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Amazon.co.jp ・本 (432ページ) / ISBN・EAN: 9784102125014
みんなの感想まとめ
戦争の真実と若者の苦悩を描いた本作は、第一次世界大戦の西部戦線における志願兵の視点から、死と隣り合わせの日常を生々しく伝えています。仲間との冗談で日々を紛らわせながらも、普通の生活に触れた瞬間に死の重...
感想・レビュー・書評
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第一次大戦の西部戦線における、若い兵士たちの日々を追っていく。死と隣り合わせの毎日を、仲間とのくだらぬ冗談で紛らわせていく彼ら。しかし、母の元に帰省した休暇を境に大きく心境は変わっていく。普通の日常に触れたことで、死が大きくその姿を顕にする。そして終戦間近に、ひとり、またひとりと仲間が消えていく。
「西部戦線異常なし」の報告のもと、終戦に向かった日に主人公も……。
兵士たちの無邪気な日々と、すぐ隣りにある死が、あまりにコントラストに浮き彫りされ、どうにもやるせない。戦争は一般の兵士には関係ないところで始まり、後戻りできない状況になる。こんな悲惨なことが、2次世界大戦でも、繰り返され、またきな臭い世の中になっている。人間は学習しない動物だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
1929年出版の本作は、第一次世界大戦下のドイツ西部戦線における、二十歳に満たない志願兵ボイメルの戦場体験記の体裁をとった小説。著者自身の従軍体験やジャーナリストとしての職業経験を生かし、兵士の日常や悲惨な塹壕戦などを生々しく描いており、過去に三度映像化されている名作です。
ここに書かれていることは、青春を奪われて、戦争が……人を殺すことが日常になってしまった若者たちの悲しみです。本来なら、いろんなことを学んだり経験できたはずの大切な時期を、塹壕の中で死と隣り合わせに過ごし、生き延びても負傷してやりたい仕事につけない者、治っても悲惨な戦場に再び戻される者など、不安で先の見えない未来が、戦友との印象的な会話の数々や主人公の内省で語られていて、とても心に響きました。
最後まで読むと、それらが当たり前な戦場と本作のタイトルが重なって、なんとも物悲しい気持ちにさせられました。 -
面白くはない。のに後半のページを繰る手が止まらない。第一次世界大戦の戦場であるわけだし、ヒトラーもナチスも出てくるわけではない。この小説は、戦争を食い物にして、自分の手を汚すことをしなかった有名人の話ではない。誰も恨まず、誰も憎まず、ただただ生まれた時代に戦争があり、戦場に駆り出されただけの当事者たちの話。国がどうのこうの、そういう問題ではない。たまたまドイツだっただけで、どの国の話にすり替わっても、おかしくはない。反戦とか平和の話ではなく、ただその時代に存在していた人達の話。歴史の話でもなく倫理の話でもなく、教訓話でもない。生身で生きていた人々のただの物語。
そう思わないとやっていられない。 -
「この書は訴えでもなければ、告白でもないつもりだ」という序文にはじまる、第一次世界大戦における若いドイツ兵たちの従軍を描いた小説。著者自身、同じ年齢の頃に一ヵ月半ほど歩兵に配属されて塹壕戦も経験している。ただし、小説の主人公は少なくとも一年程度は前線に留まっているのに対し、著者自身は実戦よりも一年以上にも及ぶ軍病院での療養期間のほうが長かったようだ。
戦場、野戦病院、故郷での休暇、戦いの合間の朗らかな一幕など、何の変哲もない若者が戦争に生きる日々がリアルで、最後の1ページまで小説ではなくノンフィクションだと思って読んでいた。前半を中心に、能天気で無邪気な若者たちの生命力と悲惨な戦場がコントラストをなし、痛ましくグロテスクな姿で死にゆく兵士たちの姿は白昼夢のようでありながらも奇妙な現実感を覚える。後半以降は、敵兵を殺害した主人公が自問自答し、味方が徐々に離脱、または死に絶えていくなかにあって、次第に内省的な色調を帯びる。「敵味方にかかわらず、戦争に駆り出されるのは結局、貧しい人間なのだ」とする仲間の言葉が象徴するように、終盤を中心に本書から反戦的なメッセージを受け取るのも不自然ではない。
