ペスト (新潮文庫)

  • 新潮社
3.77
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本棚登録 : 4036
レビュー : 356
  • Amazon.co.jp ・本 (476ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114032

作品紹介・あらすじ

アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。

感想・レビュー・書評

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  • 緊急事態宣言が発令される前、この作品が、コロナウイルスの感染が拡大する現代社会と重なる描写が多く、今かなり売れているらしい、というのをおそらくフォロワーさんのレビューで目にして、3月中旬から、「ペスト」探しの旅に出た。
    その頃は、2月上旬から4月上旬までの2ヶ月でこれまでの30年分の増版がなされたことなんてつゆ知らず、まったりとブックオフから探し出していて、あとは歩いていて目につく書店すべて訪れて探し回って、紀伊国屋書店本店で一冊もなかった時に、思っているよりもものすごい勢いでみんな「ペスト」を購入しているんだなと、少し焦る。どこかで、なんの根拠もなく、「自分だけが今『ペスト』が話題なのを知っている状態」だと思っていたので、ものすごく恥ずかしくなった。大人しく近所の本屋で予約購入。

    わたしがこの本を入手できたのが4月16日。そして、この作品で舞台となっているアルジェリアのオラン市で、ペストが発生したと思われるのが、4月16日。
    思いがけないこの偶然に、とても、いやだいぶ運命的なものを感じてしまって、一気読み…
    と言いたいところですが、一気読みには程遠く、半月かかってしまいました。翻訳にだいぶてこずってしまった、のが一番の理由です。物語が進むところはそれなりにすいすいと進むのですが、哲学者でもあるカミュが考えていることが難しいのか、訳が難しいのか、「彼」というのが誰を指しているのか、当時の時代背景の知識不足からくるものなのか、とにかく何度も躓いた。それでもこうしてなんとか最後まで読んで、なぜこの作品が、たった2ヶ月で30年分も増版することになったのか、どんな風に描かれているのか、そういったところを中心に、かつ、100分で名著を同時進行で見ながら、読み進めた。

    作品の中で描かれているのはペストという疫病だけれど、テーマとなっているのは不条理。そして、最も描きたいのは、戦争という不条理だろう。
    100分で名著で伊集院光さんが、この不条理を「いじめ」とも捉えることができると言っていた。巨大地震、災害、貧困問題、そういった事象にも置き換えられる作品だと思う。

    ここからは引用しながらなので長くなります。

    P55天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときには、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。

    最初、日本ではそこまで脅威とは感じられていなかったコロナウイルス。日本人が本格的に危機感を持ったのは、志村けんさんが亡くなったあたりではないか、と個人的には感じている。

    P73諸君がこれをペストと呼ぶか、あるいは知恵熱と呼ぶかは、たいして重要なことではありません。重要なことは、ただ、それによって市民の半数を死滅させられることを防ぎとめることです。
    P74問題は、法律によって規定される措置が重大かどうかということじゃない。それが、市民の半数が死滅させられることを防ぐために必要かどうかということです。あとのことは行政上の問題ですし、しかも、現在の制度では、こういう問題を処理するために、ちゃんと知事というものが置かれているんです。

    上に立つ人は、いつの時代も発言におそるおそるだ。何かを決めて行動する、それはものすごい決断力が必要だし、責任が伴う。いつの時代も、みんなそこから逃れたい。でも、国民の命を守らなければならない。安倍首相が急遽決定した、全国一斉休校の措置。最初はみんな戸惑った。文句もたくさん言った。でも、最近の報道を見ていて思う。継続して学校へ行っていたら。もしかすると、もっともっと今よりも感染が拡大していた可能性だってあったのではないか。卒業や入学シーズンと重なり、とても急に、大切なものを奪われたような気持になった人もたくさんいるはず。でも、命は守られた。

    P95「ペストチクタルコトヲセンゲンシ シヲヘイサセヨ」
    P96この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となったということができる。

    そしてその後発令された、緊急事態宣言。ステイホーム。

    P101事実上、われわれは二重の苦しみをしていた―まず第一にわれわれ自身の苦しみと、それから、息子、妻、恋人など、そこにいない身の上に想像される苦しみと。

    この点は現代、オンラインがあって本当によかったと思う。そして、コロナウイルスの感染拡大によって、なかなかすすまなかったテレワークが進んだ人だっているし、オンライン授業だって可能になることだって気付かされた。オンライン飲み会、オンライン帰省、意外といいなって思った人は結構いるはず。

    P103この病疫が六ヶ月以上は続かないというなんの理由もないし、ひょっとすると一年、あるいはもっとかもしれない

    長引きそうな緊急事態宣言。もしかすると、6月以降も継続するかもしれないですよね。

    P116ある朝一人の男がペストの兆候を示し、そして病の錯乱状態のなかで戸外へとび出し、いきなり出会った一人の女にとびかかり、おれはペストにかかったとわめきながらその女を抱きしめた、というようなうわさが伝わってきた。

    ここを読んでいる時、ちょうどそんなニュースを観たもので、カミュの鋭い洞察力と想像力に感服。いつの時代にもこういう人っているんだろうか。

    P174頻繁に、ただの不機嫌だけに原因する喧嘩が起り、この不機嫌は慢性的なものになってきた。

    「コロナ離婚」という言葉がささやかれるようになったくらい。DVや虐待の悪化を、ただただ懸念しています。

    P257すべてはまさに最大限の速度と最小限の危険性をもって取り行われた。
    P260すべての作業のためには人員が必要であり、そしてしょっちゅう、まさにそれに事欠こうとする状態にあった。最初は正式の、後には間に合わせの職員であったこれらの看護人や墓堀り人夫も、多くのものがペストで死亡した。どんなに用心してみても、いつかは感染してしまうのであった。
    P280恐怖にさらされた、死者続出のこの民衆の中で、いったい誰に、人間らしい職務など遂行する余裕が残されていたであろうか?
    P282病毒に冒された家へ行かねばならぬことを、最後のぎりぎりのときになって知らされたりすると、どこかの消毒所まで引き返して、必要な薬液の注入を受けることなど、やらないうちからもう疲れ果ててしまうような気がするのであった。

