八月の光 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (664ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102102015

感想・レビュー・書評

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  • 「人ってずいぶん遠くまで来られるものなのね」
    臨月の娘リーナ・グローブは、子供の父親がいるというジェファソンの町に降り立つ。未婚で身籠り去った男を追って一人で故郷から遠く歩いてきた。真面目で静かで穏やかで頑固。人がするべきことは神様が正しく判断してきっと叶えると信じている。その頑固なまっすぐさに行きかう人たちはついついお節介を焼いてしまう。

    リーナがジェファソンに到着した日、黒人の血を引くと噂されるジョー・クリスマスが内縁関係にあるハイミスの女性バーデンの喉をかき切り逃亡していた。

    施設で育ち自分を否定して自分の根源を探して彷徨うジョーと、自分の足取りをしっかり刻むリーナの話が語られていくが、二人の運命が交わることはない。

    二人の間で語られるのは、リーナに一目惚れした中年男、妻の不貞によるスキャンダルの後も町に残り続ける元牧師のハイタワー、家族を人種偏見闘争で殺されたのち黒人教育の後ろ盾をしている女性バーデン、ジョーの祖父母の物語。 彼らの抱える差別と失意と放浪が濃厚に書かれている。

    人種偏見と心の拠り所を探す人たちの心身の放浪の物語は、ラストのリーナの力強い歩みで締めくくられる。
    登場人物たちの心の中を漂うような読了感を味わえる作品でした。

    さて、日本人の私には一見白人だが「祖父母が黒人の血を引いているという噂」というだけで「クロ」と差別される、というのがピンと来なかったけれど、
    「1/16でも黒人の血が入っていれば黒人扱い」という州法もあったということなので、
    「噂」だけでも十分差別対象なのですね。

    • nejidonさん
      はじめまして。
      フォローしてくださり、ありがとうございます!
      【八月の光】があまりに懐かしくてお気に入りに入れさせていただきました。
      衝撃的...
      はじめまして。
      フォローしてくださり、ありがとうございます!
      【八月の光】があまりに懐かしくてお気に入りに入れさせていただきました。
      衝撃的な内容ですが、読み応えもありました。
      私の方が絵本が多くなりますが、どうぞよろしくお願いします。 
      2013/07/19
  • びっくりするくらい中上健次。
    あるいは中上健次を読んだときに、びっくりするくらいフォークナーというべきだったか>高校生の私に。

    似ているのは第一に、血にまつわる悲劇的な男を中心に据えていること。
    第二に、誰かの噂話で断片的に中心の挿話が寄り集まっていくこと。
    だからこそ、誰が起こしたどういう事件が世間的にどう捉えられるか(ら彼は逃げなければならぬのか)が判然とする。
    神としての語り手が、地の文の依拠する視点を、噂するモブに宿したり、行動する中心人物に宿したり、と自由に設定する。
    そのせいで前後する時間間隔よりも、事件に対する見え方の重層性を重視するからこそ、多面的に事件が見えてくる。
    高校生の私には理解しきれなかった語りの重層性とは、多面的な見方だったのだ。
    ひとりの語りは2D平面。重層的な語りで「3D立体としての小説」が成立する。
    うん。そういうことだったんだよ>高校生の私。

    ところでこの小説の素敵なところは他にもあって、キャラ的な興味も尽きない。(生きた井戸のように、今後も尽きないだろう。)
    名前が似ていたということで巻き込まれるうちに狂言回しをするバイロン(まさにトホホな非リア充!)も、
    ぼんやりほんわかはんなり愛されキャラなリーナも、
    キツネ的性格のブラウンも、
    もちろん悲劇的神話(おもえば悲劇はすべて生まれの問題……それは現代的なアイデンティティの問題とまったく同じ!)の中心を成すクリスマスの過去から現在への変遷も、忘れがたいが。

