異邦人 (新潮文庫)

著者 :
制作 : 窪田 啓作 
  • 新潮社
3.67
  • (837)
  • (910)
  • (1615)
  • (133)
  • (38)
本棚登録 : 8452
レビュー : 1064
  • Amazon.co.jp ・本 (143ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114018

作品紹介・あらすじ

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 第一部は「私」(ムルソー)の祖母の死と、翌日の道楽、隣人の暴力沙汰に巻き込まれた末のアラビア人への発砲・殺人を、第二部は殺人の罪による逮捕、そして数々の尋問を受け裁判~判決に至るまでを描く二部作。

    “不条理文学”として一世を風靡した作品なのでどれだけ筋が通らず読みにくいかと身構えて手に取りましたが、なんと読みやすい作品か。
    シンプルなストーリーながら、とにかく興味をそそられるのは主人公であるムルソーという人物について。読めば読むほど彼の新しい一面を発見したり、人物像が変化を重ね、繰り返し読みたくなる面白さがあります。作中での彼の評価は「冷徹で無感情で何を考えているか分からない非道な人物」です。しかし大半の読者はきっと別のイメージを彼に見出すように思います。

    ムルソー自身も自分という人間を掴みかねているようでした。だからこそ彼自身も――被告人席にいるとは言え、裁判官の、証人の、大衆の、自分のことをを客観的に語る声(非難や罵声も含めて)を耳にするのは興味深かったように思います。冷徹というより極端なほど冷静で、無感情というより不器用なほど正直な人、というのが今の私の印象です。

    肉親の死を前にしたら嘆き悲しみ、塞ぎこむもの。
    社会の良しとする行動をしない者、つまり社会から逸脱した者――「異邦人」は徹底的に弾圧と排斥の的になる。では自分の心のままに行動をしたムルソーは「悪」なのでしょうか。肉親の死を前に例え心は穏やかであったとしても、社会の良しとする哀しみを否応でも見せる人は「善」なのでしょうか。

    先日読んだ『コンビニ人間』(村田沙耶香/著)と主たるテーマが重なるとは思いませんでした。名作です。

  • 本の解釈は個々人の自由だし、人の数だけ解釈があっていい。国語の試験で頻出の「筆者の考えに当てはまるものは次のうちどれか」「この時の〜の気持ちを答えよ」といった問いは、あくまで「『出題者が予想する』筆者の考え」なのであってそれが正しいとは限らない。本人が解説しているのでなければ、正解などない。
    己にとっての解釈、価値、意味が、他者にとってもそうであるとは限らず、またそれを押し付けるのはおこがましいことであり、誤りだ。

    そう前置きした上で、本書の背表紙のあらすじや各方面でのレビューで「主人公は通常の論理的な一貫性が失われている」という指摘や、有名な「太陽のせい」で殺人を犯したという供述に対してあれは嘘だ、とか、何かのメタファーである、といった、その「意味」を分析をするようなことがなされているのに違和感を感じてしまうこと、私の解釈はそれとは異なるということを述べたい。

    (あくまで個人的な見解だが)彼には彼の論理的一貫性が確かに存在し、また、「太陽のせい」と言ったことに我々読者が納得できるような理由などないのだと思う。
    検事や司祭の、価値観の押し付けがましさが殊更に目につくが、彼らこそが我々読者であり、大多数の人間の代表として描かれているように思う。

    我々はいつだって納得のいく理由を求めてしまう。
    他者の理屈は他者の理屈でしかなく、我々はそれを理解しようとする時、必ず己の物差しで物事を図ってしまい、捻じ曲げてしまう。
    「理解できないもの」は恐ろしく、また己にとって害悪であるから、人はそれを理解できるものに無理やり変えてしまうか、それが叶わないなら排除してしまう。
    本書は不条理小説と評されるが、世間の人々にとって、理解できないムルソーこそが「不条理」であり、ムルソーにとって、またカミュ自身にとってはそんな世間の人々、世界こそが不条理であるのではないか。
    「太陽のせい」は名文句だが、それはこの言葉の内容自体に意味があるのではなく、我々がその意味を理解できないことに意味があるのだと思う。

  • 世界は無関心で、それゆえに人は自由なのだろう。
    これぞ小説!とうならされた。
    歴史に名を残す小説のなかにも、正直「よくわからないけど、すごいんだろうな」といった感想を抱いてしまう物が少なからずあったがこれは違った。心が震える感触がある。

