ガラスの動物園 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (191ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102109076

感想・レビュー・書評

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  • ほぼ家の中のワンシーンだけで完結する内容なのに、グサッと胸に突き刺さるものがあります。戯曲の形式であるから、室内劇でも感情の動きだけでここまで魂を揺さぶられるんだろうなと見直しました。
    過去の栄光にすがりつく母と、社会に適合できない娘、そして二人を支えるために自分の夢を犠牲にする息子。今にもバラバラに砕け散ってしまいそうな家族の脆さに、悲劇的な美しさを感じてしまいます。
    それでも後味が悪くなくて、ささやかな希望も感じられるところが良いですね。陽の光が当たる道を生きれない人間の苦しみを描いた普遍的な名作だと思います。

  • 読みながらずっと、舞台に立つ役者に落ちる光とチンダル現象のあの光の道筋を、自分一人しかいない劇場で眺めるような孤独を感じていた。ノスタルジーというよりも、在りし日を振り返った時に得る現在の自分との比較の上での孤独感のようなものがあり、それはこの本が作者の自伝的作品であるという部分によるものだと解説までを読むと納得する。

    はじめにトムはジムという青年紳士はこの劇の中で最もリアリスティックと言うが、その言葉が姉ローラとジムが過ごしたロマンチックな時間の後のシーンに繋がる。
    ジムはローラに対して「インフェリオリティ・コンプレックスだ」と評し、まったく悪気なく残酷にその考えを変えるべきだと言う。ジムは自身も以前はそうだったとも言うが、ジムの中には自身の容姿に対する確固たる自信がある。ジムはローラと踊りキスをするが、そんなジムには婚約者がいる。

    ジムとのやり取りは確かにローラの心を溶かしたし、それはジムの心からの優しさ故なのだけれど、それにしたってジムという人物がもたらしたこの家族への変化というのは残酷なんだよなあ。

    ジムという青年紳士はこの家族(とりわけアマンダとローラ)にとっての夢であり、この閉塞感を覆す待ち望んだ存在であったように思う。それは作者の半生で起こった、姉ローラを取り巻く様々の縮図とも……希望を抱き、散り、トム(作者)は家を捨てるが、姉への感情を捨てきれないでいる。

    作者の姉が現実にロボトミー手術を受けたように、ジムの言葉の数々はロボトミー手術の提案で、ローラが大切にしていたガラス細工のユニコーンの角が折れてしまったのはロボトミー手術そのものを表現しているのだろうか? 分からないや…

    ジムは現実幻想問わず"夢"という存在そのもので、誰よりもずっと輝かしく描かれる。対してこの家族が辿った道というものは、結局のところジムという夢とは触れられそうな距離まで近づきこそすれ、交わることができないままだった。

  • 「角の折れたユニコーン」というメタファーが強烈に印象的でした。
    ユニコーンとは、ローラのことのように思われます。障害ととらえられる特別なものを持っていたローラ。そこにはジムの言う劣等感も含まれるのでしょう。束の間のジムとの交流で普通の姿になり得た。あるいは、作者の実際の姉ローズが手術によって前頭葉を失ったことにも重なります。
    しかし、他の三人も「かつては守られていた大切で特別な何かを失った」という点で、このモチーフに重なります。娘の将来と息子の存在を失ったアマンダ。ローラへの不貞行為により6年前の栄光を完全に失ったジム。自ら立ち去ることで家族を失ったトム。
    ユニコーンの示唆する正解は定かではありません。しかし、角を失ったユニコーンというモチーフは私たちを幻想の世界へといっそう引き込み、本戯曲の要となっています。

  • もし、自分の足が立たなくなって、どこにも行けなくなったとしたら――もし、自分の体重さえ支えることができず、また誰も手を貸してくれないとしたら――自分はこれから一生、誰かとダンスをすることができないのだとしたら、救いになるのは一体なんだろう? 自分には決してそれが手に入らないなら、一体何が許されるだろう?
    それは、かつての幸福な記憶を思い出すことなのではないか。ただそれだけが現実を忘れさせてくれる、自分のみじめさを忘れさせてくれるなら。しかし、そんな記憶さえもない人間は、では一体どうしたら? いったい何が人生の慰めとなるのか? 自分は何もできないし、これからも何もないと思っている人間は、何をよすがとすればいいのか?
    それは夢を見ることだ。夢を見ることは、誰にも奪えない。そこでは私は今の私ではなく、体は羽のように軽く、そして私は微笑んでいるのだ。自分の幸福を、神様に感謝して――。

    この戯曲に登場する母と娘、そして息子はみんな夢見がちで現実を見ていない。そこでリアルなのは苦しみだけ、明日の生活さえも危うい自分たちの未来だけなのだ。
    アマンダ(母親)の造形も、トム(息子)の造形も素晴らしい。彼らはお互いを思いやりながらも、現実の力の前では無力で、いらいらしたり自暴自棄になったりしている。
    しかし、彼らは決して優しさを忘れているわけではないのだ。ただ、ある種の過剰さが邪魔をして、逆に彼らをがんじがらめにしているのだろう。それは時と場所さえきちんとととのえば、人よりも素晴らしい力だと思うのだけど……。