    患者さんと毎日向き合っている医療従事者の方には、本当に心から感謝と敬意を表します。何もできないで家でくさくさしていることを申し訳なく思いますが、今わたしにできることは、自粛くらいです。

    P268市民たちは事の成り行きに甘んじて歩調を合わせ、世間の言葉を借りれば、みずから適応していったのであるが、それというのも、そのほかにやりようがなかったからである。
    P376りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためには、それこそよっぽどの意思と緊張をもって、決して気をゆるめないようにしていなければならんのだ。

    今のわたしたちは、このあたりにいるんでしょうかね。
    一人一人がそれぞれ自分の方法で戦っていても、マスクや消毒液はないし、液体せっけんも品薄。それでもスーパーには行かないと生活できない。スーパーには、びっくりするくらい人がいる。なんとか、スーパーの丁寧な対応によって、消毒済のカゴを持ち、間隔を空けて並ぶことができたり、飛沫感染を防げたり。
    自分と他人を守るには、やはり、できるだけ家にいるしか方法はないんでしょうね。

    作品の中には、「内なるペスト」の話が出てきます。誰しもみな、心の中にペストを抱えているという。例えば、100分で名著では伊集院さんがペストをいじめに例えていたとお伝えしましたが、これだって、いじめを見て見ぬふりをしていた人だって、ペストを抱えていることになる、というもの。なるほどと思った。P362以降のタルーとリウーの会話、特にタルーの語りは興味深く、ページをめくる手が止まりませんでした。タル―が抱えるペスト、とは。
    また、引用は疫病の部分にフォーカスしましたが、この作品の哲学的な描写や、パヌルー神父の変化、などにもフォーカスして読むとおもしろいと思います。パヌルー神父は当初「ペストは神からの罰」的なことを言います。以前、東日本大震災があった時に、前の都知事が同じようなことを発言され、かなり批判を浴びました。それと同様のことを発言していたパヌルー神父。かなり衝撃的な運命をたどります。
    ちなみに、背景としては神が不在なので、無宗教である日本人には刺さりやすいのかな、という感覚を持ちました。

    100分で名著がなければ、これほどきちんとは理解できなかったように思います。今の時期に読んだからこそ、ペストという疫病の方にばかり注目してしまったけれど、今読まなかったらわたしはどの部分に注目していたんだろう。ペストという疫病を、自分自身においては何にあたるのか、自分の人生における不条理とはなんなのか、もっともっと、掘り下げて考えただろうか。

    ※こちらのレビューは、noteにも記載しております。(https://note.com/tattychannel/n/n345b056fcf74

    • トミーさん
      手に入れられるまでご苦労様なさったのですね。
      根気よくお読みになったのがわかります。
      ありがとうございます。

      何が一番大切なのか、優先順位...
      手に入れられるまでご苦労様なさったのですね。
      根気よくお読みになったのがわかります。
      ありがとうございます。

      何が一番大切なのか、優先順位は大事ですね、
      近視眼にならずに、
      高所から、判断できるように
      またこのレビューを、読み返させていただきたいです。
      2020/05/03
    • とろさん
      ご丁寧なレビューですね、私も高校生時代…もはや15年以上前に購入…当時はほぼ斜め読みで…たまたま100分de名著オンデマンド視聴を機に再読し...
      ご丁寧なレビューですね、私も高校生時代…もはや15年以上前に購入…当時はほぼ斜め読みで…たまたま100分de名著オンデマンド視聴を機に再読しました。
      訳の難しさなんですかね…。再読といってもかなり時間かかりました。
      伊集院光さんのコメント、いいですよねー!うまく、今を生きる人への救いに繋げてくれますよね、いい例を挙げて。
      2020/05/15
    • 大野弘紀さん
      オリエンタルラジオ(兼パーフェクトヒューマン)の中田敦彦氏がYOUTUBE大学で紹介していました。改めて。時系列を問わず。本質を抽出する。そ...
      オリエンタルラジオ(兼パーフェクトヒューマン)の中田敦彦氏がYOUTUBE大学で紹介していました。改めて。時系列を問わず。本質を抽出する。その眼差しは、哲学者や芸術家のそれに、似ていますね。

      2020/06/21
  • カミュ『ペスト』新潮文庫。

    新型コロナウイルスの感染拡大のニュースに本屋で目にして思わず手に取った古いフランス文学。大概の有名な作品は読んでいるが、この作品は若い頃にも読んだという記憶は無い。

    伝染病の始まりというのは僅かな日常変化なのだろう。1940年代、アリジェリアのオラン市で医師のベルナール・リウーが鼠の死骸を発見したことから物語が始まる。次第にペスト感染者が拡大し、オラン市を封鎖し、ありとあらゆる施設を感染者の待機場所にして感染を封じ込めようとするところはまさに中国の武漢市と同じで、市民が不条理に苛まれる姿も現在の日本の状況と同じであることに驚いた。

    我々の生きているこの時代は阪神淡路大震災、東日本大震災、台風、竜巻、そして新型コロナウイルス感染拡大と死と向き合わざるを得ない自然の猛威を見せ付けられる特殊な時代なのだと改めて思う。

    本体価格750円
    ★★★★


  • ただただ続く不幸や不条理の連続に、まるで延々と暗がりの部屋で読んでいたような感覚に陥ってしまいました。

    オーウェルの『1984年』や、映画『コンテイジョン』『復活の日』などのディストピア系の作品が近頃流行り始めているのは、迫りくる現実を客観的に見て、
    どうすることが「正しいこと」なのかを考えるために読んでる人がいるのかもしれません。

    この物語は、
    『四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診療室から出かけようとして、階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまずいた。』
    という、当たり前の日常の、少しの違和感から始まります。
    ただの1匹の鼠の死骸が、日に日に夥しい数になり、やがて、人間にも感染していくようになりました。
    感染者は増え、街を封鎖しましたが、本当の恐怖はこの、封鎖した中で広がっていくこととなります。