    批判を恐れず申しあげると、最後の2ページ以外はいくぶん退屈かもしれない。それは、邦訳するとどうしても違和感を伴ってしまうフランス語のせいもあるだろう。だからといっていきなり最後の2ページだけ読んだところで感動は無いだろう。めでたしめでたしではなく、それどころか何かの終わりですら無く、また、1番重要なことだが、安っぽいどんでん返しでも無いラストである。とにかくその2ページがものすごくいい。世界は無関心で、それゆえに人は自由なのだろう。孤独はただの自由、というある詩人の言葉を思い出した。

    もう一つ。裏表紙のあらすじは、たしかに何一つ間違っていないが、少しも的を得ていないかもしれない。
    たいていの小説は、あらすじから主題や雰囲気は把握できるものだが、この小説ほどそれらとの奇妙な乖離を感じ、そこに心なしかうれしい驚きを覚えながら読んだ本も無かった。ムルソーは奇人でもなんでもないのだ。

  • すこし前に読み返した時に、ここにはもっと何か今のわたしにとって必要なものがあるんじゃないかと感じたので、またしても。昔読んだ時は意味不明だったのに、今読み返してみたらほんとうに好きだとしみじみ思った。この小説世界のすべてが今のわたしにとって心地良く感じられる。
    すべてが他人事のような、この奇妙な主人公と、訳文のわざとらしい直訳というか奇妙な言い回しの手触りも合致していて、奇跡的な味わいをもたらしていると思う。

    さて、今回読んでみて感じたのは、ムルソーは自分自身から疎外されているのだ、自分自身が彼にとって理不尽なのだ、ということである。『異邦人』においては理不尽な出来事が起こるのではなくて、自分自身が彼にとって理不尽なのである。カミュの不条理は外ではなくて内側にある。すべてがどうでもよくて、体はだるくて感情を麻痺させてしまって、太陽が眩しかったというのは嘘偽りのない真実なのに、彼自身にとっての真実を言うこと、彼が嘘をつかずに誠実であることこそが彼を追い詰めてしまう。コミュニケーションが噛み合わない。世界との不調和。彼自身が彼を世界から疎外させる。

    ひとには何にも感動できなくなる時が、心動かされなくなる時が、自分自身がどれほど誠実であろうとしてもまるで周囲と噛み合わない時が、存在するのである。噛み合わないコミュニケーションのその感覚は非常に身に覚えがあるもので(今回読んでいて、俗っぽい言い方するけどムルソーは発達障害のモードと近いのではないかと思った)、虚無感にまみれた様は今現在の自分の状態と非常に合致しているもので、ひとまず今回はそれがとても心に響いた。ラストシーンのムルソーの激昂とその後の幸福については、まだあまり言葉にできるものがなくて、また考えたい。とにかくすべてが好きだと思った。こんな風に『異邦人』という小説を愛するようになるとは思わなかった。なんだか意外で、でもかつてよくわからなかったものを愛せるようになって、とても嬉しいなと思う。

  • ブンガク(難解)
    かかった時間110分

    母の葬儀の翌日にデートをして喜劇映画を楽しみ、特別親しいわけでもない友人のために手紙を書き、太陽の暑さにやられて人を殺す。処刑を目前にして司祭にブチ切れ、あらゆることを終わってしまったことと考える。そんな主人公。

    解説によるとこの作品は、嘘をつかない主人公のある種の誠実さが、システマティックな世の中では受け入れられず、それをわかっていながらも抗い続け、命と引き換えに自身の真実を貫く姿を描いたものらしい。
    その意味で、「人間失格」的な、そして、嘘の拒否が悲劇?の発端となるところからは、「リア王」的なものとのつながりを感じる。

    ところで、読みながら、これはひとりの発達障碍者の物語じゃなかろうか?と思った。ムルソーの認知の歪みのようなものや、自己を自己としてまとめる結び目のようなものの「なさ」、暑さや音、色へのこだわりと、心情的なものへの無関心などは、そういった特徴と重なる気がする。

