野生の棕櫚 (新潮文庫 B 5-11)

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  • / ISBN・EAN: 9784102102046

感想・レビュー・書評

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  • (私が読んだのは違う版ですが出てこないためこちらで登録します)
    知人が「今読みたいのは『野生の棕櫚』」と言っていたので探してみた。絶版だー(+_+)。なんとか古本屋で見つけて読み始めたら…発行が昭和29年!「醫師(医師)」、「のつぽ(のっぽ)」など旧仮名遣いに旧漢字だ!Σ(゚Д゚) まあ案外読めるもんですね。(「實矧接の戸袋(さねばきつぎ)の戸袋」など全く分からん単語もあったが…)
    しかし残念ながら物語よりも、私が「旧仮名遣いだ!旧漢字だ!」ということに意識が向いてしまった(^_^;)ので星4つ。

    フォークナーは始まり方が唐突で好きです。
    冒頭が『ふたたび扉を叩く音がした』で、ぐわっと心を掴まれました。
    フォークナーは全速力のバスに読者が飛び乗る印象。バス停で留まってくれないバスだけど、読者が飛び乗るからいいんです、って思ってますw

    ===
    2組の男女を中心とした、2つの話が章ごとに交互に語られてゆく。
    27歳の元インターンのハリーと、25歳で夫と二人の娘がいる芸術家のシャーロットが、自分のそれまでを捨てて二人で移動しながら暮す『野生の棕櫚』。
    ミシシッピ川洪水の後始末と人命救助に向かわされたのっぽの囚人が、洪水に流されて結果的に脱獄となりながらも、妊婦を助けて安全な場所に送り届けようとする『じいさん』。


    ※※※以下ネタバレしています※※※


    まずは『野生の棕櫚』。
    ハリーとシャーロットの生活は、今ある僅かなお金が後何日持つのかを計算しながらその日その日を楽しく暮らそうというもの。ほとんど破滅するために旅を続けているようなものだ。
    しかもシャーロットの夫であるリトンメイヤーから「自分はカトリックだから離婚はしないが、二人が一緒に暮らしたいということはわかった。力になれることはやるし、シャーロットはまた戻ってきてくれて良い」という承認の元なので、駆け落ちといっていいのかどうか。
    ハリーとシャーロットは、最初は都会のシカゴで仕事を見つけていたのだが「二人で一緒にいるためにい家を出たのに、仕事ばかりでは意味がない」と、生活を投げ捨てる。
    次にハリーは、ユタ州の鉱山で医師の仕事に就く。しかしこの鉱山には主任のバックナーと妻のビリイ、そして外国人労働者たちがいる。しかし経営者たちは給料を支払わず、逃げ出す労働者たちもいるし、まあ衣食住あるからしばらくここにいるか…という者もいる。そんなところに経営者から使わされたハリーが来たのだから穏やかではない。
    鉱山主任バックナーはハリーに「そろそろ自分たちも鉱山から出て行くので妻のビリイの堕胎手術を行ってほしい」と求める。最初はハリーは拒否するが、結局は手を貸さざるを得なかった。
    ハリーとシャーロットも鉱山を立ち去ることにして、残っていた労働者に配給物資を分配する。そんな時にシャーロットが妊娠を打ち明け、ビリイにしたような堕胎をハリーの手でしてほしいという。ハリーはこれだけは決してできないと拒否し、別の手段を探し続けるが日にちが迫り、自らの手を使わざるを得ない。
    ハリーの施した堕胎手術は失敗する。瀕死のシャーロットはハリーに逃亡を勧めながら命を落とす。
    堕胎とシャーロットへの殺人罪で逮捕されたハリーをシャーロットの夫リトンメイヤーが面会に来て、保釈を申し出たり金を出すから逃げなよと仄めかすが、ハリーはそのまま裁判に掛けられることを望む。
    ハリーには重労働の実刑が下り、面会に来たリトンメイヤーからの自殺の勧めも「悔恨と無のあいだにあって、おれは悔恨のほうを選ぼう」と断り、刑に赴かんとする。