    まるで未来予知のごとく、今起こっている現実にものすごく近くて、ページをめくるのが怖くなりました。

    きっと、フィクションであれば、すぐ読めたのですが、そうもいってはいられない現状で、何度も読むことをやめて、また読むことを繰り返し続けました。


    作者は1人であるにもかかわらず、物語の中では、さまざまな考えを持つ人がいます。
    何となく自分はこの人に近いかもしれない、と思うこともあるかもしれません。
    設定上では、この物語を書いているのは、登場人物の中の1人です。それは誰かは書きませんが、想像を膨らませながら読むのも一つの楽しみ(?)だと思います。

    物語の最後をどう捉えるか。僕は、物語終盤でリウーの感じたことが、まさに的確な意見に思えました。

    向かい風が吹き荒れる現実に、立ち向かうにはどうするべきか。まだ風が弱いうちに、少し考えてみるのもよいのかもしれません。

  • 2020年春、新型コロナが席巻する世界において、改めて読み直されている不朽の小説。
    アルベール・カミュはこの小説の成功で1957年にノーベル文学賞を受賞している。
    その卓越した着想と構想、洞察力により、現代の社会生活を送る人々に対しても一定の普遍性を持つ内容となっており、忍び寄る新型コロナの恐れに対し実体験として多くを共有できるものである。
    本書のテーマである「ペスト」は「悪」の象徴であり、「戦争」であったり「いじめ」であったり「全体主義」であったりと寓意として様々な事象に置換できるものという解説もあるが、閉鎖された空間における不条理への対応ということで、やはり感染症に侵される行き場のない人々というテーマがもっともしっくりとくる。

    フランス領アルジェリアの都市オラン。ねずみが大量死することから事は始まった。
    不気味に思う人々。そして、人間にも症状が出始める。やがて広がる人々への伝播。症状から病名はペストと判断される。
    都市封鎖。感染病棟の大幅拡充。濃厚接触者の大規模隔離施設。大量死による墓地の飽和。
    閉鎖された空間の中で人々はどのように振る舞うのか。不条理な状況下に突然おかれた人間たちの想いと行動が交錯する・・・。

    この作品は主人公である医師リウーの視点を通底としているが、ときおりリウーは同志ともいえるタルーの手記を引用するという体裁をとっており、タルーの視点を多分に組み入れるという構造となっている。さらに、リウー自身を描く作者の視点と、タルーが見る人々の諸相は当然作者の掌中にあるため、こうした四重ともいえる複雑な構造が小説全体を難しくしているのではないだろうか。
    さらに、作者が描写する背景や風景、説明部分が割と長いのに加えて、文章自体が冗長的であるためこれも少し小説を読みづらくしているところである。
    また、宮崎嶺雄の訳がおそらく大部分が1950年当時のものと思われ、格調が高く重厚的な反面、現代としては少々古くなっている。
    こうした「読みづらさ」というハードルは多少あるものの、再度ベストセラーとなっているということは、あらためてカミュの描く不気味で恐ろしい社会が世の人々の実感となっているということなのであろう。

    登場人物としては先の主人公である医師のリウーと、民間の保健隊をいち早く編成し彼を助けることになるタルーがいるが、その他はひとりひとり、作者が熟考吟味した登場人物になっており、作者の思想を体現しているとも言える。
    新聞記者のランベールはたまたま都市に居合わせて都市封鎖に遭遇してしまった者である。外部の世界にいる恋人に逢いたいがため、都市の有力者を巡り自分への特権を与えてくれるよう努力するのだが、それが不可と知るや闇業者に根回しを行うのだが、合い間にペスト対策一員としての作業をしているうちに心変わりしていく。
    イエズス会のバヌルー神父は、初期ペスト禍の段階では大勢を集めてこれは神を背いた人々の報いであるとした。しかし、都市封鎖下で大量死を目の当たりにし、しかも少年が死に至るプロセスを間近で見ることでペスト対策の一員として身を捧げることになる。神への愛は困難な愛であるが必要なものであるとし、「司祭が医者の診察を求めるとしたら、そこに矛盾がある」というジレンマを抱えながら。
    予審判事のオトンもその職業柄、上から目線の人であったが、息子が死に濃厚接触者として長期隔離され家族と離散することで、社会貢献の意志により隔離施設の事務手続きを行う役をかって出る。
    グランは役所の下級役人でリウー医師と親しくしている。役所での仕事の傍らで保健隊にも属し、また自分を見限り捨てた妻を想いだし、小説の出だしの文章をずっと考え続けている。
    コタールは謎の犯罪者。今回の非常事態下で犯罪捜査が緩み、その存在を当局から黙認されている状況をほくそ笑んでいる。タルーからはそれが彼の唯一赦しがたい罪だと断定されるが、その非常事態が解かれた後、彼がとった行動は反社会的なものであった…。
    唯一、ペスト禍の都市封鎖の中においても、世の中から隔絶し喘息に病みながらも豆を移動させ達観の境地にいる老人。タルーが「これは聖者か?」と自問する対象となる。
    そして、タルー。ある意味、作者が最も思い入れを深くしている人物像と思われる。死刑制度に反対し、そうした団体に属すも孤高の存在として不幸な人々のうちに入ることを望む。あくまでも理不尽なもの不条理なものと闘う反抗姿勢を見せる。

