異邦人 (新潮文庫)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (143ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114018

作品紹介・あらすじ

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 有名だけど題名以外なにも知らない本を読んでみたくて読んだ。(ときめきトゥナイトのヒロイン江藤蘭世の語源がフランス語の異邦人[Etranger]であることは知っていた。)

    主人公ムルソー君の人格は、21世紀人をみているようだった。死刑を宣告されなければいけないような人格破綻者の要素は希薄で、「私」の視点で語られる「事実」と裁判で語られる筋書きとでは、天と地の差があった。

    これで死刑判決を貰ってしまうのは、検察の弁論のうまさと弁護側の弁論の下手さが理由の大半ではないか、と感じた。そういう意味では法廷ドラマの印象が強い。

    引き金を引いたのが一発目だけであれば、高い確率で過剰防衛で済んだのではないかと思う。後の四発も「気が動転していたので。。」で済みそうな気が。。何といっても相手が先にナイフを抜いたわけだし。

    裁判で「太陽のせいだ」と殺人の理由を述べる場面は名場面だ。自分も、明確な理由もなく何かをやらかしてしまった場合に使ってみたいものだ。ムルソーと同じようにイカれた奴と思われるだろうか。






  • 本当は「ペスト」を読みたかったのだが、家人の本棚にこちらがあったため、こちらから読んでみることに


    注!)ネタバレ有

    「あらすじ」から
    ママンが死んだ翌日に海に行き、女と関係を持ち、映画を観て、「太陽のせい」で殺人を犯し死刑となる
    何やら破天荒な主人公らしいが…

    意外なほど読みやすく、あっさり完読
    主人公ムルソーは「あらすじ」から派手なパフォーマンスを好むイカれたサイコかと思いきや、別にそうでもない
    それなりに人付き合いもでき、仕事もしていた
    結婚には興味を持たないが、恋人ともそれなりに仲良くやっていた
    厄介な話になると面倒くさくなり、自分の興味のない考え方を押し付けられるのをとても嫌がる
    死刑になり、ムルソーを救いたいと独房に訪れる司祭の神に救われる話に、無神論者のため、全く受け付けず珍しく感情が爆発
    この辺りによく表れる

    一貫して太陽がじりじり照りつけ、尋常ではない暑さを常に感じる
    前半のムルソーと他の登場人物との関わりは穏やかで、彼自身も多少の異端性は感じるものの、そこまで不穏な空気はない
    それが突発的に殺人を犯し、「あらすじ」を読んでなかったら読者はビックリしてしまうのではないだろうか
    知っていてもちょっと展開が謎である
    感性と想像力が足りないせいか
    残念ながらふーんという感じで終わってしまった
    読み込み方もよくわからない
    恐らく時代背景やカミュ自身をもうすこし掘り下げる必要があるのだろう

    ママンが死んで、涙一つ流さず、翌日に女と海水浴に行った…
    その行動が「異邦人」であるという、これが死刑とされる主要因
    (殺人を犯さない限り、現代では、こういう考え方の人なんて五万といるだろう)
    だが、ムルソーは人生や物事をあるがままに受け入れる
    世間とはかけ離れるほど正直で不器用な人物と映る
    もちろん殺人は論外だが、他は共感するほどでもないながら、随所に理解できるキャラクターであった

    この時代ではムルソーは「異邦人」とされるが、カミュは彼の個性や生き様を肯定しているのだろう

     

  • 著者、カミュ、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。

    ---引用開始

    アルベール・カミュ(フランス語: Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家、哲学者、随筆家、記者、評論家。

    ---引用終了

    フランス領アルジェリア(当時)出身です。
    そして、46歳にて亡くなっています。


    で、本作の内容は、次のとおり。

    ---引用開始

    母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

    ---引用終了


    そして、本作の書き出しは、

    ---引用開始

    きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。

    ---引用終了


    それから、本作の訳者は、窪田啓作さん。
    本作が日本語に翻訳されたのは1951年で、その時の翻訳者は窪田啓作さんでした。

    窪田啓作さん、ウィキペディアには、次のように書かれています。

    ---引用開始

    窪田 啓作(くぼた けいさく、1920年7月25日 - 2011年)は、日本のフランス文学者、詩人、銀行員。本名・開造。窪田般彌の兄。カミュ『異邦人』の翻訳で知られる。