    現時点で35歳を迎えんとする私にとって印象深いのは、ハイタワーだ。
    産まれた家庭の歪つさを押し隠すために牧師になったはいいが、(直接には妻のゴシップ事件で)(間接には不細工な過去を隠蔽しようと自分自身を不合理に誤魔化そうとした結果)失職し、もはや失われた自らの天職を日々想いつつも隠居を余儀なくされる、肥満した中年男。
    孤独で、わずかにバイロンとの会話を日々の愉しみにしていたかと思いきや、バイロンがとんでもないお願いを持ってきて、自分はもう世間を捨てたというのに、嗚呼。そんなことできないよ。でも。

    ところで読了した者のうちでリーナの楽天性に希望を感じない人はいまい。
    開幕からそれとなく語られ続ける「タイムリミット」。そんなんもんものともしない。
    ねちねち語られてきた呪いをブッ飛ばすほどの破天荒な暢気さ!!

    ところで。
    登場人物のほぼすべてが「よそもの」だということは、単純に作家が見知った場所によく知る挿話を押しつけているのではない、明らかな作為が込められていることの証左である。

    また今後感情移入しうる対象としては、一度は悪魔の種と孫を切り捨てたのに名残惜しさを隠せないキチガイ爺さん、その介護をする一見冷静な夫人(が狂っていて、他人の赤ん坊を自分の孫と思い込んでしまう)、
    勝手に自警団を組織し犯罪者に私刑を施す中年、
    などなどなどなど。

    つまりは今後数十年において数回ないし十数回は読み直して、別の味わい方をしたい、美味しい小説だという予感がびんびんにしている。
    現時点でこんなに美味しいのだから、間違いはないだろう。

  • 畏まったレビュー等まるで意味がないほど独創的。主要な筋①ニーナがジェファソンに来たこと、そして来た理由②ニーナとバイロンの出合い③ブラウンとクリスマスは何者か④ミス・バーデンの死の模様などが第三者の独白や意識の流れによって明らかになるが、それは最初の4章であらかた登場する。あと500頁でその主筋が変奏曲となって表れる。主題はサンクチュアリと共通する。南部で犯罪が起こると全て黒人の仕業とみなされる社会。南北戦争から60年経って人種差別は深化した。サンクチュアリから八月の光へ、ポパイからクリスマスへ。

  • 世間知らずで、人生の厳しさも知らない、頭の悪い娘だ。これが、最初の私の率直な、リーナ・グローヴについての見解だ。リーナが旅の途中でお世話になった、アームステッド夫人と同様に、私もリーナに向けて「冷たく、よそよそしい軽蔑の表情」(p.30) をしていたと思う。「彼はあたしに迎えをよこすんだわ。迎えをよこすって言ったんだもの。」(p.10-11) と、リーナは言う。自分を置き去りにしたルーカス・バーチ(ブラウン)を、何故、そんなに信じることが出来るのか。何故、自分は彼に捨てられたと気が付かないのか。
    そして、結婚してくれると信じ込み、男を追いかける長い旅に出る。そんな身重で。何かあったらどうする?彼女の純粋さ、明るさ、信念強さに心を打たれるというよりは、私は、この茶番劇に馬鹿馬鹿しさを覚えた。同じくらいの年齢の女性として、親近感を抱く、応援するというよりは、程遠く、私はリーナの若さ、無鉄砲さに反発的だった。それは、私が現実主義で、人生のはかなさ無常さに酔っている、夢の無い、冷めた学生だからか。間もなく生まれる子供を想う母親リーナの気持ちが、学生の私にはまだ理解できないからか。それとも、私たち2人の、文化の違い、宗教の違い、時代の違いのせいだろうか。また、リーナの「父親を探しに行く」という行動は、この時代の、この地域の女性にとって、不思議なことなのか、そうでないのか。そんな疑問が私の内に次々と湧き出てきた。