    また、個と社会の反転可能な対立関係みたいなものが読めた。

    解説がなんとなく作家の年譜や作品の受容史寄りのように思えたので、この作品の解釈をいくつかきちんと読んでみたいと思った。

  • L'Etranger(1942年、仏)。
    常識も道徳も信仰心も、社会と摩擦を起こさずに生きてゆくため、長い年月をかけて人々が作り上げてきた処世術である。それらは生活の知恵ではあるが、同時に欺瞞であり、枷でもある。真理に到達するためには、その枷を一度は外さなければならない。しかし、共同体の維持を優先する者(=圧倒的多数派)にとっては、それは社会の存続を危うくする行為であり、葛藤のない人生を脅かす許しがたい罪である。ゆえに真理を優先する者は、異端者(=異邦人)と呼ばれ、往々にして迫害される。

    • 円軌道の外さん

      佐藤史緒さん、こんばんは。
      お久しぶりです!
      お気に入りポチと嬉しいコメントありがとうございます!

      カミュの『異邦人』は確か1...

      佐藤史緒さん、こんばんは。
      お久しぶりです!
      お気に入りポチと嬉しいコメントありがとうございます!

      カミュの『異邦人』は確か16歳で読んだのですが、
      太陽が眩しいから殺人を犯したというワケのわからなさ、不条理なストーリーが
      青臭さかった思春期の自分にはかなりの衝撃で、
      いまでも自分の内側に刺さり抜けない一冊となってます。

      今の時代って小説の世界以外でも
      圧倒的にシンパシーの時代ですよね。
      共感できるものしか愛されないし認めないし、
      共感を強制するような音楽や映画や物語が増えてるような気がします。

      少なくとも僕が青春期の頃までは、「誰も見たことがないものを見たい」とか、
      「自分がそれを最初にやる」というようなワンダーの価値が大きかったと思うけど、
      それがここまで値崩れしたのがショックで(笑)

      「見たことがない、聴いたことがない」ものへの憧れって、どこに行っちゃったのかなって思います。

      カミュの作品のように分からなくても確実に
      胸に刺さって抜けないものって昔は沢山あったし、
      分からないから駄作だとか、
      分からないから支持しないという今の時代の考えは
      なんか不安に思っちゃいます(^^;)

      とりとめないことダラダラと書いてしまいましたが(汗)、
      僕の本棚の『生きるために人は夢を見る』にも返事書いているので、
      お暇な時間にでも覗いて見てくれたらと思います。

      ではでは良い週末をお過ごしください。


      2015/06/19
  • 名作というか古典というか、自分の本棚のジャンルを考え直さなければぴったりなジャンルが見当たらない。

    絶望的なのだろうと思って読み始めたのは、現代までにファンが沢山いると知ったからで(勿論だ!当たり前だ!って言わないで)、絶望的なのにも種類があるなと思った。
    怖いかと思ったけど静かで激しくて人の本当ってこういうことかもしれないって思った。

    読み始めた時には想像もしなかったけど、何回も読み返したくなる一冊かも。

  • 私のは平成二年の九十刷で、
    表紙も違うけど中身は一緒なんだろうな。

    20年以上ぶりの再読。
    多分読んだのは10代の頃で当時はよく解らなかったし、
    深く考えませんでしたが、
    タイトルの「異邦人」、これはマイノリティと置き変えてもいいのかも。
    周りとの価値観の違い。人と違う振る舞い。
    だからと言って誰かに迷惑をかけたりすることもなく、
    感情に乏しいが真面目でむしろいいやつであろう主人公のムルソー。

    ムルソーは決して言い訳をせず偏見も持たない。
    自分には理解できない事を押し付けてくる者がいても、
    理解できないまま淡々と受け入れそれを認めようする。
    そのためにムルソーは結果的に死刑になってしまうのだけど、
    彼のような人物をわりと好ましく思う人は少なくないのでは?