    ---引用終了

  • 古典文学は、いつもあまりサクサク読み進められなくて、行き詰まってしまうことが多々。
    一ヶ月くらいかかってしまうこともあるけれど。

    人殺しを太陽のせいにしたことで、この小説は有名だけれど、わたしの中には、それだけの印象が残らなかったような。

    個人的には、サラマノ老人と犬とのやりとりが、すごく好き。

  • 本の解釈は個々人の自由だし、人の数だけ解釈があっていい。国語の試験で頻出の「筆者の考えに当てはまるものは次のうちどれか」「この時の〜の気持ちを答えよ」といった問いは、あくまで「『出題者が予想する』筆者の考え」なのであってそれが正しいとは限らない。本人が解説しているのでなければ、正解などない。
    己にとっての解釈、価値、意味が、他者にとってもそうであるとは限らず、またそれを押し付けるのはおこがましいことであり、誤りだ。

    そう前置きした上で、本書の背表紙のあらすじや各方面でのレビューで「主人公は通常の論理的な一貫性が失われている」という指摘や、有名な「太陽のせい」で殺人を犯したという供述に対してあれは嘘だ、とか、何かのメタファーである、といった、その「意味」を分析をするようなことがなされているのに違和感を感じてしまうこと、私の解釈はそれとは異なるということを述べたい。

    (あくまで個人的な見解だが)彼には彼の論理的一貫性が確かに存在し、また、「太陽のせい」と言ったことに我々読者が納得できるような理由などないのだと思う。
    検事や司祭の、価値観の押し付けがましさが殊更に目につくが、彼らこそが我々読者であり、大多数の人間の代表として描かれているように思う。

    我々はいつだって納得のいく理由を求めてしまう。
    他者の理屈は他者の理屈でしかなく、我々はそれを理解しようとする時、必ず己の物差しで物事を図ってしまい、捻じ曲げてしまう。
    「理解できないもの」は恐ろしく、また己にとって害悪であるから、人はそれを理解できるものに無理やり変えてしまうか、それが叶わないなら排除してしまう。
    本書は不条理小説と評されるが、世間の人々にとって、理解できないムルソーこそが「不条理」であり、ムルソーにとって、またカミュ自身にとってはそんな世間の人々、世界こそが不条理であるのではないか。
    「太陽のせい」は名文句だが、それはこの言葉の内容自体に意味があるのではなく、我々がその意味を理解できないことに意味があるのだと思う。

  • 人は死刑の判決にならない様に「嘘をつく」、だが、ムルソーはその演技が出来なかった。ムルソーは不条理であったが避ける事なく罪を受けた。所謂「罪は罪」として裁かれて当然である、それが正当防衛、虚い申告であっても。だが、現代はずる賢い、権力を持った者が優勢であり、例え相手が真実を訴えても覆ることはさせない、のが現実だ。

  • L'Etranger(1942年、仏)。
    常識も道徳も信仰心も、社会と摩擦を起こさずに生きてゆくため、長い年月をかけて人々が作り上げてきた処世術である。それらは生活の知恵ではあるが、同時に欺瞞であり、枷でもある。真理に到達するためには、その枷を一度は外さなければならない。しかし、共同体の維持を優先する者(=圧倒的多数派)にとっては、それは社会の存続を危うくする行為であり、葛藤のない人生を脅かす許しがたい罪である。ゆえに真理を優先する者は、異端者(=異邦人)と呼ばれ、往々にして迫害される。

    • 円軌道の外さん

      佐藤史緒さん、こんばんは。
      お久しぶりです!
      お気に入りポチと嬉しいコメントありがとうございます!

      カミュの『異邦人』は確か1...

      佐藤史緒さん、こんばんは。
      お久しぶりです!
      お気に入りポチと嬉しいコメントありがとうございます!

