- Amazon.co.jp ・本 (297ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102102039
感想・レビュー・書評
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小川洋子さんのラジオで紹介された『エミリーに薔薇を』がミステリー的に読みたくて。南北戦争後の南部アメリカの退廃した生活や暴力や欺瞞が色々な場面を通し生々しく描かる。息苦しさを覚えるが「ヨクナパトーファ・サーガ」癖になりそう。
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私の感覚ではフォークナーは、読者を待ってくれない作家です。読者が「乗りま〜す!」と手を上げてもスピードを落としてくれないバスのよう。読者は飛び乗るしかありません(笑)。しかしこれが実に読書の愉しみを味わえるのです。
この短編集では、説明の少ないフォークナーの代わりに訳者の龍口直太朗さんが「訳注」で登場人物名が出てきたら「このような地位」などと、丁寧に教えてくれます。そのためか非常にわかりやすくなっていました。
(※私が読んだのは旧版のようですが、出てこなかったのでこちらで登録。多分内容は同じはず)
『嫉妬』
この短編最初の話は、夫が妻を激しくそしる言葉から始まる。
その様子は妻の言うように「気でも狂ったかのよう」だ。
かれらは新婚で、夫は妻を望んでいたというのに、最近は妻への疑惑と固定概念に捕らわれて、自分でも抑えられない苛立ちをぶつけている。
最近は、食堂の美男子のボーイが妻に同情を示すことも気に入らない。彼らの仲を疑っている。
夫の自分の嫉妬の行き来先を妄想する。その妄想はまさに手に届くところにあり、そして…。
『赤い葉』
チカソーインディアン首長のドゥームは黒人奴隷所有を始めた。
ドゥームの跡を継いだ二代目首長イセディベハが昨日死に、今日からはイセディベハの息子のモケタッペが三代目首長になった。そして昨日の夜にイセディベハの使用人だった黒人奴隷が逃亡した。
彼らの一族では、首長が死ぬと使用人の黒人奴隷、乗っていた馬、飼っていた犬が殉死することになっている。だから黒人奴隷は逃亡したのだった。
黒人奴隷は白人が持ち込んだ風習ですが、インディアンもそれを行い、さらには殉死という自分たちの習慣を加えています。初代首長ドゥームの時点で育ちの悪い山師で黒人奴隷を所有したと言っても開梱にも熱心ではなく奴隷売買で収入を得ていたようなもの。現首長モケタッペなどは、首長の象徴のような赤い靴をうまく履くことさえできず、逃亡した父の黒人奴隷を追うための狩りの指示も出せず、というていたらくっぷり。
「さあ、来るんだ。おまえはよく逃げた。恥じることはないよ」
この白人、インディアン、黒人の関係がなんともグロテスク。
『エミリーにバラを』
ミス・エミリー・グリアソンが74歳で亡くなった。
父は町の中心人物で、南北戦争に従軍したサートリス大佐の友人であったため、ミス・エミリーも町では特別扱いをされていた。
だが時代は経て、彼女も年を取り、頑固で孤独で時代に取り残された老女となっていった。
そしてミス・エミリーが死んだときに、町の人たちは彼女の家に入り、みんながあると知っていた閉ざされた部屋へ入る…。
舞台はフォークナーの作った架空の南部の土地、ヨクナパトーファ州のジェファソンという町。