    よそのレヴューで
    >ムルソーは行為に対して罰を受けたのではなく、
    その人間性によって罰を受けた。
    その意味ではムルソーは無実だったとも言える。
    したがって『異邦人』は間違いなく不条理小説である。
    この作品の肝は罪が正当に裁かれなかったことにあると考える。

    こう書いている方がいましたが、
    まさにこれなんじゃないでしょうか。

  • 「……バカなんですか?」
    「いや、だから、異邦人だよ」
    さらりと、蛹が言う。
    葉月は唸りながら、ぱらぱらと本を捲る。
    「要するに、母親が死んだけど別に泣かないし、直後にガールフレンドと遊びに行ってひゃっはーだし、うっかり人殺しちゃったし、世の中的には酷いやつだけど、俺的には別にこれでいいんだぜ、みたいな?」
    「……確かに、バカかもしれない」

    二人がいるのは、蛹の大学の図書館だった。
    蛹は英語の専門書を読んでいる。
    その横で、葉月はカミュの全集を読んでいた。
    大学は夏休みで、人の出入りは少なく、彼らが陣取っている一角には他に学生の姿はない。
    「まあバカはバカなんだけどさ、結局のところ最後の数ページが全てじゃないかな」
    「というと?」
    葉月は首を傾げる。
    「自分が何を感じて生きているかなんて、他人には分からないんだ。でも周りは好き放題に『理解』しようとする。ねえ、泣かない人間は『非情』だろうか?」
    「そんなの、人それぞれでしょう? ああでも、そういうのって、説明するの面倒くさいんですよね。もういいか、自分のことは自分が分かっていれば、みたいな」
    「ざっくり言っちゃうとそういうことじゃないかな。最後の数ページの、そこら辺の描写が、なんかいいんだよ。宗教も、社会通念も超えて、自分の人生に自分だけの幸福を見いだしたような瞬間がね」
    「人を殺さないとそこまで辿り着けないとしたら、やっぱりバカじゃないかとは思いますけど」
    「……今ほど自由にものを考えられなかった時代の話だろう? 人の命だって関わってくるんじゃないかな」
    蛹は手元の本に注意を戻したが、葉月は暫く唸りながら何か考えているようだった。

  •  社会システムから見て大なり小なりアウトローの人物を主人公にして、社会システムの矛盾、非情、滑稽を描いていると思います。この作品の主人公の性格は、他の作者の造形する主人公に通じていると思います(少なくとも基礎的な部分は)。第一部と第二部に登場する人物達の性格や、その人達の世界観・価値観の対比が鮮やかで、読者に上手く印象付けていると思います。おそらく作者が、この作品にそのような構造を持たせたのだと思います。ただ、第二部で登場する人物達が戯画的に描かれすぎていると思います。
     
     第一部で登場した人物達は、ある程度友情や愛情を行動基準にしていましたが、第二部で登場した人物達は、語り手であるムルソーの視点から見ると、滑稽で非常識な人達の様に描かれていました。けれど、社会システムから見ると、ムルソーが滑稽で非常識な人に映っています。この対比の部分と、この対比を鮮やかに浮かび上がらせたのが、この作品の凄い所だと思います。現実の社会では、ムルソー的な人達の「声」や「訴え」は社会システムにかき消されていると思います。そしてこの「答え」は、よく文学に取り上げられる素材になっていると思います。

  • 「異邦人なのはどっちだ?」

    養老院に預けていた母を亡くしたばかりのムルソーは、女友だちのマリィらと訪れた海岸でアラビア人を殺害する。逮捕され裁きの場に引き出されたムルソーに、本人すら確たる動機もわからぬまま判決は下される…

     名作と謳われるカミュの代表作だが、正直なところよくわからなかった。なんら説得力のない動機でピストルの引き金を引くムルソーはもちろんだが、母の弔いに涙ひとつこぼさぬというだけで被告を「人非人」と断じる法廷、その処刑に興奮する人々に感情移入できず、この小説世界に出てくる全ての人が、まさに私にとっては「異邦人」だった。

     どこまでも割り切れぬ数字のようなこのストーリーはいわゆる不条理小説。だが世の中なんでもかんでも道理が通ることばかりなわけではない。不条理は不条理としてあるがままを描いたカミュは現実を良く知っていたということなのだろうか。不条理を納得いかないものとして自分の内に落とし込めない自分こそが実は「異邦人」なのか?