      カミュの『異邦人』は確か16歳で読んだのですが、
      太陽が眩しいから殺人を犯したというワケのわからなさ、不条理なストーリーが
      青臭さかった思春期の自分にはかなりの衝撃で、
      いまでも自分の内側に刺さり抜けない一冊となってます。

      今の時代って小説の世界以外でも
      圧倒的にシンパシーの時代ですよね。
      共感できるものしか愛されないし認めないし、
      共感を強制するような音楽や映画や物語が増えてるような気がします。

      少なくとも僕が青春期の頃までは、「誰も見たことがないものを見たい」とか、
      「自分がそれを最初にやる」というようなワンダーの価値が大きかったと思うけど、
      それがここまで値崩れしたのがショックで(笑)

      「見たことがない、聴いたことがない」ものへの憧れって、どこに行っちゃったのかなって思います。

      カミュの作品のように分からなくても確実に
      胸に刺さって抜けないものって昔は沢山あったし、
      分からないから駄作だとか、
      分からないから支持しないという今の時代の考えは
      なんか不安に思っちゃいます(^^;)

      とりとめないことダラダラと書いてしまいましたが(汗)、
      僕の本棚の『生きるために人は夢を見る』にも返事書いているので、
      お暇な時間にでも覗いて見てくれたらと思います。

      ではでは良い週末をお過ごしください。


      2015/06/19
  • 不条理小説として名高いカミュの代表作だ。
    この作品を読了して感じたのは、自分が生きていくなかで、社会に対して不条理だと感じる部分が多いということです。主人公のムルソーは人を殺してしまい罪人となった、理由は「太陽のせい」私は、不条理な理由だなと感じました。

  • 第一部は「私」(ムルソー)の祖母の死と、翌日の道楽、隣人の暴力沙汰に巻き込まれた末のアラビア人への発砲・殺人を、第二部は殺人の罪による逮捕、そして数々の尋問を受け裁判~判決に至るまでを描く二部作。

    “不条理文学”として一世を風靡した作品なのでどれだけ筋が通らず読みにくいかと身構えて手に取りましたが、なんと読みやすい作品か。
    シンプルなストーリーながら、とにかく興味をそそられるのは主人公であるムルソーという人物について。読めば読むほど彼の新しい一面を発見したり、人物像が変化を重ね、繰り返し読みたくなる面白さがあります。作中での彼の評価は「冷徹で無感情で何を考えているか分からない非道な人物」です。しかし大半の読者はきっと別のイメージを彼に見出すように思います。

    ムルソー自身も自分という人間を掴みかねているようでした。だからこそ彼自身も――被告人席にいるとは言え、裁判官の、証人の、大衆の、自分のことをを客観的に語る声(非難や罵声も含めて)を耳にするのは興味深かったように思います。冷徹というより極端なほど冷静で、無感情というより不器用なほど正直な人、というのが今の私の印象です。

    肉親の死を前にしたら嘆き悲しみ、塞ぎこむもの。
    社会の良しとする行動をしない者、つまり社会から逸脱した者――「異邦人」は徹底的に弾圧と排斥の的になる。では自分の心のままに行動をしたムルソーは「悪」なのでしょうか。肉親の死を前に例え心は穏やかであったとしても、社会の良しとする哀しみを否応でも見せる人は「善」なのでしょうか。

    先日読んだ『コンビニ人間』(村田沙耶香/著)と主たるテーマが重なるとは思いませんでした。名作です。

  • 150Pほどで文章量はそれほどでもないので、サクッと読もうと思えば読める。
    古い作品だが、そこまで読みづらい部分はなく、主人公にも感情移入しやすいのはさすがノーベル賞作家の代表作だと思えた。

    全2章で構成されており、1章は特徴のある登場人物たちが物語を動かしていくストーリーでわかりやすい。
    2章になると裁判と主人公の内面を深掘りしていく話になり、一度読むだけでは頭に入ってこない箇所もあった。



    「異邦人」というタイトルは作中では一度も出てこなかった。
    このタイトルは主人公のことを指すのだろうが、読んでいてもそこまで主人公が特異な人物だとは感じられなかった。
    周囲の人間たちが、主人公を異常性を持つ人物と仕立て上げ、それに合わせてストーリーを組み立てているだけだった。

    全体通して、自分の行動は他人次第でどうとでも評価されるということの恐ろしさが印象づけられた。

  • 共同体がなんとなくの合意で形成した「人間らしさ」みたいな物差しで測ることのできないムルソーの行動原理。ムルソーは「精神的に母を殺害した男としてその父に対し自ら凶行の手を下した男とおなじ意味において、人間社会から抹殺される」。 

