幸福な死 (新潮文庫)

著者 :
制作 : 高畠 正明 
  • 新潮社
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レビュー : 53
  • Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114087

感想・レビュー・書評

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  • カミュの未発行の作品。もしかすると、読まれることのなかったもの。しかし、それをこれが完成形として出版するのではなく、あくまで、未発表のものであって、彼がどのように試行錯誤しヴァリエーションを考えていたかまでも載せてくれる刊行者の態度のおかげで、カミュという存在に生きて出会える。
    たぶんスタート地点は『異邦人』と同じ。生きるとは、死ぬとは、一体何なのだ。彼はずっとそのことを考えていたに違いない。生きていくことは死んでいくことである。彼にとって、死を考えることは生きることを考えることと同じである。
    生きるとは、理由もなくどういうわけか、ここに存在してしまうことだ。そういう意味でひどく不条理なのだ。けれでも不条理であってもやはり存在できるということは条理でもある。このせめぎ合いを突き詰めたのが『異邦人』。
    この『幸福な死』では、同じ生きるでも、その不条理性から攻めるのではなく、その幸福、善さから攻める。ひとが生きる限り、善く生きないことは不可能。幸福を求めずに生きることはできない。ならば、幸福とはいったい何なのだ。彼はそのための試行錯誤を繰り返して作品を考えていた。細かな時間設定、描写、配置、書いては消して、考えて。それをひとに伝えるために彼はずっと苦心していた。哲学者と違って、彼は緻密に論をたてるのではなく、ことばの感覚が与えるある一定の飛躍をもって、見せようとする。だから、どのようなイメージをみせるかについて、非常に細心の注意を払う。
    幸福というものについて、彼は自然な死と意識された死という二部構成で臨んだ。
    自然な死では、家族やおいする人間、金銭的なものについてから幸福を考える。しかし、それらがもたらすのはあくまで「自然な」死なのである。別にそれが悪いとか、不必要だとか彼は決して言っていない。ただ、それは「自然」なのだ。太古から変わることのない、そういうもの。しかし、人間が生きて存在するということはそういうばかりではない。
    意識された死では、そういうものに煩わされることのない人間が向かう死を考える。なぜ、ザグルーの金を手に入れて満たされたメルソーを扱ったのかは知らぬ。だが、おそらくは、金が在ろうと無かろうと、死ぬことには変わりない、そういうカミュの考えがあってのことだとは思う。幸福に生きるとは、何かが満たされることとは関係ない。それを求められるそこにもう実現している。幸福への意志。これこそが幸福なのだ。
    しかし、この時かれは気付いていなかったのかもしれない。あるいは、わざと書かなかったのかもしれない。この幸福の意志こそ、不条理で、反抗的なものであるということを。メルソーはムルソーと違って、意識的に何かすることはあまりない。メルソーは意志に気づいただけで、意志的に何かをすることはあまりなく、どこか、観察者のようなところがある。カミュがこれを発表しなかったのは、この意志的なものこそ、自分が考えていたものであって、これを書くにはこの『幸福な死』では不十分であると考えたからに違いない。

  • あまりにも華麗な美文、これほどまでにカミュは名文家だったのかと驚くほどのすばらしい文章で綴られている。けれども物語としてはなんだかツギハギというか、一本の通った芯のようなものが非常に見えにくく、読ませる名文にも関わらず小説としてはおそらく失敗している。にも関わらず随所ではっと息を呑むようなところがある。カミュは天才だ。こんなにも美しい失敗作はない。

    読みながら、わたしは小説を書きたいとは思わないのでアレだけど、きっと小説を書きたいと望んでいるひとにとってはこれ以上に興味深いものはないだろうな、と思った。カミュはここから何を捨て、何を選び取り、『幸福な死』はどのように『異邦人』へと結実したのか、メルソーはいかにしてムルソーになったのか、そういうことを考えるのはほんとうに興味深くまた実りの多いことだろうと感じる。

  • 作者が刊行しなかった未完のものが死後刊行されたもの
    なので小説としてはよくわからないが
    題名が示す通りその語るところは幸福
    幸福とは何かというようなじこけーはつなことではもちろんなく
    幸福足ろうとするときそれを妨げられないありさまにおかれた生き方を描いて
    人間から新しく哲学とか宗教を見出そうという態度だと思われる
    未完だからたぶん
    一神教を意識した現代思想が老荘思想みたいなかんじかもしれない