  • 何度目かの再読。自分で感じたことしか信じない、この瞬間に湧き出る欲望のほか確かなものなど何もない。ムルソーの情熱は分かりすぎるほど分かる。偽善と権力に汚されたこの世界で純実に生きることの疎外感。それに打ち克つ勇気がないのは私の問題で、ムルソーには灼熱の太陽の光こそが真実。太陽を裏切ることなどできやしない。偽りの観客の中で、最後まで偽りのない自身の死にざまを見せつけようと希求するムルソーの叫びにただ震えるばかり。これが幸福だと言い切るムルソーに、真の幸福とは何たるかを叩きつけられる。自分に嘘をつきたくない。

    〈追記〉
    ムルソーと太陽の関係について。他の方々の感想を読んで、太陽=権力の象徴という読み方があるのを知ってびっくりしちゃいました。私には太陽こそが真実の象徴で、その光の強さゆえに全てをさらけ出す、暴き出すという意味で捉えたので。それゆえにムルソーは引き鉄を弾いたのだと。だからといって自分の感想に修正を施す気は全くありませんが、読む人によってそれぞれの解釈があって面白いな~と。全肯定型の人間は思うわけです。

  • 「意識下の悪意と、無意識の悪意」について最近よく考えています。
    そのテーマにぴったりかも、と思って読んでみました。

    最初はサイコパスみたいな犯人を追い詰める話かと思いきや、この話の怖さと言うか深さは
    「ある特定の共通認識をクリアしないと悪の認定を受けてしまう点」じゃないかなと思う。

    死刑になりたくないからと嘘を吐きそれが認められて刑が軽くなるのと、
    本当のことを話して死刑になること。
    どちらが正しいのか、何が正義なのか、全く分からなくなります。

    主人公ムルソーは、老いた母親の面倒を見ず、養老院へ入れた→養老院の方が友人に囲まれて幸せだろうと思った。実際にそうだった。

    こんな風に、やることなすこと「それはムルソーの性格が残忍なせいだ」と決められていく過程に気味の悪さを感じました。
    ムルソーと母親の関係は淡泊です。ですがムルソーは他の人に対しても奥まで踏み込んでいくことをしません。これはもう、そういう性格なんだと思うんです。
    葬儀の時にコーヒーを勧められ、好きなので受け取って飲むとか、わりと好き勝手に生きていますが、少なくともそこだけを切り出して「悪い」とは言えない。

    確かにムルソーは人を殺していますので、そこは責められても仕方ないと思うのですが、悪いのはそこだけです。
    その他のことを悪いと言われたら、この世の中は悪人だらけのような気がします。
    ムルソーは些細なことが悪意認定されていくのに、演技をせず、最後は死刑を受け入れます。
    そこへ司祭が訪れ、「貴方を哀れに思う。あなたの考え方は間違っている。本当は別の生き方を望んでいるはずで、神の救いを求めているはずだ」みたいなことを言います。
    この後に続くムルソーの台詞は宗教(多分当時は大事なものだった)を全く無視していて、最後は他の者たちの生き方も死刑囚である自分と同じだ、と叫ぶ。
    また、ムルソーは、母の葬儀で泣かなかった理由について
    「死に近づいて、ママンはあそこ(養老院)で解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。何人も、何人と言えども、ママンのことを泣く権利はない」と独白しています。
    宗教についてあまり詳しくはないんですが、これはキリスト教の一つの考え方に近いような気が。一つの考え方であり、ある意味間違ってはいないのです。
    なのに、母の死を嘆かないことによって謗られてしまう。

    あとがきでは「ムルソーは一つの真理のために死ぬことにした」とあります。
    作者のカミュはこのムルソーの真理を「存在することと、感じることの真理である。(略)これなくしては。自己も世界も、征服することはできないだろう」
    と言っています。
    自己を貫けなければ生きている意味はないと思った。最後に「死刑を見に来てほしい」と思ったのは、死の恐怖に打ち勝って自己を貫く選択をした自分を見てほしいと思ったのかもしれません。
    世間を混乱させないために、社会のために、多くの人は嘘をついていて、それをしないと「異邦人」と言われて弾劾される。

    太陽が暑かったから殺したと言われる場合と、仮にムルソーが上手い嘘をついた場合。
    ああ、こういう理由だったんだ、安心するのは後者です。
    前者だといわゆる「理由なき殺人」のような感じでモヤモヤする。何故モヤモヤするのかと言えば、もしかして自分にもこの動機で殺人を犯したりするかもしれないとか、周りの人がこうかもしれないという恐怖があるから。
    でもよく考えてみると、嘘をついて真理を隠して納得してしまう社会はとても怖いです。