    文庫本の背表紙のあらすじにもある通り、ムルソーは「通常の論理的な一貫性が失われている」人間として描かれている。しかし、本作の狙いはいわゆるふつうの人間にもムルソー的側面があると警鐘をならすことにあると感じた。

    主人公の社会への馴染めなさ的な部分は村田沙耶香の小説の主人公にも似たものを感じた。もちろん、コンビニ人間は不条理を扱った小説ではないが。

    人間社会から抹殺されることはないにしてもある種魔女狩り的な、多数派が少数派を裁判する構造自体はありふれている気がする。
    犬とか猫とか小さい子供とかが嫌いというと冷血だと言われるのとかその典型かと、、。
    みんなどこかしら異邦人なんだろうなあ。

  • ぶっさんにおすすめされて手に取る。
    ミーハー読書家としては、避けては通れない不朽の名作。

    偶然にも本書の一つ前に読んでいたのが「コンビニ人間」だったので、古倉恵子とムルソーが重なった。
    個人的にはコンビニ人間の方が読みやすかった。
    もちろん、和書であり時代が現代であるというのも読みやすい理由だが、現実感があり身近に感じやすいというのが大きい。本書の主人公ムルソーはあまりにもぶっ飛びすぎていたかな笑

    また、コンビニ人間が正社員として働かず結婚しないという社会のマニュアルからの逸脱に関してであるが、
    異邦人は殺人という一つ道徳的なルールからの逸脱がある。ここをどう捉えるかであるが、それに対して一貫性の欠如を責められ死刑を宣告されても仕方ない気はする。

    <登場人物>
    ムルソー 主人公
    マリー 彼女。
    レエモン 倉庫屋。

    • Big Bさん
      僕も読んでいて、コンビニ人間みたいだなあと思ったのでこちらの感想には共感しっぱなしでした!!
      社会からのズレ加減が似ている気がします。一方は...
      僕も読んでいて、コンビニ人間みたいだなあと思ったのでこちらの感想には共感しっぱなしでした!!
      社会からのズレ加減が似ている気がします。一方は死刑で命まで奪われるのに一方はコンビニバイトを粛々と続けていけるのは理解できないものへの社会のリアクションが異なるだけで二人は本質的には似通った人間なのかなと。
      2021/02/14
  •  高3から何度も読んでしまう一冊。いつもは聴聞司祭とのやり取りで気圧され、ラスト数行で心地よい気分に浸って終わってしまうので今回は東浦さんの『晴れた日には異邦人を読もう』を手引書にして再読。ラストの心地よさで意識の表面に出てこなかったカミュの愛した情景の素晴らしさを実感できた。ムルソーという人物をこれまで崇拝の対象とも狂人とも言えない形容し難い人物として接し、なぜか彼に親近感が湧くのが不思議で仕方がなかった。手引書をもとにムルソーと接したことで、ムルソーがとても気を遣える不器用人間といえることに納得でき、そこでやっとムルソーへの親近感の正体がわかった気がした。
     未来への確証のない可能性よりもありのままの今の素晴らしさを全身で謳歌する。そんな姿が自分にとって理想であり、今の自分はそこに近づいているのかもしれないと感じて高校生の自分に自慢したくなった。