    この話と交互に語られるのが『じいさん』。
    こちらの題を聞いて「おじいさん出てこないけど誰のこと?」と思ってしまったんだけど、アメリカで「Old Man River」といえばミシシッピ川でしたね…(^_^;
    時代背景は、アメリカ史上最大のミシシッピ川洪水が起きた1927年5月のこと。
    付近の刑務所には、列車強盗未遂で服役中ののっぽの囚人と、車両強盗殺人(共犯者の分も被せられたっぽい)デブの主人が居た。
    ミシシッピ川反乱の人命救助に任じられた二人だが、のっぽが川に流されてしまう。刑務所では「死体はないけど人命救助中に死んだってことにしとこう」とされたが、実は生きていた。
    のっぽは、たまたま妊婦に出会ってボートに拾い上げる。のっぽとしては、もう15年も服役している刑務所とそこでの農作業が自分の日常となっているので、さっさと妊婦を安全なところに届けて自分は自首したいと考えるのだがなかなかうまく行かない。
    あまりの洪水で知らぬうちに都会を離れてしまったり、船に救助を求めたら囚人服を見て拒絶されたり、上陸しようとしたら警官隊に銃撃されたり。
    なんとか土手にボートを付けて、女はそこで出産する。
    のっぽと女と赤ん坊は、先住民族らしき人々を乗せた汽船に助けられる。のっぽはさっさと刑務所に戻りたいので町に連れてってくれよといういんだが、なぜか医師に気に入られたのか同情されたのか、女と赤ん坊とともに見逃されてしまう。
    のっぽたちは川辺の先住民民族がワニ革鞣しをしている小屋に住み着くのだが、持ち主?らしき人たちに追い出される。
    その後やっと保安官のところまでたどり着き、女と赤ん坊を引き渡し、刑務所に戻る。刑務所では「死んだと思って恩赦手続きしちゃったよ!戻ってくるならもっと早く戻ってこいよ。え?『避難している女と男を助けろ』と言われてたし、支給されたボートも一緒に戻すために川路を使ったからこんなに時間がかかったって?いっそのこと逃げろよ〜!」…しょうがないので逃亡罪ってことで10年の刑を追加することにしましたとさ。のっぽだって刑務所のほうが馴染んでるし、刑務所での仕事も今までより上の役にしてあげるからいいよね。
    のっぽに助けられた女は、最初の頃は面会に来たり手紙をくれたりしたけれど、なんか最近結婚してうまくやってるらしい、のっぽは捨てられちゃったね、ちゃんちゃん。

    私は『じいさん』の話を読みながら、きっと『野生の棕櫚』のハリーが何かをしでかして囚人になったのか?と考えていたのだが、結局の所『野生の棕櫚』と『じいさん』は全くつながることなく終わってしまったーーΣ(゚Д゚) いくつかの話が同時に語られる形式の小説は色々読んできたけれど、その話が全く繋がらないって珍しいのでは?
    なお、なぜこの2つの話が同時進行になったかは、解説によると「恋のためにすべてを振り捨て失うシャーロットとウィルボーンの物語を書いていたのだが、足りない部分があったので『愛を手に入れたのにそれから逃げ出そうとする囚人の話』を書いたら、結局並ぶ形になった。」「ハリーとシャーロットは恋愛を達成するために2人だけの世界をつくろうと努力し、危険を冒し、すべてを犠牲にするが、この囚人のほうはそういう愛の世界へ、自分で求めもせぬのに、押しやられる。彼が自分の救った女とともにいるボートの生活は、ハリーとシャーロットが何物にもかえても欲しいと願った境地なのです。彼らの物語に欠けているものを埋め合わせるものとは、そういう意味だったのです」ということらしいです。ふーーん。

    『野生の棕櫚』も『じいさん』も、移動を続ける男女の話であり、女の妊娠があり、男は最後には収監される。しかし始終破滅の予感がする『野生の棕櫚』に対して、別れはわかっているんだが妙にすっとぼけたような明るさのある『じいさん』という感覚の違いがある。
    フォークナーのいう「のっぽと女の生活は、ハリーとシャーロットが望んだもの」というのも、言われてみれば分かるような感じもする。

  • 「悲しみか無かなら、悲しみを選ぶ」―――ゴダールの『勝手にしやがれ』を見るたびに、引用されているフォークナーの『野生の棕櫚』を読みたいなあ、と思いつつ早うん十年、ようやく読むことができました。

    変わった構成の1冊で、「野生の棕櫚」と「じいさん」という二つの別々の物語が各5章づつ交互になっている。「野生の棕櫚」のほうは、ある医者夫婦が家主をしている借家で暮らしているどうもワケアリっぽいカップルの男のほうが、ある晩医者を呼びに来る。どうやら女性のほうが出血しているらしい。そこからこのワケアリカップルの、そこにいたるまでの物語が回想される。

    男=生真面目に勉強を続けてきた貧しい医学生→インターンのハリー(27歳童貞)は、あるパーティで女=二人の子持ちの人妻シャーロットと不倫の恋に落ちる。なぜかシャーロットの旦那リトンメイヤーは、シャーロットを深く愛するあまりに彼女の奔放さを許し、なんというか、旦那の積極的な援助つきで、ハリーとシャーロットは駆け落ち。二人は仕事を求めて各地を転々としていく。

    一方「じいさん」のほうですが、この「じいさん」とは原語は「オールド・マン」でミシシッピ川の俗称。こちらの主人公は、列車強盗で逮捕されたのっぽの囚人。ミシシッピ川は洪水で氾濫し、救助活動のため囚人たちが駆り出されるが、のっぽの囚人は激流にのまれて意図せず脱走することになってしまう。方角もわからないままボートで流されていくと、救助を待つ妊婦を発見、なりゆきで彼はこの妊婦をボートに乗せる。ここから囚人と妊婦の珍道中が始まる。

