異邦人 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (143ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114018

作品紹介・あらすじ

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 超かっけえ!
    イギリスのキュアーというバンドがこれに影響を受けて「アラブ人殺し」という曲を出しました。

  • 短い。3時間かからず読んでしまった。1部2部に分かれてるがその構成力がすごい。前半自由に生きてた主人公が内省的になったりの変化もあり、対比的で面白いし、1部のすべてが2部の伏線となっている。1部も映画みたいで良かった。主人公像をどう解釈するか、太陽を何の象徴と捉えるかで味わいが変わる。自分は主人公はただ愚直な人間であると解釈した。世界の、自然のありのままの姿を享受し、流れに身を任せて生きる。直感的な最善を行動に移し、愚直なまでに素直に生きる。そして太陽。言わずもがな太陽は不条理の象徴であるが、古来からそうみなされてきたように、やはり「生」の象徴でもある。主人公に生の喜びを与え、主人公を突き動かすもの。「そのままに生きる」ことを可能とする原動力。あと最後の文が好きだった。異邦人とされる「私」という存在を認めるのは、やさしい無関心などではなくて「普通の人」の憎悪の声だけなのかもしれない。シニカルだね

  • フランス映画を1本見終わったような読後感。
    ムルソーは置かれている状況に対して素直に反応する。そして世間の常識ではなくて自分の論理で判断する。だから、決して悪い人でも冷たい人でもないのに、その行動は常識に照らすととんでもないものとなるのだ。嘘がなく純粋なのはムルソーの方ではないのか。

  • どこまでも孤独であり続けるムルソーと、愛と慈悲の気持ちで満ちた周囲との温度差が印象的だった。
    彼の求める自由は彼の生きる機械的な世の中では通用しない。社会的な孤独を味わう彼が望む、処刑時の人々の憎悪とは、彼の存在や過ちに対する憎悪なのか、それとも自由を求める人々の仲間を潰す社会への憎悪なのか、非常に興味深かった。

  • 有名だけど題名以外なにも知らない本を読んでみたくて読んだ。(ときめきトゥナイトのヒロイン江藤蘭世の語源がフランス語の異邦人[Etranger]であることは知っていた。)

    主人公ムルソー君の人格は、21世紀人をみているようだった。死刑を宣告されなければいけないような人格破綻者の要素は希薄で、「私」の視点で語られる「事実」と裁判で語られる筋書きとでは、天と地の差があった。

    これで死刑判決を貰ってしまうのは、検察の弁論のうまさと弁護側の弁論の下手さが理由の大半ではないか、と感じた。そういう意味では法廷ドラマの印象が強い。

    引き金を引いたのが一発目だけであれば、高い確率で過剰防衛で済んだのではないかと思う。後の四発も「気が動転していたので。。」で済みそうな気が。。何といっても相手が先にナイフを抜いたわけだし。

    裁判で「太陽のせいだ」と殺人の理由を述べる場面は名場面だ。自分も、明確な理由もなく何かをやらかしてしまった場合に使ってみたいものだ。ムルソーと同じようにイカれた奴と思われるだろうか。





  • ここ数年で読んだ海外古典の中で一番感銘を受けた。素晴らしかった。

    古典文学を読んだ時なぜか作中の時代もその当時のものだと錯覚してしまう気がする。この小説の時代設定も書かれた当時のものなのだろうか。裁判がずいぶん不正確で不公平だなと思った。裁判制度に対して作者が一石投じる意図もあったのだろう。

    主人公は極めて理性的かつ合理主義的思考を持っているものの、自身の意思とは無関係に生ずる本能的欲望には弱く、他人への共感力に欠けた行動を取ってしまうのが面白かった。

    ラストの主人公の叫びは何度も読み返すと思う。良い終わり方だった。

  • タイトルで気になりながらも手に取ったことがなかった本をようやく読了。
    思ってたよりも読みやすかった。

    主人公の気持ちがわかる気がするけど、同調はできない。
    そうかと言って検事側の言い分にも賛成できない。裁判で検事や弁護士たちが、どんどんムルソーの行いや気持ちからかけ離れている方に進んで行ったのはわかった。彼らの正しさにとってムルソーは異邦人だったんだな。