  •  わたしたちは見放されている、と思う。
     それは“死”を考えれば明白だと思う。わたしたちは、毎日間接的に、無数の死と接触する。朝のニュース番組でかもしれないし、電車の中で眺めるスマホのニュースかもしれないし、交番の掲示板かもしれない。わたしは、そのたびに、とても不思議な感覚を覚えることがある。 
     家族や、友人、恋人、同僚、上司、部下からその名前で呼ばれ、出席番号や、成績表があって、アルバムを覗けば笑顔で映っていて、公共料金の支払いが届き、空腹や眠気、さみしさや人恋しさを感じる、いきもの。それが、ふいにふっと消滅してしまうことに、わたしは、得体のしれないものに対する恐怖を感じる。
     命は幾つかの道徳教育や、最後にはちゃんちゃんと、笑顔で終わるような調和に支えられた“確かな”ものなんかではないんだと思い知るからだ。
     “私ははじめて、世界の優しい無関心に、心を開いた”
     この一文は、『異邦人』を象徴する一文だけれど、“世界の優しい無関心”このことを考えると、わたしじしん、生きている日々のなかで感じる、心細さや不安の正体を分かりやすくしてくれてるんじゃないかと思う。
     そう、わたしたちは、あまりにも、他人に自分に、無関心なのだ。
     上に書いた「他人の“死”に対する態度」がまさにその証拠と言っていい。みんな、自分の目の届く範囲の自分を中心に据えた世界のなかで、笑ったり泣いたりしながら生きている。関心を持てるのもその範囲まで。
     そこに国家(わたしは○○人のような)や宗教や道徳感、季節だったり、文化のような、より大きくて、より抽象的な共同体に生きていると錯覚する。
     主人公ムルソーは、この錯覚をなしに生き、動悸のない殺人を侵す。そのために、共同体に生きている人々からは、その道徳感の欠如や、倫理観の欠如を恐れられ、死刑に追い込まれる。まさに“異邦人”なのである。
     “異邦人”にはこんな意味もある。
      【聖】ユダヤ人以外の人々。神の選民であるユダヤ人に対して、選民ではない他民族・他国民。
     そして、彼が“異邦人”と見なされたひとつひとつの理由を紐解いていけば、彼が追い出された世界の全貌が見えてくる。
     母親の死に涙を流さず、悲しいと思わなかったこと。その年齢を知らなかったこと。その翌日にガールフレンドと海水浴に行き、お笑い映画を見て、セックスをしたこと。友人の痴情の縺れに巻き込まれ、殺人を犯したこと。死体に4発の銃弾を撃ち込んだこと。神を信じるかという問に「信じない」と答え、悔悛ではなく倦怠を感じると口にしたこと。
     つまり、この“邦”の一員であるには、母の死に対して声を上げて泣き叫び、絶望し、そのために生きる希望の一切を失わなければならない。殺人を犯したとしても、その行為に対して「わたしは一体なんてことをしてしまったんだ、こんなわたしを神は決しておゆるしにならないだろう」と深い後悔に打ちひしがれれば、その殺人の罪はぐっと軽くなる。そんな“邦”に彼は生きていたと言える。
     彼が「太陽のせい」で、死体に四発の銃弾を打ったことに関して、もっともらしい理由が描写されない。「そうは言っても本当は」を読者も、作中の裁判に関わった全ての人が聞いたいのに、だ。
     「確実に殺したと確信できなければ、身が危険だと感じたからだ」とか「はじめて人を打ち殺したことにひどく動揺していたから」とか「興奮状態にあって、引き金を引かずにはいられなかったから」とか、言い訳はできないでも無かっただろう。
     ただ、彼は「太陽のせい」と答えて、その誠実さが、評価されると疑っていなかった。自分はこの人々の理解を得るのだと心の中では思っていたのではないか。
     彼は根本的な部分を見誤っていた。裁判所では、公平無私で絶対的な基準に照らされて、その判決が行われるのだと。そして見事に裏切られた。人間を裁くのが、人間である以上、公平無私なんて有り得ないのに。でもそれが彼であって、この事件が成立し得た、もっと言えば、彼の生の辿り着く確実な未来だったのかもしれない。
     彼は自分の誠実さに、もっと言えば、自分の存在そのものから死刑を言い渡されたようなものだった。まるで、自らの口で、自らの尾を飲み込むウロボロスのように。
     その点で、同情はできない。
     が、純粋な“異邦人”である彼が、目にした、現実世界の異様さが、この作品で語られた極致なのかもしれない。同情はできないが、同感な所は多々あった。冒頭の“わたしたちは見放されている”とは、この世界の不確実性ら、ランダム性のことだ。この世界では、自分がいつ“異邦人として追放されてしまうか分からない”のだから。そのことがとても真面目に、正確に描かれていたと思う。
     実用的に本書を読解するのなら、自分が今いる集団における秩序を常に注視する必要があることが読み取れる。日本では、それが“空気”かもしれない。イスラム圏では“宗教”だし、アメリカでは“肌の色”かもしれない。この世界も、動物たちの世界と同じように、臆病な非捕食者が捕食者から逃れ得るということだ。人間世界は、自然世界の暴力的本質をそれぞれに置き換えているということだ。
     文学的に本書を読解するのなら、世界のアルゴリズム的な暴力が無関心と捉えられていて、だけれども、その無関心のなかで生きている人々の営みを肯定している。「死」という確実の中を生きる人々が、達観すればすべて灰燼に帰す、無意味な生を、ママンが死の間際に許嫁をもったように、伴侶や愛する人を求め、夕暮や波や風などの自然に慰められ、サラマノ老人が、女房の代わりに憎しんではいたが、老犬を大切に思っていたように、マリイがボーイフレンドを求め、キスを求め、結婚を求めたように、レエモンが彼に仲間になってもらいたかったように、その生を肯定していたのだ。
     それが驚きだった。そのメッセージが、呼んでいるわたしの胸を熱く抱擁した。作者は、生きているものすべてを“特権者”と読んだ。最後には処刑される死刑囚として、どんなひとの行いをも、文字通り“等しなみ”にして、彼はそんな人間の営み全体を“愛する”。それが“真理”なのだと、彼は自身の死を前に心の底から確信する。祈りや、信仰によって人間を定義(差別し、断定しようとする)する御用司祭(この場合は宗教)に反対する。
     それは“どのように生きてもいい”という人への肯定的なメッセージのように思えた。
     わたしは、この文章を、特にムルソーの生活描写がとても美しか感じて、気に入っているのだけど、それは上に書いたような哲学が彼を貫いているからなのだと思う。
     処刑の日に、群衆から憎悪の叫びを浚うことを願う彼の眼には、その光景が、親愛な家族から慈愛の眼差しで、その最期を看取られるのと同じように見えるのだろう。
     今の段階で読み解ける範疇はここまでだけれど、本作を書くにあたって、ムルソーという人間がどのような経路を辿って造型されたのか。
     いまや、無宗教どころか、共同体としての風習さえ薄れ、途切れてきた日本人にとって、読み考える意義のある一冊だと思う。彼は、あくまでも、解のひとつなのだけれど。