    これらの疑問に、本を読み終えた後、自分なりの答を見つけた。それは、ジョー・クリスマスの登場により、リーナの行動が肯定されたからだ。自分の親についての一切を知らないクリスマスは、自分が一体何者であるのか、白人なのか黒人なのか、分からないでいる。それ故、自分の運命を受け入れられない。「流浪の運命にとりつかれて」(p.295) いる。そして、クリスマスは最期、ハイタワー牧師の自宅で、自衛軍の大尉であるパーシイ・グリムにより、私刑にされ殺される。地方検事のキャヴィン・スティヴンズは、この事件について、「どこか彼(ハイタワー)には神聖な隠れ場所といったものがあり、その隠れ場所は警官や暴徒からばかりか償いえぬ過去そのものからも守ってくれる」(p.580) から、クリスマスは彼の元に逃亡したと考えている。私は、このハイタワーの神聖な隠れ場所、過去の罪から守ってくれる場所に、クリスマスは父親の影を見たのではないかと思った。何もかもからも守ってくれる、心強い存在、落ち着ける場所、父親。クリスマスが人生で追い求めていたものは、これではなかったか?だから、このクリスマスの悲劇が、親を知らない孤児の悲劇、父親不在の悲劇が、これから生まれてくる、リーナのお腹の中の子供の運命を象徴しているようで、私は苦しかった。とても心配だった。そう思うと、この本は、家族・家庭を知らないクリスマスという1人の人間の、破滅的な生涯を示すことで、リーナの取った行動、一見馬鹿馬鹿しくも思える「父親探しの旅」を肯定し、応援しているのではないか、と私は思った。

    リーナは冒頭で、「赤ん坊が生まれるときには、家族はみんな一緒にいるものだと思うの・・・神様がきっとそうさせてくださるわ」(p.30-31) と言っている。『八月の光』は、リーナ・グローヴという女性を主人公に、母親としての役割、ひいて、家族のつながりを訴えているのではないだろうか。

    意識の中を走る「思考の流れ」を表すゴシック体と、頭の中で考えた会話や独白を示す『 』の区別がなされている本と出合うのは、初めてで新鮮だった。より深層心理に近づく働きをしているのか?

    日本語訳の不自然なところ、多々あり。わざと南部風にしているのか?

    最初は、のほほんとした、おだやかな、おっとりした南部の話。もっと暗い本だと思ったけれど・・・?

    リーナ:「知らぬが仏」。うぶ。不屈の精神。頑固。(クリスマス「若いというのはつらいことだ。ひどいことだ。」(p.236) ハイタワー「若いということ。それこそかけがえないものだ。」(p.413))

    リーナ、危ないよ、強盗にあうよ、殺されるよ、レイプされるよ。しかし、知らない「よそ者」の彼女を迎え入れて、食事やお金まで恵む、南部人の心の広さよ!これが都会だったら、リーナの話は悲劇だろう。

    神様もそれが正しいと思うから、私はそうする。まわりが何と言おうと。正しいことは成就される。神の意識。神がついているから、人は強くなれる。『海と毒薬』のヒルダさんみたい。そして、正義を貫くリーナは、まるで隠れキリシタンの宣教師―『沈黙』 他の人の迷惑を考えずに、自分の道徳だけで動く。「あなたたちの理想と夢をこれ以上、押しつけないでくれ」―『留学』 私は、そういう個人主義に根付いた、欧米の考え方を受け入れることができるか?遠藤周作に傾倒している私には、そういう強い信念は持てない。集団主義の私たちは、意志が弱いのか?遠藤周作曰く、信仰で人は本当に救われるのか?

    私がリーナの立場に置かれたら、子供の父親である、ルーカス(ブラウン)は私のことを見捨てたのだと悟り、素直にあきらめる。リーナのように、彼を追いかけたりはしない。女を妊娠させておいて逃げ出すような、そんな男の妻になることを、私は拒否する。そして、子連れでも、私に好意を寄せてくれる、バイロン・バンチのような男と一緒になると思う。これが現代の私の考え方だ。しかし、フォークナーが生きた時代の、アメリカ合衆国南部、信心深い女性の考えは、リーナ的な考え方なのか。

    (p.138) クリスマスの人生「神はわれをも愛したもう」か?それは、神様も彼も知らない。白人と黒人の混血は愛されえぬ存在なのか?互いの呪い合いが共存する肉体であるから。

    (p.140, 146) クリスマスのために祈ることは、厳禁である。呪われし者に救いはいらない?祈りは彼の平和を乱すのだ。混沌とした存在でありたいのか?