帰郷時には母親の息子への愛情をうかがわせるシーンも見せながら、兵士の心を救うのは母親への思慕ではなく、「恐るべき死の不安の孤独から引きずり出してくれたのは、僕らの戦友の声だった」「僕はこの戦友のものであり、戦友は僕のものであるのだ」と断じる主人公の独白が心に残る。精神科医の中井久夫氏が、戦場における戦友の存在の大きさについて再三語っていたことも思い出された。また、無慈悲な戦争にあっても活力を失わない主人公たちの姿には若さからくる強い生命力を感じ、同じく自身の従軍体験から多くの作品を発表した漫画家・水木しげる氏の戦場での様子と通じるものもあった。
訳者によるあとがきには、昭和八年にナチから逃れてスイスに住んでいた著者レマルクを訪ねた際の様子も記されている。「おっかさん」といった一部の語彙を除いて、訳文の古さはあまり感じなかった。 -
映画も原作も共に良作。特に映画で、若いドイツ人兵士が胸を躍らせて入隊したものの、過酷すぎる戦場と次から次へと亡くなっていく仲間を見て、絶望へ転落していくまでのシーンが残酷すぎた。このあとナチス時代に突入していくのを考えると、地獄の世紀すぎる。
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戦場には華々しさや美しい愛国心などはなく、泥臭く、血みどろの世界がただ広がっているだけである。そして、兵士一人の死は戦場では「異状なし」としてしか処理されない。戦場では人の命の価値は軽い。この本を読んで戦争を肯定的に捉える気にはなれない。
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『見てみろ、いいか、もし貴様が犬を馬鈴薯ばかり食うように馴らしておいて、そこであとで肉を一片やってみろ。やっぱり犬はその肉に喰いつくぞ、これは犬というものの性質にあるんだ。もし貴様が人間に権力というものをやってみろ。やっぱり犬と同じこった。人間はそいつに喰いつくぞ。それだってみんな自然にそうなんだ。人間というやつは、初めっから、畜生なんだ』
エリヒ・パウル(マリア、とも)・レマルクが「西部戦線異状なし」を出版した1929年1月は、本書が描く第一次世界大戦が終了してからほぼ十年。敗戦国ドイツは課された巨額な制裁に喘ぎ、まもなく国民社会主義ドイツ労働者党を率いるヒトラーの檄に呼応し国政を委ねてしまう社会情勢が形成されつつあった頃。一方で日露戦争および第一次世界大戦の戦勝国である日本は満州事変(1931年)を機に国際連盟を脱退することになる直前、中国大陸において緊張感を増す一連の出来事に没入していた頃。ドイツでの出版後、時を経ず昭和四年(そろそろ昭和の和暦を西暦に直ぐに換算できない世代が大勢を占めつつあるのかも知れないなあ、などと思いつつ)に翻訳が為されたとあとがきにあるが、世界中を巻き込んだ大戦による厭世・厭戦気分も時が経てば反動が来て、むしろ現状の理不尽さに対する怒りの矛先を対外的な仮想的に求めてしまうということを見越した(あるいは揶揄した)かのような「西部戦線異状なし」である。
映画のタイトルとしては高校生の頃(何十年前だ!)から知ってはいたが、ついぞ観たことはなかった。映画は昨年再び米国においてリメイクもされたようである。但しそれで読んだという訳ではなく、アーノルド・ゼイブルの「カフェ・シェヘラザード」の中でレマルクに言及する場面が描かれており興味が湧いたのだ。実際は登場人物たちによる「凱旋門」についての会話だったのだが、その前にこちらを読まなくてはならないような気になってしまったのだった。
『「だがおれは、戦争なんてものは、むしろ一種の熱病だと思うよ」とクロップが言った。「誰も戦争をしたいって奴はねえ。それに急にぽっかり戦争になっちまうじゃねえか。おれたちは戦争なんて、ちっともやりてえと思っちゃいなかったんだ。ほかの奴らだってみんな同じことを言ってる……それにどうだ、こうして世界の半分が、夢中になってかかっているじゃねえか」』
翻訳者秦豊吉によれば、作家自身は中学生(と言ってもドイツ式の教育システムにおける初等教育の次段階であるギムナジウムは日本の中学生から高校生の年代)の学徒出陣で戦争体験をしたとあるが、主人公の名前といい年齢といい塹壕戦の描写といい、本人をモデルとして小説は描かれているとみていいのだろう。終戦後、ジャーナリストとして働いた後、本書の出版で文壇にデビューしたレマルクだが、そこには徐々に右傾化していく祖国を憂いてのメッセージという意味合いもあったのだろうと勘繰りたくなる。その後、ナチスの台頭(1932年国政選挙の結果、第一党となる)が本格化するとスイスへ亡命、1938年にはナチスによるドイツ国籍剥奪を受け米国へ亡命、後に米国籍を取得するレマルク。因みに、レマルク自身はフランス系の血筋ではあるもののユダヤ人ではない。ただ「反戦的」であるとの批判により身の危険を感じての亡命だったようである。同調圧力というのはどの時代にも、どこの国にでもあるものなのだ。