  • 内省的なつぶやきのような短文で、情景や感情を滔々と綴る。そして、凡庸な人生が、ひとつの自分の行為を機に一変する。キリスト教的道徳、法廷、制度、社会への責務、それら近代啓蒙主義的な"真理"が、行為を帰責させる唯一のものとして突如立ち現れ、「この私」抜きに、機械的に淡々と「私」の生を決める。社会的人間を演じられなければ、異邦人として扱われるのだ。神を信じず、性欲、太陽、海などの経験的な感覚を重視し、そしてそれのみが「この私」の生である、そのような価値観をもった主人公ムルソー(Meursault:meurs死・soleil太陽を連想させる)は、当時の若者の姿を反映しているという。
    フランスの内部にある外部である固有名なきアラブ人(異邦人)は、はじめ全く不可解で不気味な敵対する世界として描かれているものの、人間的な側面も見出される。感情を表に出さず理解されないムルソーは、アラブ人と心を通わすことはないが、状況的に次第に同化(異邦人化)してゆく。つまり、ムルソーが制度によって"フランス人民"の共同体から弾かれたように、彼らも機械的に外部として扱われている。
    近代的理性の秩序から狂人のように逃れる道があるか。いや、「この世界」を受け入れ承認するしかない。それがムルソーの答えだった。死刑を前にして神父にぶち撒ける、実存の憤怒の長台詞のために本書はある。
    近代的理性への批判は、同時代に肩を並べたサルトル(のちに批判を受け孤立するが)の人文主義や実存主義を越えて、同じく社会的構造や制度を批判したポストモダニズムの領域にすでに踏み込んでいる。それは、他者、狂気、外部を内部保存のために分たず、「この世界」として受け入れること。内外を分けたうえで包括するのではなく、内外を分けることそのものを拒否する。ムルソーが否定する神や制度は、内外を区別し、共同体を保存させるためにある。そしてそこには「この私」はない。この意味において、一般化された特殊としての個人ではなく、「この世界」における単独の「この私」として生きることこそが、生を生きることである。
    カミュは、哲学教授ジャングルニエを文学に開眼させた恩師としてもち、また哲学士(卒論は「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」)を受けており、哲学教師を任命されたこともある(単調な生活を恐れ辞退したが)。ファシズム化する危機の時代を生きた思想的な背景が、人間理性への懐疑を必然的にしたといえる。
    以下は、印象的だった文章の引用。
    "誰だって生活を変えるなんてことは決してありえないし、どんな場合だって、生活というものは似たりよったりだし、ここでの自分の生活は少しも不愉快なことはない"
    "学生だった頃は、そうした野心も大いに抱いたものだが、学業を放棄せねばならなくなったとき、そうしたものは、いっさい、実際無意味だということを、じきに悟ったのだ。"
    "判事は私をさえぎり、重ねて私をうながし、すっかり立ち上がって、私が神を信ずるか、と尋ねた。私は信じないと答えた。彼は憤然として腰をおろした。彼は、そんなことはありえない、といい、ひとは誰でも神を信じている、神に顔をそむけている人間ですらも、やはり信じているのだ、といった。"
    "「私の生を無意味にしたいというのですか?」と彼は大声をあげた。思うに、それは私とは何の関係もないことだし、そのことを彼にいってやった。"
    "眠りの時間、思い出、記事を読むこと、光と闇との交替──こうしたことのうちに、時は過ぎた。牢獄にいると時の観念を失ってしまう、ということを確かに読んだことがあったが、これは私には大した意味を持たなかった。どうして、日々が長くて同時に短くなるのか、私にはわかっていなかった。"
    "生きてゆくには長いものだが、ひどくふくれあがっているので、日々は互いにあふれ出してしまうのだ。日々は名前をなくしていた。私に対して意味を持っているのは、昨日とか明日とかいう言葉だけだった。"
    "セレストは、私の方を振り返った。その眼はきらきら輝き、その唇は震えているように見えた。これ以上何か自分にできることはないか、そう私に問いかける様子だった。私はといえば、一言もいわず、何の仕ぐさもしなかったが、このとき生まれてはじめて、一人の男を抱きしめたい、と思った。"
    (誤植p93真実何かを→事実何かを)
    "被告席の腰掛の上でさえも、自分についての話を聞くのは、やっぱり興味深いものだ。検事と私の弁護士の弁論の間、大いに私について語られた、恐らく私の犯罪よりも、私自身について語られた、ということができる。それにしても、両者の言い分はそんなに違うものだったろうか?"
    "私としては、それは私をまたしても事件からとり除け、私をゼロと化し、ある意味で、彼が私の身替わりになっているのだ"
    "大切なものは、希望の一切の機会を与えるところの、逃亡の可能性であり、無慈悲な儀式の外へ飛び出すこと、狂人のように疾走することだった。"
    "私は自信をもっている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕らえていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕らえている。"
    "私はこのように生きたが、また別なふうにも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。"
    "私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へと立ち上ってくる。"

  • これすごい。主人公への共感を誘導されてしまったみたいで、悔しい。

  • 著者、カミュ、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。

    ---引用開始

    アルベール・カミュ(フランス語: Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家、哲学者、随筆家、記者、評論家。

    ---引用終了

    フランス領アルジェリア(当時)出身です。
    そして、46歳にて亡くなっています。


    で、本作の内容は、次のとおり。

    ---引用開始

    母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

    ---引用終了


    そして、本作の書き出しは、

    ---引用開始

    きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。

    ---引用終了


    それから、本作の訳者は、窪田啓作さん。
    本作が日本語に翻訳されたのは1951年で、その時の翻訳者は窪田啓作さんでした。

    窪田啓作さん、ウィキペディアには、次のように書かれています。

    ---引用開始

    窪田 啓作(くぼた けいさく、1920年7月25日 - 2011年)は、日本のフランス文学者、詩人、銀行員。本名・開造。窪田般彌の兄。カミュ『異邦人』の翻訳で知られる。

    ---引用終了

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