    この世界には、多分思ったより「異邦人」が多いんじゃないでしょうか。

    • ピッポさん
      花丸ありがとうございます!レビュー拝見しました。まったく同感です。
      花丸ありがとうございます!レビュー拝見しました。まったく同感です。
      2015/08/24
    • 相沢泉見さん
      seikun0224さんコメントありがとうございます! 深い話でした!
      seikun0224さんコメントありがとうございます! 深い話でした!
      2015/08/24
  • ムルソーは「希望」に意味を見出さず、現実の刺激に従って行動している。また、母の葬儀中や裁判中にも世間的な演技をせず自分の感情に素直な言動をしている。
    ムルソーを見ていて幾度も「上手くやってその場を凌げばいいのに」と思ったが、彼は彼の感情と社会の道徳的、慣習的なルールとの間に差があることを理解しつつ、嘘をつくことを拒み、惰性の生ではなく真実の生の中に幸福を見出したのだろう。

  • えええ…
    何が面白いのかよく分からない話でした。
    頭のネジが何本か足りない男の日常?
    読み始めた時、一人称が「私」なのも相まって、主人公は女で「主人」とは旦那のことを言っているのかと思って混乱してしまいました。雇い主ってことかい。

    • Ayumuさん
      僕も最初そうでした、なるほどですスッキリしました。ありがとうございます
      僕も最初そうでした、なるほどですスッキリしました。ありがとうございます
      2019/03/12
  • ムルソーって正直なだけだったんじゃないかな。その時代の人々が一般的に信じている道徳とか宗教から外れてて、通常の論理的な一貫性がうしなわれてるとみなされてああいうことになってしまったけど。友人の女性がらみで殺人を犯して裁判に、かけられるんだけど。ことごとく人々の機嫌を損ねてしまう。私は自分が世間の人と同じだということ、絶対に世間の尋常な人たちと同じだということを弁護士に強調したいと心では願ってたにもかかわらず。牢獄でマリィのことを想うが、だんだんどうでもよくなってくる。ひとが慣れてしまえないかんがえなんてないんだ。とか、ムルソーの考えはカミュの洞察を含んだ考えで大衆には理解できずうとまれたんだろうか。ムルソーの気持ちになり人が人を自分の思い通りにうごかそうとする様にウンザリした。

    読書会に参加して、関連本のバンド・デシネ異邦人やムルソー再捜査などと合わせていろんな感想を聞いた。バンド・デシネの訳者の青柳先生も交えて。フランスにおけるカフェ・オ・レの意味や、カミュの生い立ち、誰しもが自分の物語だと思いつつも、どこか受け入れられないない想いを抱くのは何故か。辻褄が合いすぎているけどムルソーに騙されているのかなどいろんな伏線がはってあり。アルジェの文化やアラブ人の立場。本を読むにもその国の文化や背景がわかるともっといいな。

    • keisukekuさん
      俺が人を自分の思い通りに動かそうとついしてしまうことに自覚的であろうと注意はしているんですけど...なかなか難しいです。
      俺が人を自分の思い通りに動かそうとついしてしまうことに自覚的であろうと注意はしているんですけど...なかなか難しいです。
      2019/02/22
    • ゆさん
      自分の事が一番わからないのに分析して客観的に表現してすごいです!
      自分の事が一番わからないのに分析して客観的に表現してすごいです!
      2019/02/22
  •  高校時代に新潮文庫で読んで皆目理解できなかった。それから幾星霜。この度気まぐれで原文で読み始めたら、冒頭のワン・フレーズで本書のテーマが即座に了解できた。
     広く「きょう、ママンが死んだ。」と読まれている部分である。

     原文”Aujourd’hui, maman est morte. ”を英語に逐語訳するなら、Today, Mom is dead。
     ”is dead”と現在形。”died”ではない。「今はもう死んじゃってる状態にある」と。

     フランスはカトリックの国。と言えば、”maman(お母様) ”の暗示はもう分かる。
     先取りすれば、来世まで面倒を見てくれる筈だったその「お母様」はもういない。

     続く”Ou peut-être hier, je ne sais pas.” は、英単語逐語置き換えだと、”Or, maybe yesterday, I don't know”。冒頭部は、だから、次のような意味合いとなる。