そんな作家に昭和八年(国際連盟脱退直前の1932年)に会ったという翻訳者もまた大陸におけるきな臭さを否応なしに感じずにはいられなかった時代だろう。そんな二人の間で交わされた話に具体的な反戦の言葉としての言及はないが、昭和三十年改めて記されたあとがきから滲み出るのは翻訳者のレマルクに対する敬意であり、そこに反戦の意思の強さを読み取っているという事実である。とすれば、戦前(日中戦争前)には公にすることが出来なかった戦争というものについての会話が、二人の間で交わされていたのだろうと想像することが自然であるような気がする。それは、本書の主人公のように戦争に駆り出される圧倒的に弱い立場の大多数の人間たちの視点からの反戦思想であり、それは幾ら技術革新が起こり兵器が改良され無人機で相手を攻撃できるようになったとしても不変的で本能的な感情から湧き上がる考えであろう。曰く、死ぬのはいつも人間の形をした標的ではなく生命のある人間なのだ。そういえば、先日夜のニュース番組でウクライナの首都にあるという戦争博物館に展示されたロシア兵の私物に関する報道があったが、それをやはり完全な悪の化身である者のかつての所有物と見做すことの困難さを取材したキャスターは語っていた。それは、本書が表現するものと同根の感情が志向する考えでもあるだろう。
『僕はまだ若い。二十歳の青年だ。けれどもこの人生から知りえたものは、絶望と死と不安とのごとき苦しみと、まったく無意味なる浅薄粗笨(*)とが結びついたものとにすぎない。国民が互いに向き合わされ、逐い立てられ、何事も言わず、何事も知らず、愚鈍で、従順で、罪なくして殺し合うのを、僕は見てきた。この世の中のもっとも利口な頭が、武器と言葉とを発見して、戦争というものを、いよいよ巧妙に、いよいよ長く継続させようとするのを、僕は見てきた』
出版直後に米国で映画化された異色の作品については、反戦映画らしいということ以外内容もよく知らないままでいたのだが、従軍する青年の覚え書きで構成される本書の表題の意味は、最後になって衝撃を持って告げられることになる。その時、上に引用した言葉の重さが何倍にもなったように感じる人ばかりであれば、戦争なんて愚かなことは誰も始めない筈なのに。世界中どこにでも強がって威勢の良い事を言ったりやったりせずにはいられない人たちがいることを、改めて痛感する。人間の凶暴な本質というものを否が応でも感じざるを得ない。
翻訳は現代仮名遣いには改訂されてはいるものの、少々古い響きのする日本語であることは否めない。一部ドイツ語特有の二人称の使い分けや、地方訛りを意識した訳が時代掛かった雰囲気を醸し出しもするが、翻って考えれば今時誰も寅さんのように話す人は居ないけれど渥美清のあの台詞回しでしか表現されえないものがあるのと同じようなものだと捉えて我慢は出来る。何よりも、今でも(むしろ、クロップが言うように世界の半分が戦争に夢中になってしまっている今だからこそ)充分に読む価値のある一冊であると思う。
* 浅薄粗笨:浅薄=「考えや知識が浅く行き届いていないこと」、粗笨=「大まかでぞんざいなこと」 -
★★★2019年4月★★★
悲しい、悲しい物語だ。クロップ、ミュッレル、カチンスキーら戦友と過ごす地獄の日々が綴られている。第一次世界大戦のドイツ兵が語るという設定の物語。
「生と死が一瞬で入れ替わる恐怖」
命のやり取り。戦友が一人、また一人といなくなってしまうところを読むと悲しい気持ちになる。
束の間の休暇で故郷に帰ったときの母親とのやり取り。自分が戦争に行ったり、自分の子供が戦争に行ったりすることを想像しながら読めば、なんとも言い表せない。
この本はきっと二度と読むことは無いだろう。
読めないと思う。 -
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映画とずいぶん違う。映画は断片的に小説の部分を取り入れ流れ等ストーリーを作っていたのだ。「麦と兵隊」「土と兵隊」「生きている兵隊」あたりを読んで、最前線を戦う兵士たちの生活、ブラザーフッド、恐怖と苦痛、が痛いほど伝わる。最新兵器で、体がばらばらになったり、毒ガスでただれたり、生身の人間がむざむざと切り刻まれていく恐怖をこの本を読んでいやというほど味わった。映画もいいけど、小説のほうがよりパウルの目を通しての戦場や戦友の姿、恐怖と苦痛が伝わってくる。
400ページあるけど、グイグイと引き込まれ1日で読める。その世界に没入できれば。 -
あらすじ
著者レマルクの体験をもとに、一兵士パウルの一人称で書かれる第一次世界大戦の塹壕戦。
前線での戦友たちとの日常。両親のいる銃後の日常。