    (p.150) 欲しいのは白さ。だが肉体は拒否する。黒人の血と白人の血は、相容れぬ。足元の定まらない、不安定な精神状態。「誰か、彼を救える者はいないの?」って、彼のための私の叫びは、彼自身が最も嫌悪するものだ。かといって、放っておけるか?

    (p.219) 存在と行為。存在=マッケカン夫人の祈り=自分は黒人なのだという事実から逃れられない。行為=マッケカン。罪と罰。原因と結果。行為の人、ファウスト。「汝なすべからず」(p.271)

    「クリスマス」の名前は、お祝いの日で、幸せな感じなのに。クリスマスはキリスト?サンタクロース?クリスマス+ブラウン=クリスマスツリー?だからクリスマスは、ブラウンの罪も背負って死んだのか?

    クリスマスカードを製作するハイタワー牧師。クリスマスがキリストだとすれば、ハイタワー牧師は神か?だが二人とも呪われた者なのだ。死んだ人(先祖、血)からは逃げられない運命なのだ。

    こんなに「黒人」って苛められ続けたら、誰だってぐれる。そして、クリスマスは、黒人だというfrustrationをミス・バーデンにぶつけた。弱い者いじめ?

    リーナの父親探しの旅は、赤ん坊の本当の父親ではないが、彼女を深く愛する、バイロン・バンチという男を見つけて終わる。

    クリスマスのように、自己のアイデンティティーが分からないくらい、悲しいことは無い。

    英語にmisogynist( = a man who hates woman) という単語があるように、フォークナーは女性を嫌っているのではないか。女性を罪と淫行の対象とでしか見ていないのではないか。第一に、祖父ドック・ハインズ曰く、クリスマスは女の淫乱の罪を背負っている、「女の淫らな行いにたいする告示と呪い、それがあの子(=クリスマス)」(p.166)、「女の罪と淫行が刻みこまれた告示」(p.166)、「淫乱と憎しみの種」(p.499)、「そは女の肉への神の憎しみなり」(p.482) と、枚挙に暇が無い。そのために、人種差別を受け、最期はリンチされて殺される。第二に、この本のもう一人の主人公、リーナ・グローヴ。彼女の無知さ加減。哀れだ。第三に、クリスマスが幼い頃に入れられた、孤児院の栄養士。ドック・ハインズは言う、「もし神様自身がこの部屋に入ってきたとしても、あんたのような女(=栄養士)はそれを淫行のために来たものだと思うんだろうな」(p.171)、「女の穢らわしさばかりだ、神様の御前にゃ出せんもんだ」(p.172)、と。罪と淫行がない女の子(p.493)。そして、「イゼベル」という名前が2回出てくる。ドック・ハインズ(p.172 栄養士に対して)とマッケカン(p.267 ボビーに対して)から。女性の生理を馬鹿にした表現。(p.241) マッケカン婦人。ミス・バーデン。

  • 暑いアメリカ南部が舞台。人種差別への偏見に対して、各々の覚悟が明暗を分ける人間模様を筆者の力強い筆致で描かれていた。情景や風景描写が多彩で、このタイトルには確かに作者の強い思いが込められていたのではないか。素晴らしかった!

  • 登場人物がみんな狂れた人ばかりに見えるほど、奥深いところからありありと描かれる。

    クリスマスの暴力性も、善人の多くが安心して暮らすために生まれる暴力性も、時代やアメリカの歴史を越えて、現在にも日本にも実はあると読みながらずっと考えた。

    クリスマスは円の道路を旅し続け、決してその外に出ることはできない。一方、リーナは言う。「あら、まあ。人ってほんとにあちこち行けるものなのねえ」 この違いに強い衝撃を受けた。