  • 海水浴場で思わぬ事態に巻き込まれたことで人を殺してしまい、斬首刑を言い渡された男の話。正直、裏表紙の解説文とは、かなり印象の違う作品であった。それは主人公の奇行の部分だけをあげつらっただけだからだろう。作中では主人公を感情のない冷徹な人物のように評しているが、わからないわけではない。そのような周囲や社会とのズレは私にも同じようにある。物語としては複雑ではないが、哲学的な思想が織り込まれているため、やや難解な文章である。ただ名著と言われるだけあって、何度も読み込めば深く味わえる作品だと感じた。

  • 世界は無関心で、それゆえに人は自由なのだろう。
    これぞ小説!とうならされた。
    歴史に名を残す小説のなかにも、正直「よくわからないけど、すごいんだろうな」といった感想を抱いてしまう物が少なからずあったがこれは違った。心が震える感触がある。

    批判を恐れず申しあげると、最後の2ページ以外はいくぶん退屈かもしれない。それは、邦訳するとどうしても違和感を伴ってしまうフランス語のせいもあるだろう。だからといっていきなり最後の2ページだけ読んだところで感動は無いだろう。めでたしめでたしではなく、それどころか何かの終わりですら無く、また、1番重要なことだが、安っぽいどんでん返しでも無いラストである。とにかくその2ページがものすごくいい。世界は無関心で、それゆえに人は自由なのだろう。孤独はただの自由、というある詩人の言葉を思い出した。

    もう一つ。裏表紙のあらすじは、たしかに何一つ間違っていないが、少しも的を得ていないかもしれない。
    たいていの小説は、あらすじから主題や雰囲気は把握できるものだが、この小説ほどそれらとの奇妙な乖離を感じ、そこに心なしかうれしい驚きを覚えながら読んだ本も無かった。ムルソーは奇人でもなんでもないのだ。

  • 愚直。理はムルソーにあり。

  • 感情が欠如しているサイコパス男、ムルソー。母親の死後、彼に起こった出来事を通じて、世の中の不条理を描いた作品。


    ある日、老人ホームから母の訃報が届いた。
    その老人ホームは離れたところにあるため、ムルソーは以前から、母親に会いに行くのを面倒だと感じており、またせっかくの休日を無駄にしたくないという理由から、母親が生きている間もほとんど会いに行っていなかった。