ジェファソンを舞台にした物語には時代に取り残された人たちが出てきます。この場合はミス・エミリーの人生を「時代が変わったのに昔の権利が守られるとして今の法令を無視する」「数日間家に安置したままの父の死体」「別れた婚約者」「ネズミ殺しのための毒」などのエピソードが散りばめられています。そしてラストでは精神的にも肉体的にも閉じこもり時間に取り残されたエミリーの哀愁と矜持が感じられます。
この題名は、フォークナーがバラの花くらい送ってやらないとエミリーがあまりにも可愛そうではないか、ということ。
『あの夕陽』
こちらもジェファソンが舞台。「響きと怒り」「アブサロム、アブサロム」に出てくるコンプソン家の長男クエンティンがみたある日々。この時クエンティン9歳、妹のキャディー7歳、弟のジェイソン5歳、そして末子で精神薄弱のベンジーはまだ生まれていない。
コンプソン家もこの時には広い土地屋敷を持っているが、その後没落してもうすぐ消えてなくなる命運。(「響きと怒り」で描かれている)
話の中心は、コンプソン家の洗濯女のナンシー。奴隷開放例が制定されたといっても黒人元奴隷たちは教育もなく立場も弱い。町の白人の男たちはナンシーを性欲対象として都合よく使用し、ナンシーは夫ではない子供を妊娠している。ナンシーの夫シーズアスは白人男たちにはぶつけられない怒りをナンシーにぶつける。そしてナンシーは、シーズアスに命を狙われていると思っている。
しかしコンプソン家の父は、そんなバカなことをそれがどうした、とばかりに気にも止めない。
時代に乗れず零落するコンプソン家、開放されたと言っても権利はないままの黒人たちの姿が描かれる。
『乾燥の九月』
ジェファソンで最近囁かれる噂。40歳に近いミニー・クーパー嬢が、黒人のウィル・メイズに襲われ陵辱されたという。
ミス・クーパーはお洒落で社交的な娘だったが、同年代のさらには年下の娘たちが家庭を築いてゆく姿を見て交流の範囲を狭めるようになっていた。
暴行の噂をウィルは完全に否定するが、町の男たちはといきり立ちウィルに暴力を振るう。彼の味方をする男は「この黒人びいきが!」と相手にされない。男たちにとっては「黒人どもを勝手にほったらかしておいてほんとにそんな事件が起きるのを待っていられるか」ということだ。
…これも開放されたと言っても差別される黒人と、時代に取り残された人物の話。
黒人リンチに関しては直接は書かれていませんが、ところどころの言葉から乾いた残酷さが読み取れます。
『孫むすめ』
こちらは「アブサロム、アブサロム」の中心人物、流れ者で土地所有者となったトマス・サトペンの死の物語。「アブサロム、アブサロム」でも語られているが、これは殺人者の心情に沿った話となっている。
ワッシ・ジョーンズは白人といっても、黒人にも馬鹿にされるような“白人の屑(ホワイト・ラッシュ)”と言われる階級。
トマス・サトペンの丸太小屋に住ませてもらっている。しかしサトペンは、ワッシの孫娘のミリーに手を付けて妊娠させた。このときに町では「ついにワッシがサトペン爺さんを抱き込んだぞ」と言われ、ワッシも自分がサトペンと同等になったような気がする。しかし生まれた赤ちゃんが娘と知るとサトペンは雌馬が仔馬を産んだことよりもつまらないことだと扱う。ワッシは大鎌を手に取り…。
(サトペンは最後に息子が欲しかった、ということは「アブサロムアブサロム」にも書かれている)