    この小説ではペスト発生当初においては当局はそこまで深刻なものとせず、あまつさえ言葉の定義ややり方などの形式論にとらわれて出だしは大きく遅れることになる。
    様々な意見が噴出しなかなかまとまらない対応策。そして、次第に市民に明らかになる状況と都市封鎖によりパニックとなる人々。そして迎える多くの死。
    作者が登場させる多くの者が死に、また死に至る事細かな描写が何度も挿入される。
    様々な立場の人々が次第に連帯する姿。
    現代のコロナ禍と重なる部分も多く、多くの者の共感を得るゆえんである。
    だが、主人公のリウーは多くの死に直面しそのプロセスや処理を多く見ており、さらに本書の終わりの方では彼自身の不幸も多く重なることになるのだが、彼はあくまでも淡々とこれに接し、超人的な精神と働きを見せる。「おそらく、罪を犯した人間のことを考えるのは、死んだ人間のことを考えるよりもつらいかもしれない。」と考え、タルーの思想が乗り移ったかのように社会的に前向きな姿勢をみせるのである。
    神へのすがりを断り、都市封鎖を追放と捉え、自発的な連帯を期待し、感情を排除して超人的に不条理なものと闘う姿勢。
    これはコロナ禍にある現代の人々にはある意味、理想的で酷な姿勢とも思えるのだが、当時の社会情勢下、カミュが孤高に生きることを宣言した狼煙が、現代に至ってもわれわれに強く突き刺さるものとなっているといえよう。

    最後はペスト禍が終息し都市が開放される。多大な困難を乗り越えた人々は様々な歓びと感慨を抱くことになる。
    われわれもこのような時期はいづれやってくるであろう。
    しかし、本書の最後はこう綴られる。
    「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴蔵やトランクやハンカチや反故のなかに、しんぼう強く待ちつづけていて、そしておそらくはいつか、人間の不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差向ける日が来るであろうということを。」

  • コロナ禍をふまえて、いまさらの初読である。

    そうか、こういう小説だったのか。
    訳者の解説によればカミュはメルヴィルの『白鯨』を念頭に置いて本作を書いたそうだけど、たしかにそんな感じ。〝記録文学風の創作文学〟というか。

    コロナ禍真っ只中のいまだからこそ胸に迫る一節が多数。
    たとえば、ペスト禍によって封鎖された都市の住民の心情を「自宅への流刑」と表現していて、さすがにうまいことを言うものだと思ったり。

    また、「今度のペストは観光旅行の破滅であった」なんて一節は、観光業界が壊滅的打撃を受けているいまの状況を予見しているようだし、ハッカのドロップがペスト予防に役立つというデマのせいで「薬屋から姿を消してしまった」などというくだりは、コロナについてのデマが横行する現状と相似形である。

    「まったく、こいつが地震だったらね! がっと一揺れ来りゃ、もう話は済んじまう……。死んだ者と生き残った者を勘定して、それで勝負はついちまうんでさ。ところが、この病気の畜生のやり口ときたら、そいつにかかってない者でも、胸のなかにそいつをかかえてるんだ」

    ……なんてセリフもあって、東日本大震災経験後にコロナ禍を経験している我々には、とくによくわかる。災厄の終わりが見えないことの恐ろしさが。

    いま『ペスト』を読むことで、優れた文学が持つ普遍性というものを改めて感じた。

  • 194※年4月16日、アフリカのフランス領アルジェリアのオラン市(※1962年に独立するまでフランス本国扱い)で、医師のリウーは一匹の鼠の死骸を見つける。
    瞬く間にオラン市には鼠の死骸が溢れた。やがて人間にも病状が現れる。
    人が気が付かないうちに死者は増えていった。
     <「まったく、ほとんど信じられないことです。しかし、どうもこれはペストのようですね」P54>
    ペストという言葉がここで初めて発せられた。

    ===

    高校生の長男の休校期間課題読書のリストの中の1冊として購入したのを私も読んだ。長男は「読書というのは自分がしたいものをするんだ!人から言われてするもんじゃないんだーー(●`ε´●)」と言いながら、なんとか書いて出したらしい。まあ私も自分が読みたくて読んだから良いのだけど、高校の時に課題で出たら「意味わかんねーヽ(`Д´)ノ」となっただろうなあ。

    というわけで、なんとか読んだので、感じたこととかではなくほぼ要約orz(ほぼ要約なのはいつもだけど)

    小説の形式は、最初は名を明かさない”筆者”により、感染病に見舞われた町の人達の姿、炙り出される本質を淡々と記してゆくというもの。
    冒頭にはダニエル・デフォーの言葉が紹介されている。未読なのだが『疫病流行記』からの引用なのか?デフォーの「疫病流行記録は1660年代にイギリスでペストが流行したときの記録」であり、カミュと両方読んだ人はこちらの方からはこちらのほうが面白いとも言っていたので、いつか読んでみなければ。
    さて、カミュの「ペスト」は、1947年に発表されているが、作品内の舞台も194※年という同年代を舞台にしている。またカミュはこの舞台であるフランス領当時のアルジェリアのオラン市に在住した時期もあった。
    現実に即した時期や場所を舞台にすることにより、架空のペスト感染という出来事を観念的に現したのか。

    小説内での流れはこのような感じ。
    ・ペストと宣言される。
    ・オラン市は閉鎖される。
    ・食料など日常品の制限、手紙の禁止といった要項が重ねられてゆく。
    ・人々は混乱し、喧嘩や暴動に対して憲兵が出動し、菌に有益だというデマで店頭からハッカが消えたり、行くところのなくなった市民たちは映画館へ詰めかけ、予言に頼ったりする。
    ・ペストは夏の盛りには勢いを増す。オラン市にペストが来たのが4月、つまり日が経つにつれますます患者が増える一方という、まさに終わりの見えない状況。人々の精神は停滞していく。増える死者に触れても感傷の気持ちが出てこなくなる。
    ・冬になってもペストの勢いは止まらなかったが、また春が来るようになり感染者は減り、回復者も出てくるようになった。そして町の人達は町を走る鼠を見た。ペストの初期には死の象徴であった鼠が、今度は生きているものの躍動の象徴となる。
    ・人間は待ち望んだ開放に対して慎重になる。そして自分が望んでいたもとの生活、元の姿に戻れるかを恐れる。
    ペストという突然襲ってきた大きな力により、自分自身を見つめて変わった人、変わらなかった人、前とは少し違うところに着地した人。オラン市が開放されてそれぞれの道を歩みだす。
    コロナ感染の今の時代に当てはめると、人間は変わっていないなあと思う点と、でも当て嵌めすぎても解釈幅が狭まるよね、などと思いながら読みすすめてて行った。