     「母さんはもう居ないんだ。いや、とっくに死んじゃってたのかもしれない。けど、どうでもいいや」

     届いた電報は「母死す。埋葬 明日。敬具」。
     とうとう「埋葬」されることになった。地中深く埋め去られるのだ。末尾のSentiments distinguésはビジネス文書結語の決まり文句の一つで、「敬具」。お悔やみの意味合いは一切ない。

     電報の発信元はl’asile 「収容所(大勢の人間が居る建物)」とある。ここまで原文だと、人が大勢いる収容所の中でいつの間にか「お母様」が死んでいたようだけど、ぼくにとってはどうでもいい、的な意味にも取れる。

     その「収容所」が養老院”L’asile de vieillards”と分かるには、次の段落を待たねばならない。

     徹頭徹尾無機質な、そしておそろしく周到に言葉が組み立てられた出だしである。

     第一部は「ぼくの生き方」。「世間の視線」のフィルタを通した、ガラス越しのような淡々とした一人語り。
     第二部は「ムラからの追放」。「裁判」は共同体の根幹即ち、十字架の恩寵に背を向ける「異端」の抹殺こそが主眼であった。ムルソーは裁判の途中で呟く、みんなはぼくのことが嫌いなんだ。

     本書のタイトル、L'Étranger(よそもの)とはそういう意味であった。
     「太陽」は随所で「眩しさ」と「熱」をムルソーに投げかける。苛むほどに。

     本書はカトリック(キリスト教)との決別宣言である。周囲はムルソーを懸命に「共同体の秩序」に引き戻そうとする。独房の中でムルソーは母さんの言葉を思い出す、「人はね、結局何事にも慣れてしまうものなんだよ」。
     が、彼は「狎れる」ことを拒む。理性こそが己の未来を決めるのであると、自ら「死刑台」への道を選ぶ。

     本書にはraison(及びその派生語raisonbale)が多用されいる。英単語に置き換えればreasonなのかどうかぼくには正直分からないが、「理屈に合っていること」といった意味合い。
     本文中に”J'avais eu raison, j'avais encore raison, j'avais toujours raison. ”という下りがあるが、これを「ぼくは正しかった、ぼくはいつも正しいんだ」と訳すのは大間違い。
     raisonの対がabsurde(馬鹿げている、不合理)。

     「異邦人」と「ママン」。意味不明なこの二つの訳語こそがこの翻訳書の商業的大成功を収めたキーワードではあったのだろうが、若い時分のぼくは、その商業的キーワードのために本書を読み誤ってしまっていた。

     最後に「ママン」
     大人は聖母マリアをmamanとは呼ばない。であれば、カミュは何故mamanという語を使ったのだろう。
     訳者はこれを主人公ムルソーの幼児性を表すと注釈する。この物語が一人称で書かれている理由を感得できなかったようだ。
     「お母様(おかあちゃん)」と呼んでいるのは「ぼく」即ち読者。

     盲目的に(本当はもう疑い始めている)キリスト教(カトリック)の、慣習的でしかない甘美な抱擁から抜け出せない人々を皮肉った語とぼくには読めるのだが。

  • 頭おかしい人の話。

  • ムルソーがアラビア人を殺害した、これといった動機はない。恋人とも言えないマリイと結婚したい理由もなく、それと同じようにママンが死んだことに悲しみを感じなければならない訳もわからない。
    ムルソーが感情を爆発させたのは死の間際。しかしそのれですら「死にたくない」などといった人間的な感情の破裂でもないような。
    ムルソーは動物的、というかなんというか、事象などに意味を持たせない人物なのかなと。それなりに自分の考えは持っているものの、おそらく世間一般が普通としていることに当てはまらない。もう1度最初から読みたい。

  • 裏表紙を見て、主人公はなんて冷血な男なのかと思って読んでみたけれど、なんてことない。ただ普通で人間らしくて不器用なだけの愛すべき存在じゃないか?ちょっとしたずれ、ちょっとした食い違い、ちょっとした不運が重なってこんなことになる。ぐるぐる悩んだけどムルソーは自分のことをちっとも不幸なんて思ってない。そこが唯一理解できず、しかしこの作品を名作足らしめたポイントかもしれない。彼は悪人だったのだろうか。理解できない者を悪者にする社会とそこで異邦人とならざるを得ない存在。重々しく、しかし面白く読んだ。

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