時系列や心情と現実が入り交じる手法で、底辺人生を送った白人男の悲壮感が出ています。いくつかの暴力や殺人ははっきり書かないのですが、行間から読み取れる一瞬の殺意が感じ取られます。
『バーベナの匂い』
ジェファソンの名家サートリス家の当主、ジョン・サートリスが商売敵のレッドモンドに殺された。
大学で知らせを受けた息子のベイアードはジェファソンに戻る。ベイアードが望まれていることは、銃を持ってレッドモンドを殺すことだった。
ジョンの若い妻のドルーシアは、強い匂いを放つバーベナを髪に指す男勝りの女性だった。彼女も女の自分ができない復讐をベイアードが果たすことを望んでいる。
昔ながらの風習を持つジェファソンでは、血には血を、自分のやるべきことを実行し、女を愛すれば根の限りに愛し、それらのために若く死んでも後悔はしない、という生き方が男らしいとされている。
しかしジェファソンを出ていたベイアードは、血の解決よりも別の方法をとるためにレッドモンドの事務所へ向かう。それがジェファソンでは卑怯とされるやり方であっても。
『納屋は燃える』
スノープス家は一つの場所には留まらずに、トラブルを起こしては次の町に行く引っ越し生活だ。
スノープス家の父親のアブナーは、トラブルが起きた相手の納屋に火を放つならず者の性質。この物語の主人公は、次男のサーティ。父のために裁判所で偽証をしなければいけないという家族の繋がりと、放火や怠惰は悪いことだという人間としての本能で苦しんでいる。
最後の2つの話では、暴力が男らしいという風習の残る町で、そこから新たに別の解決を臨もうとする新しい世代が書かれている。 -
「黒人もインディアン(ネイティブアメリカン)も白人も貴賤はありません」「嘘をついて人をだましてはいけません」「夫は妻に暴力をふるってはいけません」「富める者は貧しい者を慈しみなさい」…
W.フォークナーは南北戦争後の1897年生まれであり、すでに制度上黒人奴隷は解放されていて、いくら南部出身とはいえ相当程度の進取の精神が吹く時代に成長し、先に書き連ねたような私たちとほぼ類似する近代的な道徳や常識のもとで育っているはず。なのになぜ、差別、暴力、殺意、憎悪etc.を、それらがまるで南部の土着のものであるかのように執着して描写しようとしたのだろうか?
いや、私は決してそれらの描写を忌避するつもりはないし、現代日本の道徳感情から非難するつもりもない。
逆にフォークナーの態度がまるで「人間の負の部分にこそ、人間の性質の根源がある」と言わんばかりだと思えて、そこに人間の真実の描写を徹底しようとする作家としての“良心”や“純粋さ”を見いだすのだ。
他人は意外に思うだろうが、私はフォークナーの一連の作品の中に、私がはまった「闇金ウシジマくん」(真鍋昌平・作)と同じ根っこのものを見い出す。
ウシジマくんに登場する反社会的、反道徳的な人物群の一挙手一投足が、表面上は正視に堪えない人間のネガティブな面の描写であっても、逆にそれが人間存在の本質だと言い切ってもいいとまで思えるのだ。
つまりフォークナーも真鍋さんもこう思ってるはず(と勝手に思っている)。
-「世間一般の安定した良識なんかじゃ、とてもじゃないが人間本質は描けない。血しぶきや罵詈雑言や裏切りなどの目や耳を覆いたくなるような人間の所作の中にこそ、人間の真実があるのだ!」と。
「ウシジマくんが好き」と他人に言うと、まずは「ええっ!?」と言われ、たいていはこちらの良識を疑うかのような表情をされる。このフォークナー短編集を好きと言ったら、おそらく同じような展開になるのではないだろうか?