    ペストという突然襲った大きな力により、突然の制限や死に見舞われた人間の精神的、行動的変化、人々の本質や観念が書かれる。
    登場人物たちは、各自が自分の本質を見たり、変わったり、変わらなかったりしてゆく。

    ❐医師リウー
     妻は病気のため山の療養所に行っているときに、自分の町がペストで閉鎖されてしまった。
    医師として重要な場面のほぼ全てに同行し、ペスト蔓延を見て、疲労さえも超えてゆく。だが、際限なく続く敗北であろうと、戦おうとしている。
    ペスト初期にパヌルー神父がペストを観念として捉えてその後ろに神の意志を感じるように説いたときには、その説教に反発する。リウ−にとって神よりも現実の人間の健康、役割を果たすことが第一の義だった。

    ❐カステル
     老医師で、血清生成などに務める。

    ❐タルー
     最近オラン市に住居を構えた男。手記をつけている。ペスト感染が広がると、友人の医師リウーの手伝いをする。
     終盤で彼は、リウーに自分の精神構造の根本を語る。
     <今日では、人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないでいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理のなかに含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなし得ないのだ。(…略…)われわれはみんなペストの中にいるのだ。P375>
     <誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ。(…略…)ちょっとうっかりした瞬間に、他のものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。ーその他のもの、健康とか無傷とか、なんなら清浄と言ってもいいが、そいうものは意思の結果で、しかもその意志は決して緩めてはならないのだ。P376>
    ペスト(を象徴とする、社会病理など)への対抗法は、人間同士が共感すること、理解すること。自分がペスト菌になったりペスト患者になったりしないこと。

    ❐ランベール
     新聞記者。オラン市には取材で訪問しただけなので、最初は「私はこの町には無関係」として、恋人の待つ外の町に出ようと手を尽くす。ペストという大きな力の前に、個人の幸福を大事にしたいという人物として書かれる。
     だがオラン市の様子を見ているうちに、今ここを見捨てて出ていっては、恋人に会ったとしても、逃げたということが引っかかり本当の幸せにはなれないとして、市に残り保険隊に協力するようになる。

    ❐バヌルー神父
     ペスト初期は、「神が人々に遣わした当然の報い」と説教をした。ペストとはあくまでも観念の問題だった。
     しかし医療の手伝いをして少年が長く苦しみ死ぬ様子から、意味なく失われる命への救いの無さを感じる。
     <そこには何ら解釈すべきものはないのであった。(…)世には神について解釈しうるものと、解釈し得ないものがある。ペストのもたらした光景を解釈しようとしてはならぬ、ただそこから学びうるものを学びとろうと務める。P329>
     だが神への信仰を捨てたわけではないので、自らがペストに罹ったときは医師(人間)の治療受けたら神の意思を否定することになるとして、治療を拒否する。…という形で、自分が信じた神、そしてペストに苦しむ現実の人々をみて、彼なりの信念を貫いたのだろう。

    ❐オトン
     型にはまった判事だが、家族の感染や自分の隔離を経て、小さなことからでも役に立ちたいという考えに変わってゆく。

    ❐グラン
     好人物の下級役人。ずっと昔に妻が駆け落ちして出ていったことから、手記を書きたいと思っているが、妻に気持ちが伝わるように完璧な言葉を考ることに苦慮している。
    現実のペストの脅威よりも手記の書き出しのほうが苦悩が強いくらいで、そのためにむしろペストに対する過度な恐怖はなく、町で募集している保険隊の仕事に就くことになる。
     <現にペストってものがあるんですから、とにかく防がなきゃなりません。これはわかりきったことです、まったく、なんでもこれくらい簡単だといいんですがね。P195>
     自分を捉えてて閉じ込めていた執着(手記書き出し)は出口のない迷路をぐるぐるぐるぐる回っているようなものなので、それがペストという現実に対してどの様に変化したかなど、変わった人間として書かれる。

    ❐コタール
     どうやら犯罪者として出頭を命じられる寸前だったらしい。ペスト流行により裁判は中断したため、彼は裁かれないこと、自分が孤独な犯罪者でなくなったこととして事態を喜んでいる。
     そのためペスト収束時を認めたがらず、むしろ自分を失ってしまう。

    ❐老人
     名前はないが、リウーの患者である老人は、ただそこに存在する悪意のないものとして何度か登場する。

    ❐施政者たち
    いわゆる行政の対応の遅さ、お役所仕事ぶりが書かれる。
    ペスト初期には、議員、判事、医師の会議では、現実的に人が死んでいることよりも、「ペスト」という死病だと宣言して良いのか、それによって責任がどう生じるのか、などが主題になってしまっている。
     <問題は、法律によって規定される措置が重大かどうかということじゃない。それが、市民の半数が死滅させられることを防ぐために必要かどうかということです。あとのことは行政上の問題です。P74>
     <「言い回しは、私にはどうでもいいんです」「われわれはあたかも市民の半数が死滅されられる危険がないかのごとく振る舞うべきではない。なぜなら、その場合には市民は実際にそうなってしまうでしょうから」P76>
    さらに、ペスト大流行最中で死者が増え続けて行ってからも、<新聞と当局はペストに対してこの上もなく巧妙に立ち回っているP165>という発表がなされるなど、上辺だけの態度の批判するような記述も出てくる。