    しかし、娘のローラはそんな母息子ともまた違う。彼女は現実にすっかり萎縮しきっていて、自分の存在自体に疑問を持っているようにさえ見える。母親と弟の愛情も、彼女の大きすぎる疑問を和らげてはくれない。
    じっさい、彼女が生きていくのはとても苦しみばかりが多そうだ。ガラスの動物に語り掛け、きれいにしてあげることが、彼女が素直になれる唯一の方法である。

    そんな彼女に突然訪れる、かつての思い人は、果たして夢なのだろうか? ジムがローラを素敵だと言い、綺麗だと言い、そしてキスしてくれるのは、現実のこと? それとも、夢?
    ……。
    それは幸福な記憶……ローラにとっては、それは夢でも現実でも変わりないのではないかと、私は思う。彼女はこの出来事を、神様に感謝するだろうか? たとえ一度でもこのような記憶を持てたことを。何度も何度でも思い出せる夢を持てたことを。

  • またまた『百年の誤読』から。それにしても戯曲って、しっかり読んだのめちゃくちゃ久しぶりかも。ひょっとしたら入試問題以来かもしらん。というか、プライベートでは読んだ記憶がない… それはさておき、本作は非常に楽しめました。登場人物が4人しかいないし、尺もさほど長くないから、そもそも物語り展開はそれほど複雑怪奇ではない。かといって、何の中身もないかといえば、人物造形の妙あり、淡い恋心と裏切りありと、波乱万丈の展開。自宅だけで繰り広げられるから、実際に演じられる情景も思い描きやすい。うん、素晴らしいですね。作者の他作品にも触れてみたいし、実際に演じられているのも観てみたい。そんな作品でした。

  • 読み手の年齢、性別が異なっても、多くの人が登場人物の誰かに
    感情移入できる作品だと思いました。
    作者の人生を知ってから振り返ると、切なさ倍増のお話でした。

  • 「そのろうそくを吹き消してくれ、ローラ――」

    「ガラスの動物園」というタイトルからして秀逸だと思う。
    このタイトルからして、どこか退廃的で儚げで、
    そして美しい狂気を感じる。

    つのがとれてしまったユニコーンは、
    みんなと違う存在から普通の馬に戻れた、
    というポジティブな暗示なのだろうと一瞬思うのだけど、
    最後まで読んでみると、また違った暗示を思い起こさせる。
    非常にネガティブな、破滅的な暗示を。

    さすが、作者の自伝とも言うべき演劇であるだけあって、
    母親のヒステリックとも言うべき性格、ローラの儚さ、
    そして彼女らとトムと三人の織り成す家族関係の危うさが
    非常にリアルに描かれていた。

  • ただただ人間の悲しさを突きつけられる…。

  • ユペール主演舞台を見る前の予習として再読。アマンダは、本を読んだ印象では強烈な毒親。舞台によっては、古臭く派手なドレスで若作りしジムを出迎える居心地の悪いシーンを見せるだろう。しかしユペールは魅力的だった。その饒舌さも軽やかで、女が生きていくため、娘を惨めな境遇に陥らせないため、不屈の精神を持つ女性に見えた。



  • モーツァルトなどの古典オペラを学ぶ時は、原作の戯曲を読み込むことも研究の一つとして取り組むのですが、現代の戯曲のガラスの動物園とは全く書かれ方が違くて驚きました。
    例えばボーマルシェなどは、画像の通り、どの国のいつ頃のお話で、部屋には何があるか程度しか指定しません。
    なので、教授に50回以上読んでこい!と宿題を出されて、泣く泣く一生懸命読み込むうちにお屋敷の部屋割りや規模感などが自ずと判明してくるというのが台本研究の醍醐味のになっています。
    しかし、ガラスの動物園は、幕が上がった時に観客に最初に見える光景も、どんな種類の幕を使うのかも、演者がどこから出入りするのかも、舞台装置に込められた詩的な意味や、著者の信念なども、全て事細かに指定されていて、冒頭に”自由にやってくれ”という断りがあるけれども、自明の演出ばかりだなぁという印象を受けました。
    (それが悪いということではない。)
    演じる側としては、戯曲を読むだけではっきりと情景が浮かぶので有り難い事だと思います。



    数ページに渡る丁寧なト書きも、
    ”(...)そこで立ち止まり、タバコに火をつける。彼は観客に語りかける。”
    と締めくくり、次のページをめくると、トムの台詞が地続きのように始まる小説上の演出が良かった。いつのまにかグイッと世界に舞台の吸い込まれる感覚。

    トム”そう、ぼくは種子も仕掛けもちゃんと用意してあります。”



    切ない物語ですね。
    でも、トムは、ある一種の幸せな生き方を選択したなぁと思います。
    家族に障害を持った姉妹がいる、その子はとても良い子で大変な内気。一方母親はあのような性格。
    親子がのたれ死んでしまうかれないと良心を痛めながらも、保身の為に去っていく開放感に、自らの境遇を重ねて共感しました。
    勿論単純なハッピーエンドではないけれど、ある意味幸せな人生だと感じました。

著者プロフィール

1911-1983。アメリカ合衆国ミシシッピ州生まれの劇作家。約60の戯曲と2冊の詩集を出版している。1944年に『ガラスの動物園』がブロードウェイで大成功を収め、1948年には『欲望という名の電車』で、1955年には『熱いトタン屋根の猫』でピューリツァー賞を受賞している。

「2019年 『西洋能 男が死ぬ日 他2篇』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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