それでもあえて、きれい事だけの世の中に疑問を持ち、自分が汚れてでも人間存在の本質に迫りたいという知的好奇心を持つ人ならば、(第一印象は悪いとは思うが(笑))この短編集を読むことを薦めたい。 -
『嫉妬』…行き過ぎた独占欲って、死にしか至る所がないのかな。ボーイを殺したところで、誰かに妻を奪われるかもというアントーニオの不安は払拭されないだろうから、彼の苦しみは獄中で続くのだろう。
『赤い葉』…白人の文化と接触したネイティブ・アメリカンの生活の様子がうかがえる。人間ってお互いに見下し合いながら生きているんだな…。白人だろうが黒人だろうがネイティブ・アメリカンだろうが、自分たちの文化が世界の中心であると考えていることに変わりはない気がする。
『エミリーに薔薇を』…フォークナーの作品に出てくる女の人らしい、何を考えているのかわからないタイプ。『アブサロム・アブサロム!』のローザといい、フォークナーはオールド・ミスへの得体の知れない恐れや偏見でも抱いていたのだろうか。エミリーに「薔薇」をと「ローザ」の薔薇とオールドミスという共通点は何か意味があるのだろうか。
『あの夕陽』…ナンシーのその後が気になる。『響きと怒り』にディルシーはいるのに、ナンシーはいないということは…?この頃のコンプソン家はまだ平和な雰囲気だ。無邪気な子供たちの未来を知ると切ないものがある。
『乾燥の九月』…やっぱり老嬢に対して何かあるね。エミリー同様、ミニーも何を考えているかわからないが故に不気味さが増す。真実はわからないけど、そのわからない真実を決めつけてかかる態度の怖さを克明に描き出している。
『孫むすめ』…これはアブサロムの中でも印象の強いエピソードだったのでよく覚えている。この短編はワッシの心情がより伝わってきて悲しかった。無神経の代名詞のような男サトペン。こいつに女心を理解させるのは死んでも不可能だろう。
『バーベナの匂い』…ドルーシラとベイアード、それぞれ違った強さを持っている。私はベイアードの強さを讃えたい。憎しみの連鎖を断ち、かつ臆病者呼ばわりされることに耐える強さを。
『納屋は燃える』…少年の目を通じて描き出される父親の行い。子供なりの正義の狭間で揺れる姿が痛ましい。 -
フォークナーの長編はどれも実験的な技法や重圧なテーマを用いた濃厚なものばかりだが、暴力的な鮮やかさと血/地の味が全面に浸み渡る短編たちもまた素晴らしい。ヨクナパトーファ・サーガの一部として長編にも出てくる人物のサイドエピソード的なものも多く、少ない頁数ながら人物像に深みをもたらしている。描かれる内容は白人と黒人の関係性の問題を中心とした二項対立的なものが大半であり、それらが対比的な風景描写と重なることでより印象的なものとなっている。痛めつけられた敗者の怨嗟、それこそがフォークナーの世界の根幹を成すものか。
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フォークナー、昔『熊』を読んで、無理矢理読み切ったけど、よく分からず、私には無理かと思っていたのだが、これは素晴らしかった。
(『熊』も今読んだらわかるかも。あのときは若すぎたのかも。)
時系列でなく、何の前触れもなしに複数の過去と現在が行ったり来たりするので読みやすいとは言えないが、ちゃんと読めば全体の流れもわかるし、この書き方の妙にも気づかされる。
特に良かったのが「エミリーにバラを」「孫むすめ(ワッシ)」「バーベナの匂い」。特に「孫むすめ」のホワイトトラッシュ、ワッシ・ジョーンズのサトペン大佐への敬愛、そしてそれが裏切られたときのやり場のない悲しみと怒りは胸に迫る。孫娘ミリーにかけた最後の言葉も。
「バーベナの匂い」はフォークナー自身がこういう青年だったのではないかと思わせる。
父を殺した人物の仇をうつことを周囲が期待する中、
「すくなくともこれは、おれ自身がはたして自分で考えているとおりの人間であるかどうか、あるいは、ただそうありたいと望んでいるだけなのかどうか、日ごろおれが正しいと自分にいいきかせていることをはたしておれがするかどうか、あるいは、ただそうすればいいがと願っているだけのことなのかどうか、それを見だすチャンスになるだろう。」(p225)と考える。