    ❐市民たち
    施政者に文句をういつつ市民たちもどこかしら他人事。最初に感染症の現実を突きつけられたのは、フランスによりオラン市の閉鎖命令が出されてからだ。
     <この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となったということができる。P96>
     オラン市は20万の住民がいて、初期には1週間で300人程度の死亡者ということ。だが誰もこれが多いのか少ないのか、通常の状態を知らず、判断のしようもなかった。
    疲労はやがて無感動になってゆく。
     <「まったく、こいつが地震だったらね! がっと一揺れ来りゃ、もう話は済んじまう……。死んだ者と生き残った者を勘定して、それで勝負はついちまうんでさ。ところが、この病気の畜生のやり口ときたら、そいつにかかってない者でも、胸のなかにそいつをかかえてるんだ」P166>
     <絶望に慣れることは、絶望そのものよりもさらに悪いのである。P268>
     <貧しい家庭はそこで極めて苦しい事情に陥っていたが、一方裕福な家庭は、ほとんど何一つ不自由することはなかった。ペストがその仕事ぶりに示した、実効ある公平さによって、市民の間に平等性が強化されそうなものであったのに、エゴイズムの正常な作用によって、逆に人々の心には不公平の感情がますます先鋭化されたのであった。P350>
     <彼は自分がペストにかかることがありうるとは本気で考えていないのである。彼はこういう考えーそれも案外ばかにならない考えであるが、なにかの大病あるいは深刻な煩悶に悩まされている人間は、それと一緒にほかのあらゆる病気あるいは煩悶を免除されるという考えに基づいて生活しているように見える。P284>
     しかしペスト期間が延びて、各自ができることをやろうとしてゆくうちに、「あなたたち」の問題だったペストを「われわれのもの」として捉えるようになってゆく。


    終盤で、ペストが収集したことにより、人々が得たこと、考えたことが書かれる。
     <彼が勝ち得たことは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そして、それを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思いなすことになるということである。ペストと生との賭けにおいて、およそ人間が勝ちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。P431>
     <人間が常に浴し、そして時々手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。P445>
     <自身という僅かなものに執着して、ただ自分たちの愛の家に帰ることだけを願っていた人々は、時々は報いられている。(…省略…)これに反して、人間を超えて、自分にも想像さえつかぬような何者かに目を向けていた人々全てに対しては、答えはついに来なかった。P444〜P445>
     <ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴蔵やトランクやハンカチや反故のなかに、しんぼう強く待ちつづけていて、そしておそらくはいつか、人間の不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差向ける日が来るであろうということを。P458>

  • 新型コロナ感染拡大に伴い話題となった本作だが、図書館で予約待ちをしていたところ、図書館も閉鎖となり、図書館の貸し出しが再開され、やっと順番が回ってきたのが6月上旬。

    新型コロナに対して参考にしようと予約した目論見も、すでに様々な施策が定着しつつあり、緊急事態宣言も解除されて、当初ほどの意気込みはなくなっていたのだが、最近読んだ佐藤優氏も、出口治明氏も、共通して「古典」を読むことを奨めておられたので、気持ちをリセットして読んでみることにした。

    やはり本書が当初話題になったのは、歴史は繰り返されるからだと実感した。以前、寺田寅彦氏の震災に関する随筆を読んだときに、東北大震災にそのまま当てはまる教訓が述べられていたことに驚きを感じたのと同様に、今回の新型コロナ禍の本質的な要素は、本作の中にほぼ述べられていたと感じた。

    主人公の医師ベルナール・リウーは、ペスト発生から自らの生活を顧みず献身的に患者の治療に尽くす。それは、ペストが終息の様相をみせ、現在でいうロックダウン(都市封鎖)が解除され、市民が歓喜で浮かれだした後も、その姿勢を貫き通していた。彼の一貫した姿勢は、色々な状況の中で、「市民の生命を守る」というその一点にのみ集中していた。まさに、現在の新型コロナ禍の医療従事者に通ずる姿であると感じる。

    小説の冒頭、ペストが発生しだした状況下の記述に、「この世には戦争と同じくらいの数のペストがあった」と述べられ、「しかもペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった」と書かれていた。

    「天災というものは人間の尺度とは必ずしも一致しない。したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。」という記述は非常に興味深く読んだ。

    カミュは、「天災は非現実でなく現実と意識せよ」という。しかし人間というものは、たまたまの「悪夢」と考え、それを忌み嫌うがゆえに、「それはやがて過ぎ去る」と思い込み、「長くは続かない」と根拠のない楽観に陥ることを指摘している。

    「天災は必ずしも過ぎ去らず、人間のほうが過ぎ去っていく」という強烈な表現で、その状況を述べている。

    知事は、当初の状況を「空騒ぎ」と考え、医療サイドの主導で、保健委員会の発足、それがペストかどうかの正確な判断、血清の準備、隔離対策、等と冷静な手が打たれていく。

    統計データの取得と合わせ、このあたりの流れは、すべて今回の新型コロナ対策に直結する教訓となっていると感じる。そしてまた、時代は経ても、やるべき本質は変わらないのだなとも感じた。

    感染者に申告義務を課し、患者の出た家は封鎖・消毒、近親者は一定期間の予防隔離。埋葬方法の制限。

    そして時間がたつごとにデマ情報の発生。
    統計が急増し、保健課の維持が困難となり、医師の人手と時間が不足状況に陥る。

    「それがあらゆる経済生活の組織を破壊し、相当多数の失業者を生ぜしめた。」という表現もある。

    まったく同じである。

    こんな表記があった。
    「彼ら(市民)はまた当然のことながら、不幸と苦痛の態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じてなった。・・・絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。」・・・この状況は怖い!