少しずつ戦争によって壊れて後者へと戻れなくなっていく主人公。自分ではどうしようもない殺戮の運命を一人の人間として覗き見ることになる。
感想
主人公が仲間と蚤を取る場面で、蚤は意外と固くて潰しにくいので蝋燭の上に鉄の蓋を置いて焼き殺すなど意外な戦争中の日常場面が興味深かった。
前線一度退いて実家に帰る場面、母親と姉は息子をひどく心配するのに対して、父親は軍服を着た息子を誇らしく思い懇意な人達を周ろうとする。
主人公は戦場ではない場所にどうしようもなく馴染めなくなってしまう。
この小説では色々な残酷なシーンが勿論存在するが、この場面が一番心をえぐった。
主人公の一人称という極めて小さな穴を通して、物語は進んでいくが、最後のページで一気に突き放した三人称になり、「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と淡々と告げられるのが無常観を誘う。 -
戦争って、人が死ぬイメージはあるものの、
1人の人生までイメージはできない。
詳細が書かれていて、戦争がいかに恐ろしいかがわかる。 -
青春小説として面白かった。
終わり方も爽やかでした。 -
最初の1ページ目が全てを表している。戦争がどのように人を壊していくのかをリアルに描いたものすごい作品。
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「僕らはもう戦争のおかげで何をやろうとしても駄目にされちゃったんだね」
2023/11/23読了
井上尚英『毒ガスの夜明け』でも度々言及されていた小説。舞台は勿論、第一次大戦のドイツ軍前線。
20歳前後、本来は社会に出るかどうかという時期に戦場に駆り出され、そこの非常時の世界しか知らず平時の生活から切り離されてしまった若者たち。「駄目にされちゃったんだね」という表現(原文ドイツ語ではどんなだったのだろう?)に、怒りでも悲しみでもない、冷めた、諦め切った感じがあって、余計に哀しい。 -
二人ともあまりしゃべらないが、僕らはなんとも言えない懐しさ楽しさに、胸が一杯になる思いがした。まるで二人が恋人であるようにさえ僕には感じられた。僕らは二人の人間だ。たった二つの小さい花火のような生命だ。
僕らは狂気のような憤怒を感じた。僕らは断頭台の上で、気を失ってころがって待っていることはできない。僕らは破壊し、人を殺して、僕らを救わなければならない。僕らを救い、復讐しなければならない。
こんなおとなしい人たちを、ただ一つの命令が、僕らの敵にした。同時にこのおとなしい人たちを、命令一下僕らの友達に変えることもできるであろう。
「だがおれは、戦争なんてものは、むしろ一種の熱病だと思うよ」
「誰も戦争をしたいって奴はねえ。それに急にぼっかり戦争になっちまうじゃねえか。おれたちは戦争なんて、ちっともやりてえと思っちゃいなかったんだ。ほかの奴らだってみんな同じことを言ってる・・・・・・それにどうだ、こうして世界の半分が、夢中になってかかっているじゃねえか」
この世の中にこれだけの血の流れがほとばしり、幾十万の人間のために苦悩の牢獄が存在することを、過去千年の文化といえども遂にこれを防ぐことができなかったとすれば、この世のすべては嘘であり、無価値であると言わなければならない。野戦病院の示すものこそ、まさに戦争そのものにほかならない。 -
映画化で本屋の店頭にあり、名前だけは知っていたので購読。学校を出たばかりの自分と同い年か、少し年下の青年の目線でみたより生々しい戦争が書かれていてショックをうけた。前線での戦闘もきつかったが、バラックや休養で故郷に帰還した時など戦闘以外のシーンの方が心にくるものがあり、読むたびに一時休息を必要とした。
物資、人員などが徐々に逼迫してくる戦争の前線で主人公や戦友たちが送った「日常」は、今の自分の生活からはかけ離れていて、そのような世界があったことを知らしめさせてくれた。 -
戦争文学の傑作と言っていいだろう。近代戦の幕開けとなった第一次世界大戦。そこに参加した一兵卒の戦いの記録だ。
戦争を題材にしたドラマの原型とも言えるのがこの小説であろう。戦友との友情、愚かな上官への反抗、戦争の虚しさや非人道性、残虐さ、詭弁などなど、今まで描き尽くされてきた最初の物語かここにある。網羅していると言っていい。砂川文次著『小隊』とどうしても比較してしまうのだけど、こちらの方が生々しく直接に語りかけてくる。戦争を実際に体験したか、戦争の演習のみの体験かの違いであろうか。 -
レマルクの代表作。戦争の中での青春を描く。戦争の悲惨さが分かると同時に、青春小説としても面白い。
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