「自分がしようと思うことができる人は、どんどん自分の思いどおりにやっていくし、それができない人は、できないがためにひどい苦悩をなめ、それをただ書き表すよりほかないのだ。」(p245)という部分もフォークナーの内心を思わせる。
昭和45年に改版された旧版を見ると、「バーベナ」は「クマツヅラ」、「ポプコーン」は「はぜトウモロコシ」となっており、このあたりの変更は妥当と思う。
しかし旧版では、ニグロが「黒人」、ニガーが「黒ん坊」となっており訳し分けられているが、平成25年改版からはすべて黒人で統一されている。
今やニガーもニグロも言ってはいけない言葉だと思うが、書かれた時代を考えるとこれは妥当なのだろうか。
「赤い葉」なんか、ネイティブアメリカン(これは「インディアン」のまま)が黒人を食ったとか、靴を非常にありがたがったとか、黒人奴隷がネズミやヘビを生のまま食ったとか「黒檀の玩具みたいな黒人の子供」とか、今では完全アウトな話なんだから、言葉だけ変えても意味ない気がするのだが。
今だったら「赤い葉」は短編集から外されるのではないかと思う。しかし、これは、ちょっと『ブッデンブローク家の人々』みたいな話でもある。インディアンの首長三代の物語に死を迫られた黒人奴隷がからみ、味わいは捨てがたい。
共通する登場人物がたびたび出てくるあたりは、フォークナーに執筆をすすめたというアンダスンの『ワインズバーグ、オハイオ』にも似ている。フォークナーの作品を全部読んで、これらの人物たちの姿を自分の中でつなぎ合わせてみたいという気持ちになった。
読みながらつくづく思ったのはフォークナーはすごいということ。本当に素晴らしい。
そして、そろそろ新訳が出てもいい頃だということ。この新潮文庫は昭和30年(1955)の訳。古すぎる。
New Orleansがニュー・オーリアンズ、Jesusuがジーズアスとなっていて、発音としては英語に近いとしても、今はニュー・オーリンズ、ジーザスが日本語の表記としては一般的だと思う。ワッシやサーティやドルーシラのセリフなんかも、今の訳者なら違う訳し方すると思う。
若い人にも読めて、フォークナーの魅力がわかってもらえると思う。惜しい。
『八月の光』は新訳が出たんだから、短編集も新訳で出してほしい。新潮社でなくてもいいから。 -
『嫉妬』
夫のことを「年上の男」と訳しているところが読みづらい。
嫉妬で狂ってしまう気持ちは共感できる。
『赤い葉』
首長が死んだ時に、一緒に遣えた者も死なないといけない理不尽さをそのまま描くことで強烈な皮肉になっていた。
黒人を奴隷として扱っていた悲しい歴史を初めて自分の中でリアリティーを持ってイメージできた。
『エミリーにバラを』
エミリーのホーマー・バロンに対する愛が最後の一行で分かり、生々しく美しい話だと感じた。また、彼女の父親の死体も同じように扱っていたこともそこで分かり、切なかった。
大切な人の死を受け入れることは耐え難く苦しいが、死体と過ごすことで彼女はゆっくりと死を乗り越えたのだろうなと思う。
『あの夕陽』
ナンシーが執拗にジーズアスを怖がり続けているのが終始不気味だった。この短編でも黒人が蔑視されている表現が各所に見られ、それが当たり前かのように描かれていた。
『乾燥の九月』
黒人だから悪いことをしたのだろうという差別的な論理が当時働いていたことがよく分かる短編。そのなかでも理容師は黒人の味方をしている。しかし、周りの白人からは白い目で見られてしまう。集団バイアスの怖さを思い知った。
『孫むすめ』
とにかく難読だった。方言が短編全体の不気味さを後押ししていた。戦争に行った者、行かなかった者の溝はどこの国にもあることを知った。
『バーベナの香り』
殺しの連鎖を止めた子供の話。殺しを止めたことで周りから非難の目で見られ、女性からも見放される。それでもその非難に打ち克ち自分の意志を貫いたベイアードはヒーローだと思った。このフォークナーの短編で度々描かれる黒人差別などの負の思想の連鎖を止めるにはベイアードのような勇気が必要になることをこの物語で知った。
『納屋は燃える』
家庭内暴力の残忍さは場所、時代を問わず恐ろしいものだと思った。真実と自分の身の安全とで揺れる子供が可哀想に思えた。