    本作の中で登場する人物の、心の変化にも注目すべきところがいくつかあった。

    新聞記者のランベールは、自分はこの街とは無縁の人物であると思っている。早く、このペストの町から脱出し愛する妻のもとへ帰ろうと、密輸組織を通じて脱出を企てる。しかしその成就の直前に改心し、リウーらに協力するため脱出を自ら断念する。

    「自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれない」、「今ではもう確かに僕はこの町の人間です。自分でそれを望もうと望むまいと、この事件はわれわれみんなに関係あることなんです」と語る。

    またリウーとともに、この物語のもう一人の証言者であるタルー。彼はリウーと親友となることを望み、本心をリウーに語るシーンがある。

    彼には、次席検事の父親に対するトラウマがあった。父の論告を初めて聞いたときの「死刑」の論告が、その被告の虐殺に感じられた。判決後に、幾夜も苦悶の夜を過ごしながら殺害されるのを待つのは、ペストにかかった患者と同じだと考える。

    「誰でもめいめい自分のうちにペストを持っている」と考え、父の生き方を否定して生きてきた。自分の心の平和を維持するには、「自分がペスト患者にならないよう、なすべきことをなして」生きるか、もしくは「ペスト患者に共感」する生き方のほうを選択する。そういう意味で、共感の医師であるリウーの生き方に共鳴できたのだろう。

    このくだりは、著者カミュの戦争に対する考え方が反映されているようにも感じられる。

    この物語では、血清が季節の変化とともに、それまでに見られなかった効果を発揮するようになり、ペストは自然に沈静化していく。なぜ終息していったのかは詳しく述べられていない(と思う)。

    リウーはこの終息と同時に、戦友ともいえるグランを失い、親友となったタルーも失い、そしてずっと会うことができなかった療養中だった妻をも亡くす。

    ロックダウン解除後の市民の浮かれる姿に対し、このペストで近親者を亡くした家族の戦いはずっと続くのだいう表現もあった。

    物語ではペストの終息を迎えたが、現実の新型コロナはまだ渦中にあり、まずは本書の冒頭部分にあった「悪夢はやがて過ぎ去る」というような安易な発想を封じることが重要だなと感じている。

  • 新型コロナウィルスの流行中の今の世界に通じるものがあると言われていたのと、NHKの「100分de名著」で紹介されていたので読んでみた。

    番組ではすごくわかりやすく解説されていたんだな~
    って、作品を読んでみて思った

    外国人の名前が苦手な私としては「あれ?この人誰だった?」とか何回も前に戻って読み返してたので読み終わるのにものすごく長い時間がかかったのよね。

    それはさておき…内容。
    アルジェリアのオランという商業町。医師のリウーの前で1匹のネズミが死んだ。ペストという疫病が街の生き物を殺す中、政府はオランを封鎖。残された人々はペストという抗えないものに対峙した時に、改めて自分の生き方や考え、自分の中に潜む人間性や宗教性に対峙する…

    疫病という抗えないものに遭遇した時の人々の様子は今も昔も変わらないんだな~。
    閉鎖された町であるものはなんとか街を脱出しようとし、あるものは酒で恐ろしさを忘れようとし、あるものは性愛でその場の快楽に身をゆだねる。そしてあるものは神に助けを求め、あるものはこの閉鎖されたからこそ生きて行けるという暗いラッキーにほくそ笑む。

    絶対的な危機に瀕した時に現れる人の本質とそれを直視しないといけないという恐ろしさ。

    コロナ禍で、マスクを求めて争う人々の姿、自分は桜の花見に行っても大丈夫だろうとか、これ見よがしにせきを人にふきかける人や、ヒマだからと言って行楽地や歓楽街に繰り出す人など…
    人は時代が変わってもやはり人間中心主義(ヒューマニスト)なのだろうか。

    不条理な小説と言われているこの小説はラストにも悲劇が待ち構えている。決して「よかった」と思わせるラストではない。でも、だからこそ読み終わった後にもう一度考えさせられる。1度目よりは2度目、2度目よりは3度目…何度読んでも発見があり、また深く考えさせられる。

    この作品に出会ってよかったと思う。

  • 愛のないこの世界はさながら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事や勇猛心にもうんざりして、一人の人間の面影と、愛情に嬉々としている心とを求めるときが来るのだということを。

    ◯不条理な世界に生きる我々にできることは、絶望しながらもなすべきことをすることしかないのかもしれない。
    ◯この小説に描かれる混乱、絶望、悲しみは、小説とは思えないほど実感がある。
    ◯コロナの収束を待ちながらも、小説を、とりわけ今この世界を描いたような小説を読み、普段では味わえない共感や感情移入することで乗り切っていきたい。

  • 新型コロナ禍で外出自粛を余儀なくされている中で、多くの人に『ペスト』が読まれたらしい。ペストによって普段の生活が失われ、死と隣り合わせの生活における心理描写が、コロナに囲まれて暮らす今の状況にいくばくか重ね合わせることができるからだろうか。小説の中に感情移入できることは、それを楽しむための鍵のひとつでもある。
    しかしながら、あまりにも表面通りのパンデミックの物語に引き付けてだけ読むことは、この小説の豊かさを狭めてしまうことになりかねないのかもしれず、いかにももったいない。この小説が書かれた時代背景から、「ペスト」はナチズムの象徴であり、作中に出てくるペストに対する市民活動は自らも身を投じたレジスタンスを投影しているとも言われている。そのころは、そういった類の「悪」の存在の方が、少なくともペストよりも身近であり、リアリティがあったのだ。
    またさらにその解釈は「悪」一般にも拡げることは可能であり、市民に襲い掛かる圧倒的で理不尽な厄災ということでは、例えば福島の原発事故に重ね合わせることもできるだろうし、水俣の有機水銀中毒を思い出すこともできるだろう。その後の近代史で繰り返されるクメール・ルージュのカンボジア、中国の文化大革命、旧ユーゴの内戦、ルワンダの民族大虐殺などの悲劇に思いを拡げることも可能だろう。

    翻訳がやや古臭く、硬質な感じがすることは、もちろん、こなれた翻訳で読みたいという思いもあるのだけれど、物語や登場人物への没入をある意味で妨げることになり、逆に表面には出てこないメッセージを感じ取る助けになっているのかもしれない。

    【ヒロイズムについて】
    この小説は、アンチ=ヒロイズムの話でもある。少なくともヒロイズムについてかつてそうであったのように信じることはできない。その代わりに誠実さが希求されるのである。

    カミュは、ランベールにこう言わせる ――「僕はヒロイズムというものを信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです」
    リウーもそれに合わせてこう言う。
    「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」とリウー。そして、その誠実さとは何かとランベールからの問いに対して、「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」と答える。そこにはグランのような凡庸ではあるが、献身的な行動がその頭にあったことは間違いない。