    バイロンが非情な大地の上に、自分であることの無意味さをみとめようとするくだりにちょっと共感する。

  • フォークナーの最高傑作のひとつと評価されている。個人的には「アブサロム、アブサロム!」よりこちらのほうが好きだ。小説の手法としては、アブサロムのほうが高度で面白いと感じたが、本作には、人間に対する「救い」のようなものが描かれているように感じられ、心に響いた。

  • 少し難しいですが、圧倒的です。
    人間と社会との関わりを、人間に根源的に根ざすものを掘り返して描く(この描き方が凄まじい)一方で、生命の本質的な強さとともにあって揺らがない女性が持つ、別の種類の真実も描いています。
    この作品は、あらかじめ少しだけアメリカの田舎のイメージを持っておくと、読むときに世界がぐっと広がるのではと思います。アメリカのロードムービーの真っ直ぐな道路や、『風と共に去りぬ』のイメージや、ビリー・ホリデイのジャズの背景など、現代日本とは大きくかけ離れた世界が織りなす空気感がけっこう重要と思います。

  • 自分の血の響きを白人にも黒人にも見出だせなかったクリスマス。彼の一生は悲劇だった。彼を囲む人々は妄執に取り憑かれ宗教の欺瞞が生んだ深い鴻溝は彼を呑み込み黒い潮を流し込んだ。人々の抱えるグロテスクな心理を白日に曝すフォークナーの筆致の鋭さ。対照的に描かれる、拘りのない穏やかな信頼を抱くリーナ。彼女の透明な眼には濁りも隠されず映し出されるが、光を内包する故に人にも共鳴する光の断片を見出だしたのだろう。リーナの旅する姿が光に霞んでいく。南部の人々と時の流れの壮大なうねりに圧倒された。

  •  本をよく読まない人にも読む人にも、その人の人生を左右するような巨大な影響を与える一冊が存在する。自分にとって、『八月の光』はまさにそのような本だ。

     本書の主題は、「ひとはアイデンティティなしで生きられるか?」を南部の因習(人種差別、閉鎖的なコミュニティ)と絡めながら描くこと。

    (1)
    ジョー・クリスマスは、自分が黒人か白人かわからない悲劇的状況にある。白人にしか見えないが、黒人の血が入っているのかもしれない…。南部において、これはアイデンティティを持たないことと同義だ。喪失には失われる前の記憶がある。しかし、彼は最初から「持たない」。そしてこの先も持つことはできない。このような人物が破滅的な最後を遂げるのは、避けられない運命である。

    (2)

     問う者は常に敗者で、勝つのは常に、疑問を持たずに受け入れる者だ。だからリーナ・グローブが自分を妊娠させた男を捜して結婚するために故郷(といえるほどのものでもない)を喪失したとき、彼女は母というアイデンティティを自然に受け入れ、その母性と素朴な愛らしさによって彼女の周りの全てを人生や環境と「和解」させる。

     ふたりは決して出会うことはない。運面は一瞬交差するのみで、二つの筋が別々に語られていく。その見事さ。

    (3)

     フォークナーは、若いころ詩人を志した。実際には一冊の詩集を出しただけで彼の詩人としてのキャリアは終わったのだが、詩的描写のすばらしさは随所に活かされている。
    「彼らはこの淀んだ僧院めいた薄暗さの中へ、いま彼らが彼にしたばかりの残酷な夏の光に似た何かを持ち込んだのであった。その光の残影は、彼らのまわりに漂っていた。それは光の持つ恥知らぬ残忍酷薄な明るさともいえた。その中にある彼らの顔はいずれも光輪から浮かび出たかのように胴体から離れて浮動しつつ輝いて…」

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著者プロフィール

一八九七年アメリカ合衆国ミシシッピー州生まれ。第一次大戦で英国空軍に参加し、除隊後ミシシッピー大学に入学するが退学。職業を転々とする。地方紙への寄稿から小説を書きはじめ、『響きと怒り』(一九二九年)以降、『サンクチュアリ』『八月の光』などの問題作を発表。米国を代表する作家の一人となる。五〇年にノーベル文学賞を受賞。一九六二年死去。

「2022年 『エミリーに薔薇を』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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