役割でしかない。ある意味では彼女も社会(家庭)の被害者であって、彼女を考察してみることは、大変面白いと思う。

  • いわゆる"南部"の物語を読んだのはこれが初。
    短いけれど、生き延びていくための苦悩がぎっしり詰まっている。苦しい中でも良心が垣間見えるところもあり、何と言うか、生のリアルさを感じる。
    終わり方が衝撃的で、フィクションだとしてもこういう時代は間違いなくあったんだと思わせられる。
    数年前だけど、この本は新たな経験だったな。

    2021.3.23読了

  • スタインベックの短編集を先に読んでいたこともあり、その中の短編たちの要素が登場人物の考えや農場生活の描写に強く現れていたと感じた。
    特に「朝めし」「熊のジョニー」はもちろん、「逃走」の要素が最初から最後まで漂っていると感じた。

    スタインベック初期の有名な作品はどれも農民生活の息遣いが聞こえ、そこになんとも言えない愛着が湧きますが、とにかくあのダンディでどタイプイケメンがこのような作品を描いたと思うとさらに作者と作品が大好きなります!!!!!!!

  • スタインベックは数年前に「怒りのぶどう」を読んだ時の感銘がまだ胸に残っている。
    物語の内容というソフト面も、構成というハード面も両方見事で。
    今作は未読だったが、ずーーーーーっと前に結末は聞いていて、忘れられずにいた。何て辛い話なのかと。
    なので、今回読んでジョージとレニーの悲劇に驚きはなく、ただただ悲しかった。
    でも、自分でも意外だったのだけど、読み終えた直後も、しばらく経った今も、この作品に関して頭を占めるのがジョージでもレニーでもなく、スリムだった。
    ラスト、何もわかっていないカールソンと対照的にジョージの苦痛を理解して思いやりを示すスリム。
    しかし、レニーを「狩る」ことを止めもしなかったスリム。
    賢く、情もあり、人望もあるけれど、この農場で使われて一生を終えるのだろうスリム。
    彼のことをずっと考えていて、ああ、諦めは人を殺すんだなぁ、とふとしみじみ思った。
    今の暮らしから抜け出せないと諦める瞬間が、この作品には幾度か描かれている。
    クルックス、キャンディー、そしてジョージ。
    諦めた時、彼らの心の一部は死んでしまった。
    スリムは多分この作品の時間以前に、諦めてしまった人だと思う。
    諦めてしまったから、レニーが殺されることも仕方がないと目をつぶってしまった。
    それがジョージの心も殺すことだとわかっていながら。
    スリムの諦めは、彼自身だけでなく、レニーとジョージの二人(スリムは知らないけれどキャンディーもいれれば三人)を殺してしまう。
    諦念というのは、そういうものだと私は思う。
    この状況で、諦めるなと言うのも酷だと思うし、この感想は私が安全地帯にいるから書けることだともわかっているのだけど。
    それでも、決して悪人ではないスリムの悪について、考えずにはいられない。

  • 世界大恐慌時のカリフォルニア州を舞台に、出稼ぎ労働者である切れ者のジョージと、低い知能と屈強な体力を持つレニーの2人を中心とした悲劇の物語。過去2回映画化。

    対照的な性格ながらもジョージとレニーはお互いを認め合い、ある夢をずっと共有してきた。一方、いつか何か面倒が起こるのではと懸念するジョージと、無邪気で屈託ない心ゆえに事あるごとに思い通りにいかず歯痒い思いをするレニー。彼らの新しい働き口でのある事件をきっかけに、ジョージとレニーの夢は急に現実を帯びてきた。そんな矢先、悲劇が襲う。
    大切なものを守るゆえの決断。その描写にはどうしようもない思いと虚無感で胸がぎゅっと締め付けられた。

    幸せとは?友情とは?優しさとは?
    正解のない問題に考えを巡らせつつ、人間の弱さとやるせなさにどっぷりと浸りたくなる。

    =================================
    『To a Mouse』(スコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩、1785年)
    二十日鼠と人間の、最善をつくした計画も
    後からしだいに狂って行き
    望んだよろこびのかわりに
    嘆きと苦しみのほかは、われらに何物も残さない

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