    カミュにとって、「悪」に囲まれたときに、ヒロイズムと観念によって動くことは、もはや忌避すべき行動なのである。一方で、そういった場においてはヒロイズムへの強い誘惑がそこにあることにも十分に認識されている。それへの対抗力が、個々の誠実さであるべきだというのは、ひとつの行動原理であり、倫理である。果たして誠実さにより対抗しうるのかは一般論の話ではもはやなく、誠実さは個別の問題であり、そしてそこには知識や連帯の問題も関わってくるのである。それを、この小説では十分に味わうことができるのである。

    【ヒューマニズムについて】
    この小説が出版された1947年の欧州では、いまだ戦争についての記憶は生々しく、多くの人びとは様々な形でのその戦争の当事者であった。また、カミュがレジスタンスの活動に関わっていたこともよく知られていた。そういった空気の中で、直接的に戦争に言及したところはさほど多くはない。しかしながら、この小説がおよそ戦争について語られた本でもあることは間違いない。

    「戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気づくはずである。わが市民諸君は、この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかりを考えていたわけで、別のいいかたをすれば、彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)であった。つまり、天災などというものを信じなかった。天災というものは人間の尺度と一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである」

    ここには欧州が誇った人間中心主義(ヒューマニズム)が、かの戦争が起こることを妨げなかったという認識である。戦争を人間中心主義を超えるような何か(天災)であるとして、天災に備えるようにして備えなければ防ぎえないという認識ではないのか。それはどのようにしてであるのか。カミュがこの小説で試したかったことのひとつが、小説の中で、それをまた別の形で再現させることではなかったか。

    全体主義の災厄についてのカミュの認識は、おそらく次の通りなのであろう。
    「世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりむしろ善良あり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない」

    この小説が書かれた後にも、アイヒマン裁判などでナチズムの下で行われた多くの蛮行が明らかになり、思想家・哲学者からの優れた分析 ―― アドルノの「否定弁証法」やアーレントの「悪の陳腐さ」 ―― が行われるのだが、カミュがその時代においてリアルに感じ、到達した認識がこういうものであったと言っても差し支えないだろう。そこにはヒューマニズムへの絶望と希望とを同時に見ることも間違いないだろう。

    【宗教について】
    パヌルー神父を主要人物として登場させたことによって、厄災のときにおける宗教がひとつのテーマになっていることは間違いない。しかし、宗教が問題になるのは、もはや『カラマーゾフの兄弟』でそうであったような形ではない。宗教はもはや絶対の真実ではなくなった。それでも、まだ救いの一つ、人間に何とか意味を与えることのできる何かであり続けられるのかが問題となっている。

    その宗教は、戦争の前で、ペストの前でそうであったように、救いにはならなかった。宗教者は、期待されたであろうその役割を果たすことはなかった。それは、不誠実であるからよりも、現実としてその役割を果たそうとしたときに、現実にひれ伏し、その辛苦を受け入れるより仕方がなかったからだ。

    タルーは、パヌルー神父の姿勢に対して次のように語る ――「罪なき者が目をつぶされるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなければ目をつぶされることを受けいれるかだ。パヌルーは、信仰を失いたくない。とことんまで行くつもりなのだ」。宗教家として誠実になるとすれば、それは予定説の教義のうちで自らの運命を神の選択として受け入れるしかないということなのかもしれない。そして、残念ながらそれは何かの解決になることもない。

    カミュにとって、宗教と宗教者であることはこの時代においては必ずしも誠実なものではなかったということなのかもしれない。

    【絶望について】
    リウーはつぶやく ――「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである」

    リウーの妻はペストの流行で町が閉鎖される直前に療養のために地方に行っっていた。そのためリウーは妻と長期間会えなかったのだが、町の閉鎖解除後に妻が療養先で亡くなった知らせを電報で受け取ることになった。そのことに対するリウーの反応の薄さ(=扱いの軽さ)に、死や不幸 ―― 絶望、に対する慣れを見るべきなのではないか。

    死んでしまったタルーについて患者の爺さんが言う「一番いい人たちが行っちまうんだ。それが人生ってもんでさ」

    アウシュビッツを生き延びたフランクルが『夜と霧』の中で「最もいい人は帰ってこなかった」言い、プリーモ・レーヴィも同じく「最良のものは戻って来なかった」と言うように、天災を生き延びたものは、何らかの疚しさを覚えて、そしてそのことを忘れてしまうことに対しても罪の意識を覚えて生きなくてはならないのだ。

    【記憶することについて】
    「ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーが呼んでいたところのものなのだ!」

    ヒロイズムも、ヒューマニズムも、ましてや宗教も、大いなる「天災」の前において救いにならなかった。

    リウーがこの物語を語ることを選択した理由として、「黙して語らぬ人々の仲間にはいらぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼らに対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くあるということを、ただそうであるとだけいうために」

    天災の中にいることは、「記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在のなかに腰をすえていた。実際のところ、すべてが彼らにとって現在となっていたのである」というような状態に陥ることである。そこには強制収容所に収容されて明日の希望なく健康や命への気遣いもなく過酷な状況で働かされる囚人の状況を見てとることができるのではないか。天災の中で溺れてったものたちのために記憶することが大切であり、それが過ぎ去った後においては、それだけが誠実なふるまいであるかのようだ。それだけが絶望の後にできることなのかもしれない。

    この小説は、次のようなフレーズで締めくくられる。
    「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうことを」

    まさか、これをペスト菌そのものや、コロナウィルスのことを言っていると取るものはいるまい。
    一度起きたことは、次も起きる可能性が高い。少なくともそれが起きる前よりは。そのために、記憶することが必要であり、それを語り継ぐことが重要な理由がここにあるのだ。


    ---
    そういえば学生時代に同じサークルに「かみゆ」という名前の女の子がいた。彼女の両親はどういう想いで自分の子どもにその名前を付けたのだろうか。いま、どうしているのだろうか。

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