    葬式のために来たムルソーに対し、施設関係者や司祭が慰めるように話しかけてきたが、ムルソーは落ち着き払って淡々と答え、司祭の「あなたの母は歳をとっていたかね?」という質問にも、実際年齢を知らなかったこともあり「まあね」とだけ答えた。更に亡き母の前で、門衛の男とミルクコーヒーを飲んだり、煙草を燻らせたり、柩の中にある母の顔を見ようともしない態度に周囲の人は違和感を感じていた。

    葬式の翌日、ムルソーは不謹慎にも海水浴場へ出かけ、そこで元同僚の女性マリイ・カルドナと再開する。それから2人は喜劇映画を観て笑い、ムルソーの部屋で一夜を共にした。

    その後、親しい隣人のレエモン・サンテスという男のいざこざに協力し、彼はムルソーとマリイを、自分の友人マソンの、浜辺にある別荘に招待する。
    そこでレエモンに恨みを持つアラビア人たちと遭遇。揉み合いになり、撃退はしたもののレエモンは刃物により負傷させられてしまう。

    彼の治療が終わってから浜辺を散歩していると、再びアラビア人と遭遇した。ムルソーは彼が早まった行動に出ないようにピストルを預かり、結局アラビア人たちは逃げていったが、その後ムルソーは1人でアラビア人と遭遇し、相手が刃物で攻撃してきたことと、太陽による暑さで判断力が鈍っていたこともあり、正当防衛でピストルの引き金を引く。加えて、身動きしない体に4発撃ち込んでしまう。


    そうしてムルソーは逮捕され、警察や予審判事によって尋問を受ける。そのうち弁護士もついたが、人の感情が欠如している上に馬鹿正直で異常なムルソーに対して弁護士は嫌悪感を抱いた。判事はムルソーに神の存在を認めさせようと熱心に説得するが、そういうことには興味がないと言って否定する。

    法廷では、ムルソーの知人や恋人のマリイも無罪を訴えるために証人台に立つが、検事が長広舌をふるい、母親の葬式での態度や翌日の行動についても言及し、周りに無関心なムルソーは不利になっていく。最終的に判決は有罪。ムルソーは広場で斬首刑をうけることが決まる。

    死刑が決まり、自問自答を繰り返すムルソーの下に司祭が訪れ、特赦請願をチラつかせ神の存在を認めさせようとするが、彼はそれを否定する。それでも身勝手な説得を繰り返す司祭に対して、彼はついに激怒し、罵り、心の底をぶちまけた。

    ムルソーは落ち着きを取り戻し、大きな憤怒の後で冷静になった感情と、星々とに満ちた夜を前にして、世界について思った。この世界の優しい無関心は自分と似ていると。世界との親近感を感じ、自分が幸福であることを悟った。そして、処刑の日に大勢の見物人が、憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを願った。



    母親の葬式から逮捕までの第一部と、刑務所での生活から死刑確定までの第二部とに分かれていたが、第一部では何の物語が全く理解できず、変わり者の主人公が、変人の知り合いたちの不思議な生活を観察して日々過ごしているような感じで退屈な内容だった。レエモンに恨みを持つアラビア人たちに遭遇して、ようやく物語が動き始めたように感じた。

    ムルソーが逮捕された後の尋問によって、今までの意味深なやりとりが、物語にどう繋がってくるかを理解して、確かに不条理で人の世の異常さをうまく表現していると思った。

    ムルソーは自分なりに人生について考え、真理を捕らえ、正直に生きてきたが、正当防衛による殺人と様々な事象が重なったことで、彼の特異な性格が晒され、それ自体が悪だとして裁かれてしまう。

    死刑の理由は、母の埋葬に際して涙を流さなかったこと。周囲に対して無関心であること。動機は太陽のせいだと答え、興奮して倒した相手に4発撃ち込んでしまったことなどがあったが、それぞれの事柄が必ずしも罪だとは言い切れない出来事で、それだけで彼を悪人だと決めつけるには不十分だという事は誰でも理解できることだと思う。

    ただ一つ言えるとすれば、ムルソーは世間一般と違った性格を持った「異邦人」であるということ。

    人間によって造られた社会で、周りと違うことが本当に悪なのか?死を前にして世界の真理と真剣に向き合ったムルソーと、社会に溶け込み盲目的に神を信じる姿勢を崩さない司祭。本当に正しい、あるいは幸福と言えるのはどちらなのか?