  • よく読み解けないところも多かったが、幸福の感覚、肉体の感覚を意識しながら読んだ。

    “明晰”という言葉が何度も出てくる。その言葉から私は、手術の後、酷い痛みがあるのにクリアな意識を保っていたいという理由で鎮痛薬を拒否した人を思い出す。

    選択、反抗、それらを明晰さを失わずし続けるにはなんと強い意思が必要だろう。

    夕暮れがきて夜になり、朝がきて太陽が昇る、その丁寧な繰り返しの美しい描写、わくわくするような季節の移り変わりによる時間の流れにうっとりする。

    パトリスは爽やかな大地と一体となり消滅しつつ存在しているみたいだ。

  • ザグルーと話すところ、医者と話すところ、1日の時間の流れをつぶさに書き上げている箇所 が好き。

    カミュ難しい!
    彼の思索はロシア人のそれよりも深い。

  • この作品を後編纂だから資料的価値しかないとする人もいるが、そんなこともないだろうと思うのだ。自分ただひとりという可能性もなくはないが、「幸福な死」をひとつの立派な文学作品として愛してやまない人間がこの世には存在するのだから。

    カフカの作品群がそうであるように、またこの作品も偏見なく身近に親しまれるものになってほしいと願う。

    乾いた文体、海、太陽、死、そして「神」。
    作者と読者の距離は「異邦人」のそれよりも近い。この作品は自分にとって「神」に見張られていることを悟っているメルソーが、自らの死場所を探し求める旅のように思える。GODの文字が絶えず空で明滅している、そんなイメージ。水浴は彼にとって一種の自己放棄だし、その氷のような冷たさは神の愛のように身を焼くものなのだから。

  • 第一部「自然な死」、第二部「意識的な死」、それぞれ五章立て。

    最終章の直前、第四章の最後で、
    アーモンドの花とオリーブとキャロブ(いなごまめ)の
    重たい芳香に噎せ返る内、自分と世界の境界が曖昧になって、太陽やら大地やらに意識が翻弄され、
    ひき裂かれ出してからが俄然面白い。

    最終章突入。
    主人公が緩慢に死んでいくシーンの情景描写と心理描写の
    混沌具合が絶妙で、おーっと思ったら・・・

    そう、この話ってば、「幸福な死」だった。
    まさにここが売りだったのね。
    珍しく(?)素直な観客してました。

  • 名言がたくさん。
    「お金を持つということは、
    その人をお金から解放すること」
    「幸福には様々な条件がある、と
    思い込むことが間違い」
    「大切なことは幸福への意思であり、
    いつも現存している或る種の巨大な意識」
    「長い間幸せでいることはできない。
    一瞬、それがすべて」
    「それだから死が何かの妨げになることはない」

  • 2009.8.16 読了

  • 幸福な死とはなんなのか、主人公のメルソーは幸福を死と考えていた。だからその意味で「幸福な死」っていうのは同語反復になっている。重要なのは死ぬこと自体よりも、死ぬまでのプロセスなのかなとは思った。

    メルソーは途中で下半身を失った友人を殺すことになる。その友人は、自分は幸福になれなかったという。用をたすのにも他人の手を借りなければならない始末。家族もおそらくいない。作中に記述があったかどうかは覚えていないけれど。

    そういう死にゆく様を見て、結局誰の手を借りることもなく、自分の足で立ち、生きて、最後はすとーんと死ぬのがベストだと考えたんだろうか。

    愛する人を持たないっていうのがあったけれど、これは死が愛するものとの離別を意味することになる。そうすると愛する人がいるっていうことは、死を前提にするとき、幸福を妨げる、苦しみを生むことになる。

    だから一人で死ぬのが一番幸福な死になるのだと考えたのではないか。

    死は結局病死のような形だったが、どうして自殺にしなかったんだろうかというのが疑問。
    自殺は幸福を妨げるのだろうか。
    キリスト教的には自殺は禁じられている。カミュが育った文化背景には自殺がタブー視されていて、死後の世界に至っても不幸になるというような言われでもあったのだろうか。

    自殺とこのメルソーの死の違いは考えていきたいです。

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