    二つの物語はどこかで繋がるのだろうかといろいろ想像しつつ読み進め、終盤で、もしやこの名前のない囚人は、ハリーの成れの果てでは?とか無駄に深読みしちゃったけど、結論からいくと、二つの物語は最後まで交わらない。ただ、二つの物語、二組のカップルは、それぞれ対照的な相似形を描いている。どちらもどんどん移動しながら関係性が変化していくところは同じ。

    以下ちょっとネタバレ含みますが・・・




    ハリーとシャーロットは愛し合っているけれど、妊娠したとき我が子を堕胎しようとする。一方で囚人のほうは、アカの他人の妊婦を助け、彼女は無事出産する。なんだか一種のパラレルワールドのような(囚人とハリーは理屈っぽく変なとこで真面目なのがとても似ている)こうあったかもしれない世界、みたいな不思議な感覚に陥った。

    くだんの台詞を言うのはハリー。シャーロットは堕胎に失敗して死亡。ハリーは逮捕(不倫もだけど堕胎手術も犯罪、そしてシャーロットの過失致死)され、留置所にやってきたシャーロットの夫はハリーに服毒死をすすめ毒を渡すが、ハリーはそれを飲まずに捨てる。「悔恨と無の間にあって、おれは悔恨のほうを選ぼう」とハリーは言う。

    悲しみではなく悔恨になっているので少しニュアンスが違うけれど、ハリーの深い虚無感が凝縮された台詞だった。それにしても翻訳が古くて旧漢字まじりなのが少々読みづらく、やっぱり岩波文庫か光文社古典新訳文庫あたりで新しく出してくれないかなあとちょっと思いました。内容自体もやや難解なので、新訳出たらちゃんと読み直したい。

    • 淳水堂さん
      yamaitsuさんこんにちは。

      私は新潮文庫の昭和29年発行版を読みました。
      ちいさい「っ・ゃ・ゅ・ょ」が全部大きい字だったり(思...
      yamaitsuさんこんにちは。

      私は新潮文庫の昭和29年発行版を読みました。
      ちいさい「っ・ゃ・ゅ・ょ」が全部大きい字だったり(思つた、そうじやない)、繪家(画家)などの旧仮名遣いの旧漢字!まあ案外読めましたw
      しかし「實矧接の戸袋」って流石に分からん(^o^;)

      yamaitsuさんも書かれている通り、ハリーが何かしでかして囚人になるのかと思ったら、まったく別の話でしたね。
      読んでいるときはそんなに感じませんでしたが、解説などを読めばまあ根本は似ている二組の男女が、全く違う心持ちで旅をしてそれぞれの結末にたどり着いた、ということでは同根のお話なのか。
      『野生の棕櫚』の二人はここに行き着くしか無かったような気もします。ハリーの言う「悔恨か無」ですが、悔恨は堕胎失敗だけではないでしょう。

      フォークナーは始まり方が唐突で好きです。
      冒頭が『ふたたび扉を叩く音がした』で、ぐわっと心を掴まれました。
      フォークナーは全速力のバスに読者が飛び乗る感じです。
      2022/10/14
    • yamaitsuさん
      淳水堂さん、こんにちは!

      私が読んだのもたぶん版は違うけど同じ内容の旧仮名のやつでした(^_^;) 新訳で読んでみたいですよね。

      ...
      淳水堂さん、こんにちは!

      私が読んだのもたぶん版は違うけど同じ内容の旧仮名のやつでした(^_^;) 新訳で読んでみたいですよね。

      現代の作家なら、囚人はハリーの未来の姿(実際逮捕されましたし)で、妊婦を助けることによって過去の罪から救済される…的な構成にしちゃいそうだなと思いました。二つの話がまったく繋がらないの、逆に新しかったですけど(笑)

      ちょうどこれを読んでいる前後に、ゴダールを見ていたので、世界観がとても重なりました。本書から引用されている『勝手にしやがれ』よりも、『気狂いピエロ』のほうが本書と重なります。駆け落ちした男女がどんどん逃げていきながら、男のほうはその生活にそこそこ満足するけれど、女は安定を嫌がり結果どんどん破滅に突っ込んでいくという…。

      でもゴダールの主人公は「悲しみ(悔恨)より無(死)を選ぶ」タイプなので、いつも最後は死んじゃうのですが。

      結局、愛する女に裏切られ(死なれ)たとき、男はどうするか。ハリーは永遠に彼女を想いながら生きていくことを選び、ジャンポールベルモンドは失うくらいなら自分も死んじゃうことを選ぶ。面白い対比だなと思います。
      2022/10/16
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著者プロフィール

1897年アメリカ生まれ。南部の架空の町を舞台にした作品を多く生み出す。著書に『八月の光』『響きと怒り』『アブサロム、アブサロム!』など多数。1950年ノーベル文学賞受賞。1962年没。

「2022年 『ポータブル・フォークナー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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