    言い換えると、自分を信じて早死にするか、他人に合わせて長生きするかという究極の選択。物語の流れ的には不条理な世の中は間違っており、ムルソーはその犠牲者だと言いたいところだが、多くの人は自ら死に向かうほどの信念は持ち合わせていないだろうし、そうするべきだとも思えない。

    最近俳優の三浦春馬が自殺した事が話題になっているが、演技も歌も踊りも何に対しても真剣でストイックな印象を持っていたこともあり、その正しさ、真面目さが自殺という選択をする要因になってしまったのではないかと、勝手ながらに想像してしまった。

    話が脱線したが、結局この問題は、自分の信念は内に秘めておき、不条理な世の中に合わせるフリをして自分の人生を生きることが正解だと思った。

  • ブンガク(難解)
    かかった時間110分

    母の葬儀の翌日にデートをして喜劇映画を楽しみ、特別親しいわけでもない友人のために手紙を書き、太陽の暑さにやられて人を殺す。処刑を目前にして司祭にブチ切れ、あらゆることを終わってしまったことと考える。そんな主人公。

    解説によるとこの作品は、嘘をつかない主人公のある種の誠実さが、システマティックな世の中では受け入れられず、それをわかっていながらも抗い続け、命と引き換えに自身の真実を貫く姿を描いたものらしい。
    その意味で、「人間失格」的な、そして、嘘の拒否が悲劇?の発端となるところからは、「リア王」的なものとのつながりを感じる。

    ところで、読みながら、これはひとりの発達障碍者の物語じゃなかろうか?と思った。ムルソーの認知の歪みのようなものや、自己を自己としてまとめる結び目のようなものの「なさ」、暑さや音、色へのこだわりと、心情的なものへの無関心などは、そういった特徴と重なる気がする。

    また、個と社会の反転可能な対立関係みたいなものが読めた。

    解説がなんとなく作家の年譜や作品の受容史寄りのように思えたので、この作品の解釈をいくつかきちんと読んでみたいと思った。

  • ▼「異邦人」カミュ(窪田啓作訳)。新潮文庫。初出はフランス語で1942だそうです。

    ▼とても薄い文庫本で、考えたら何十年も「いつか読みたい本」だった一冊。とうとう読みました。不条理不可解芸術小説かな?と思っていたら全然違って、大変に面白かった。後半終盤は打ちのめされました。さすがです。

    ▼そもそも舞台がアルジェリアです。北アフリカです。フランスの植民地でした。ムルソーという、大まかに言うと貧しい部類の青年がいて、母子家庭で育ち、今はサラリーマンをしているのだけど、冒頭でお母さんが病死します。離れた施設?にいたみたいで、休みをとってかけつけて、段取りをします。それから海でぶらぶらして、知人の女の子と出会ってデートして良い感じになったりします。一緒に知人の別荘?だったかに遊びに行き、その知人というのがやや愚連隊で、対立グループと喧嘩になって、巻き込まれて、主人公は一人銃で撃って殺してしまいます。で、裁判にかけられて死刑宣告を受ける。
    ・・・という流れです。

    ▼この主人公さんが、とても自意識が高いのか、別段母が死んでも嘆かない。この主人公はそれなりに問題なく生きているように見えて、さまざまな偏見や蔑みや抑圧や暴力や貧しさといった、そういったものに支配され、翻弄されて生きている。でもそこで暴発したら変人扱いされる。そんな「皮膚感覚」みたいなものがヒリヒリと伝わってきます。説明されずに伝わってきます。ハードボイルドです。ハードボイルドなドストエフスキーという感じがします。ちょっとチャンドラーに似ています。

    ▼終盤で、死刑宣告後に神父さん(牧師だったか?)の「許し」みたいな誘いを、激高して拒絶するくだりがあるんですが、白眉でした。圧巻でした。カミュすげー。

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